第45話 ティアーズフォーフィアーズ その5
文字数 2,878文字
それは父シンイチロウの怒声から始まった。
「なぜお前がここにいる!」
その声の大きさは子供部屋にいたアイシャにもはっきりと聞こえるほどだった。激しい怒りの熱量がアイシャの身体をびくりとさせる。兄のシンジは五分どころか十分経っても戻らずあれだけ騒がしく吠えていたはずのロッキーも静かになっていた。
どきどきと打ち鳴らす心音がアイシャの気持ちをかき乱していく。パジャマの裾を握る手の握力が増した。自身にも食い込む爪の痛みが現状を明確に意識させる。
どうしようもないことが起きているのだと彼女は理解した。だが理解と感情は別だ。
パジャマの裾から手を放す。
アイシャは立ち上がった。
どうしようもない……でもどうにかしないと。
何かの破壊音がし、また父の怒声が聞こえた。
それに母のミーシャの悲鳴と妹のサーシャの泣き声が重なる。
事件はすでに起きていて約束された結果は止められないのだという思いが恐怖を伴って震えを生じさせた。それでも家族を守りたいという願望がアイシャに勇気を奮い立たせる。
どうにかしたい。
できないかもしれないけど、どうにかしたい。
アイシャは自分の頬を叩き、気合いを入れる。鉛のように重かった身体が少しだけ軽くなった。
もうシンジを待ってはいられない。
アイシャは部屋を出た。
廊下だとさらによく声が聞こえる。
「シンイチロウ、私はこれでも我慢したのだよ。ミーシャの願いに耳を傾け君の研究にも協力した」
男の声には聞き覚えがあった。
いや、忘れられる訳がない。
心臓の音が激しくなる。向かうべき方向へと足が向いた。知らず手が拳を形作る。
「そもそも君は私からミーシャを奪った。私は我慢したのだよ、ミーシャが幸せであればそれでいいと自分に言い聞かせて私の気持ちにフタをして、我慢してきたのだよ。これがどれだけ辛いことか君にわかるかね?」
どすん、と鈍い音が空気を揺らす。
アイシャは足を止めた。
トイレの傍に何かが倒れている。小便と血液の混じり合ったような臭いが鼻をついた。
動かなくなったシンジがあり得ない角度に首を曲げて横たわっていた。漏らした尿と胸や腹から流れる血が廊下を汚し広がっている。
兄の名を叫びかけ、どうにか堪える。
犯人が誰かわかっていた。
いや、確信があったというべきか。
胸が苦しかった。抗いようもなく涙が溢れてくる。
アイシャは袖で涙を拭い、兄の亡骸に向かって小さく十字を切った。
神様なんて信じていない。しかし、失われた命を悼むことはできる。
ぐっと奥歯を噛んだ。
あいつは、あの男は……。
「クリス、もうやめて! あなたがこんなことをしてもどうにもならないのよ! 私は彼の妻だし子供だっている。あなたに気持ちが戻ることは絶対にないの!」
「そんなことはない。君がこの男や子供に縛られさえしなければきっと私の元に帰ってくる。君は私のものなのだから、私が取り返したいと思えば取り返せるはずなんだ」
殴打する音がアイシャを刺激する。なぜ精霊の力を使ってカードにしないのかは疑問だがそれ以上に男の凶行をやめさせたかった。
クリス・ローゼンバーグ。
こいつがあたしの大切な人を全て奪う前にどうにかしなければ……。
シンイチロウの声が弱まっていく。暴行を受けたのは明らかだった。
ミーシャが悲痛な声でシンイチロウの名を連呼する。サーシャの泣き声がより大きくなった。
「シンイチロウ」
男が告げる。
「君は私から奪うだけで何も与えようとしなかったな。だから今度は私が君から奪うのだ。ミーシャも研究成果も何もかも私のものにする。君が私から取り上げた娘も帰してもらうぞ」
「クリス、あなた……どうして」
ミーシャの問いに男が静かに答える。冷静さと狂気がないまぜになっていた。
「私が直接手を下すのはせめてもの情けだ。いろいろ思うところはあるが君は優れた研究者だからな。それなりに経緯は抱いていたのだよ」
アイシャは両親の寝室に飛び込んだ。
室内にはシンイチロウとミーシャとサーシャそれに長身の男がいた。
修道院でシスターマリーをカードにした銀髪の男だ。黒いライダースーツを着ていたが見間違える訳がなかった。
その右手にはサバイバルナイフ。
すでに誰かの血で濡れていた。
ソウルハンター。
その名を口にする前にミーシャに遮られた。
「アイシャ! 逃げて!」
「彼女がアイシャか」
ソウルハンター、いやローゼンバーグが問うように言う。それに答える者はいなかった。
ふむ、と一つ息をつきローゼンバーグがぐったりとしたシンイチロウの胸にサバイバルナイフの切っ先を向けた。
