第23章・悲哀

文字数 6,602文字

 ティナは、暫くは(とこ)から離れてはならないと女療法師から言われた。それでなくては、まだ、子が流れてしまう可能性が高いというのだ。
 思った通り、ロルフは胎内の子の事には無関心な様子だった。それは有り難くもあった。この期間だけは、子はティナだけのものだ。産まれれば、男の子ならばすぐに引き離されるだろうし、女の子ならばロルフがその生死を決める。
 エリスの言うように、女はつまらなかった。
 全て男の言いなりである。嫁する前は父親や(ティナにはいなかったが)兄の、嫁しては良人の言葉は絶対であった。それを良しとしていた時もあった。それが当然だと思っていた。だが、自分の子にすら自由に会う事の出来ない今の状況は辛かった。
 床上げをしたら、スールの葬られている塚へ行こう。
 それだけは決めていた。冬の事とて手向ける花はなかったが、小さな二つの塚の傍らに作られたであろうスールの眠る場所を、この目で確認したかった。その死を、受け止めなくてはならなかった。そうしなければ、新たな生命を迎える事も躊躇ってしまう。スールを差し置いて愛する事が出来るのだろうかと思ってしまう。
 泣いてばかりいては身体に障ると、女療法師もオルトも言った。だが、ティナにとっては子供を亡くすのは初めての事であった。如何に多くの女達がそのような事を体験していると言われても、つい、思い出して涙に暮れてしまう。その事にきりを付ける為にも、スールの塚には行かなくてはならない。
 ロルフは常と変わらず無言であったが、その背中からは強い拒絶と憎悪が感じられるような気がした。ロルフは、つい居眠りをしてしまったティナを、やはり許す気はないのだ。ティナも自分が許せないのだから、それは当然でもあった。
 それと同時に、ティナは既に一度、ロルフが子を亡くしている事を思わずにはいられなかった。
 このように苦しく、哀しい思いを、ロルフは既に経験していたのだ。愛した妻の忘れ形見でもある子を亡くす、というのは、どれ程の悲嘆と苦痛を味わったのだろうか。一人の子を亡くしただけでも、ティナはもう、生きてはいけない心持ちがしていた。それを、一度に二人である。怒りに任せて中つ海まで乗り込んで来たのも、当然だと思われた。あの時のロルフは憤怒の化身のようであった。それが、この北海に帰ってからというもの、そのような感情は一切見せなくなった。それは、男としての族長としての矜持であったに違いない。
 どれ程辛かっただろうかと思う。ティナは、子供達の前に出られない位の酷い状態だ。それを、何もなかったかのように装っていたロルフは、本当はどれほど苦しんでいたのだろうか。今も、苦しみを抱えているに違いない。それが自分に向けられたからと言って、言い訳をする気持ちはティナにはなかった。眠り込んでしまったのは事実だ。それは否定のしようもない。その事で、ロルフは自分を許す事は一生ないであろうとティナは思った。
 それは、スールをロルフから奪ったのは自分だ、と認める事になる。あの飲んだくれの騎士のように、自分もロルフの逆鱗に触れてもおかしくはないのだ。
 やはり、自分はあの納屋で死ぬべきであったのだろうか。だが、胎の子の事を考えれば、助かって良かったのだ。そして、ロルフもそれを認めている。ティナを再び放り出さないという事は、子供が産まれるのを容認したという事なのだ。ならば、この子を産んだ後には、自分はお払い箱になっても不思議はない。中つ海に捨てられるのならば良い方だろう。この北海で放り出されれば、ティナは生きて行く事が出来ない。いや、子供達から引き離されて、生命長らえる事が出来るとは思えなかった。
 全てはロルフの胸の中にある。
 そして、ティナはそれに逆らう事は出来ない。
 苦痛と悲嘆の大きさを知ってしまったから、自分の責任の重さを知ったから。
