第29話 間話・魂の狩人と新たな獲物
文字数 2,605文字
夜。
生徒たちがいなくなった校舎の中は静寂に満ちていた。
窓から射し込む月明かりが仄かに無人の廊下を照らしている。廊下は先に向かうほどに闇を濃くし、見る者の不安を煽っていた。静けさと暗さを兼ね備えた一種独特な雰囲気がここにはある。理由がなければ好き好んでここを訪れる者はいないだろう。
廊下の途中にある火災報知器の赤いフォルムと揺らぐことなく点る赤色のランプが不気味さを一層引き立てる。
高等部の二階にある第三職員室のドアの前で空間が歪んだ。
すうっと浮き出るようにピンク色のワンピース姿の人物が現れる。
長身で胸まである亜麻色の縦巻きロールの持ち主だ。左胸のあたりにつけた青リンゴのワッペンは一口囓られたデザインで欠けた部分には薄緑色の宝石がはまっている。
その宝石が何かを訴えるかのようにチカチカと点滅した。
「ああ、巡回の警備員がこっちに来る前に終わらせるって」
彼女と見間違えるほどの美形の彼は言い、そっと職員室のドアに触れる。
職員はすでにおらず施錠されたドアは二カ所あり彼が立っているのは階段に近い側だった。軽く横引きさせようとするがやはり動かない。
想定内のことに彼は表情を変えず一つ息をついた。
するり。
彼の手がドアをすり抜ける。そのままかれは溶け込むようにドアを通過した。厚さ二センチ弱のドアは彼にとって何ら障害となっていなかった。この程度のものならセーフティ・パイでいくらでも対処できる。
透明の精霊が彼にもたらした力は「自分と自分の触れたものを任意に透化させる」である。
故あって彼は透明の精霊と契約していた。
人は精霊と契約した者を契約者(リンカー)と呼ぶ。
彼は契約者(リンカー)であり、手に入れた能力には「セーフティ・パイ」と名付けていた。精霊は青リンゴのワッペンの形をとり、常に彼と共にいる。彼にとって頼もしい相棒だった。
この数日、彼は夜の学園への侵入を繰り返していた。目当ての物は必ずしも要るものではないのかもしれない。それでも手っ取り早く手がかりを得るには必要とも言えた。
職員室の中を歩き壁際に並んだロッカーや戸棚を見て回る。
昨日までに調べた場所と目の前のものとを頭の中で照らし合わせた。今までに読んだ書類に知りたい情報はなく、ひょっとしたら見当違いなことをしているのではないかと思ったものだ。それでも今夜ここにいるのは半ば執念にも似た思いからであった。
今回こそは見つかるはず。
何一つ根拠はないが彼の胸にはそんな予感があった。
まだ探っていない書類棚に手を伸ばす。
いちいち鍵を開ける手間はない。そのまま手を透化させ、掴んだファイルごと引き抜く。A4サイズのファイルは分厚く真っ青な表紙には白いシールが横向きに貼られていた。
黒い手書きの文字で「高等部二学年契約者リスト」とある。
見つけた。
彼は僅かに口許を綻ばせる。
正確にはまだ見つけた訳ではない。だが、取っかかりは得たと判じていいだろう。うまくいけばこのリストから探し当てることができるかもしれなかった。これがハズレだとしてもリストはまだある。
ファイルを開いて書類に目を通す。
ぱらぱらとめくっていると何かの気配を感じた。慌ててファイルを閉じて振り返る。
男がいた。
窓を背にしてこちらを見つめている。彼との距離は五メートルほど。二人の間には二列の職員用事務机が並んでいる。
身長は高い。月明かりに照らされて長い銀髪が輝いていた。
切れ長の目が彼を捉えている。
知人に似た目だと彼は思った。連絡船で出会った黒い修道服の少女が想起される。謎の男はその少女と同じ目をしていた。
「ふむ」
男が腕組みする。少し首を傾け考える素振りをした。
「この数日誰かが忍び込んでいると思ったら……文学部の学生とはな」
こいつ、僕のことを知ってる?
一気に警戒が彼の心に満ちる。その場にファイルを落とし、即座にセーフティ・パイの能力を発現させた。
空気と同化するかのように、あるいは空間と異層するかのように人には見えるかもしれない。彼はぼんやりとした視界の内に男の存在を知覚した。
男は窓の傍を離れず、こちらに手を突き出している。
その腕が影のようなものとだぶった。もう一本の腕が重なっているような錯覚を覚える。
「ソウルハンター」
男が言った。
「煙幕の精霊のカードを私に。どうやら彼は問答無用で逃げるつもりらしい」
きらきらと銀色の光が男の手に宿る。それは一枚のカードを形成した。
「逃げられると思うなよ」
ぶわっ!
