第44話 ティアーズフォーフィアーズ その4
文字数 2,405文字
深夜。
アイシャは眠れずにいた。
子供部屋のもう一つのベッドでは兄のシンジが寝息を立てている。時折ムニャムニャと寝言を口にしたりもするが大した心配事もなく眠れているようで少し羨ましい。
じっと暗闇の中で天井を見る。
遠くでオートバイの爆音が轟いていた。荒々しい排気音が連続し、ラッパにも似たクラクションがエンジン音とセッションを奏でる。
ひとしきり爆走した荒くれ者の走り去った後に静寂が訪れた。
アイシャはそっと布団から両手を出して自分の顔の前にかざす。
ダーティワークを発現させようとするが黒い光のグローブどころかほんの僅かな光さえ放てない。
やはり駄目かとため息をついた。ぺたんと手を額に当てる。もう一方の手をその上に重ねた。
どうしよう。
時間が来てしまう。
今すぐにでもみんなを起こしてこの家から逃げ出したい。そう思いつつもできない自分がいた。
何らかの制限でもかけられているかのように思い切った行動がとれない。
両親に外出しようと訴えたものの聞き入れてはもらえなかった。
自分が五歳の子供であることが酷くもどかしい。もしもっと大人であったならば他に方法があったのではないか。それともまだ何かできるのか……そんなことを繰り返しているうちに無力感が膨らんでいった。反比例するように希望が小さくしぼんでいく。
あの事件が起きたのは何時ごろだっただろう。
夜遅い時間であったような気がする。肝心な部分は曖昧で本当の五歳の自分の記憶なのだから仕方ないのかもしれないがとても悔やまれた。
あのときは母親のミーシャの機転で自分だけが助かった。
今度は自分の力で皆を助けたい。
それなのにどうしようもなく無力な自分がいる。
たとえ喚き散らしても、無理矢理にでも外に連れ出そうとしても皆はこの家からでようとはしないだろう。それが運命だと言われても納得できないが自分に限界があるのは受け容れざるを得ない。
その上で何か方法はないかと思案した。
近くで犬が吠える。
よく知っている吠え声。ロッキーのものだと気づくのに時間はかからなかった。威嚇するように鋭い吠え声が闇の中に響き渡る。
アイシャが半身を起こすとロッキーの吠え声がぴたりと止まった。
……ロッキー?
不安がどっと強まり心音を高める。ばくばくと打ちつける鼓動が子供部屋を満たしそうで怖かった。
どうしようどうしようとパニックが頭を占める。
もう一つのベッドの動きに気づくのが遅れたのはパニックのせいだったのかもしれない。
ベッドから床に降り立つ音でアイシャははっとした。
「うーん」
シンジが眠そうにふらふらとしながら歩きだす。
咄嗟にアイシャは声をかけた。
「ねぇ」
闇の中だがシンジが身体をびくりとさせるのがわかった。不意打ちを食らったようにやや驚いた声で彼が応じてくる。
「……アイシャかよ。あ、起こしちゃったか?」
「ううん。それよりどこに行くの?」
「どこって……トイレだけど」
アイシャの脳裏に家族を皆殺しにされた事件のことが浮かんだ。
自分がその当時に飛ばされてしまっている。
あのもっさりとした髪の男の能力、ティアーズフォーフィアーズによって強制的に試練とやらを受けさせられている。
どうしようと頭の中の言葉が不安を倍加させた。兄を、シンジをトイレに行かせてはならないと心の奥で警鐘が鳴っている。
「我慢できないの?」
アイシャが聞くと「はぁ?」と返ってきた。
「お前はあれか、ここで漏らせっていうのか?」
「そうは言ってないけど」
「いや、言ってるようなもんだろ。てか本気でやばそうだ」
シンジがそわそわとしだす。
どうしよう。
行かせたくない。
けど……。
アイシャが逡巡しているとシンジが子供部屋のドアまで歩みドアノブに手をかける。猶予はなかった。アイシャはどうにかしたくて早口に告げた。
「待って、あたしも行く」
「いや、ついて来るな」
ベッドから出ようとしたアイシャをシンジが声だけで制した。
「トイレに行くのに妹を付き添わせるなんてみっともないだろ」