 所詮は、子を産む為の道具であった。人格も意志も否定され、奴隷同様の暮らしであった。それでも、衣食住に不自由はなかったし、もうけた子供達は可愛かった。自分一人の生命ならば、どうなろうと構わなかった。だが、今は、生きる事を許された子がいる。その為にも、無事にその子を産む必要があった。そうでなければ、今度こそロルフはティナを弑するであろう。
 出来れば、子供達の心に傷は付けたくなかった。ロルフがティナを手に掛けたり捨てたりすれば、少なからずエリスとロロは衝撃を受けるだろう。だが、もし、出産に際して生命を落としたのならば――
 そういう事は、ロルフは考えているであろう。ティナは、それが毒杯であろうとも、ロルフの意に従う覚悟はあった。

    ※    ※    ※

 あの女に子供を近づけるなとオルトに伝えると、問いたげな様子を見せたが無言で命令に従った。だが、厄介なのはその後だった。
 エリスが、ロルフの許にやって来た。オルトにも奴隷にも、子供は大広間には入れるなと言い付けてあったのに、エリスはオルトの隙を狙って抜け出したらしい。
「お父さま、どういう事なのでしょうか」
 真っ直ぐに、エリスはロルフを見つめた。決して自分を恐れない娘を、ロルフは頼もしいと思ったが、父親に詰め寄るのは論外だ。
「私の決めた事だ。口出しは無用だ」
「でも、スールが亡くなって、お母さまも悲しんでいらっしゃるわ。それなのに、会ってはいけないって、どういう事なのでしょうか」
「具合が宜しくない」
 用意していた言葉を言った。それは本当の事だ。
「もし、流行病ならば、お前達に感染らぬとも限らない。大事を取っての事だ」
 納得がいかない、という顔でエリスは首を振った。
「でも、でも、もう、十日もお会いしていないわ。みんな、寂しがっているのよ」
「お前達に病を感染す可能性がある以上は、駄目だ。それは、あれの意志でもある」
 ぐっと何かをこらえるように、エリスは裳を握り締めた。
「なら、お元気になったら、お会いできるのね」
 まるで何かを知っているかのような幼い娘の物言いに、ロルフは少々愕いた。オルトが真実を話す事はない。ならば、この娘は、自分で考えて、そこには何かあるのではないかという結論に達したのであろうか。
「あれが望めばな」
 そう、あの女が子供達と会う事を拒否している事にすれば済んだ。子供を味方に出来ると思ったのならば、それは誤算だ。北海に於いては、父親の権限は絶対である。
 美しい娘。それだけではなく、聡い。後十年もしない内に、婚約の話が持ち上がるのは明らかだった。なるべく条件の良い、立派な男の許に嫁がせたいと思った。
「お母さまの具合は、そんなに良くないの」
「胎に子がいるからな」そう言った事もロルフは子供達に隠さなかった。「唯の病という訳ではない」
「今までは大丈夫だったわ」
「今までは今までだ。今回は訳が違う」
 ロルフは蜜酒を一口、飲んだ。
 その間をどう取ったのか、エリスは黙って俯いた。スールの事を考えているのかもしれない。
エリスは、姉としてスールの事を可愛がっていた。まるで小さな母親のようだとオルトも言っていた事を、ロルフは思い出した。慣れない手つきで、それでも真剣な顔でスールを抱いていた。エリスは良き母となるであろうと、その時思ったものだった。
「わかりました。でも、お母さまがよいとおっしゃったら、絶対に、教えてください」
「良いと言うかどうか、確約は出来かねるがな」
 なるべく希望を持たないようにする為に、ロルフはそう言った。このような遣り取りを数回続ければ、エリスも諦めるだろう。母親が自分達には会いたくはないのだと理解するだろう。そして、忘れる。
 大広間の戸口が開き、冷気が吹き込んできた。
「さあ、もう戻れ」
 ロルフはエリスに向かって手を振った。大人しく、エリスは子供部屋の方へ戻って行った。
 入って来たのは、集落の男達だった。集落での犠牲者の事を報告しに来たのだろう。最近は、ずっと死者の数ばかりを聞いている。殆どが幼い子供と老いた者であったが、若い者にまで広がって来ているようであった。他の集落でも、病は広がりつつあった。療法師の長の話では、体力のある者はともかく、弱い者から順に犠牲になって行くという。それは致し方のない事ではあったが、肝心の治療法については何とも心許なかった。このまま、死が猛威を振るうのを黙ってやり過ごすしかなさそうであった。
