第46章・対話

文字数 11,041文字

 エリスは悄然として中庭に戻って行った。
 ヴァドルの話は長く、そして、想像以上に過酷なものであった。内容にしても、聴くにしても。
 茫然として、涙を拭う事も忘れたエリスに、ヴァドルは静かに言った。
 ――これが貴女の、知りたい、と望まれた事の真実ですよ。
 知らなければ良かったか、と問われれば、それでも、知った方が良かったと答えるであろう。知らねばならない事であった、と。
 もっと早くにこの事を知っていれば、何か変わっただろうか。
 少なくとも、弟達よりも先に知っていれば守る事はできたかもしれない。弟も、母も。
 しかし、どれも、もし、という仮定の話でしかない。
 知ってしまった以上は、もはや、元には戻れない。父への想いも、母への想いも、黙っていた弟達への感情も、全て変わってしまった。自分の足下の大地が崩れてしまうような感覚にさえ、陥った。
 ――誓いの通りに、もう、二度とこの事は口になさってはいけません。貴女がご存知である事を、族長や奥方様に知られてはなりません。何かを問われれば、輿入れ前で気が滅入っている、とか気が立っているのだと仰言っていただけますね。
 誰に対して、この話を出来るというのか。
 父の、母の傷を抉り、再び血を流させ、オルトを悩ませ、弟達を責める事など、出来ようはずがなかった。全ては、自分の心の中に秘めておかねばならない。そういう誓いを為した。いや、為さなくとも、口外できる問題ではなかった。
 ヴァドルを強要して語らせたのは、自分だ。
 どれ程辛い話であろうとも聞く、と言ったのは自分だ。
 自分の甘さを、世界の厳しさと神々の残酷さを知った思いだった。ヴァドルは全ての出来事の目撃者ではないと言ったが、丁寧に裏を取っていた。乳兄弟として、副官として知らねばならないと思ったに相違ない。父を、族長を支えて行く為に自分が立ち会わなかった場面の話を集め、口を閉ざし、陰でずっと、誰かが不用心に話を広げないように注意を怠らなかったのだろう。
 ヴァドルの心に、母や自分達、父の子らの事があったのかは分からない。最初は、純粋に父の為だけに動いていたのだろうとエリスは確信していた。母は、ヴァドルにとっても良い存在ではなかったはずだ。亡くなった二人の異母兄を、ヴァドルも愛しただろうから。だが、自分達を父が愛してくれたように、ヴァドルもまた、愛してくれた。その愛情故に、全てを隠していたのだと思った。
 ロロ達が真実を知っていたのはヴァドルにとっても衝撃であったようだが、それは、父の権力にも限りがある、という事ではないだろうか。ただの中つ海の者である以上の母を迎えた事を、快く思わなかった者がいなかったとは思えない。それが、父への反発となってどこかで燻り続けていたのではないか。成人した時に、ロロの相続に異議を唱える者が現れるのではないだろうか。
 法の点では父やヴァドルに抜かりはないだろうが、人心は違う。思い通りにならない事は、エリス自身が身を以て知っていた。
 ふらふらと、エリスは中庭への角を曲がった。とっくに帰ったと思っていたアズルが長椅子に座っている事に気付き、愕いた。
「姉上」
 アズルが立ち上がって走り寄って来た。そして、エリスを無言で抱き締めた。この聡い弟は、エリスが真実を知った事を悟ったようであった。
「大丈夫よ」弟の背を軽く叩き、エリスは静かに言った。「大丈夫」
「いいえ、大丈夫では、ありません」
 アズルは更に強くエリスを抱き締めた。その顔はエリスからは全く見えなかったが、弟の身体は僅かではあったが、震えていた。自分が、初めて両親の関係について聞いた時の事を思い出しているのかもしれないと、エリスは思った。十二の子供には過酷すぎる現実を、三人の弟達はどのようにして受け止めて来たのか。その話が、誇張したものではなかったと、誰が言えるのか。
