第42話 ティアーズフォーフィアーズ その2

文字数 2,723文字

「……シャ」

 誰かが呼んでいる。

 アイシャはその声に懐かしさを抱きながら目を開けた。

「アイシャ」

 間近に女性の顔があった。

 ほっそりとした輪郭の顔に薄い眉とぱっちりとした目、やや丸みのある鼻と小さな口がちょうど良いバランスで配置されている。ふわっとした黒髪に隠れるようにちょこんと耳が覗けていた。色白で年齢は三十代前半といったところ。少し不安そうな表情でアイシャを見ている。

 アイシャはその女性が誰かわかった。まだぼんやりとしながらも応える。

「お母……さん」

 ぱちぱちと目を瞬いてアイシャは一度深く呼吸した。重だるい身体を起こす。沈んでいた身体が浮かび上がるような感覚があった。クリーム色のソファーに寝ていたのだとようやく自覚した。

 ここは……リビング?

 蜃気楼の如く曖昧な記憶に何となく合致しそうなものがあった。大インチ画面のテレビや品のある薄茶色のローテーブル、家族の写真が並んだ飾り戸棚がジグソーパズルのピースのように欠けた部分を埋めていく。アイシャはまた目を瞬いた。自分がどこにいるのかを明確に意識する。

 そうだ、ここはあたしの家。

 五歳のときあの忌まわしい事件に遭遇したあたしの家だ。

 お腹にかけられたオレンジ色のブランケットをはがす。その手の小ささに自分でも驚いた。思わず両手で自らの頬に触れる。小さくなった顔のサイズに信じられない気分になった。

 慌てて母親のミーシャに首を向ける。

 アイシャが狼狽えているとミーシャが眉をひそめた。

「まだ寝ぼけてる? それとも夢見が悪かった? 何だかうなされていたみたいだけど」
「……」

 いや、むしろこっちが夢なのでは?

 そう思ったものの口にはしなかった。口にしてはいけないような気がした。

 廊下から足音。

 誰かがリビングに近づいてくる。

 歩き方がゆっくりだが機嫌を損ねているような感じだ。苛つきが足元から届きそうなくらい音を立てている。その歩き方には憶えがあった。

「ローゼンバーグの奴め」

 ぶつぶつ言いながら男がリビングに入ってくる。

 大学教授というよりはアメリカンフットボールの選手といったほうが良さそうな体格の男だ。ライトブラウンのスーツを着ていても筋肉の隆起がわかる。色黒ではないがそこそこに肌は日焼けしていた。後ろに撫でつけられた短い黒髪に手を伸ばしくしゃくしゃと乱している。

 いつもなら穏やかな玉子型の目が吊り上がっていた。薄く短い眉がその怒りに同調するように反り返っている。団子鼻の先まで赤くなっていた。

 すっかり下がった口角のせいで優しかった父こと高城シンイチロウはどこかへ消えてしまっている。

「あれほど身長に調査しなければ駄目だと言ったものを……何をそんなに急ぐ必要がある?」
「クリスがどうかしたの?」

 ミーシャがシンイチロウに聞きながらアイシャにブランケットをかけ直す。ポンポンとその上を軽く叩き「もうちょっと横になっていなさい」と付け加える。

「研究結果を早く見せろと騒いでいるんだ。アボイドにもプレッシャーをかけているらしい」
「まあ、そうなの」

 ネクタイを緩めスーツの上を脱ぐとシンイチロウはミーシャに渡す。一人がけのソファーにどさりと座った。苛立ちを絞り出すように盛大にため息を吐く。

「いくら向こうが研究資金を援助していてもこちらにはこちらのやり方があるんだ。それなのになぜああもせっついてくる」
「そうね。でも、クリスのおかげであなたも星神島に行けたんでしょ?」
「まあそれはそうだが。アボイドだけでは許可は下りなかっただろう。その点クリス・ローゼンバーグなら政府の高官にも顔が利く。島民よりも島外出身の大富豪のほうが話を通し易いというのは何とも不快ではあるが」
「不快なの? そりゃ、口出しされたら面白くないでしょうけど……」
「あの男は島の学校を買い取るとか言っていたよ。そのうち島そのものを買収しかねない貪欲さだ。しかも島の南部に建てた施設にはローゼンバーグの金が流れているそうじゃないか」

 アイシャは以前修道院で耳にしたことを思い出した。

 クリス・ローゼンバーグ。

 世界に名高い不動産王だ。総資産は北欧の国を一つ丸ごと買えるくらいあるという。それがどれだけの金額かアイシャには想像もつかなかった。

 そんな人が父の研究に金を出している。

「そういえば君は僕と付き合う前はローゼンバーグの秘書をしていたんだったな」
「ええ。それであなたのこともクリスに紹介したんだけどやっぱり迷惑だった?」

 ミーシャの問いにシンイチロウが首を横にする。会話を重ねるうちに落ち着いてきたのかしだいに表情が和らいできた。

 大学教授の父が仕事で渡米し母と出会ったという昔話はこれまでに何度となく聞かされていた。交際から半年も経たずに二人は結婚。日本に居を構えて新しい生活を始めた。

 兄のシンジは父の連れ子だがアイシャと妹のサーシャは母の実の子供だ。

「シンジとサーシャは?」
「二人とも子供部屋にいるわ。シンジったらサーシャに絵本を読んであげているうちに自分が寝ちゃって……まだ二人とも夢の中ね」

 両親の会話を聞きながらアイシャははっとした。

 そうだ、あたしは守らないといけない。

 家族を、両親や兄妹を守らなくては。

 ……今ならまだ間に合う。

「あ、あのっ!」

 アイシャが大声を発すると両親がそろって顔を向けた。ついぴくりと身体が震える。

 声を上げたはいいがどう言うべきかわからなかった。

 ただ単に「このままだと誰かに殺される」と告げたところで信じてはもらえまい。だいいちどうしてそれを自分が知っているのか説明しなければならなくなる。納得できるような言葉を持ち合わせてはいなかった。何を話しても荒唐無稽な気がする。

 まして殺されるだなんて……叱られるのがオチだ。

 でも、伝えないと。

 ここに居たら危ないって伝えないと。

 でないと皆殺されてしまう。

「アイシャ? どうしたの、お腹でも空いた?」
「そうじゃなくて……ねぇ、外に出ようよ」
「お出かけなら明日にしないか? お父さん疲れているんだ」

 シンイチロウが静かに応じる。

「もうちょっとしたらお夕飯にしましょう。シマダさんがあなたの好きなマカロニグラタンを作っておいてくれたわよ」
「おいおい、お母さんの手作りじゃなくて家政婦さんの手作りかい」
「ふふっ、だってシマダさんのほうが私より美味しいんですもの」

 ミーシャが笑い、つられるようにシンイチロウも笑う。

 とてもこれから殺される人たちのようには見えなかった。けれどもアイシャは確信していた。この後どうなるか。

 どうしよう。

 アイシャは小さな幸せを目にしていてなおそれすら守れそうにない自分に打ちのめされていた。
 
 
 
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