第2話 少女の覚醒・フェンリルとダーティワーク(後編)

文字数 3,673文字

 白かったアイシャの修道服が黒く染まっていく。

 突然のことにオリビアが目を見張った。

 だが、すぐに気を取り直したのか身構える。

「フェンリル」

 フェレットのような姿をしたものがオリビアを庇うように彼女の肩から前方へと飛び降りた。

 きらり、と額の宝石が光る。

 急速に周囲の空気が冷やされていった。

 ……氷、いや冷気の精霊?

 アイシャはファイティングポーズをとる。

 自然と身体が動いていた。そのままの態勢で後ろに飛び、オリビアとの距離をとる。

 ほわり、とアイシャの両拳が黒く輝いた。

 光がグローブのように彼女の拳を包む。

 それが何であるかアイシャにはわかっていた。

 これが精霊と契約したことにより得た力。

 契約者(リンカー)となったアイシャは自分の能力を把握していた。

 それは本能的といってもいい。自分の力だけでなく何と契約してしまったのかも理解していた。

 オリビアの細い眉毛がぴくりとする。

「あなた……リンカー?」
「……」

 アイシャは答えない。

 答える必要はなかった。答えたいとも思わなかった。

 ただ、目の前の女をぶちのめすのみ。

 アイシャは奥歯を噛みしめた。

 より強い意志をもってオリビアを睨みつける。拳を握る手に力がこもった。

 ぶちのめす。

 オリビアが楽しげに口角を上げた。

「いいわ、誰であろうと私のフェンリルには勝てないと教えてあげる」

 フェンリルのまわりの空気が白く濁った。

 冷気がものすごい勢いでアイシャに吹きつけてくる。

 ばたばたと修道服がはためいた。ゆったりした修道服をアイシャはこの上なく邪魔に感じる。

 強い冷風でフードが外され、ショートカットにしたアイシャの黒髪があらわになる。

 冷気の壁がアイシャとオリビアを隔てていた。ともすればアイシャを凍えさせかねない冷たさの冷気だ。

 オリビアの守りであると同時に攻めでもある壁。

 これを突破しなければオリビアを倒すことができない。

「ウダァッ!」

 アイシャは拳をふるう。

 連続でパンチを繰り出して冷気の壁に立ち向かった。

 ミシッ。

 ひび割れるような音がかすかに響く。

 いけるっ!

 アイシャは距離を詰めた。

 オリビアは余裕の笑顔だ。

 まるで自分の勝利が揺るがないものと信じているかのようである。

 確かにこの冷気の壁は厄介だった。

 しかし。

 アイシャが一際大きく構え、一気に拳を突き出す。

 ぱきんと派手に砕ける音がした。

 すかさず同じ場所に拳を叩き込む。

「ウダダダダダダダダダダダダダアッ!」

 殴りながらもゆっくりと歩を進める。冷気はアイシャの呼吸を難しくするほど冷たくなっていた。彼女は口を閉ざし、息を止めた。

 無言で拳を食らわせる。

 壁の向こうのオリビアがにぃっと笑みを大きくした。まだ彼女の中の勝利は揺らいでいないようだ。

 それがアイシャの怒りに拍車をかけた。

 絶対にぶちのめす。

 硬質化した空気を殴っているというのに拳は痛くない。

 黒く光るグローブがアイシャの拳を保護していた。何度も拳を連打していても全くその動作は緩まなかった。自分の得た能力のおかげだとアイシャはわかっていた。

 さらに一歩、アイシャはオリビアに近づく。

「……!」

 足が止まった。

 履いていたサンダルごと床に凍りついていた。

 オリビアに見遣ると彼女は意地悪そうに目を細めた。

「あら、どうしたの? もっと近づいてもいいのよ」

 言われなくてもそうするつもりだった。

 だが、足がどうしても床から離れない。

 アイシャは表情を歪め、心の中で舌打ちする。

 息が限界だ。

 一呼吸。

 冷たさよりも痛みで身悶えそうになった。

 肺が凍傷になるのではないかというくらい痛い。

 それでもこの場に倒れたくなかった。と同時に自分の力には限度があるということを改めて学んだ。

 あたしの精霊の力は万能ではない。

 できることとできないことがある。精霊と契約したとき理解したつもりでいたが実際に身をもって知ることとなった。

 ぐらり、とアイシャは無意識のうちにぐらつく。

「ふふっ、そろそろ限界かしら」

 オリビアの楽しげな表情に闘志が沸いた。

 アイシャは拳を足下に振り下ろす。凍りついたサンダルが音を立てて粉砕した。

 彼女の足に傷はない。自分で自分を殴ることはできなかった。それがこの能力の特徴の一つである。

 アイシャは裸足となった足で跳躍した。

 精霊の力のおかげか滞空時間が延びているような気がする。

 勢いに任せて彼女は冷気の壁に突撃した。

 ごんっ!