カードから真っ白な煙が噴出する。あっという間に室内に煙が充満した。
白濁した世界に彼は囚われたが煙にむせることはなかった。セーフティ・パイは彼を取り巻く煙をも透化していた。このくらいの攻撃など何の意味もなさない。
むしろ煙を出した本人がむせ返るのではないかと思ったがそんな様子は見当たらない。どうやら本体には影響が出ないようになっているらしい。理屈はわからないがそういうタイプの能力があっても不思議ではない。
とにかく、ここから脱出だ。
「逃がさないと言ったはずだが」
白い闇の中で男の声が響く。声が移動していた。事務机を回り込みこちらへと近づいてくる。
「煙幕の中で透明になっている部分が君のいる位置だ。わかる、わかるぞ! 手に取るように君のいる位置がわかるっ!」
そう来るんだ。
彼はくるりと向きを変え、書類棚と向き合う。躊躇うことなく前に進んだ。
身体が書類棚に触れ、その感触もないまますり抜ける。壁沿いに置かれた書類棚の先は廊下だ。彼は平然と職員室から廊下へと抜け出した。
ひとまず能力を解除する。セーフティ・パイは便利だが消耗が激しいという欠点があるのだ。無事に帰るためにも省エネを心がけなくてはならない。
とはいえ廊下まで出ればこっちのものである。
にやりと笑って彼はつぶやく。
「はい、残念でした」
「そうだな、実に残念だ。せっかくの能力も契約者(リンカー)がこれでは宝の持ち腐れだ」
間近で聞こえた声に彼はぎょっとする。
男がすぐ傍に立っていた。
その手には一枚のカード。野球帽を被った十代前半の黒人少年が映っていた。カードの下部に「転移の精霊」とある。
……マジ?
こいつ、どんだけの能力を使えるの?
目を見張った彼の頭に男と重なるように存在する影が両手を伸ばした。
「覚悟はいいかね、ミセスくん」
生徒たちがいなくなった校舎の中は静寂に満ちていた。
窓から射し込む月明かりが仄かに無人の廊下を照らしている。廊下は先に向かうほどに闇を濃くし、見る者の不安を煽っていた。静けさと暗さを兼ね備えた一種独特な雰囲気がここにはある。理由がなければ好き好んでここを訪れる者はいないだろう。
廊下の途中にある火災報知器の赤いフォルムと揺らぐことなく点る赤色のランプが不気味さを一層引き立てる。
高等部の二階にある第三職員室のドアの前で空間が歪んだ。
すうっと浮き出るようにピンク色のワンピース姿の人物が現れる。
長身で胸まである亜麻色の縦巻きロールの持ち主だ。左胸のあたりにつけた青リンゴのワッペンは一口囓られたデザインで欠けた部分には薄緑色の宝石がはまっている。
その宝石が何かを訴えるかのようにチカチカと点滅した。
「ああ、巡回の警備員がこっちに来る前に終わらせるって」
彼女と見間違えるほどの美形の彼は言い、そっと職員室のドアに触れる。
職員はすでにおらず施錠されたドアは二カ所あり彼が立っているのは階段に近い側だった。軽く横引きさせようとするがやはり動かない。
想定内のことに彼は表情を変えず一つ息をついた。
するり。
彼の手がドアをすり抜ける。そのままかれは溶け込むようにドアを通過した。厚さ二センチ弱のドアは彼にとって何ら障害となっていなかった。この程度のものならセーフティ・パイでいくらでも対処できる。
透明の精霊が彼にもたらした力は「自分と自分の触れたものを任意に透化させる」である。
故あって彼は透明の精霊と契約していた。
人は精霊と契約した者を契約者(リンカー)と呼ぶ。
彼は契約者(リンカー)であり、手に入れた能力には「セーフティ・パイ」と名付けていた。精霊は青リンゴのワッペンの形をとり、常に彼と共にいる。彼にとって頼もしい相棒だった。
この数日、彼は夜の学園への侵入を繰り返していた。目当ての物は必ずしも要るものではないのかもしれない。それでも手っ取り早く手がかりを得るには必要とも言えた。
職員室の中を歩き壁際に並んだロッカーや戸棚を見て回る。
