第59章・ヴァドル

文字数 12,297文字

「ロルフ様、お待ち下さい」
 その声に、ロルフは我に返った。自分がどこにいるのかを思い出すのに数回、瞬きをしなくてはならなかった。
 全てを話し終えて心の重荷が下りたのだろうか、オルトは速やかに眠りについた。老いた乳母の顔を暫く眺め、ロルフは無言でヴァドルの脇を通って部屋を辞去したのだった。一連の動作はふわふわとした夢の中のように頼りなく、全てが本当に起こったことだとは思えなかった。自分は一体、何を耳にしたのだろうか。夢を見ていたのか、それとも、現の出来事であったのか、それすらも危うかった。
 ヴァドルから声を掛けられて、体中の力が抜けて行くようだった。壁に肩を寄り掛からせ、ロルフは目を閉じた。現実を、受け止めねばならない。事実、自分は聞いたのだ。ヴァドルも、また――
 数月の差であっても、ヴァドルを兄のように思っていた。温厚なヴァドルに対し、激しやすい自分の性分を引け目に感じていたのだが、そのヴァドルが半分血の繋がった兄だというのか。
 そう、父も良くヴァドルを見習えと言ったものであった。ロルフに族長としての素質がないと分かれば、ヴァドルを跡継ぎとして指名すると言い放ったことすらあったほどの父が、自分を愛していたと信じろと。
「私は――私は、誓って、今の今まで知らずにおりました。どうぞ、母の申したことはお忘れになって下さい。私は貴方に忠誠を誓った部下であります。貴方の(うれ)いの種になるのは、私の望みではありません」
 ヴァドルの言葉は懇願するようであった。
 何を懇願しているのだろうかと、ロルフは不思議に思った。この男は何も悪くはない。知っていようが知るまいが、ヴァドルは子供の頃から常にロルフを陰で支えてくれた。父の跡を継いだ時にも、最初に忠誠を誓ったのはヴァドルだった。この男以上に信用できる者はいない。その心を疑う者があれば、ロルフは厳しく叱責したであろう。
(さき)の族長は、母の申しましたように(わたくし)のことは御存じありませんでしたでしょう。お疑いにもならなかったと思います。そうであったならば、私と母を傍近くに置かれることはなかったと存じます」
 オルトは、ロルフの父は真実を知らぬと言った。二人の男が同じような容貌であったのならば、疑う理由はどこにもなかろう。ましてや、父がオルトの夫が男ではなかったと知っていたのであれば(はな)から不義を疑い遠ざけたであろうし、憶えがなくとも生まれた子を見れば自分の胤だと分かったであろう。何にしても父にとっては生き延びる可能性の強い男子であったはずだ。弱く生まれたロルフよりも優遇した可能性も強い。オルトの処遇は如何にあろうとも、数月早く生まれたヴァドルを長子として傍に置いてもおかしくはなかった。族長の庶子であるのは、恥ではない。
 そうなっていれば、全てが異なっていたのだろう。正妻の子ではなくとも父は跡取りにヴァドルを選び、慕い続けていたエリシフさえも手に入れていたのだ。
 しかし、オルトはそれを望まなかった。
 あれほど愛したはずの父への気持ちは、夫の死の前に霧散してしまったとオルトは言った。自分の犯した罪の深さに、償いようのない生命の重さと責任の前には、愛や恋の入り込む隙などなかったと。そこへ以ての親しくしていたロルフの母の死――それを重く受け止めたのだ。
「私は、生まれる前に亡くなった人、ビョルニを父と思い、育ちました。それは、今後も変わらないでしょう。如何に不名誉な死であっても、母の言葉が真実であるならば、私は名義上であってもビョルニに生まれる事を許され、相続までもさせて貰ったのです。そのような人を否定することは、私にはできません。それに、前の族長は私にとり、飽くまでも族長であります」
 父とヴァドルの間にあったものは、親子の情ではなかった。どこまでも養い子と養い親の、他人の関係であった。だが、それを言うならば、父と自分の関係は如何なるものであったのか。
「お前が気に病む必要はない」ロルフはヴァドルを振り返らずに言った。「全ては、今まで通りだ」
 ロルフの言葉にもヴァドルが安心した様子はなく、猶も言葉を継いだ。