 ロルフは男達に頷いた。

    ※    ※    ※

 床上げが済んでも、ティナは族長室から出る事を許されなかった。今度は療法師の命ではなく、ロルフのだ。ただ、それに従う他はなかった。子供達が訊ねてくれないのを寂しく思いながら、日々を過ごすしかなかった。エリスさえも、来る事がなかった。
 時に部屋を訪うオルトに子供達の様子を訊ねた。そうすると、皆は元気だという返事が返ってくる。扉を開ければ、子供達にはすぐに会える。だが、それは許される事ではなかった。以前のように、ロルフの目を盗むようにして子供達と時間を過ごす事も出来なかった。もし、知られれば、相応の罰を覚悟しなければならないだろう。それはティナだけの話には留まるまい。オルトや奴隷にも累が及ぶのではないだろうか。ロルフの乳母であったオルトはともかくとして、ティナの城砦でもそうであったように、ここ北海でも奴隷の扱いは過酷なものであった。同じ中つ海の者である。余りに苛烈な扱いには目を閉じたくなる。
 奴隷ではなく、正妻としてここにいる事を感謝しなくてはならないのだろう。ロルフは、子供の身分を保障する為にティナを娶ったのだろうが、城主の娘としての暮らしに慣れたティナでは、奴隷としてひと冬も過ごせなかったであろう。
 この状態では、スールの塚へ行く事も出来なかった。それが気がかりだった。冥府への道に迷わぬようにと祈る事しか出来ない。母親として、自分はスールに何をしてあげただろうかと思う。だが、それを断ち切らなくてはならない。今は、産まれて来る子の事を考えなくてはならなかった。
 オルトや奴隷に頼んで持って来てもらった布で産着を作る。以前はオルトと共に用意した物を、今回は一人でする事になった。儀式用に刺繍を入れた物や、着替えも用意しなくてはならない。オルトは子守で忙しいであろうから、これはティナの仕事だった。エリスがいれば、手伝って貰う事も出来るのだろうが、そう甘えた事を思っても仕方がなかった。
 このような事をするのもこれが最後かもしれないと、一針ひと針、丁寧に刺して行く。女の子であったとしても、ロルフが生きる事を許してくれるように祈った。
 ロルフの考えは分からない。エリスを生かした事にしてもそうだ。美しい赤子であったのは確かだ。その為に族長として、いずれは他の族長の後継者に嫁がせようという心積もりがあったのだろうか。ティナも、弟が生まれなければ城砦の為に婿を取らねばならない身であったので、娘の利用価値というものは分かっている。この北海に於いては中つ海より極端で、娘は大して価値を持たない。働き手としても、跡取りとしても、息子が重宝される。ただ、中つ海では殺すという選択肢がないだけで、女相続人は婿を取って家督を継いで貰わなくてはならないので、価値としては同じかもしれない。
 ティナはひとつ、溜息をついた。
 この子が娘であったならば、ロルフはもう一人、息子を望むであろうか。長らえても仕方のない生命であったが、その為だけに生き続けるのは苦痛であった。だが、ロルフは最早、ティナの姿さえも見たくはないようだ。もう一人を望む事はないのではないかと思っていた。憎い女を抱いてまで、スールの代わりとなるような息子が欲しいものだろうか。それならば、さっさとティナを始末して新しい妻を迎えた方が良くはないだろうか。ロルフは別にティナの血など子には欲してはいないであろうから。
 一度でも、この北海で自分が必要とされた事があっただろうか。子供達は確かに懐いている。だが、それはオルトに対しても同じである。ティナが幼い頃は産みの母よりも乳母に懐いていたように、子供というものは、より長い時間を過ごす者に懐く。代わりは、幾らでもいるのだ。