昨日までに調べた場所と目の前のものとを頭の中で照らし合わせた。今までに読んだ書類に知りたい情報はなく、ひょっとしたら見当違いなことをしているのではないかと思ったものだ。それでも今夜ここにいるのは半ば執念にも似た思いからであった。
今回こそは見つかるはず。
何一つ根拠はないが彼の胸にはそんな予感があった。
まだ探っていない書類棚に手を伸ばす。
いちいち鍵を開ける手間はない。そのまま手を透化させ、掴んだファイルごと引き抜く。A4サイズのファイルは分厚く真っ青な表紙には白いシールが横向きに貼られていた。
黒い手書きの文字で「高等部二学年契約者リスト」とある。
見つけた。
彼は僅かに口許を綻ばせる。
正確にはまだ見つけた訳ではない。だが、取っかかりは得たと判じていいだろう。うまくいけばこのリストから探し当てることができるかもしれなかった。これがハズレだとしてもリストはまだある。
ファイルを開いて書類に目を通す。
ぱらぱらとめくっていると何かの気配を感じた。慌ててファイルを閉じて振り返る。
男がいた。
窓を背にしてこちらを見つめている。彼との距離は五メートルほど。二人の間には二列の職員用事務机が並んでいる。
身長は高い。月明かりに照らされて長い銀髪が輝いていた。
切れ長の目が彼を捉えている。
知人に似た目だと彼は思った。連絡船で出会った黒い修道服の少女が想起される。謎の男はその少女と同じ目をしていた。
「ふむ」
男が腕組みする。少し首を傾け考える素振りをした。
「この数日誰かが忍び込んでいると思ったら……文学部の学生とはな」
こいつ、僕のことを知ってる?
一気に警戒が彼の心に満ちる。その場にファイルを落とし、即座にセーフティ・パイの能力を発現させた。
空気と同化するかのように、あるいは空間と異層するかのように人には見えるかもしれない。彼はぼんやりとした視界の内に男の存在を知覚した。
男は窓の傍を離れず、こちらに手を突き出している。
その腕が影のようなものとだぶった。もう一本の腕が重なっているような錯覚を覚える。
「ソウルハンター」
男が言った。
「煙幕の精霊のカードを私に。どうやら彼は問答無用で逃げるつもりらしい」
きらきらと銀色の光が男の手に宿る。それは一枚のカードを形成した。
「逃げられると思うなよ」
ぶわっ!
カードから真っ白な煙が噴出する。あっという間に室内に煙が充満した。
白濁した世界に彼は囚われたが煙にむせることはなかった。セーフティ・パイは彼を取り巻く煙をも透化していた。このくらいの攻撃など何の意味もなさない。
むしろ煙を出した本人がむせ返るのではないかと思ったがそんな様子は見当たらない。どうやら本体には影響が出ないようになっているらしい。理屈はわからないがそういうタイプの能力があっても不思議ではない。
とにかく、ここから脱出だ。
「逃がさないと言ったはずだが」
白い闇の中で男の声が響く。声が移動していた。事務机を回り込みこちらへと近づいてくる。
「煙幕の中で透明になっている部分が君のいる位置だ。わかる、わかるぞ! 手に取るように君のいる位置がわかるっ!」
そう来るんだ。
彼はくるりと向きを変え、書類棚と向き合う。躊躇うことなく前に進んだ。
身体が書類棚に触れ、その感触もないまますり抜ける。壁沿いに置かれた書類棚の先は廊下だ。彼は平然と職員室から廊下へと抜け出した。
ひとまず能力を解除する。セーフティ・パイは便利だが消耗が激しいという欠点があるのだ。無事に帰るためにも省エネを心がけなくてはならない。
とはいえ廊下まで出ればこっちのものである。
にやりと笑って彼はつぶやく。
「はい、残念でした」
「そうだな、実に残念だ。せっかくの能力も契約者(リンカー)がこれでは宝の持ち腐れだ」
間近で聞こえた声に彼はぎょっとする。
男がすぐ傍に立っていた。
その手には一枚のカード。野球帽を被った十代前半の黒人少年が映っていた。カードの下部に「転移の精霊」とある。
……マジ?
こいつ、どんだけの能力を使えるの?
目を見張った彼の頭に男と重なるように存在する影が両手を伸ばした。
「覚悟はいいかね、ミセスくん」