「そんなことないよ」
みっともないかもしれないが今はそのことを無視した。それよりも兄を一人にさせたくなかった。
「あたし、一人になりたくない」
「……」
少しだけ間がありその隙間を埋めるような盛大なため息が聞こえた。夜の闇のせいかそれともアイシャの心情的なものが作用しているからかやけにはっきりと聞こえる。
「あのな」
声音に優しさを添えてシンジが言った。
「ささっと済ませてくるからそこで待っててくれないか? 五分、いや三分で戻るから」
「でも」
「もう無理。いいか、ついて来るなよ」
「あっ」
呼び止める暇も無くシンジが子供部屋から出て行ってしまう。
アイシャはどうしようと迷いながらもベッドから離れられずにいた。強すぎる不安が負荷となって身体を鈍らせているようだった。どうしようどうしようと反復される言葉が自分自身を縛る縄の如く彼女を拘束していた。
家の中から犬の吠え声がする。
ロッキーがまだ無事だとわかりほっとする一方で今度こそ「その時」なのではないかと胸騒ぎが激しくなる。
アイシャは立ち上がろうとしてバランスを崩した。前のめりに床に倒れ込み、手をついて身を守ろうとするがうまくいかずに額を強打してしまう。目から星が飛び出しそうな感覚と痛みに涙目になるがどうにか泣くのは堪えた。
倒れたときにガシャンというガラスの割れた音がしたような気がするが痛みがじんじんと意識を引っぱっていて確信が持てない。
ロッキーの吠え声が止んだ。
アイシャは理解した。どうしようではなくどうしようもないという思いに切り替わっていた。それは運命であり固定された過去なのだと彼女は判じた。不可避の出来事に逆らう術はなく、粛々とそれに従う他に道はないのだ。
ただ、何かが違う。
その何かがわからぬままアイシャは「その時」を迎えた。
アイシャは眠れずにいた。
子供部屋のもう一つのベッドでは兄のシンジが寝息を立てている。時折ムニャムニャと寝言を口にしたりもするが大した心配事もなく眠れているようで少し羨ましい。
じっと暗闇の中で天井を見る。
遠くでオートバイの爆音が轟いていた。荒々しい排気音が連続し、ラッパにも似たクラクションがエンジン音とセッションを奏でる。
ひとしきり爆走した荒くれ者の走り去った後に静寂が訪れた。
アイシャはそっと布団から両手を出して自分の顔の前にかざす。
ダーティワークを発現させようとするが黒い光のグローブどころかほんの僅かな光さえ放てない。
やはり駄目かとため息をついた。ぺたんと手を額に当てる。もう一方の手をその上に重ねた。
どうしよう。
時間が来てしまう。
今すぐにでもみんなを起こしてこの家から逃げ出したい。そう思いつつもできない自分がいた。
何らかの制限でもかけられているかのように思い切った行動がとれない。
両親に外出しようと訴えたものの聞き入れてはもらえなかった。
自分が五歳の子供であることが酷くもどかしい。もしもっと大人であったならば他に方法があったのではないか。それともまだ何かできるのか……そんなことを繰り返しているうちに無力感が膨らんでいった。反比例するように希望が小さくしぼんでいく。
あの事件が起きたのは何時ごろだっただろう。
夜遅い時間であったような気がする。肝心な部分は曖昧で本当の五歳の自分の記憶なのだから仕方ないのかもしれないがとても悔やまれた。
あのときは母親のミーシャの機転で自分だけが助かった。
今度は自分の力で皆を助けたい。
それなのにどうしようもなく無力な自分がいる。
たとえ喚き散らしても、無理矢理にでも外に連れ出そうとしても皆はこの家からでようとはしないだろう。それが運命だと言われても納得できないが自分に限界があるのは受け容れざるを得ない。
その上で何か方法はないかと思案した。
近くで犬が吠える。
よく知っている吠え声。ロッキーのものだと気づくのに時間はかからなかった。威嚇するように鋭い吠え声が闇の中に響き渡る。
アイシャが半身を起こすとロッキーの吠え声がぴたりと止まった。
……ロッキー?