烏滸(おこ)がましくも私は、貴方を双子の片割れのように思って育ちました。貴方は、私の半身なのです。私は、貴方を失いたくはないのです」
 知らず、ロルフは笑みを浮かべていた。ヴァドルを振り返ると、その顔は薄暗がりに表情も定かではなかった。
「双子、というより、恋人のように言うのだな」
 揶揄(からか)っているのではなかった。ヴァドルの物言いは、まるで心変わりをしようとしている恋人に、捨てないでくれと涙ながら足に縋る女のようであった。動転したようなヴァドルを見るのは初めてであった。
「私は――私は、以前に認めましたように、エリシフ様をお慕い申し上げておりました」
 突然のヴァドルの言葉に、ロルフは目を(しばた)かせた。この母子(おやこ)は思考の飛躍という点では、実に良く似ていると思わずにはいられなかった。
「しかし、私は、貴方と争ってまでエリシフ様をこの手にしようとは思いませんでした。貴方は、競争相手が私であろうとも容赦はなさらなかったと思います。私の、エリシフ様への想いとは、所詮はその程度のものであったのです」
 なぜ、ヴァドルがそのことを話すのか、ロルフには全く理解ができなかった。誰がどれ程エリシフを愛していようとも、その想いはロルフに及びはしないであろうし、愛を争うエリシフは存在しない。今更、意味のないことだ。
「私は、貴方とエリシフ様と、どちらをもお慕いしております。貴方が愛されたからこそ、私もエリシフ様をお慕いしていたようなものです。貴方とエリシフ様と、どちらかを選ぶことなど考えもせず、お二人の幸福な姿こそが私の喜びでありました。貴方から何かを奪おうとは思ったことなど、決してございません」
 自分を遠ざけないでくれ、とヴァドルは懇願しているのだ。
 そのことに気付き、ロルフは頭を殴られたような衝撃を受けた。ヴァドルと距離を置くつもりは毛頭なかった。昔からヴァドルがエリシフを愛していると知っていながらも良き友として遇してきたように、これからも何も変わらないと思っていた。
 しかし、その考えは甘かったのかもしれない。
 自分達は同じ父親の血を引いている。このことは、決して他の者に知られてはならない。ロロ達の相続権を守ろうと思えば、父の血を受け継いだのは、ロルフ一人である必要があった。中つ海の女の血が半分入っている者よりも、部族は生粋の北海人であり先代の血を引くヴァドルを選ぼう。
「もとより、私は結婚をする気はありません。ただ、貴方と、貴方のご家族の幸せの側に置いて頂くだけで、私は幸福であるのです」
「お前は――」ロルフは静かに言った。「お前は、自分の家族を持とうと思ったことは一度もないのか。それは、未だエリシフを愛しているからなのか」
 ヴァドルは頷いた。
「私は、自分の血を繋ぐことに、興味は持てないのです。それが、一つの由緒ある家を潰すことになろうとも、その為だけに妻を迎え、子を得ようとは思いませんでした。そうしたいと思うような女もおりませんでしたし、自らの血を引く者を欲しいと思ったこともございません。数少ない貴方の血筋に連なるのですから、人は私に結婚を勧めた時もございましたが、愛情のない結婚がどのような結果を招くのかは、もうご存じでありましょう。結婚してから愛情は育むものだと申す者もおりますが、それは私には不可能です。エリシフ様を今でもお慕いしているばかりではございません。私のあのお方への気持ちは、愛と言うよりは崇拝でありました。私は、貴方の幸福の側にいつでもありたいのです」
 少し言葉を切り、ヴァドルは何かを心に決めたかのように目を閉じ、ゆっくりと開けた。その視線はロルフを捉えていた。
「誤解を恐れずに申し上げます」ヴァドルの声が低く重くなった。「私は、誰を最も愛するのか、と問われましたならば、貴方であると申し上げます」
 その言葉に、ロルフはぎょっとした。兄弟同様に育ったヴァドルが失寵を恐れるのは分かる。だが、愛という語は強い。
 慌てたようにヴァドルは言葉を継いだ。
「双子が互いに別ち難い絆で結ばれているのは、貴方もご存じでありましょう。それと同じように、私は貴方を愛しております」
 ロルフは沈黙した。
