第5話 ジョーカーとクラナド その2
文字数 2,329文字
アイシャは立ち上がり素早くまわりを確認した。
人影はない。ここにいるのは自分とエンヤだけだ。
どこの誰かはわからないけどとにかくかつては人間だった男がネズミになって死んでいる。
そう、死んでいる。
ネズミは息をしていなかった。
胸に開けられた穴が致命傷だったのか、それとも他の死因か。考えてもわからなかった。とにかく男が何らかの方法で胸に穴を開けられネズミと化して死んだ。
これは普通ではない。
アイシャは無意識のうちに小さく十字を切っていた。そんな自分に半ば自嘲気味に笑う。
もう神なんて信じていないのに。
ニャーオ。
猫の鳴き声にアイシャは言った。
「猫をネズミに近づけないで」
「あ、うん」
エンヤが足下にいた白い猫を捕まえる。ひょいと抱き上げると白い猫がニャーと不服そうに鳴いた。興味津々にネズミを見下ろしている。
……誰かいる。
直感的にアイシャは判じた。
心の内にいる「それ」が何かを知覚していた。いや「それ」がいなくてもこの異常事態を思えば何者かの存在を意識するのは当然だろう。
もしかして、契約者(リンカー)か?
アイシャは修道院でぶちのめした女を思い出す。
冷気の精霊と契約していた女。修道院のシスターたちを凍死させた襲撃者。
蘇った嫌な記憶をアイシャは頭を振って振り払う。
だが、可能性を考えるとないとは言い切れなかった。精霊と契約した者はまだ他にもいるはずだ。現に自分もまた契約者なのだから。
不安そうにエンヤが身を寄せてきた。
ふわりと季節の花を連想させる甘い匂いがアイシャを撫でる。
とくんと心臓が跳ねた。そんな自分に少し狼狽えてアイシャはエンヤと距離を取りたい衝動にかられる。それでも離れられない自分がいた。
エンヤの匂いと体温を感じながらアイシャは屈み込み、ネズミに手を伸ばす。
「えっ」とエンヤが驚く。
たしなめるような彼女の声が間近で続いた。
「ちょっと……ネズミに触る気?」
「ええ」
答えたアイシャの肩をエンヤが掴んだ。
白い猫がエンヤの腕から逃れる。すぐさま猫はネズミに近寄りくんくんと嗅ぎ始めた。
「クラナド、駄目よ」
エンヤが叱り、白い猫が振り返る。ニャーオと猫は一声鳴いた。批難めいてはいるが他にも何か訴えているようにも聞こえる。
エンヤが言った。
「誰か呼ばないと」
「どうして?」
「どうしてって……人が殺されたんだよ」
アイシャは名残惜しさを抱きつつもエンヤから身を離す。ネズミに目をやったまま告げた。
「もう人じゃない」
「そうだけど」
エンヤが白い猫をまた抱き上げた。
猫がニャーと鳴く。彼女が背中を撫でると気持ち良さそうに喉をゴロゴロさせた。目を細め、首を伸ばして彼女の首元に鼻を擦りつけてくる。
くすぐったそうにエンヤが短く笑った。
アイシャは再びまわりを見渡す。
通路に人はいなかった。この船に何人の乗員がいるのかわからないが不気味なくらい静かだ。
船が出港してからそれほど時間は経っていない。
アイシャはまずいと心の中でつぶやいた。
トラブルが生じたとなれば港に引き返すかもしれない。
それだけは避けたかった。憎むべき仇がいる星神島には何としても行かなければならない。足止めを食らうなんて御免だ。
拳を握る。
邪魔はさせない。
誰であろうと、関係があろうとなかろうと星神島への道を阻むというならそれは敵だ。絶対に放っておく訳にはいかない。
アイシャは唇を噛んだ。
ぶちのめす。
どんな相手であっても必ずぶちのめす。
殴って殴って殴り倒す。
誰にもあたしの邪魔はさせない!
