第41章・母娘

文字数 10,256文字

 ティナには、ウーリックの言葉が理解できなかった。
 エリスと話を終えたサムルが詩人(バルド)に声を掛けた時にも、混乱していてまともに考える事もできなかった。。
 この詩人は、何を言っているのだろうか。それは、本当の話であろうか。
 それとも、これは何かの罠なのか。
 詩人は、正気なのか。
 余りにも現実離れした話であったし、信じる事ができずにいた。だが、ティナの知るウーリックは、人を欺いたり、ましてや陥れたりするような人物ではなかった。少なくとも、この島に滞在していた頃の詩人は、純粋で親切であった。長い放浪生活が、その本質を変えたとは思えなかった。
 詩人が歓迎されるのは、作る詩や語る物語が好まれるだけではなく、情報を運ぶからだ。オルトの話では、今回の集会での男達の目当ては、北海中に散った詩人の語るエリスを実際に目にする事であった。どこの娘が美しい、というのは唯論の事、どこの誰の家でどのような出来事があったかさえも、詩人は運んで行く。その為に、舌鋒の鋭い詩人は嫌われる事もあるのだという。
 それは、歌人(バード)とても変わらない。歌うのは愛や恋の物語ではあっても、醜聞や噂話をも運んで来る。それを楽しみにする者も多いのも、事実であった。
 しかし、ウーリックは醜聞を創り出そうというのではなさそうであった。
 その目には誠実な光があり、態度も真摯なものであった。どのような苛酷な年月がこの詩人に降りかかっていたとしても、本性というものが外見にも表れるのだとすれば、この男に荒んだところは見られなかった。
 エリスの婚約者――結納財の額を正式に決定するまでは求婚者のままであるらしいが、その男が小声でウーリックに何かを言い、詩人は頷いた。
「サムル殿の問題も無事に解決いたしたようですので、(わたくし)共は、これにて交渉に戻らせて頂きとう存じます」
 ティナは上の空で頷くしかなかった。何が何やら分からなかったし、どう反応すれば良いのかも、見当が付かなかった。
「では、これにて失礼(つかまつ)ります」詩人が言った。「どうぞ、私めの言葉を、お考えになって下さい」
 二人が去ると、ティナはようやく、息ができる気分であった。
「何か、あったの」
 エリスが不審そうに訊いて来た。だが、娘に聞かせる話ではなかった。
「あなたの方こそ、大丈夫でしたか」
 逆に問うと、エリスは肩を竦めた。
「大したことではなかったわ。わたしの承諾が必要だっただけよ」
 北海では、結婚については男が決め、女は何も言う事が出来ないと理解していた。あの男が何についてエリスに承諾を求めたのか、エリスはそれ以上は話そうとはしなかったし、ティナも追及しなかった。
 くすんだ金色の髪を後ろで一つに束ねた男であった。北海人らしく、独身であるのに、短く刈り込んであるとは言っても、顎髭を生やしていた。背丈や体格は、ごく普通だろう。服装もきちんとしていて、乱れたところはなかった。
 だが、それは飽くまでも、少しの時間しか接せぬ外見のみの事である。
 優しそう、とロロが評したように、男は穏やかな性格に見えた。エリスとも、静かに礼儀を持って話し合っているようであった。ティナに対しても、婚約者の母親に対する礼を尽くしているように思われた。
 あの男は、ティナが中つ海の人間であると知っているはずだ。母親が奴隷であったとしても、父親は戦士長であり、戦士として遠征にも参加をしているのだ。あの男にとっても、ティナは奴隷に過ぎないのではないだろうか。父親の下で育てられたのであれば、ロロ達のように、奴隷に対しても何の感情も(いだ)いてはいないのかもしれない。それとも、生まれを否定する為にエリスに求婚したのか。
「あの方が、あなたの婚約者なのね」
 ティナは、ようやくそれだけを言った。
「そうよ。サムル、という名前よ」
 大して気にしてはいないように、エリスは言った。
「あの方が、あなたに取り引きを持ちかけたのね」
 小狡い狐のような男かもしれない、と思った。見かけは完璧な求婚者であったが、中身は全く、窺わせない。人の心中(しんちゅう)にある事は喋らせても、自分は何一つ見せないのであろう。エリスのような若い娘を騙すのは簡単であろうが、ロルフや詩人、ヴァドルを欺いたのだとすれば、どのような方法を用いたのだろうか。