 その意味では、自分もヴァドルを愛していると言える。自分とは決して切り離せぬ、そこにいるのが当然の存在であった。思えば、三日以上顔を合わせぬ事はなかった。それは、友情とは違った、もっと深い繋がりだった。乳兄弟という以上のもの――実際の血の繋がりよりも強く、運命を共にする者に近いのかもしれない。
(わたし)には、お前をどうかしようという気持ちはない」ロルフは言った。「我々の関係は、決して変わらない」
「貴方にとり、(わたくし)の存在は脅威にならぬと仰言って下さいるのですか」
「お前の何が、脅威だと言うのか。お前は常に(わたし)の傍にいてくれた。陰でずっと支えていてくれた。我々は、人生を共に歩むものではなかったのか」
 人は、ロルフの寵が一人にあるのを快く思ってはいないかもしれないが、常にヴァドルはロルフにとり特別な存在であった。それが乳兄弟への偏愛ではないことくらいは、戦士達は知っていよう。海や人との戦いで背中を預け合える関係というのは、得難いものだ。また、実力と人望も兼ね備えたヴァドルであれば、誰が族長であったとしても重用するであろう。そうしないのは、自分よりも優れた者を認めようとしない心狭い(ひが)み者くらいだ。
 父は良くヴァドルを褒めていた。ヴァドルは子供の目から見ても大人びていて先を進む者であったが、ロルフはそれに対して妬みや羨望を抱いた事はない。気性の差はどうしようもないものであるし、引け目や口惜しさは感じたが、それは感情を抑制できぬ自分に非があるのは明らかであったからだ。族長として立とうと思えば、感情を別にして冷静に判断を下さねばならない事象も多くなる。ヴァドルは人情家ではあったが、感情の揺れ幅の大きいロルフに較べれば、何事にも公平な目を持つことができた。ロルフが激昂した際に宥められるのも、この男をおいて他にはない。
「だが、お前がこの家を継いでいれば、何もかもが違っただろうな」
 父からの愛情は二人とも受けなかったにしても、ロルフはヴァドルが兄であれば喜んで従ったであろう。
 ただ一つ、エリシフの事を除いては。
「この家を継がれるのは、どのみち貴方でありましたでしょう。私は二番目の位置が自分に最も相応しいと存じております。人の上に立つだけの器量は私にはありません」
 今も慕い続けているエリシフと一緒になる機会を自分から手放すというのかと、ロルフはヴァドルを凝視した。もし、ヴァドルがエリシフと結ばれることになっていれば、ロルフは後先考えずエリシフを連れてこの島を出たのかもしれない。エリシフは族長に恩があれば、ヴァドルとの結婚を受け入れたであろうし、それはロルフを狂わせていただろう。花嫁を奪って逃げれば、全島追放刑は(まぬが)れない。北海では生きては行けないのだ。中つ海に逃げることも思いつかなかったであろうし、追手に怯え、流離(さすら)う生活は、エリシフには無理であっただろうが、そこまで考えが及ばなかったに違いない。
 いや、ヴァドルであれば、ロルフの気持ちを(おもんばか)り、結婚の権利も族長の地位も譲ったに相違ない。
 そのような考えは、常に頭の隅にあった。
 父は常にロルフとヴァドルとを比較し、如何にロルフが至らない人間であるのかを諭し続けた。遠縁とはいえ、血の繋がりのあるヴァドルを、能力的に劣るロルフに換えて族長の地位に推すのは、父には可能であったはずだ。年若いとはいえ、ヴァドルを知る者達は父の決定を支持しただろう――正妻の子であるとの(ふだ)を持っていたとしても、ロルフは実力も人望もあるヴァドルの足下にも及ばない。それは見習いの代表の投票で身に染みた。だから、父はロルフが代表に決定するまで正式な跡取りとはしなかったのだ。ヴァドルには人の上に立つ意思はないと、確認して決めたのだろう。
「人は、お前こそ上に立つに相応しいと昔から見てきた。それでも、お前は権力を欲しないのか」
 跡目や財産、部族内での地位を巡っての争いは、醜いとも言えぬほど煩雑に起こる。誰かが死ねば、当然のようにその地位や財産を巡って血族が群がるのだ。ロルフとヴァドル、二人が腹違いの兄弟であると明らかになっておれば、必ずや何らかの騒動はあっただろう。
