第13話 トップナイフ その2

文字数 2,590文字

 喧嘩や揉め事を想起するには大きすぎる破砕音が上野階で轟いた。

 続くように響いた叫び声と無数の銃声が直感的に異常事態を認識させる。

「どいて!」

 アイシャはびっくりするエンヤをよそにベッドから飛び降りた。批難めいたニャーオという猫の鳴き声は無視する。

 ジャージ姿のまま船室を出ようとするとエンヤが呼び止めた。

「ちょっと、その格好でどこに行くつもり?」
「……」

 もちろん上野階なのだがエンヤが言いたいのはそういうことではないのだろう。

 アイシャは一つ息をつき、その場でジャージを脱いだ。ハンガーにかかっていた黒い修道服をさっと被り、流れるような動作でテーブルに置いてあった金のロザリオを身につける。

「これでいいわよね?」

 それだけ言うと返事は待たずにドアを開けた。

 遅れて着替え始めたエンヤが「待って」と慌てるが松つもりはない。むしろ彼女には船室にいてほしかった。

「すぐ戻るから」

 バタンと後ろ手でドアを閉め、階段を目指してダッシュする。

 頭の中で警告音が鳴り響いていた。

 ぞわりと背筋に冷たさのようなものが走る。緊張が感覚を研ぎ澄ませていた。

 走りながらアイシャはダーティワークを発現させる。ほわりと黒い光が量拳を包んだ。グローブと化したそれはしっかりと手に馴染んでいる。

 アイシャのスピードが上がった。

 ダーティワークの能力はあくまで「殴る」ことだが副次的な作用として身体的能力もアップする。アイシャはこれまでの戦いでそのことを学んでいた。

 カンカンカンと金属質な音を立てながら階段を昇る。破砕音の方向からどちらに向くべきかは把握していた。通路に出ると左手に目を走らせる。

 はっと息を呑んだ。

 血まみれになって倒れている男たちの姿に過去の記憶がフラッシュバックのように蘇る。

 アイシャは頭を振り、嫌な記憶を底に沈めた。

 必要以上に心臓がどくどくと脈打つ。呼吸が乱れているのは階段を駆け上がったせいだけではないだろう。知らず唇をきゅっと結んでいた。意識するとやたら息苦しく思えて口を開く。

 冷静になれと自分を叱りつけた。

 こんなことでは先が思いやられるわ。

 血の海の中に男がいた。

 身長は百六十五センチといったところか。金髪をモヒカンにした男だ。年齢は二十代半ばくらい。白人だった。

 血の赤さに男の着ている半袖シャツとズボンの緑色が際立つ。天井の照明に男の両肩と腰のアクセサリーがきらきらと光っていた。

 男の傍にいる緑色の影は男の背丈より大きい。どこか昆虫めいたシルエットをしている。それが何なのかすぐにはわからなかった。

 男と視線が交わる。

 ぺっ、と男は唾を吐いた。

「見つけたぞ」

 アイシャはファイティングポーズをとった。

 男のまわりに転がっているのはダークスーツの男たちだ。その中にはポワキン戦でアイシャを撃った男もいた。

 船室にいたときに耳にした銃撃音は何発だっただろうか。両手で数えても足りる数ではなかった。その銃弾の雨をどうやってこの男は切り抜けたのか。

 アイシャは男を睨みつけた。

 何であれこいつは敵だ。

 こいつに好き勝手にさせたら船が星神島に辿り着けなくなる。

 なぜかそれだけはわかった。

 こいつは倒さなければならない。

 アイシャは拳を構えて突撃した。頭の中で「それ」がささやいている。

 怒れ。

 怒れ。

 怒れ。

「ウダァッ!」

 拳を放つ。

 男は表情を変えない。

 アイシャの頭の中に「ケラケラケラ」と喚く甲高い声が響いた。きっとこれはあの緑色の影の鳴き声だ。

 拳が男に届くよりも早く緑色の影が阻む。それが刃の長い鎌のような形状をしていると思った瞬間、もう一方が襲ってきた。こちらも切れ味鋭そうな長い刃だ。

 アイシャはワンステップで後ろに身をかわした。刃が空を切り、ヒュンと空気を裂く乾いた音を立てる。

「ほぅ」

 男が感心したように眉を上げた。

「トップナイフの攻撃をかわすとはな」

 緑色の影がはっきりとその姿を具現化させる。

 天井すれすれの体躯を持つ少し太ったカマキリだ。胸と胴体部分の太さに対し六本の足は細い。後ろ側の2本の足が身体を支えており、真ん中の2本には短剣のような刃、一番前の2本には鎌を連想させる長い刃がついていた。

 さっき攻撃してきたのはこの前足だ。

 頭部のちょうど額の位置にエメラルドに似た宝石が埋まっていた。それが修道院を襲撃した契約者(リンカー)を思い出させる。あの女の操っていたフェレットもどきも額に宝石があった。

 ぎゅっと拳を握り直す。

 ぶっ潰す!

 アイシャは間合いを詰めた。

 足の先から頭の天辺まで怒りに満ちたビートが駆け巡る。ふつふつと沸き上がる激情が拳に力を与えた。どくんどくんと黒い光が脈打つ。

「ウダァッ!」

 繰り出したパンチをトップナイフの刃が防御する。精霊同士の力の差はあまりないらしく手応えも全くない。

 アイシャは小さく舌打ちした。

 こいつも本体を叩かないといけないらしい。

 それならそれでやり方はあった。

 アイシャは拳のラッシュを浴びせる。

「ウダダダダダダダダ!」

 トップナイフはいとも容易く前足でガードする。乾いた金属音のようにカキンカキンと音を響かせた。その素早さにアイシャは忌々しげに表情を歪ませる。

 厄介だ、と内心つぶやいた。

 この化け物は今までの奴より強い。

 男の挑発が飛んだ。

「どうした、それでお終いか?」

 ぎりっと奥歯を噛み締める。怒りがよりはっきりとアイシャの衝動を突き動かした。

 彼女は雄々しく前に出る。黒い光が帯を描いた。一呼吸で拳を連打する。

「ウダダダダダダダダ!!」

 トップナイフの俊敏な守りが攻撃を受け流す。一発としてヒットしなかった。まるで拳がふわっとした風船であるかの如くトップナイフは正確に反応していた。

「こんなものか」

 男ががっかりした様子で肩をすくめた。ジャラっと音を鳴らしたのは男の両肩についた沢山のバッジだ。よく見ると男のシャツに記された白抜きの文字はトップナイフを英語表記したものだった。どんなセンスかと問いたくなる。

「オリビアを倒した奴だと聞いていたが……まあいい、どちらにせよ勝つのは俺だ」

 トップナイフが長い刃で斬りかかる。

 アイシャはすんでのところでそれを受け止めた。もう一方の刃が切りつけてくるのも拳で防ぐ。

「もらったぁ!」

 真ん中の足がぐんと伸び、アイシャの首を狙ってきた。
 
 
 
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