「私の大切なものを帰してもらうぞ」
「……」
アイシャの中で何かが聞こえた。
ごく短い、うっかりすると聞き逃してしまいそうな声だった。
「それ」が自分に宿ったのは修道院の襲撃の最中ではなかったのだとアイシャは悟った。自分にとって全ての始まりはこのときだったのだ。
契約こそしていなかったが、自分の中に「それ」はいた。
「やめてぇぇぇぇぇぇぇぇーっ!」
アイシャの叫び声と父の胸をサバイバルナイフが貫く音が一つになる。
ローゼンバーグが凶刃を引き抜くと力任せにシンイチロウの身体を壁に叩きつけた。鈍い音がし、崩れるように父が倒れる。
ミーシャの金切り声が響き渡った。
ローゼンバーグへとミーシャが突進する。
「よくもよくもよくも!」
アイシャは動けなかった。
一瞬の出来事がスローモーションのように見えた。
怒り狂ったミーシャの突進にローゼンバーグが身を守ろうと身体をひねる。サバイバルナイフの刃先がミーシャに向いた。
勢いのままミーシャが突き進み自らその刃にぶつかっていく。
サバイバルナイフがミーシャの胸に突き刺さった。
「ぐっ」
呻きながらミーシャが両膝をつく。
ローゼンバーグの手から離れたサバイバルナイフは彼女の胸に刺さったままだ。
泣きじゃくるサーシャがミーシャに欠けよった。泣き喚き、少しでも長く母親の温もりを自身に覚え込ませようとするかのようにしがみつく。
致命傷だった。
ミーシャの目から光が消えていく。
悲痛な面持ちでローゼンバーグがサーシャを蹴り飛ばし、跪いてミーシャを抱き上げた。その目から狂気が薄れていく。
ああ、とローゼンバーグが嘆き、絞り出すようにつぶやく。
「駄目だ……逝かないでくれ」
返事はない。
アイシャの中でどくんと脈打った。
あたしの……あたしの家族が……。
ローゼンバーグの身体から銀色の光が生まれた。
アイシャがそれに気づいたとき彼にだぶつくように影が現れた。影はローゼンバーグから分離し、一体の化け物と変じていく。
これは……。
人型のそれは狐のような頭をしていた。
赤いリボンのついた黒いシルクハットを被り、燕尾服を身に纏っていた。蝶ネクタイの色も赤。銀色の毛皮はどこか神々しさを覚える。ふっさりとした銀色の尻尾がゆらりと揺れた。そこだけが妙にコミカルだ。
ソウルハンター。
アイシャは無言でその名を呼んだ。
これが「ソウルハンター」の本当の姿……。
「なぜお前がここにいる!」
その声の大きさは子供部屋にいたアイシャにもはっきりと聞こえるほどだった。激しい怒りの熱量がアイシャの身体をびくりとさせる。兄のシンジは五分どころか十分経っても戻らずあれだけ騒がしく吠えていたはずのロッキーも静かになっていた。
どきどきと打ち鳴らす心音がアイシャの気持ちをかき乱していく。パジャマの裾を握る手の握力が増した。自身にも食い込む爪の痛みが現状を明確に意識させる。
どうしようもないことが起きているのだと彼女は理解した。だが理解と感情は別だ。
パジャマの裾から手を放す。
アイシャは立ち上がった。
どうしようもない……でもどうにかしないと。
何かの破壊音がし、また父の怒声が聞こえた。
それに母のミーシャの悲鳴と妹のサーシャの泣き声が重なる。
事件はすでに起きていて約束された結果は止められないのだという思いが恐怖を伴って震えを生じさせた。それでも家族を守りたいという願望がアイシャに勇気を奮い立たせる。
どうにかしたい。
できないかもしれないけど、どうにかしたい。
アイシャは自分の頬を叩き、気合いを入れる。鉛のように重かった身体が少しだけ軽くなった。
もうシンジを待ってはいられない。
アイシャは部屋を出た。
廊下だとさらによく声が聞こえる。
「シンイチロウ、私はこれでも我慢したのだよ。ミーシャの願いに耳を傾け君の研究にも協力した」
男の声には聞き覚えがあった。
いや、忘れられる訳がない。
心臓の音が激しくなる。向かうべき方向へと足が向いた。知らず手が拳を形作る。
「そもそも君は私からミーシャを奪った。私は我慢したのだよ、ミーシャが幸せであればそれでいいと自分に言い聞かせて私の気持ちにフタをして、我慢してきたのだよ。これがどれだけ辛いことか君にわかるかね?」
どすん、と鈍い音が空気を揺らす。
アイシャは足を止めた。
トイレの傍に何かが倒れている。小便と血液の混じり合ったような臭いが鼻をついた。
動かなくなったシンジがあり得ない角度に首を曲げて横たわっていた。漏らした尿と胸や腹から流れる血が廊下を汚し広がっている。
兄の名を叫びかけ、どうにか堪える。
犯人が誰かわかっていた。
いや、確信があったというべきか。