「あなたたちと違って、わたしはいじめられたわけでも、嫌がらせをされたわけでもないから、大丈夫よ」
 そう言って、エリスはアズルの肩を摑み、自分から引き離した。
「ヴァドルは、正直に話してくれたわ」
「――父上、ではなく」
 アズルは父親譲りの青い目を伏せた。「当然、父上はお認めにはならなかったでしょう」
「ヴァドルの話では、今は、そういうことはないそうよ」
 再び繰り返されないという保証もない事も、エリスはヴァドルの言葉の端に読み取った。飽くまでも、今は、なのだ。アズルにもそれが通じたのか、小さく頷いた。
「姉上、貴女がサムル殿のところへいらっしゃるのを、我々は喜んでおります。この事は、私達にお任せいただけませんか」
 全てを見なかった事にして嫁に行け、とこの弟は言うのか。エリスは首を振った。
「それは、できないわ。お母さまは、これ以上、お父さまといてはいけないわ。あなたたちがいるとは言っても、戦士の館にいるのでは目が届かない。オルトに頼むのは、無理だわ。もう、齢なのですもの、負担はかけたくないの。一年、輿入れを延ばしてもられえれば、ロロが成人するわ」
「いけません」エリスの目を見て、アズルはきっぱりと否定した。「輿入れを延期するなど、できません。占いの結果を、覆してはなりません。それは、神意に背くことになります」
 そのくらいの事は分かっていた。だが、神罰を恐れて自分の無事を優先しても、良い事が起こるとは思えなかった。むしろ、母に害をなそうというのが神々のお考えであるのか。愛と婚姻の女神は、母の味方をしてくれぬのか。御前(みまえ)で誓いを為したとしても、中つ海の異教徒である母の事は守ってはくれないのであろうか。
「姉上は、約定通りにサムル殿の島へお行きください。大丈夫です、母上の事は、我々が守ります」
 十四歳の少年に、このような事を言わせるのは自分の責任だ。そう、エリスは思った。
 座りましょうか、とアズルは言い、長椅子に並んで座った。どちらとも言うことなく、両手を握り合った。暫く二人は黙ったままであったが、先に口を開いたのはアズルだった。
「短い間に、姉上の身には、余りにも多くの事が起こりました。混乱されるのも尤もだと思います」
「どうして、皆、わたしに黙っていたの」
 エリスはアズルの青い目を見る事ができなかった。
「姉上は、いずれこの島を出て行かれる身ですから――ロロ兄上が、決して姉上には知られないように、と。私も、それには賛成でしたし」
 十二の子供なりの、精一杯の気遣いであったのだろうが、エリスにとっては残酷な事だった。弟達も、父も、母も、ヴァドルも――オルトも、皆、上手く隠したものであったが、却ってエリスは傷付いた。周りの人間は、皆、知っていたのだ。それなのに、自分は一体、何を見ていたのだろうか。母を責めた事を、改めて後悔せずにはいられなかった。ぎりぎりと、胸が締め付けられた。
 秘密を守るのに、弟達はどれほど心を痛めたであろうか。
「ロロもオラヴも、お母さまのことが嫌いになったのだと思っていたわ」
「――避けておられたのだと思います」アズルの声は静かであった。「どうして、顔を合わせられましょうか。私が他の年長者達から聞かされたのは、それは酷い話でしたから」
「何を、聞いたの」
 その問いに、アズルは首を振った。
「お話ししたくはありません」
 アズルは俯き、エリスもまた、地面を見つめた。この弟に、話したくない事を吐かせるのは容易ではなかった。オラヴが最も与しやすかろうが、無理強いをするのは気が引けた。弟達は自分達なりに考え、決断したのだ。それを尊重してやらなければならない。エリスの心に納得できないものが残ろうとも、そのくらいの事は我慢ができる。
「わたしたちの、亡くなったお異母兄(にい)さまたちのことも、知っているのね」