 もう少し時間があればその目を覗き込み、何らかの示唆を得られたのかもしれないが、男は、その隙を見せなかった。ますます、胡散臭さがティナの中で広がった。大体、結婚を取り引きだ、契約だと年若い娘に公言するような男は信用ならなかった。
「そうよ」
 エリスの答えは短かった。
「信用しているのね」
「誠実な人だとは思うわ」
 エリスは肩を竦めて刺繍を取り上げた。目は、ティナに向けない。関心がないのか、やましいところがあるからなのかは、分からなかった。だが、余りその話はしたくはないのだろうというのは明らかであった。親に婚約者の話をする事自体が、きまりが悪い気持ちは、ティナにも覚えがあった。それでも、きちんと話さなくてはならない。
「どのようなところが、誠実だと思ったの」
 刺繍の中断したところを検めながら、エリスは気がなさそうに答えた。
「家のことなんかを、結構、正直に話してくれるところかしら」
「どのようなことを、話して下さったの」
 溜息をついて、エリスは布を膝に置いた。
「どうして、そのようなことをお訊きになるの。結婚するのは、お母さまではないわ。それに、数年の辛抱よ、相手を知る必要なんて、ないわ」
 そうかもしれない。好奇心を持ちすぎだ、と思われているのかもしれない。今更、何も変えられないと知りながら、聞いて何をしようというのだろうか。自分でも良く分からなかったが、大切な娘を嫁に出す相手の事は、何を知っても充分とは言えないだろう。
「お父さまは、何も話してくださらないから――」
 その言葉だけが、口を出た。自分から訊こうとしなかったのも事実であるが、何よりも、ロルフに話す気がない以上は、訊ねても無駄だろう。ティナから声を掛ける事によって生じる、ロルフの感情も気になった。
「例え、しばらくの間であっても、あなたを預けることになるのですから、知っておきたいのは当然のことです」
 辛抱強くティナは言った。婚約者の口約束を信じている娘に、その危険性を分からせるには、こちらは感情的になってはいけなかった。飽くまで冷静に、平静を装っていなければならない。
「わたしは、知らなくてもかまわないわ」エリスは興味なさげに言った。「自分から話さないことを、知りたいとは思わないもの」
 娘の割り切った考えに、ティナは不安になった。望みのもの――エリスを手に入れて、あの男が態度を変えぬとは言い切れないと思った。そのような時に、相手の好悪を知っていて損はないだろうに。
「何という、お名前だったかしら」
 突然の登場に心騒ぎ、肝心な事を憶えていなかった。恥かしい事であった。心の動揺が、あの男に見透かされていなければ良いと思った。
「サムル。ヴェステインの子、サムルよ」
 中つ海では聞いた事のな奇妙な名であったが、北海では珍しくないのかもしれない。そういう事は多い。
「敬称を、付けなくてもよいの」ティナは娘をたしなめた。「あなたよりも、年上の方でしょう」
「お母さまと二人きりなのですもの、かまわないでしょう」エリスは刺繍に目を落としていたが、手は動いていなかった。「話というのはね、サムルは、あちらの家には奴隷がいないと言っていたの」
 北海であろうと中つ海であろうと、余程貧しい家でなければ、奴隷は使うものであった。城砦でも、ティナ達のような身分のある者の目に触れる事は殆どなかったが、最下層の仕事を請け負う者として、奴隷がいた。戦士長の家であるならば、使って当然であった。
「だから、わたしが供に奴隷を連れて行っても、置くことができないかもしれないのですって」
 それでは、エリスはどうなるのだろうか。族長の娘であるのに、最も卑しい仕事をせねばならないというのか。サムルという男は、一体、何を考えているのだろうか。
「お母さま」エリスがティナを見た。「お母さまは、この島にお一人でいらしたのでしょう」
 話が変わった事に、ティナは混乱した。今は、サムルとい男の家に奴隷がいない、という事を話していたのではないだろうか。