不安がどっと強まり心音を高める。ばくばくと打ちつける鼓動が子供部屋を満たしそうで怖かった。
どうしようどうしようとパニックが頭を占める。
もう一つのベッドの動きに気づくのが遅れたのはパニックのせいだったのかもしれない。
ベッドから床に降り立つ音でアイシャははっとした。
「うーん」
シンジが眠そうにふらふらとしながら歩きだす。
咄嗟にアイシャは声をかけた。
「ねぇ」
闇の中だがシンジが身体をびくりとさせるのがわかった。不意打ちを食らったようにやや驚いた声で彼が応じてくる。
「……アイシャかよ。あ、起こしちゃったか?」
「ううん。それよりどこに行くの?」
「どこって……トイレだけど」
アイシャの脳裏に家族を皆殺しにされた事件のことが浮かんだ。
自分がその当時に飛ばされてしまっている。
あのもっさりとした髪の男の能力、ティアーズフォーフィアーズによって強制的に試練とやらを受けさせられている。
どうしようと頭の中の言葉が不安を倍加させた。兄を、シンジをトイレに行かせてはならないと心の奥で警鐘が鳴っている。
「我慢できないの?」
アイシャが聞くと「はぁ?」と返ってきた。
「お前はあれか、ここで漏らせっていうのか?」
「そうは言ってないけど」
「いや、言ってるようなもんだろ。てか本気でやばそうだ」
シンジがそわそわとしだす。
どうしよう。
行かせたくない。
けど……。
アイシャが逡巡しているとシンジが子供部屋のドアまで歩みドアノブに手をかける。猶予はなかった。アイシャはどうにかしたくて早口に告げた。
「待って、あたしも行く」
「いや、ついて来るな」
ベッドから出ようとしたアイシャをシンジが声だけで制した。
「トイレに行くのに妹を付き添わせるなんてみっともないだろ」
「そんなことないよ」
みっともないかもしれないが今はそのことを無視した。それよりも兄を一人にさせたくなかった。
「あたし、一人になりたくない」
「……」
少しだけ間がありその隙間を埋めるような盛大なため息が聞こえた。夜の闇のせいかそれともアイシャの心情的なものが作用しているからかやけにはっきりと聞こえる。
「あのな」
声音に優しさを添えてシンジが言った。
「ささっと済ませてくるからそこで待っててくれないか? 五分、いや三分で戻るから」
「でも」
「もう無理。いいか、ついて来るなよ」
「あっ」
呼び止める暇も無くシンジが子供部屋から出て行ってしまう。
アイシャはどうしようと迷いながらもベッドから離れられずにいた。強すぎる不安が負荷となって身体を鈍らせているようだった。どうしようどうしようと反復される言葉が自分自身を縛る縄の如く彼女を拘束していた。
家の中から犬の吠え声がする。
ロッキーがまだ無事だとわかりほっとする一方で今度こそ「その時」なのではないかと胸騒ぎが激しくなる。
アイシャは立ち上がろうとしてバランスを崩した。前のめりに床に倒れ込み、手をついて身を守ろうとするがうまくいかずに額を強打してしまう。目から星が飛び出しそうな感覚と痛みに涙目になるがどうにか泣くのは堪えた。
倒れたときにガシャンというガラスの割れた音がしたような気がするが痛みがじんじんと意識を引っぱっていて確信が持てない。
ロッキーの吠え声が止んだ。
アイシャは理解した。どうしようではなくどうしようもないという思いに切り替わっていた。それは運命であり固定された過去なのだと彼女は判じた。不可避の出来事に逆らう術はなく、粛々とそれに従う他に道はないのだ。
ただ、何かが違う。
その何かがわからぬままアイシャは「その時」を迎えた。