 それが全ての始まりなのだから、アズルが知らないはずもなかった。しかし、エリスは沈黙には耐えられなかった。
「はい」
「あなたは、塚を見ても、それまで何も思わなかったの」
「触れてはいけないのだと、思っていました。私には記憶がありませんが、スールが、私のもう一人の弟が葬られている事は知っていました。父上は、いつでも、塚の前を通る時には厳しい顔をしておいででしたし、母上はお加減が悪そうでした。死者との関りを知らずとも、お二人が苦しんでいらっしゃる事は分かりましたから」
 姉上も、そうでしょう。そう言いたげにアズルはちらりとエリスを見た。
「わたしと違って、あなたたちはお母さまの傍に、それほどいた訳ではないでしょう」
「母上は、母上です」アズルは肩を竦めた。「いつでも、我々を見守っていて下さいましたし、抱き締めては頂けませんでしたが、それはオルトも同様でしたし」
「オルトは、あなたたちを抱き締めなかったの」
 それはエリスにとり、愕きであった。オルトは常に自分達を可愛がってくれたし、足元のおぼつかぬ間は弟達を抱いていたというのに。年齢が高かろうが、抱き締める事くらいはできたはずだ。
「父上やヴァドルはそうして下さいましたから、それは女性と男性の役割の違いなのだろうと思っていました。少なくとも、族長家では、そういうしきたりなのだと」
「愛情の面では、不自由はしなかったの」
「母上は、我々が泣く事も許して下さいましたし、慰めの言葉も掛けて下さいました。お身体が弱くいらっしゃるとロロ兄上からずっと言い聞かせられておりましたので、関りが少なくとも仕方がないと思っていました。膝に突っ伏して泣いても、背中を撫でて頂けましたし。父上やヴァドルの前では、泣く事すら許されませんでしたから。男は泣くな、と言われましたので。オルトは――優しくはありましたが、私の方にどこか、やはり、他人だという気持ちがあったのかもしれません」
 母の優しさは、弟達には伝わっていたのだ。
「本当は、ロロ兄上から忠告を受けてはいたのですが、実際に耳にすると、違うものですね。母上を抱き締め、大丈夫ですと伝えたいのに、きっと、母上は私達に知られたくはないはずだ、と思うと、どうしても、足は遠のくものです」
 アズルは相変わらず地面を見つめていたが、エリスは気にはならなかった。このような話を面と向かってするのは、何とはなしに気まずいものがあった。自分達の年若さ、力のなさを思い知らされるからだろうか、とエリスは思った。
「わたしに、できることはないの」
 はっとしたように、アズルがエリスを見た。父と同じ青い目を見るのは今はできない、と思っていたが、アズルの目は穏やかで冷たさの欠片もなかった。
「姉上は、ただ、母上を安心させて下さい。何も気付かなかったふりをして下さい。ご自分の結婚支度になるべく母上を巻き込んで下さい」
「お父さまは、どうすればいいの。わたしが知ってしまったことを、ご存知になったわ。ヴァドルの口から、あなたたちが知った事も出るかもしない」
 エリスは自分の浅慮と衝動とを恥じずにはいられなかった。父を詰問するのではなく、アズルと相談すべきであったのだ。如何に動揺していようとも、エリスは最年長であったし、とうに自分の行動に責任を持たねばならない年齢だった。
 それなのに、といつも遅くなってから思う。
「ヴァドル殿は、聞かれない限りは何も仰言らないと思いますよ」アズルには確信があるようであった。「この件は、私達にお任せください。ただ、何か他に動きがあった時には、必ず、姉上にお報せいたします」
 アズルはエリスの両手を自分の手で包み、ぎゅっと握った。十四歳ではあったが、武器や盾を持つ事に慣れた硬い掌をしている事に、エリスは気付いた。家族だけではない、他人との生活を送る事によって、この弟は自分よりも早く大人になったのだと思った。ロロもオラヴも、同じように精神的には自分を追い越してしまっているのだろうと、恥かしくなった。いつまでも年少だからと子供扱いをしてはならない。これからは、暫くの間かもしれないが、全てを弟達に任せなくてはならないのだ。