「サムルは、奴隷を置くことを父君が了承されない場合、わたしは一人で船に乗ることになるかもしれない、と言ったの」ティナの混乱に気付いたかのようにエリスが言った。「わたしは平気だ、と答えたのだけど、女の身では不自由することも多い、と言われたのだけれど、お母さまは、どう思われるの。どういったことが、不自由なの」
 ティナの脳裏に、この島に来る事になった経緯(いきさつ)が、甦った。
 弟の喉に刃を押し当てていた金色の髪と髭の男。
 


 男――ロルフはそう言った。
 エリスはサムルという男と、取り引きをした。サムルはロルフの後ろ盾と跡継ぎを、エリスは離婚の自由を欲して、互いに都合よく手に入れる事が出来るように、取り引きをしたのだ。
 自分達の場合、果たして、それが等分のものであるのかどうかは分からない。弟と妹達の生命の代わりに、ティナはこの島に来た。ロルフの亡くした二人の幼い子の生命を贖う為だ。新しい子供達をロルフに授け、その喪失を埋める為だった。
 だが、エリスは、違う。そのような取り引きをしてはならなかったのだ。絶対的に、エリスが不利であった。出産でエリスが生命を失うような事になっても、サムルは子さえ得れば良い。女子であろうと、ロルフはその子を護る為にサムルを支持しよう。難癖をつけられて離婚に至った場合であっても、エリスは子を手放さなくてはならない。
 失うものが、大きすぎる。子を失いたくないと思えば、エリスは離婚を思いとどまらざるを得ない。子が出来なければ、男が離婚に応じる事はないだろう。子のない事が、北海での法ではどのように規定されているのかはティナは知らなかったが、少なくとも、中つ海では男が望んだ限りにおいては、離婚は成立する。女が申し立てる事は出来ない。財産の心配のない男ならば、エリスを陥れて持参財を手に入れようという男であるならば、離婚を選ぶかもしれない。
 いずれの道を辿ろうとも、男の思惑通りだと思われた。
 この島に帰れたとしても、エリスはロルフの持ち駒として重要である。如何に、離婚した女は自分で相手を選べるのだ、とエリスが言おうが、ロルフが望めば、それとても確かなものではなくなろう。
「奴隷がいようがいまいが、わたしには変わりがないわ」
 エリスの呟きが、ティナの耳に入った。「結婚している間は、夫に隷従しなくてはならないのだから、それを免除してくれるのなら、喜んで働くわ」
 労働を、この子は分かってはいなかった。中つ海でも北海でも、労働をするのは身分の低い者だ。貧しいのではない限り、城砦の騎士や北海の戦士の妻や娘の身分にある女が、身体を使った仕事をする事はない。それは、卑しい事と忌避されていた。身分のある者に仕えるのはまた、別の話になる。この北海に於いてもロルフの館には戦士の未婚の娘達がオルトの許へ、行儀見習い、という名目で暫くの間、手伝いに来る事もあった。だが、それは飽くまでも名誉職だ。
 エリスの場合は、それとは全く事情が異なっている。厨房で指示し、様々な用事を奴隷に言いつけるのには慣れてはいても、実際に自分が身体を動かせた事はない。せいぜいが、ロルフの航海や冬用に堅焼き麺麭を作り、糸を紡いで布を織るくらいなものだろう。
「それが、どのように下賤な仕事であっても、ですか」
「わたしにとって、夫に仕える以上の屈辱はないわ」
 そう言うと、エリスは立ち上がった。「わたしは、お母さまのようにできるとは思わないの」
「わたしの、ように、ですか」
 ティナは愕いた。
「お母さまは、何でもお父さまのおっしゃるとおりになさるわ。まるで、お父さまの奴隷よ」娘の言葉に、ティナは傷付いた。だが、その事にも気付かぬ様子で。エリスは続けた。「どうして、お父さまに、今回のことをご自分からお訊ねにならないの」
 怒っているのでも、非難しているのでもないようであった。エリスは、事実を述べているに過ぎないのであろう。
「ご自分から、お動きになればいいのに。そうすれば、もっと、気もまぎれるわ。わたしのことばかりに、関わらなくてもよくなるのに」
 娘の言葉は、尤もであった。親とは、煩わしいものであるのも、理解できる。けれども、この娘は、ティナとロルフの関係を知らない。二人の間にあるのは、飽くまでも主従関係である。エリスは知らずに口にしたのであろうが、まさに、ティナはロルフの奴隷であった。