 それなのに、ロルフはティナに何人も子を産ませた。男子二人で充分であったはずなのに。そこには少しくらいの情はあったのだろうか。一度も名前を呼ばれず、ただ、交わるだけの夫婦であった。それでも、少しは価値を見出していたのであろうか。
 そして、自分はロルフに対して情はあるのだろうか。その事については、一度も考えた事がなかった。ロルフは支配する者だった。ティナは支配される者。それは力と恐怖によるもの。そのような力関係で、支配される側に何らかの情が生まれるものなのだろうか。自分の中を探ってみても、ティナの心には何もなかった。城砦で愛したアーロンの面影は最早、遠くなってしまった。どのような顔立ちであったのかも、もう思い出せない。それは、本当の愛ではなかったのだろうか。アーロンの名を思い出す事は出来ても、あの頃に感じた情熱はそこにはなかった。
 自分はきっと、情の薄い人間なのだ。子供達の事にしても、簡単に諦めてしまえる、そんな酷薄な人間だったのだ。
 それでは誰からも愛される事がないのは当然だった。自分から誰かを愛した事など、本当にはなかったのだ。醒めた心しか持たない者に、情をかける者もいまい。
 その時、ティナの脳裏にはひとりの詩人(バルド)の姿が浮かんだ。だが、すぐにそれを振り払った。詩人とは夢を見る者。あの男は、ティナの中に理想を映し出したに過ぎない。
 心が、冷えた。
 それは、自分が招いた事なのだ。だから、誰も責める事は出来ない。死んだ心のままに、ティナはこの北海で生きて来たと思っていた。だが、かつて愛したはずの青年の顔すらも思い出せない程に、自分は薄情な人間であったのだ。ロルフに何かを期待をするのは、お門違いも良いところであった。
 馴染みのない髭も見慣れると、ロルフは金色の髪に青い眼をした、相当な美丈夫であると言っても良いであろう。選ばなくとも、幾らでも女の方から寄って行くような男だった。現に、今でも相手には不自由していないようであった。それが、二人の子が殺されるまでは後妻を娶ろうとはしなかったのは、余程、先の奥方を愛していたからなのだろう。
 ロルフは、本当は情に厚い人間なのだ。そうでなくして、どうして何年も亡くした奥方の事を忘れずにいるだろうか。子供の為には、母親がいた方が良い。それでも、ロルフは独り身を貫いていた。あのような痛ましい事件がなければ、今でもそうであったのかもしれないし、新しい愛を見出していたのかもしれない。結局、ティナはロルフの人生の乱入者でしかないのだ。
 ぽたりと、刺繍を施している布に涙が落ちた。
 誰の人生にとっても、自分は必要不可欠という訳ではなかったのだ。確かに、ティナがいなければ、今の子供達は産まれなかったであろう。だが、子供達の人生から自分が去っても、幼い今の内ならば大した影響は与えまい。それどころか、中つ海の母親を持つよりも、義理ではあっても北海の母に育てられた方が子供達は幸せになれるのではないだろうか。このような薄情な人間に育てられるよりはずっと、良いだろう。ロルフならば、ティナとの子も平等に可愛がってくれるような女性を選ぶであろうと思われた。ロロはロルフの跡取りである。それは、ティナが死のうが変わらない。北海では長子相続が絶対なのだ。ロルフがロロを可愛がり、跡取りであるという事を公言しているという点では、安心できる。決して言葉を違えるような人ではなかった。
 力と恐怖で支配されていたとしても、それは分かる。高座で隣に座し、部族の者の様子を見ていても皆がロルフを信頼し、心から忠誠を誓っている事は簡単に見て取れた。ただ、恐れているばかりではなかった。
 ロルフにならば、子供達の事は託せる。何の心配もない。憂うとすれば、エリスの行く末くらいだろう。ただの道具として使われるのではなく、本当の幸せを摑めるような相手を探してくれればと思う。考えようによっては、ロロ達が中つ海に掠奪行に向かう姿を見ずに済むだけ救いはあるのかもしれない。
 ティナの心は、死に向かっていた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み