第15話 トップナイフ その4
文字数 2,393文字
ミセスと別れたアイシャはすぐさまダーティワークを発現させた。
拳を包むように黒い光が現れる。アイシャは小さくうなずき、通路を駆けだした。
船内は誰が鳴らしたのか非常ベルが鳴っている。
けたたましく響くそれはアイシャの心を急き立てた。エンヤへの心配が否が応でも膨らんでいく。次々と嫌な想像が浮かびアイシャはその度に頭を振って悪夢を追い払った。
ダーティワークのおかげで速度を増した彼女はものの数分で自分たちの船室に辿り着く。
息を切らせながらドアを開けると待つ者はいなかった。
はぁーっと息をついてから口をきゅっと結ぶ。ぎりっと噛んだ奥歯に苦さが生まれた。どうするべきかと中空に目をやる。そこに答えなどあるはずもないのだがそうせずにはいられなかった。
エンヤ……。
頭の中で「ケラケラケラ」とあの笑いとも威嚇ともとれる声が聞こえる。
まさかと思い通路に出た。再び駆け足で上階へと急ぐ。加速しているというのにひどく遅い気がしてもどかしかった。
お願い、もっと力を。
ダーティワークの能力はあくまでも「殴る」こと。身体能力のアップはおまけのようなものだ。それは頭では理解していたもののやはり悔しかった。
あたしは殴ることしかできない。
ミセスのようなチートな力があれば大切な人を守れるのに。
あんなカマキリの化け物なんて恐くないのに。
力が欲しい。
もっともっと力が欲しい。
アイシャの願いにつけ込むように「それ」がささやく。
怒れ。
怒れ。
怒れ。
黒い光のグローブが脈打つ。
アイシャは拳を握り締めた。
強く、より強く拳に力を込める。
あたしはこれ以上大切な人を失いたくない。
カンカンカンと階段を駆け上がる。すれ違う相手は誰もいない。生気の匂いはどこにもしなかった。ただ血の臭いが僅かな潮の匂いに混じっているだけだった。
階段を昇りきり、少し前に自分がトップナイフと戦ったあたりを見る。血の海の中にダークスーツの男たちが倒れているだけだった。あのモヒカン男もトップナイフもいない。どこへ行ってしまったのか。
アイシャは考えた。
無意識のうちに胸元のロザリオへと手が伸びる。
敵はいない。
エンヤもいない。
無駄な気がしつつも転がっている男たちに歩み寄る。身を屈めて息を確かめるも、全員死んでいた。胸を貫かれている者もいれば喉を裂かれている者もいた。一撃で殺されたような者もいれば滅多斬りにされた者もいた。
「……」
神への信仰はない。
だが、アイシャは十字を切った。
この人たちにだって大切な人はいたはずだ。
この人たちを大切に想う人もいたはずだ。
それなのに……。
アイシャの中で「それ」がざわめく。
怒れ。
怒れ。
怒れ。
許さない。
アイシャは虚空を睨みつける。
身体の奥からどす黒いものが沸き上がっていた。心音がどくどくどくと高鳴っている。全身を駆け巡る血液は怒りとともに熱を帯び、彼女に宿る「それ」に歓喜の声を叫ばせた。
知らず拳の黒い光が眩しくなる。それは決して聖なるものではなくむしろ邪なものではあったがアイシャは構わなかった。
敵をぶちのめす。
大切な人を守る。
そのためならどんな力であってもあたしは利用する。
あたしは汚れているのだから聖邪などどうでもいい。
ぶちのめす。
それだけだ。
うん、と彼女は決意し、その場を後にする。
手がかりはないに等しい。だが、妙な確信が芽生えていた。自分の感覚の耳が拾っている「ケラケラケラ」という声。それを辿ることにした。
さっき昇ったのとは違う階段を駆け下りる。何となく声が近くなっているような気がした。
数分後、甲板に出る。
いた。
巨大なカマキリを従えモヒカン男が仁王立ちしている。そのまわりには船員とダークスーツの男たちの死体。一体この男はどれだけの命を奪えば気が済むのか。