「……アイシャ?」
戸惑った様子でエンヤが声をかけてくる。不安の上に僅かな恐れを表情に貼りつけていた。
アイシャは何も応えず彼女の腕を引いた。記憶を辿って船内にある食堂へと歩きだす。
「え、ちょっ、アイシャ?」
「ご飯、行くんでしょ?」
とにかくここにいても始まらない。
歩きながらアイシャは再度決意した。
絶対にこの船で星神島に行ってみせる!
*
食堂に向かう途中でアイシャは足を止めた。
さっきよりも船内が騒がしくなっている。カンカンと金属製の階段を駆け下りてきた船員たちとすれ違い、ダークスーツ姿の男たちに客室に戻るよう告げられた。
艦内放送が何事かを案じするかのように業務連絡を報じている。
「ど、どうしよう。戻る?」
エンヤの不安が強まっていた。
アイシャはじっと通路の奥を見つめた。まっすぐに伸びた通路に沿うようにパイプ状の手すりが続いている。天井には淡い光を放つ照明が等間隔に配置されている。いくつかある船室のドアはどれも閉じており、そのことが船の閉塞感を色濃く感じさせた。
ゴスッ!
背後で何かがぶつかるような音がした。
慌ててアイシャが振り向くとガガガッと鈍い金属音を響かせながら階段から男が転げ落ちてきた。
白地に青いラインのあるセーラー服姿の若い男だ。この船の乗組員である。苦痛に顔を歪ませあんぐりと口を開きながら何かを呻いていた。両手を胸に当てている。
仰向けに倒れた彼は声にならぬ声を発しつつ身悶えていた。
アイシャは迷わず彼に走り寄る。少し遅れてエンヤがついてきた。
「ああ……ああああっ!」
やはり胸に穴があった。
アイシャが階段の上に目をやると細身のシルエットが一瞬だけ見えた。男か女かまでは判別できない。身長は自分と同じくらいか。
アイシャは倒れている男を見下ろす。男の胸の穴から光が生まれていた。
「クラナド」
エンヤが抱いていた白い猫を放す。切迫した声音にアイシャは何かを感じた。そんな彼女にエンヤが言う。
「あのね……私、特別なの」
白い猫が男の傍で鼻をヒクヒクさせる。ほわりとその白い体躯を薄緑色に発光させた。
人影はない。ここにいるのは自分とエンヤだけだ。
どこの誰かはわからないけどとにかくかつては人間だった男がネズミになって死んでいる。
そう、死んでいる。
ネズミは息をしていなかった。
胸に開けられた穴が致命傷だったのか、それとも他の死因か。考えてもわからなかった。とにかく男が何らかの方法で胸に穴を開けられネズミと化して死んだ。
これは普通ではない。
アイシャは無意識のうちに小さく十字を切っていた。そんな自分に半ば自嘲気味に笑う。
もう神なんて信じていないのに。
ニャーオ。
猫の鳴き声にアイシャは言った。
「猫をネズミに近づけないで」
「あ、うん」
エンヤが足下にいた白い猫を捕まえる。ひょいと抱き上げると白い猫がニャーと不服そうに鳴いた。興味津々にネズミを見下ろしている。
……誰かいる。
直感的にアイシャは判じた。
心の内にいる「それ」が何かを知覚していた。いや「それ」がいなくてもこの異常事態を思えば何者かの存在を意識するのは当然だろう。
もしかして、契約者(リンカー)か?