 アイシャは冷気の壁に体重をかけた一発をお見舞いする。

 びきっ!

 大きなひびが走った。

 アイシャは連続で拳のラッシュを放つ。

 ごごごごごごごごごごごごごごごごっ!

 着床する。

 凍てついた床が酷く冷たかった。しかも今度は跳躍するのに難儀なほど滑る。また身体がバランスを崩した。

「フェンリルッ!」

 オリビアの声に呼応してフェンリルが冷気の壁をすり抜けてアイシャに飛びかかる。

 がばりと開いた口に牙があった。おぞましいことに口の中も薄青い。

 こんな化け物にやられる訳にはいかなかった。

 横振りにパンチを浴びせ、フェレットみたいな化け物を殴り飛ばす。

 フェンリルは空中で一回転して体勢を整えると優雅に着地した。

 あれを殴っても駄目だ。

 アイシャは判じた。

 たぶんフェンリルをいくら叩いてもオリビアを倒すことはできないだろう。

 直感ではあったが妙な確信があった。

 フェンリルは冷気を発しているがコントロールはオリビアが握っている。いわば敵本体。本体を叩かなければこの冷気は無くならない。

 なぜか笑みがこぼれた。

 ……ぶっ潰す。

 両手に力が漲った。

「ウダァッ!」

 冷気を吸い込むのも構わずアイシャは叫ぶ。

 足下がおぼつかないがそれでも殴った。殴らなければならなかった。殴ることしか前に進む方法を知らなかった。

 迷うな、殴れ。

 そんな声が聞こえたような気がした。

 フェンリルが再び跳ね、アイシャを狙う。

 邪魔くさい。

 と、無言で毒づき拳で応戦した。

 頭を、そして脇腹を連続して殴ってぶっ飛ばす。

 またしてもフェンリルが華麗に地に着いた。

 やはりあれを相手にするのは無駄だ。

 アイシャはフェンリルからオリビアに目を移す。

 オリビアは余裕の笑顔だ。

 あの顔を歪めてやりたかった。

 ふつふつとこみ上げてくる怒りはまだ尽きていない。それどころか己の怒りは増していくばかりだ。

 殺された家族を思い出した。

 殺されたシスターたちのことも思い出した。

 カードにされたマリーのことも……。

 アイシャは大きく息を吸った。猛烈な痛みが口を喉を気管を肺を苦しめた。痛みには怯まずアイシャは気合いを込める。

 ぐっと拳を握り直し、まっすぐに打ち込んだ。

「ウダァッ!」

 グローブの光が黒い線となる。これまでで最も大きなひびが生じた。

 アイシャは冷気の痛みを堪えて連撃する。

「ウダダダダダダダダダダダダダダダアッ!」

 ばきぃっと冷気の壁が砕ける。

 アイシャは身を乗り出してオリビアに詰め寄った。フェンリルが襲撃するよりも早くオリビア本体に拳を放つ。

 食らえっ!

 拳がオリビアの右頬をとらえた。

 ……が。

 アイシャの動きが止まった。

 拳はオリビアに届いている……はずだった。

「残念」

 殴られたままの状態でオリビアが言った。

「私の皮膚ぎりぎりに薄い冷気のバリアが張ってあるのよ。壁を壊すのに夢中でそこまで予想できなかったわよね? 本当に残念」
「……」

 アイシャは応えない。じっとオリビアを見つめた。

「そして、私に触れた者はどうなると思う? 礼拝堂のお仲間たちを見たかしら? 見ていたらわかるわよね」

 アイシャの頭の中でブチッと何かが切れた。

「言いたいことはそれだけ?」
「えっ」
「なら、これで終わり」

 凍りかけたアイシャの手が動く。黒い光が脈打ってアイシャの腕にまとわりついた氷を溶かしていく。

 体力で殴っているのではない。

 能力で殴っているのだ。

 だから、ぶん殴る。

 相手をぶちのめす。

 オリビアが目を丸くし、小さく悲鳴を上げた。

 もう笑っていなかった。むしろ怯えていた。

 アイシャはにやりとし、殴った。

「ウダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダ……ウダァッ!」

 拳がオリビアの顔を胸を腹を全身を打ちつけた。

 ボコボコにされたオリビアが吹っ飛ばされて背中から壁に激突する。崩れるようにオリビアが倒れ、動かなくなる。

 フェンリルがすうっと霧散した。

 あたりを包んでいた冷気が失せる。

 アイシャはこの一戦の終了を自覚した。ふうっと息をつき、無意識のうちに十字を切っていた。

 それがなぜかおかしくてクスッと笑ってしまう。

 もう、神様なんて信じていないのに。

 アイシャは喋らなくなったオリビアに向かい、告げた。

「『ダーティワーク』……それがあたしの力の名前。これから復讐に行くあたしにぴったりだと思わない?」

 そう。

 怒りの精霊と契約した少女・アイシャの戦いはこれからだ!
 
 
 
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