胸が苦しかった。抗いようもなく涙が溢れてくる。
アイシャは袖で涙を拭い、兄の亡骸に向かって小さく十字を切った。
神様なんて信じていない。しかし、失われた命を悼むことはできる。
ぐっと奥歯を噛んだ。
あいつは、あの男は……。
「クリス、もうやめて! あなたがこんなことをしてもどうにもならないのよ! 私は彼の妻だし子供だっている。あなたに気持ちが戻ることは絶対にないの!」
「そんなことはない。君がこの男や子供に縛られさえしなければきっと私の元に帰ってくる。君は私のものなのだから、私が取り返したいと思えば取り返せるはずなんだ」
殴打する音がアイシャを刺激する。なぜ精霊の力を使ってカードにしないのかは疑問だがそれ以上に男の凶行をやめさせたかった。
クリス・ローゼンバーグ。
こいつがあたしの大切な人を全て奪う前にどうにかしなければ……。
シンイチロウの声が弱まっていく。暴行を受けたのは明らかだった。
ミーシャが悲痛な声でシンイチロウの名を連呼する。サーシャの泣き声がより大きくなった。
「シンイチロウ」
男が告げる。
「君は私から奪うだけで何も与えようとしなかったな。だから今度は私が君から奪うのだ。ミーシャも研究成果も何もかも私のものにする。君が私から取り上げた娘も帰してもらうぞ」
「クリス、あなた……どうして」
ミーシャの問いに男が静かに答える。冷静さと狂気がないまぜになっていた。
「私が直接手を下すのはせめてもの情けだ。いろいろ思うところはあるが君は優れた研究者だからな。それなりに経緯は抱いていたのだよ」
アイシャは両親の寝室に飛び込んだ。
室内にはシンイチロウとミーシャとサーシャそれに長身の男がいた。
修道院でシスターマリーをカードにした銀髪の男だ。黒いライダースーツを着ていたが見間違える訳がなかった。
その右手にはサバイバルナイフ。
すでに誰かの血で濡れていた。
ソウルハンター。
その名を口にする前にミーシャに遮られた。
「アイシャ! 逃げて!」
「彼女がアイシャか」
ソウルハンター、いやローゼンバーグが問うように言う。それに答える者はいなかった。
ふむ、と一つ息をつきローゼンバーグがぐったりとしたシンイチロウの胸にサバイバルナイフの切っ先を向けた。
「私の大切なものを帰してもらうぞ」
「……」
アイシャの中で何かが聞こえた。
ごく短い、うっかりすると聞き逃してしまいそうな声だった。
「それ」が自分に宿ったのは修道院の襲撃の最中ではなかったのだとアイシャは悟った。自分にとって全ての始まりはこのときだったのだ。
契約こそしていなかったが、自分の中に「それ」はいた。
「やめてぇぇぇぇぇぇぇぇーっ!」
アイシャの叫び声と父の胸をサバイバルナイフが貫く音が一つになる。
ローゼンバーグが凶刃を引き抜くと力任せにシンイチロウの身体を壁に叩きつけた。鈍い音がし、崩れるように父が倒れる。
ミーシャの金切り声が響き渡った。
ローゼンバーグへとミーシャが突進する。
「よくもよくもよくも!」
アイシャは動けなかった。
一瞬の出来事がスローモーションのように見えた。
怒り狂ったミーシャの突進にローゼンバーグが身を守ろうと身体をひねる。サバイバルナイフの刃先がミーシャに向いた。
勢いのままミーシャが突き進み自らその刃にぶつかっていく。
サバイバルナイフがミーシャの胸に突き刺さった。
「ぐっ」
呻きながらミーシャが両膝をつく。
ローゼンバーグの手から離れたサバイバルナイフは彼女の胸に刺さったままだ。
泣きじゃくるサーシャがミーシャに欠けよった。泣き喚き、少しでも長く母親の温もりを自身に覚え込ませようとするかのようにしがみつく。
致命傷だった。
ミーシャの目から光が消えていく。
悲痛な面持ちでローゼンバーグがサーシャを蹴り飛ばし、跪いてミーシャを抱き上げた。その目から狂気が薄れていく。
ああ、とローゼンバーグが嘆き、絞り出すようにつぶやく。
「駄目だ……逝かないでくれ」
返事はない。
アイシャの中でどくんと脈打った。
あたしの……あたしの家族が……。
ローゼンバーグの身体から銀色の光が生まれた。
アイシャがそれに気づいたとき彼にだぶつくように影が現れた。影はローゼンバーグから分離し、一体の化け物と変じていく。
これは……。
人型のそれは狐のような頭をしていた。
赤いリボンのついた黒いシルクハットを被り、燕尾服を身に纏っていた。蝶ネクタイの色も赤。銀色の毛皮はどこか神々しさを覚える。ふっさりとした銀色の尻尾がゆらりと揺れた。そこだけが妙にコミカルだ。
ソウルハンター。
アイシャは無言でその名を呼んだ。
これが「ソウルハンター」の本当の姿……。