アイシャは修道院でぶちのめした女を思い出す。
冷気の精霊と契約していた女。修道院のシスターたちを凍死させた襲撃者。
蘇った嫌な記憶をアイシャは頭を振って振り払う。
だが、可能性を考えるとないとは言い切れなかった。精霊と契約した者はまだ他にもいるはずだ。現に自分もまた契約者なのだから。
不安そうにエンヤが身を寄せてきた。
ふわりと季節の花を連想させる甘い匂いがアイシャを撫でる。
とくんと心臓が跳ねた。そんな自分に少し狼狽えてアイシャはエンヤと距離を取りたい衝動にかられる。それでも離れられない自分がいた。
エンヤの匂いと体温を感じながらアイシャは屈み込み、ネズミに手を伸ばす。
「えっ」とエンヤが驚く。
たしなめるような彼女の声が間近で続いた。
「ちょっと……ネズミに触る気?」
「ええ」
答えたアイシャの肩をエンヤが掴んだ。
白い猫がエンヤの腕から逃れる。すぐさま猫はネズミに近寄りくんくんと嗅ぎ始めた。
「クラナド、駄目よ」
エンヤが叱り、白い猫が振り返る。ニャーオと猫は一声鳴いた。批難めいてはいるが他にも何か訴えているようにも聞こえる。
エンヤが言った。
「誰か呼ばないと」
「どうして?」
「どうしてって……人が殺されたんだよ」
アイシャは名残惜しさを抱きつつもエンヤから身を離す。ネズミに目をやったまま告げた。
「もう人じゃない」
「そうだけど」
エンヤが白い猫をまた抱き上げた。
猫がニャーと鳴く。彼女が背中を撫でると気持ち良さそうに喉をゴロゴロさせた。目を細め、首を伸ばして彼女の首元に鼻を擦りつけてくる。
くすぐったそうにエンヤが短く笑った。
アイシャは再びまわりを見渡す。
通路に人はいなかった。この船に何人の乗員がいるのかわからないが不気味なくらい静かだ。
船が出港してからそれほど時間は経っていない。
アイシャはまずいと心の中でつぶやいた。
トラブルが生じたとなれば港に引き返すかもしれない。
それだけは避けたかった。憎むべき仇がいる星神島には何としても行かなければならない。足止めを食らうなんて御免だ。
拳を握る。
邪魔はさせない。
誰であろうと、関係があろうとなかろうと星神島への道を阻むというならそれは敵だ。絶対に放っておく訳にはいかない。
アイシャは唇を噛んだ。
ぶちのめす。
どんな相手であっても必ずぶちのめす。
殴って殴って殴り倒す。
誰にもあたしの邪魔はさせない!
「……アイシャ?」
戸惑った様子でエンヤが声をかけてくる。不安の上に僅かな恐れを表情に貼りつけていた。
アイシャは何も応えず彼女の腕を引いた。記憶を辿って船内にある食堂へと歩きだす。
「え、ちょっ、アイシャ?」
「ご飯、行くんでしょ?」
とにかくここにいても始まらない。
歩きながらアイシャは再度決意した。
絶対にこの船で星神島に行ってみせる!
*
食堂に向かう途中でアイシャは足を止めた。
さっきよりも船内が騒がしくなっている。カンカンと金属製の階段を駆け下りてきた船員たちとすれ違い、ダークスーツ姿の男たちに客室に戻るよう告げられた。
艦内放送が何事かを案じするかのように業務連絡を報じている。
「ど、どうしよう。戻る?」
エンヤの不安が強まっていた。
アイシャはじっと通路の奥を見つめた。まっすぐに伸びた通路に沿うようにパイプ状の手すりが続いている。天井には淡い光を放つ照明が等間隔に配置されている。いくつかある船室のドアはどれも閉じており、そのことが船の閉塞感を色濃く感じさせた。
ゴスッ!
背後で何かがぶつかるような音がした。
慌ててアイシャが振り向くとガガガッと鈍い金属音を響かせながら階段から男が転げ落ちてきた。
白地に青いラインのあるセーラー服姿の若い男だ。この船の乗組員である。苦痛に顔を歪ませあんぐりと口を開きながら何かを呻いていた。両手を胸に当てている。
仰向けに倒れた彼は声にならぬ声を発しつつ身悶えていた。
アイシャは迷わず彼に走り寄る。少し遅れてエンヤがついてきた。
「ああ……ああああっ!」
やはり胸に穴があった。
アイシャが階段の上に目をやると細身のシルエットが一瞬だけ見えた。男か女かまでは判別できない。身長は自分と同じくらいか。
アイシャは倒れている男を見下ろす。男の胸の穴から光が生まれていた。
「クラナド」
エンヤが抱いていた白い猫を放す。切迫した声音にアイシャは何かを感じた。そんな彼女にエンヤが言う。
「あのね……私、特別なの」
白い猫が男の傍で鼻をヒクヒクさせる。ほわりとその白い体躯を薄緑色に発光させた。