 その日の夕刻、エリスの許にロロが来た。
 奴隷を使いに立て、中庭まで来て欲しいと伝えてきた。
 十六にもになると、見習いとは言っても年長になる。多少の時間の都合はつくのかもしれないが、このように身を隠すようにして館に戻る事はなかっただけに、エリスは、あの話だとすぐに察した。
 果たして、一人中庭に佇むロロの顔は、今までに見た事がないほどに厳しかった。だが、その表情もエリスの姿を認めると消えた。
「姉上」ロロは胸に手を当てて軽く頭を下げた。「アズルから、聞きました」
 その表情からは何の感情も読み取れなかったが、努めて冷静を保っているようにも思われた。
 最も年齢の近い弟に対し、エリスは何も言う事ができなかった。自らの感情も制御できない自分が、何を言おうとも言い訳にか聞こえないと思った。
「大丈夫でいらっしゃいますか」
 心から心配をしているようなその言葉に、エリスは一度は乾いた涙が再び目に盛り上がって来るのを感じだ。駄目だ、泣いては、駄目だ。そう、自らを叱咤した。自分を律する事を、いい加減に覚えなくてはならない。弟達の、重荷になってはいけない。
「ええ、大丈夫よ」
 泣きそうになっていた事を悟られないようにと祈りながら言った。ロロは疑わしそうな目をしていたが、それ以上は追及しなかった。
「姉上に黙っておりました事、申し訳なく思っております」静かにロロは言った。「詳しい事は、既にアズルからお聞きになったとは存じますが」
 二年後には正戦士となり、族長の後継者として立つロロだった。言葉も口調も、一人前の戦士のものであった。自分は既に追い抜かれているのだな、とエリスは思わずにはいられなかった。ロロは、もう、大人だ。
 エリスは、父と同じ名を持つ弟を見つめた。髪と目の色は違えど、ロロは父に似ていた。それは、エリスにも似ている、という事だ。
「わたしが、浅慮だったのよ」
 自分が愚かである事を年下の者に認めるのは辛かった。本来ならば、賢明であらねばならないのに。
「ご自分を責めないでください」やはり、ロロは穏やかに言った。「アズルとオラヴと話しました。大丈夫です。皆、姉上の事は理解しております」
「どうして、あなたたちはわたしを許せるの」エリスは再び泣きそうになるのを耐えようと、唇を噛んだ。「わたしは、とんでもない

をしたのよ。もっと年若かったあなたたちが耐えたのに」
「――我々だって、全てを理解していた訳ではありませんでした」
「それでも、あなたたちは、お父さまに詰め寄ったりはしなかったわ」
 ロロの顔が曇った。
「われわれは、父上の族長としての顔も存じていますから。姉上は、裁定や法の執行の場には立ち会われた事はないでしょう」
 エリスははっとした。父は、決してそのような場にエリスを伴わなかった。弟達が供をするのを羨ましく思った事が何度もあった。終いには諦めたが、女の身であるから、というだけの理由に納得がいかなかったものだ。
「裁定や執行の時の父上は、子供心に恐ろしく見えたものです。常に冷静で、それでいて、恐ろしくありました」
 そのような父の顔に気付かずにいたのは、エリスばかりであったと思い知らされるような言葉であった。
「ハラルドは――」
「あの子は」ロロは笑みを浮かべた。「ハラルドは、まだまだ幼いですから、何も知りません。私自身を鑑みても、あの子は末っ子だからか、幼い。父上もそれをご存知でありましょうから、殊に可愛がっておられる」
 生まれた時に小さく、少し身体の弱かったハラルドを父が目をかけている事は分かっていた。
