第4話 ジョーカーとクラナド その1

文字数 2,620文字

 その少女とは偶然にも同室だった。
 本土から星神島に行くには連絡船しかない。アイシャは修道院関係者のつてで島に唯一ある学園への入学許可を得ていた。少なくまとめた荷物は焦げ茶色のボストンバッグ一つ分。必要な物はある程度は島でも手に入るとのことなので荷物についてはこれといって不安はなかった。
「私、船旅は初めてなんだよね」
 栗色の髪をボブカットにした少女はそう言って丸窓を見た。
 十月の気候には少し気が早そうな厚手のカーキ色のパーカーを彼女は着ている。クリーム色のシャツと仰いジーンズはまだ真新しい。左手首に巻いた銀色のブレスネットが船室の照明に鈍く照らされていた。白地にピンクのラインのついたスニーカーのすぐ傍にでっぷりとした白い猫が丸くなっている。
 猫は体調三十センチほど。
 毛の長いもこもこふわふわな猫だ。深緑色の瞳がやけに神秘的だった。ゆらゆらと長い尻尾を揺らしている。
 アイシャに向けられた猫の視線はなぜか憐れんでいるようにも見えた。自分の過去を見透かされているような気がしてアイシャは落ち着かない気分になる。彼女は無意識のうちに自分の胸元に手を伸ばした。首にかけた金のロザリオをきゅっと握る。
 信仰は捨てていたのにロザリオは捨てられなかった。これは恩人であるシスターマリーからもらったものだ。彼女の形見と呼んでもいい。信仰の有無に関係なく身につけていたかった。
 とある事件によってアイシャは家族を殺されていた。その後修道院に引き取られたのだがそこでも襲撃事件がありアイシャは恩人である修道院長のシスターマリーや仲間たちを失っていた。
「私、エンヤ」
 フラッシュバックのように冷たくなったシスターたちの姿が目に浮かんだアイシャにエンヤが名乗る。明るく清らかな声音はアイシャの陰鬱な心の闇に光を射し込むかのようにすっと届いた。
 ほんの僅かに胸の奥が温かくなった気がしてアイシャはロザリオから手を離す。
「あたしはアイシャ」
「アイシャ……いい名だね」
 エンヤが振り返る。
 栗色の髪が照明の光でくるりと天使の輪を描いた。それが愛らしい彼女に似合いすぎてアイシャは不覚にも見とれてしまう。三日月を模したイヤリングも彼女にぴったりだ。
 エンヤがクスリと笑い、猫を拾い上げた。
 飼い主に従順なのかそれともすでに諦めているからなのか白い猫は逆らおうともせずに大人しく彼女の腕の中に収まってアイシャを見つめた。
「あ、この子はクラナド。クラナド、彼女はアイシャよ、ご挨拶して」
 エンヤに促され猫がニャーと応じる。ゆらりと尻尾を振った。それが「どうも」と淡泊に言ったように見えてアイシャは眉をピクリとさせる。
 ふっ。
 アイシャの心の奥深くで「それ」が短く声を漏らす。アイシャは違和感を覚えつつ、どさりとベッドに腰かけた。エンヤにしろ猫にしろ船が星神島に着くまでの付き合いだ。
 白い猫がじいっとアイシャを凝視している。
 アイシャはあえて目をそらさず白い猫を見つめ返した。ピクピクと白い猫はヒゲを動かす。きゅうっと目を細めた。
 一瞬、瞳が光り、アイシャははっとする。彼女の内にいる「それ」がまたふっと笑んだ。
 何だろう。
 そわそわとした心の動揺がアイシャの意識を支配し始める。彼女は指でとんとんと膝を叩いた。
 この猫……クラナドとか言ったか。
 ニャーオ。
 白い猫が一声揚げる。エンヤが優しく猫の背中を撫でた。気持ち良さげに白い猫がゴロゴロと喉を鳴らす。
 エンヤが言った。
「クラナドはあなたのこと気に入ったみたい」
「……」
 アイシャは「まさか」と言いかけてやめる。無理矢理に言葉を飲み込んで彼女は白い猫から目をそらした。
「修道服を着てるってことは、あなたシスターなのよね」
 不意にエンヤが質問してくる。
 アイシャは首を振った。
「あたしはもうシスターじゃないわ」
「でもその格好はシスターよね」
「これはただ他に着る物がなかっただけ」
 嘘をついた。
 ボストンバッグの中には私服もある。修道服姿なのは単に着慣れているからだ。しかし、それをいちいち説明したいとは思わなかった。
「ふうん」とエンヤが納得いかなげに唸る。アイシャはそれを無視して立ち上がった。
 エンヤと一緒にいたら話したくないことまで聞かれてしまいそうだ。とりあえずこの場を離れよう。
「ん? どこ行くの?」
「ご飯」
 適当に答えた。
 ドアノブに手をかけたとき背後から聞きたくないセリフが飛んできた。
「待って、私も食べる」
「……」
 マジか?
 勘弁してと内心思うが面には出さない。アイシャはうかつに反応すればかえってこの手のタイプは厄介だとわかっていた。鬱陶しいがここは我慢しよう。
「ぐぉおおっ!」
 突然、ドアの向こうで男の叫び声がした。ごすっと鈍い音がかき消すように続き、駆け足へと変わる。外で何かが起きたのは間違いなかった。
 アイシャはドアを引き開けた。
 通路を見渡すと斜向かいの客室のドアに背をもたれて男が座り込んでいた。
 ダークグレイノスーツを着た筋肉質の男だ。上背で判じるに一九〇センチはあろう大男である。
 男は両手で胸を抑えていた。苦しそうに浅黒い顔を歪ませて息を荒くしている。苦痛からか玉子型の目をつぶり涙を流していた。低い鼻からは鼻水を垂らし、唇の厚い口を半開きにして、何事かを呻いている。
 異常を察してアイシャは男に駆け寄った。後方のエンヤには構わず男の傍に跪く。
「ちょっと、大丈夫?」
 どう見ても大丈夫ではない。だが、他の質問を思いつかぬほどアイシャは驚いていた。
 男の胸にぽっかりと拳大の穴が開いている。それなのに一滴の血すら流れていなかった。赤黒く染まった穴からはぼんやりと光が発していてアイシャの見ている前で光はどんどん広がっていった。
「これは……何?」
 エンヤが低い声でたずねてくる。
 アイシャにわかるはずもなかった。こんなの理解の範疇を超えている。
「あ、ああ……あああっ」
 声にならない声を揚げながら男が光に包まれる。
 別の映像が重なるかのように男の姿が変異した。質量の保存など完全に無視したあり得ない変化だ。男は体長二十センチほどの灰色のネズミに変わった。服もどこかに消えてしまっている。
「な、何なのこれ?」
 エンヤが声を震わせた。
 
 
 
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