ピクリとアイシャのこめかみが動いた。まっすぐに男を見据える。
幸いなことにエンヤの姿はなかった。彼女がこの遺体の山に混ざっていたらきっと我を忘れていただろう。
男がぺっと唾を吐いた。
玉子型の目を細め、忌々しげに見返してくる。
「戦いの最中に消えやがって」
トップナイフが長い刃のついた前足を大きく左右に広げる。「ケラケラケラ」と無音で騒ぐ声には狂気と憤怒が重なっていた。
アイシャは一歩前に進んでファイティングポーズをとる。
緊張が快楽にも似た高揚感を連れて来た。逸る気持ちをぐっと抑え頭をフル回転させてどう仕掛けようかと考える。
スピードは相手が上。
俊敏さに加え精密動作性も敵のほうが優れていると判じた。
勝てるかどうかはわからない。
だが、アイシャはぶちのめすと決めていた。その決心は揺らいでいない。勝敗うんぬんは終わってからわかることだ。
とにかくぶちのめす。
夜の海の匂いが潮風とともに彼女を撫でる。潮の音が静かに戦いの緊迫感を後押しした。船に打ちつける波の悲鳴が男に殺された人たちの鎮魂歌となる。
失われたものはもう戻ってこない。
アイシャは心の奥で祈りを捧げた。
神などもう信じていない。
けれど人の死を悼むことはできた。そのことに信仰は必要ない。
なぜなら命を想うことは、魂を尊重することは神ではなく人が行うことだからだ。
暗青の空に浮かぶ月を薄い雲が覆い隠す。
うっすらとした二人の影がぼんやりと甲板に滲んだ。
アイシャはまだ戦う術が見つからない。しかし、彼女の中の「それ」が暴力的な衝動を激しくさせた。
とにかく敵をぶちのめせ。
殴って殴って殴り倒せ。
迷うな、殴れ。
雲が抜ける。
月明かりが合図となった。
アイシャはだっと突進する。考えはまとまらなかった。だから自分の能力を信じるしかなかった。
体力で殴るのではない。
ダーティワークは「殴る」能力。
だから、ぶん殴る。
一気に距離を詰め、拳を放った。
「ウダァッ!」
拳を包むように黒い光が現れる。アイシャは小さくうなずき、通路を駆けだした。
船内は誰が鳴らしたのか非常ベルが鳴っている。
けたたましく響くそれはアイシャの心を急き立てた。エンヤへの心配が否が応でも膨らんでいく。次々と嫌な想像が浮かびアイシャはその度に頭を振って悪夢を追い払った。
ダーティワークのおかげで速度を増した彼女はものの数分で自分たちの船室に辿り着く。
息を切らせながらドアを開けると待つ者はいなかった。
はぁーっと息をついてから口をきゅっと結ぶ。ぎりっと噛んだ奥歯に苦さが生まれた。どうするべきかと中空に目をやる。そこに答えなどあるはずもないのだがそうせずにはいられなかった。
エンヤ……。
頭の中で「ケラケラケラ」とあの笑いとも威嚇ともとれる声が聞こえる。
まさかと思い通路に出た。再び駆け足で上階へと急ぐ。加速しているというのにひどく遅い気がしてもどかしかった。
お願い、もっと力を。
ダーティワークの能力はあくまでも「殴る」こと。身体能力のアップはおまけのようなものだ。それは頭では理解していたもののやはり悔しかった。
あたしは殴ることしかできない。
ミセスのようなチートな力があれば大切な人を守れるのに。
あんなカマキリの化け物なんて恐くないのに。
力が欲しい。
もっともっと力が欲しい。
アイシャの願いにつけ込むように「それ」がささやく。
怒れ。
怒れ。
怒れ。
黒い光のグローブが脈打つ。
アイシャは拳を握り締めた。
強く、より強く拳に力を込める。
あたしはこれ以上大切な人を失いたくない。
カンカンカンと階段を駆け上がる。すれ違う相手は誰もいない。生気の匂いはどこにもしなかった。ただ血の臭いが僅かな潮の匂いに混じっているだけだった。