今は丈夫に育ってはいるが、公の場に父がハラルドを連れる事はなかった。だが、そろそろ、戦士の館に入る前準備として、それは始まるだろうとエリスは思った。その時、普段とは異なる父の姿に、ハラルドは何を思うのだろうか。
「あの子の事も、我々にお任せ願いませんか」
 エリスはぐっと拳を握り締めた。ここでも、自分は役立たずだ。
「戦士の館では、姉上が逐一ハラルドの面倒を見る訳にはいきません」エリスの心情を察したかのようにロロが言った。「私自身にしても、まだ見習いの身ですが」
「どうして、わたしに教えてくれなかったのかは、訊かないわ」エリスはアズルから聞いてずっと思っていた事を訊ねた。「でも、どうして、あなたはヴァドルに訴えなかったの」
 そうしていれば、オラヴもアズルも傷付かずに済んだのに。
 なじる質問であったが、どうしても知りたかった。戦士の館ではエリスは手出しができない。だが、ロロがヴァドルに度の過ぎた「新人いじめ」の事を報せていれば、また異なった結果になったのではないだろうかと思わずにはいられなかった。
 ロロは暫く困ったような顔になった。だが、エリスの目を見て、しっかりと答えた。
「十二歳の新人の身で、ヴァドル殿のような高位の方に話しかけるのは不可能なのです。口止めをされたのも事実ですが、例え私が白鷹ロルフの跡取りであろうとも、戦士の館へ入ってしまえば他の者と変わりません」
 族長の息子として暮らして来た弟達が置かれた環境を思うと、エリスの胸は痛んだ。ヴァドルの話では、父もヴァドルも「新人いじめ」を経験してきたという事であったが、過酷さが違うのではないかと思った。
「他の新人も、酷い事を言われておりました。まずは、戦士階級の生まれである、という特権意識を叩き潰す意味もあるのでしょう」
「ヴァドルは、心に痛手を負わせてはならない、と言ったわ」
「いつしか、それでは生ぬるいとなったのでしょうね」ロロは静かに言った。「私はヴァドル殿に賛成ですが、それでは物足りないという者もいるのです。自分が受けたものと同等か、それ以上の打撃を与えなくては気が済まない者も」
 それが男の、戦士の世界だというのか。エリスは腹が立った。たかが女、と馬鹿にするくせに、子供の心を潰すような蛮行がまかり通る世界なのか。
「ですから、ハラルドの事も、母上の事も、どうか我々にお任せ下さい」
「あなたが正戦士になるまで、二年あるわ。来年の夏までは、わたしがいるからお母さまのことは大丈夫だと思うわ。でも、次の一年をどうするの」
「私は、ヴァドル殿とオルトに任せようと思っています」
「あの二人は駄目よ」エリスは鋭く言った。「あの二人は、それがお父さまのご意思なら、何事であろうと黙っているわ」
 エリスには、母子で父に全てを捧げてきた、と言うヴァドルの言葉が忘れられなかった。乳兄弟であるとは、そこまでの関係であるのか。では、ハラルドの乳母にして養育係のウナも、戦士の未亡人と自由民の妻という違いはあれど、いずれはオルトのようになるのであろうか。人生を、自分の子ではない者にかけるのは、愛情なのか義務なのか、それとも独りよがりの忠義であるのか、エリスには分からない。だが、いずれにせよ、歪んだものを感じずにはいられなかった。
「ヴァドル殿が父上やオルトに、我々が既に真実を摑んでいる事を告げると思われますか」
 エリスは首を振った。ヴァドルは沈黙し、一人で奔走するだろう。ロロ達が既に誰かによって「何が起こったか」を知らされていると父が知れば、大変な事態になるかもしれない。それはヴァドルも避けたいだろう。故に、ハラルドは、ロロ達がされたような「酷い話」を聞く事はないかもしれない。
「姉上が島を去られたとしても、ヴァドル殿が我々の事を御存知であるならば、大丈夫ではないでしょうか」
「万が一、が恐ろしいの」