 自分から行動する事は、忘れてしまった。ロルフの意向に逆らわぬようにするのが、全てであった。その事を、娘に指摘されるのは辛かった。だが、そのようにしか生きて来なかったのは、事実である。否定はできない。
 エリスが、この婚約について話したくない気持ちが理解できない訳ではなかった。苛立つのも分かる。多くの年頃の娘のように、結婚をしたくて求婚者を待っていたのではないのだ。ロルフはこの一回で相手を決めろと言い、好意すら(いだ)いていない男を選ばざるを得なかった。しかも、取り引きという、(じょう)のない形で。
 それをさせたのは、自分とロルフの責任である。特に、自分の。もっとしっかりとして、頼りがいのある母親であったならば、エリスも軽率な決断を下さずに済んだはずだ。娘に、浅はかな事をさせたのは、自分だ。
 他に目を向けるような事項がなかったのも、確かである。エリスの弟達の事は、全てオルトと養育係に任せられていた。ティナが口を出す事は許されなかったし、誰も意見を訊こうとしなかった。北海では、必要以上に人と親しくはなれなかった。
 自分の生き方を、今更、反省しても始まらない。
「あなたは、もう決めてしまったのですから、そのことを、とやかく言うつもりはありません。ただ、わたしにも、知っておかなくてはならないこともあるのです」
 あのサムルという男の人となりを知るのは重要であった。ここに来てからは、人と接する機会も少なくなった自分だが、城砦では多くの人や話を知っていた。それが、少しでも役に立つならば、と思った。
「わたしも、同じよ、お母さま」エリスが言った。「一人で海を渡るのは、どういうものなのかを知りたいの」
「一人で海を渡るなど、お父さまがお許しにはなりませんよ」
 決して、ロルフは自分の娘に恥かしい思いはさせるまい。ティナに対しては平気であった事も、娘には経験させるまい。
「――場合によっては、そうなるかもしれないわ」
「オルトの話では、ヴァドルどのがあなたを送って行くそうね」ティナは思い出しながら言った。「ヴァドルどのも、あなたが一人で海を渡ることを許されないでしょう」
 今までに何人かの娘が他の島へ、またはこの島へ嫁入りするのを見た。船持ちではない家の娘も船を仕立ててもらい、ロルフに挨拶し、旅立ち、またはやって来て結婚式を執り行っていた。その誰もが、身の回りの世話をしたり家の用事をさせる為の奴隷を連れていた。それは、また、持参財の一部でもあるらしい。
「許すも許さないも、あちらでは必要ないとなれば、船に乗せるまでもないでしょう」エリスは眉をしかめた。まだ、体裁を整えるとはどういう意味なのかも知らないのだ。サムルの方は、恐らく、女の事情など知りもしないのであろう。「話によっては、あちらで農場から奴隷を引いて来るそうだし」
 家の仕事の件は、それで安心かもしれない。だが、族長の娘が男ばかりの船で単身行くのは、ティナとても承服できなかった。他の娘達は積荷船であったが、族長の娘ともなれば戦船(いくさぶね)――族長船と積荷船との二艘立てになるだろうと、オルトは話していた。数十人の男の中に、たった一人の女というのが、どれほど心細く、恥辱に満ちたものであるのかを、どうすれば、この娘は分かるだろうか。
「連れて行くだけで、いいの。お願いだから、一人で行くとは言わないでちょうだい」ティナは言った。「数日のことだからと思うかもしれないわ。戻る船で返してもかまわないわ。でも、誰も連れずに行くというのは、よくありません。相手のあることなのですから、慣例どおりにするのがよいと思います」
「サムルが、奴隷の子だという時点で、この結婚は慣例どおりにはいかないわ。それに、サムルの父君は、気になさらないと思うの」
「でも、族長にはご挨拶をして、式を執り行って頂かなくてはならないのですから、失礼にあたらないように、誤解されないように、慣例に従った方がいいわ」
「緑目どのは、弟君のご気性をよく、ご存知だと思うわ」エリスは言った。「それに、何を誤解するとおっしゃるの。誤解したい人には、そうさせればよいわ。わたしは、気にしないし」