階段を昇りきり、少し前に自分がトップナイフと戦ったあたりを見る。血の海の中にダークスーツの男たちが倒れているだけだった。あのモヒカン男もトップナイフもいない。どこへ行ってしまったのか。
アイシャは考えた。
無意識のうちに胸元のロザリオへと手が伸びる。
敵はいない。
エンヤもいない。
無駄な気がしつつも転がっている男たちに歩み寄る。身を屈めて息を確かめるも、全員死んでいた。胸を貫かれている者もいれば喉を裂かれている者もいた。一撃で殺されたような者もいれば滅多斬りにされた者もいた。
「……」
神への信仰はない。
だが、アイシャは十字を切った。
この人たちにだって大切な人はいたはずだ。
この人たちを大切に想う人もいたはずだ。
それなのに……。
アイシャの中で「それ」がざわめく。
怒れ。
怒れ。
怒れ。
許さない。
アイシャは虚空を睨みつける。
身体の奥からどす黒いものが沸き上がっていた。心音がどくどくどくと高鳴っている。全身を駆け巡る血液は怒りとともに熱を帯び、彼女に宿る「それ」に歓喜の声を叫ばせた。
知らず拳の黒い光が眩しくなる。それは決して聖なるものではなくむしろ邪なものではあったがアイシャは構わなかった。
敵をぶちのめす。
大切な人を守る。
そのためならどんな力であってもあたしは利用する。
あたしは汚れているのだから聖邪などどうでもいい。
ぶちのめす。
それだけだ。
うん、と彼女は決意し、その場を後にする。
手がかりはないに等しい。だが、妙な確信が芽生えていた。自分の感覚の耳が拾っている「ケラケラケラ」という声。それを辿ることにした。
さっき昇ったのとは違う階段を駆け下りる。何となく声が近くなっているような気がした。
数分後、甲板に出る。
いた。
巨大なカマキリを従えモヒカン男が仁王立ちしている。そのまわりには船員とダークスーツの男たちの死体。一体この男はどれだけの命を奪えば気が済むのか。
ピクリとアイシャのこめかみが動いた。まっすぐに男を見据える。
幸いなことにエンヤの姿はなかった。彼女がこの遺体の山に混ざっていたらきっと我を忘れていただろう。
男がぺっと唾を吐いた。
玉子型の目を細め、忌々しげに見返してくる。
「戦いの最中に消えやがって」
トップナイフが長い刃のついた前足を大きく左右に広げる。「ケラケラケラ」と無音で騒ぐ声には狂気と憤怒が重なっていた。
アイシャは一歩前に進んでファイティングポーズをとる。
緊張が快楽にも似た高揚感を連れて来た。逸る気持ちをぐっと抑え頭をフル回転させてどう仕掛けようかと考える。
スピードは相手が上。
俊敏さに加え精密動作性も敵のほうが優れていると判じた。
勝てるかどうかはわからない。
だが、アイシャはぶちのめすと決めていた。その決心は揺らいでいない。勝敗うんぬんは終わってからわかることだ。
とにかくぶちのめす。
夜の海の匂いが潮風とともに彼女を撫でる。潮の音が静かに戦いの緊迫感を後押しした。船に打ちつける波の悲鳴が男に殺された人たちの鎮魂歌となる。
失われたものはもう戻ってこない。
アイシャは心の奥で祈りを捧げた。
神などもう信じていない。
けれど人の死を悼むことはできた。そのことに信仰は必要ない。
なぜなら命を想うことは、魂を尊重することは神ではなく人が行うことだからだ。
暗青の空に浮かぶ月を薄い雲が覆い隠す。
うっすらとした二人の影がぼんやりと甲板に滲んだ。
アイシャはまだ戦う術が見つからない。しかし、彼女の中の「それ」が暴力的な衝動を激しくさせた。
とにかく敵をぶちのめせ。
殴って殴って殴り倒せ。
迷うな、殴れ。
雲が抜ける。
月明かりが合図となった。
アイシャはだっと突進する。考えはまとまらなかった。だから自分の能力を信じるしかなかった。
体力で殴るのではない。
ダーティワークは「殴る」能力。
だから、ぶん殴る。
一気に距離を詰め、拳を放った。
「ウダァッ!」