 もし、懸念しているような事態が起これば、自分はもう、父ともヴァドルとも顔を合わせる事はないだろうと思った。ロロ達がいようと、この島は自分の帰る場所ではなくなってしまう。不用であるからと簡単に人を排除してしまうような者とは、永遠に分かり合えないだろう。例え、それが父であろうとも。
「その時には――」ロロは僅かに眉をひそめた。「その時には、私達は父上に従うかどうかを問われる事になりましょう。ヴァドル殿は、それも考慮されると思いますが」
 そうであれば良い。だが、ロロ達が反抗したとして、何が変わるだろうか。その反抗は強いものであるだろうか。ロロも他の弟達も、強い父に憧憬の眼差しを向けていた。幼い頃のそういった思い出を乗り越える事ができるほどに、皆は母を愛しているのだろうか、と疑わずにはいられなかった。
「反抗するあなたたちを、お父さまは快く思われないかもしれないわ」
「そうであるならば、それも致し方のない事でしょう。父上は、まだ、子を――北海の女性との子を望めるお歳ですから」
 冷静に言い放つ弟に、エリスは愕いた。反抗する上には、廃嫡も恐れないというのか。もし、そうなれば、この島に自分達の生きる場所はなくなってしまう。サムルの望む後ろ盾さえも失う。そうなれば、サムルはエリスを簡単に捨てるだろう。
「お父さまは、あなたたちを可愛がっておられるわ」
「私も、父上を愛してはおりますよ」
 ロロは微笑んだ。だが、直ぐに真顔になった。
「それでも、容認できる事とできない事とは、あります」
「お母さまへの、愛なの」エリスは訊ねた。「それとも、人としての道の話なの」
「姉上がどのように感じていらっしゃいましょうとも、私には母上への愛があります。確かに、幼い頃は他の母親のように接して下さらないのを物足りなく思った事もあります。それも、お身体が弱くいらっしゃるからだ、というオルトの説明にも納得していました。しかし、十二になり、真実を知った時、母上なりに一生懸命にできる限りの事をして下さっていたのだと分かりました。そうでしょう。本来ならば、我々は母上に見向きされなくとも仕方のない存在ではなかったでしょうか」
 強制的に中つ海から連れて来られて望まぬ結婚、出産をした母。それでも、自分達にはできる範囲で愛情を注いでくれた。転べば手を差し伸べてくれた。今では、母が自分達に積極的に関わってこなかったのは、父からの命であった事を知った。もし、とは思っても時間は取り戻せないが、もし、その制限がなければ、自分達はもっと早くに真実に気付いていただろうか。両親の関係も、変わっていただろうか。
 エリスは唇を噛んだ。
「我々は、今までの生活を続けて行くしかないでしょう。父上の気持ちを母上から逸らす為にも、自分達に課せられた役割を精一杯、果たして行く他はないと思います」
 静かに言うロロの顔は、それでも、内心は平静でなはない事を示していた。苦悩が浮かび、父譲りの形の良い眉が更に寄せられた。
「だから、わたしは大人しく結婚しろと言うの」
 その言葉に、ロロは無言で頷いた。
 無理やり引っ張って行かれるのではない、納得ずくでであったが、自分の状況が母と大きく異なっているとは思わなかった。唯論、エリスに好いた男はいないが、それでも、結婚を強要される事には変わりはない。そこに、ロロの気持ちは向かないのだろう。男であるからか、それとも、エリスがサムルとの結婚を唯々(いい)として受け入れたと思っているのか。
「父上とても、サムル殿には家庭内の不和や揉め事は知られたくはないでしょう。全てを穏便に運ぼうと思えば、父上の注意が母上に向かぬようにするしかないと存じます」
 積極的に母を擁護する事はできない。
 そう、ロロは言うのか。
 放り出されたとしても、母は北海で生きて行く術を持たない。持参財を手に出来るのならば、ロロがヴァドルに諮ってひっそりと暮らせる手筈も整えてくれよう。それで安心せよと、ロロは言うのか。ロロの頼みをヴァドルは聞き入れてくれるかどうか、エリスには自信が持てなかった。