 こういうところは、ロルフの娘であった。心が強く、自分の道を疑ってもみないのかもしれない。
「あなたは、まだ世慣れていないのですから、そのように思うのです」つい、言い方がきつくなってしまった。「お父さまのお許しにならないことを、してはなりません」
 エリスは不満なようであった。
 若いのであるから、仕方のない事かもしれない。ティナは、自分が世慣れているとは思わなかったが、それでも、娘一人を行かせる訳にはいかない事くらいは分かる。その理由一つひとつを娘に教えようとは思わなかった。話す方も聞く方も、きまりが悪くなるのは目に見えていた。
「確かに、あなたの結婚は慣例から外れているのかもしれません。でも、いいえ、だからこそ、慣例に厳格に従わなくてはならないこともあるのですよ」
 自分の言葉が娘の心には届いてはいないと、ティナには分かった。この結婚を、かりそめのものと考えているエリスにとり、建前や体裁は重要な事ではないのだろう。むしろ、煩わしいものでしかないのだと思った。
「これは、あなた達二人だけの話ではないのです。お父さまの名誉にも関わることなのですから、よくよく考えなくてはなりません」
 男達が名誉を如何に大切にしているのか、知らぬエリスではないだろう。生きるにあたっても、死ぬにあたっても、北海の男達は何かと名誉を口にする。それは、中つ海も変わらなかったが、直ぐに決闘へと発展しかねない程に熱くなるのは北海人であった。
「では、なぜ、お母さまはお一人でいらしたの。お母さまの父君の名誉は、どうだったの」
 エリスの言葉に、あの時の光景が甦った。
「お父さまが、望まれなかったからです」ティナはようやく言った。「あなたのお父さまが、わたしに供をつけることを望まれなかったからです」
 それは、偽りではない。ロルフは、北海にも侍女はいる、と言ったのだ。父が誰かを付けようとしたところで、侍女に拒否されてもおかしくはなかった。北海とは、そういう場所であった。如何に馴染みがないとは言っても、東方地域や北方地域へ行くのとは違う。だが、エリスが伴うのは、ティナとは異なり、騎士の妻や娘ではなく奴隷である。奴隷という意思を禁じられた身であれば、身分も扱いも、北海のどこへ行こうとも変わりはない。
「では、サムルと父君が望まれないのであれば、一人でもかまわないのね」
 なぜ、一人で行く事に娘がそれほど拘泥(こだわ)るのか、ティナには理解できなかった。エリスにはエリスなりの理由があるのだろうが、それを話すつもりもないようであった。
「あなたのお父さまが、許されるのであれば」
 そのような事は決して起こらないと分かって、ティナは答えた。
 エリスは複雑な表情で再び、ティナの横に座った。苛立ちは少しは治まったようであったが、納得はしていない顔だ。それはそうだろう。結局、ティナは決断をロルフに任せる他はなかったのだから、エリスの望む答えをしなかったのだから、不満はあるに決まっている。
 この娘は北海人に育った為に、中つ海の人間であるティナが、この地でどれほどの忍従を強いられてきたのかは想像できないようであった。その方が、良いのかもしれない。エリスにとっては母であっても、北海人にとっては自分は奴隷身分なのだ。如何に城砦の長子であったといっても、ここではそれは通じない。中つ海で王族であったとしても、北海人の目には奴隷にしか見えないのだろうと思った。
 意見を言う事だけではなく、意思を表す事さえも、ロルフの癇に障ると気付いてからは、全てを覆い隠してきた。昂然と頭を上げて生きて行こうとした時期もあったが、それもロルフの沈黙と無関心、そして暴力の前には潰えてしまった。
 ロルフの邪魔にならぬように生きる方が、楽であった。虚勢を張って生き続けるだけの気力もなかった。それは、ティナの弱さだった。エリスならば、意地でも弱みを見せないであろうと思うと、その強さを羨ましく思う反面、危うさも感じた。
 夫の暴力は、北海では女から離婚を申し立てる理由になるのだろうか。
 そうであるならば、サムルはエリスに暴力は振るわないのかもしれない。失うものが大すぎる。結婚しても、関係を無理強いする事もないかもしれないが、それでは、離婚の条件である男子を得る事は出来ない。
