第43話 ティアーズフォーフィアーズ その3

文字数 2,325文字

「アイシャは神様っていると思うか?」

 夕食を食べ終えリビングで考え事をしていると不意に兄のシンジがたずねてきた。

 ソファーの左端に座っていたアイシャは右端に陣取る兄へと目を向ける。

 パステルカラーの猫のイラストが描かれた本をぱたんと閉じ、シンジは挑発気味に口の端を緩めた。父親譲りの団子鼻をフフンと高くする。玉子型の目が細まった。

「聞こえなかったのか? 神様だよ。いると思うか?」
「……」

 あたしはもう神様を信じていない。

 そう答えかけ、やめる。

 今の自分は十七歳の高城アイシャではない、五歳の自分に戻っているのだ。あの当時の自分は、五歳の高城アイシャは神様をどう思っていただろうか。

 自問しているとシンジがつまらなそうに鼻を鳴らした。さらに目を細くして質問を変える。

「じゃあ精霊は? いると思うか?」
「……」

 思わずアイシャは両手を胸の高さまで上げて凝視してしまった。

 ダーティワークどころか「それ」の欠片すら感じられない。

 過去の自分に戻るということは契約者(リンカー)になる前の自分に戻ることなのだと思い至った。自分が「それ」と契約してダーティワークを使えるようになったのは十七歳になってからだ。

 あの時、修道院が襲撃されて仲間やシスターマリーを失って……。

 五歳のあたしはダーティワークを発現できない。

 どうしよう、と心音が激しくなるのを意識しているとシンジが「おい」と一段階声を大きくさせた。

「無視すんなよ。それとも質問の意味がわからないくらい馬鹿なのか?」
「意味はわかるよ」
「なら答えろよ」

 苛立ちの混じった言葉に子供っぽさが重なる。いや、彼はまだ子供か。

 精霊はいる。

 現時点では見せてあげられないけれど精霊はいるのだ。

 もどかしさを抱きつつもアイシャは言った。

「……いると思うよ」
「思うよ、じゃなくているんだよ」

 シンジが笑みを広げる。癇に障る表情だったがアイシャはぐっと我慢した。五歳の自分はこんな兄によく堪えられたものだと感心する。

 まあ、兄妹喧嘩をした記憶はあるからそれなりに反発はあったはずだ。

「あのな」

 シンジが生意気そうに説明する。

「精霊はいろんなものにいるんだよ。猫とか犬とか風とか火とか、道端の石ころや公園にある銀杏の木にも精霊はいるんだ。母さんのよく聴くショパンの曲や父さんの好きなウイスキーの瓶にだって精霊はいる。サーシャの泣き声やお手伝いさんのシマダさんの笑い声にだって精霊はいるんだ」

 万物に精霊は宿る。

 魔女の……ドリスの言葉が蘇った。

「お前、父さんが精霊の研究をしているっていうのにそんなことも知らないのかよ」
「精霊の研究」

 頭にアボイドノートのことが浮かんだ。

 父がアボイド・アップルとともに調査し記したノート。星神島の秘密が書かれているノート。そこに綴られた内容とはどんなものなのだろう。

「国の偉い人の許可がなければ行けない場所に父さんは行っていっぱい調べてきたんだぞ。お金持ちから研究のためのお金も出してもらって誰も知らないようなことも調べ上げてきたんだ。すごいと思わないか?」
「そうだね、すごいね」

 アイシャは相槌を打つ。

 話しているうちに興奮してきたのかシンジの声はどんどん大きくなっていた。

 一人がけのソファーに二人で座っていたミーシャとサーシャ、それに二人の傍で腹這いになっているゴールデンレトリーバーのロッキーが揃ってテレビからアイシャたちへと視線を向ける。

 きょとんとするサーシャは母親のミーシャをそのまま子供にしたような顔立ちだ。

「アイシャはあれだな、あんまり母さんに似てないな」

 おもむろに兄から投げつけられた言葉が心に当たってコツンと音を鳴らす。その感覚のない痛みにアイシャは口角を下げた。両手をぎゅっと握ってムカつきの原因を睨みつける。

 相手はニヤニヤとして迎え撃つ気満々だ。

 ミーシャが釘を刺す。

「二人とも仲良くね」

 静かだが有無を言わさぬ口調だ。

 ぐぬぬっと低く呻いてアイシャは拳を解いた。ぶつけ損ねた怒りを持って行く場所を失って感情が迷子になる。

 だが、シンジはアイシャの態度に愉快さを見出したらしくクククと笑った。嘲るような笑顔は速攻でぶちのめしたい欲求を誘う。

「ま、いいや」

 シンジが短く言い、話を精霊に戻す。

「アイシャだったらどんな精霊がいいと思う?」
「えっ」
「俺なら雷の精霊とかがいいな。こうビリビリドッカーンって感じで敵をやっつけるんだ。格好良いと思わないか?」

 なぜ戦うこと前提? とつっこみそうになりつつもすんでのところでごくんと飲み込む。そういえば兄は戦隊ものとかライダーとか好きだったなと妙に納得した。モンスターに命じてバトルさせるアニメもよく見ていたはずだ。精霊もそんなモンスターと同等くらいに判じているのかもしれない。

 あたしなら何を選ぶだろう。

 もちろん十七歳の自分にはすでに精霊がついている。「それ」は雷でも火でもない。それどころか怒りという感情に宿る精霊だ。プラスとマイナスに例えるならきっとマイナス。陰と陽なら陰。聖と邪ならば邪。どれだけ考えようと良い側にはなれそうにない。

 兄のように気楽にどの精霊がいいと言えない自分に情けなくなった。沈んでいく気分に比例するように彼女は俯く。

 そんな妹の態度から何かを察したのか兄の言葉が柔らかくなった。

「どうした? 腹でも痛くなったか?」

 普段は意地悪なシンジだがたまにこうやって優しい一面を見せる。いつもこうだったら良かったのにと内心でつぶやきながらアイシャはかぶりを振った。

 そして、こうしている間にも時間が来てしまうという焦燥感が襲ってくる。ひたひたひたひたと「その時」が忍び寄って来るのだ。
 
 
 
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