「ただ、静かに暮らす事だけを、わたしはお母さまに望むのではないわ」
 意を決してエリスは言った。
「お母さまには、お母さまなりの、人生があったはずよ。それを取り戻す事はできないけれど、せめて幸せになっていただきたいの。ここにいては――お父さまの傍にいては、それは叶えられないわ」
「この島を出ても、母上のいらっしゃる場所はありません」ロロは哀し気に首を振った。「父上が母上を離婚されても、サムル殿のところに厄介になる訳にはいかないのですよ。母上を貴女の所へ行かせるくらいならば、父上は――」
 その先は口に出すのも恐ろしい言葉であった。
「あなたは、お父さまがお母さまを解放されたとして、再婚なさると思うの」
 エリスはどうとでも取れるように「解放」という言葉を用いた。それをどのように解釈しようとも、ロロの自由だ。
「分かりません」ロロは首を振った。「私が成人すればまた、事情は変わります。そして、ハラルドが成人してしまえば、大きく変わるでしょう。ハラルドの成人にあっても、まだ父上には再婚は可能でしょう。しかし、その時には私が結婚しているかもしれませんから」
 ロロの結婚相手も父が決めるだろう。余程の事がなければ、ロロがそれを拒否する事はあるまい。それも、跡取りの義務であろうから。まだ成人せぬロロにとり、三年先であっても、それは遥かな未来に思えるだろう。
「お父さまの再婚は、あなたを跡取りとして、いえ、わたしたち全員を嫡子として認めない、ということなのよ」
「それが、父上のご意思であるならば、致し方のない事でしょう」エリスが拍子抜けするほどあっさりとロロは言った。「姉上の身の上には影響がないと思いますし」
 白鷹ロルフの後ろ盾を失った自分は、サムルにとっては価値のないものだと言いたかった。だが、これは二人の契約であり、ロロを巻き込む訳にはいかなかった。秘密を共有する者は少ないほど良い。
「姉上は、父上のお気に入りですし女子です。決して見限られる事はないと存じます」
 その言葉に、エリスは愕いた。ロロは、自分をそのように見ていたのか。
「唯論、それぞれに可愛がって頂いているとは思いますが、やはり、姉上は違います」
 エリスの心を読み取ったかのように、ロロは言った。
「女、だから――」
「そういう意味ではありませんよ。姉上は父上にとり、初めての、そして唯一の女子です。我々男は代わりがきくでしょうが、姉上は違います」
 代わりがきく――ロロは、自分の事をそう思っていたのだろうか、ずっと。自分達が亡くなった異母兄達の身代わりであり、自分に何かがあればオラヴが、オラヴに何かあればアズルに、とその地位と愛情とを譲り渡されてゆくものだと。
 思わず、エリスはロロを抱き締めた。既に自分よりも背が高く成長していたが、弟であった。
「あなたの代わりなど、いないわ。それは、お父さまにとっても、お母さまにとっても、同じよ」
「常に、父上や他の者の私を見る目は、誰かとの比較でありました。それに気付いたのは、戦士の館に入ってからです。仕方のないことですよ、父上の愛された奥方様の子供達と較べられるのは。そして、私は決して亡くなった方々には及ばないのです」
 永遠に成長しない子供達は、愛した者達にとり、いつまでも至高の存在であり続ける。それをロロはずっと黙って耐えてきたと言うのだろうか。自分を自分自身として認めては貰えぬ歯がゆさや不安は、馴染みの感情であったが、それは自分が男ではないからだと思っていたエリスは、恥じた。
 更に力を込めてエリスはロロを抱いた。ロロは、逆らわなかった。その事が余計に、エリスの心を締め付けた。
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