 果たして、エリスが男に自分の身を欲しいままにさせるだろうか。それが、結婚の、契約の肝心なところだと、エリスは知っているのだろうか。
 集落の娘達とも親しくする事のなかったエリスに、男女の事、夫婦の事を話す者はいなかったであろう。ましてや、オルトが話すとは思えない。裳着の儀式に際して、男と二人きりになってはいけない、くらいの事は言ったかもしれないが、それ以上の事を話したとは思えなかった。ティナにしたところで、ロルフと結婚するまでは、何も知らなかった。アーロンとの結婚までふた月あったので、その間に侍女か母が教えるつもりであったのかもしれないが、実際には、その時間はなかった。
 それを教えるのは、自分かオルトの役目だ。だが、自分に何が教えられるだろうか。エリスが無知なままにサムルとの取り引きに応じたのであれば、放置する訳にもいかない。知った時のエリスの衝撃を考えると、うかつに口にできるものでもなかった。
 中つ海の身分のある男のように、北海人の男が自由民なり奴隷なりの愛人を囲うのは珍しい事ではないと、ティナはこの島に来て暫くで気付いた。ロルフが、特定の女ではなかったとしても、関係を持っていた事も知っていた。それは、ハラルドが生まれると途絶えたようであったが、エリスに与える影響を考慮したからであろう。かつての自分だそうであったのと同じように、男女の事の全ては、この娘の目からは見えないようにされていたように思う。
 男と女が同じ寝床で眠るだけで子は出来ると、二人の間に愛情があれば神は子を授けて下さるのだと、信じていた。男の愛は、一人の女では満たされない故に、愛人を持つのだと思っていた。
 ティナが、侍女たちの言った、唇付けより先にある素晴らしい事の意味が分からなかったように、エリスも結婚については漠然とした印象しか持っていないかもしれない。そのような娘に、何をどのように教えれば良いのだろうか。オルトと相談を、自分は出来るであろうか。それとも、この、女にとっては大事な問題をもオルトに丸投げしてまうのか。
 だけど、思い出したくない。
 ティナは、冷たいものが身体を走り抜けるのを感じた。
 あの恐ろしい夜を、エリスに体験させる事は出来ない。サムルが契約締結の証としてエリスの身を求めた時に、娘は、自分を納得ずくで差し出すのだろうか。
 それが、政略結婚というものでもあるのだと、今のティナには分かっている。
 二人が確実に結ばれたという証拠に、オルトが翌朝、敷布を検めに来た意味も。ロルフとティナが正式に婚姻を果たす事によって、ロルフは城砦に対する復讐を放棄し、ティナに子を産ませるという条項の履行を進めた。男にとっては、それだけの事だったが、ティナの心には大きな傷を残した。恐怖と屈辱でしかなかった。
 結婚する二人の間に、何らかの正の感情があるのならば、この取り引きは生涯続く(えにし)となるかもしれない。それならば、この心配は杞憂となるだろうが、物事はそう上手くゆくとは思えなかった。現に、エリスは相手に対して興味を(いだ)いてはいない。それでは、好意も持ち得ないであろう。
 自分も、サムルという男を信用してはいない。興味はあるが、まだ、好意も抱いてはいない。
 それで、娘の幸せを信じる事が出来ようか。
 詩人の言葉のみでは、如何にも頼りなかった。
 ウーリックは、サムルは信じても良いと、ティナに受けあった。どのような事があろうとも、エリスを守り抜く覚悟のある人物だと言った。
 それを、どこまで信じても良いものなのだろうか。
 世慣れ、交渉に長けたロルフが、詩人の、サムルの言葉を容れたのだとすれば、自分もそうするべきなのだろうか。
 オルトは、なぜ、この契約についてロルフに沈黙を保っているのか。
 エリスの、またサムルの言葉を額面通りに受け取っても良いものなのだろうか。
 何もかもが、不透明であった。
 自分の身に起こったのと、同じ事が娘には起こってはならない。
 その一点しか、確かなものはなかった。
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