「私は、貴方と争う気は微塵もございません。むしろ、貴方の傍近くにお仕えし、貴方の剣とも楯ともなることこそが、私の望みです」
「それは、オルトにそう言い聞かせられてきた為に、思うようになったのではないか。自分の幸福や名声よりも私を優先するようにと」
 意地の悪い問いであると、ロルフは分かってはいたが、そう言わずにはいられなかった。
「いいえ、そうであったならば、自我の強くなる年頃には反抗も致しましたでしょう。私にとり、幸福とは貴方の幸福であり、名声とは貴方のお側近くにいつまでも仕えることなのです」
「それが、愛する女を諦めることになったとしてもか」
 つい、強い言葉が口をついて出た。
「私は、何も諦めてはおりません」ヴァドルは首を振った。「貴方とエリシフ様とが互いに幸福であることこそが、私の望みであり愛情であるのですから。貴方への愛とエリシフ様への愛と、どちらも選べなかった私は、貴方がたが幸福であれば、それで充分に幸せで満たされていたのです」
 ヴァドルの目はロルフが見つめていても揺らがず、それが、この男の真実であると信ずるには充分であった。
「私は、私なりの幸福を追求し、満たされておりました」
 その言葉に、ロルフは思わずヴァドルの左腕に手を伸ばした。自分より随分とごつい骨太な腕を摑み揺さぶったが、男はびくともしなかった.齢を経て、母に似てやや細身であったロルフもそれなりに貫禄が出てきたが、体格でもヴァドルには及ばない。生まれついてのものを羨んだり妬んだりしても仕方がないが、常に敵わぬという思いがあった。ヴァドルの心の広さ、全てを包み込む愛情を前にして、ロルフは打ちのめされた。
「貴方は、私にはない様々をお持ちです。一途な心、明朗な性格、愛するにも憎むにも北海のような貴方を、私が羨まなかったとお思いですか。常に物事を、人々をどこか醒めた目で見ている自分に引け目を感じていなかった訳ではありません」
 ロルフの心を読んだかのようなヴァドルに、互いに自分にないものを相手に見ていたのかもしれぬと、ロルフは思った。それを認めるのは非常に難しいことだった。互いに壮年であるから、長く共にいるからこそかもしれない。
 思わず、ロルフはヴァドルの肩に額を押し付けた。
「お前は、やはり、私の兄弟なのだな。その血が繋がっていようがいまいが、お前は私の半身だ。愛そうが憎もうが、決して私がお前を離すことはない。互いに思う幸せの形は違えど、私はおまえに幸福でいて欲しいのだ。お前が一人で老いて行く姿を、私は見ていたくはない。以前のようにこの館で暮らすことも、いずれは考えてもらいたい」
 暫くヴァドルは黙っていたが、やがてゆっくりとロルフの腕に自分の手を添えて言った。
「有難いお言葉です。しかし、私にとり、父はビョルニであります。他の誰も、私の父では有り得ません。母の話を聞き、そう強く思いました。あの家は、私が守るべきものなのです」
 ヴァドルは一息、置いた。
「なぜ、母があのような話をしたのだと思われますか」
 それは、ロルフにとっても疑問であった。エリシフの話は唯論(もちろん)、何もオルトが自分の恥を告白する必要はなかったのだ。過去の、心に引っかかっている全てを告白せずにはいられぬ心情であったのだとしても、そこにエリシフのことは関係がなかろう。
「母は――」ヴァドルはロルフの腕に添えた手を滑らせ、離した。「母は、貴方に知って頂きたかったのかもしれません」
 ヴァドルが腹違いの兄弟であったことをか。ロルフは一人ではないと知らせる為に、或いは、子の行く末を憂慮してのことか。母親としての気持ちは分からないでもない。そうでなくとも、ロルフはヴァドルを共に老いてゆく者だと心に思っていた。それをオルトが察せられなかったのかと思うと、ロルフには少しく悔しさが生じた。
「エリシフ様のご両親、貴方のご両親、そして、私の出生に纏わる話――勝手ながら、私はその全ては、今の奥方様と貴方に帰するのではないかと考えました」
 眉をひそめ、ロルフはヴァドルを見た。それに対しても、ヴァドルは淡々と話を続けた。
「愛情の形の話です。全ての話が、愛情に関わるものでした。エリシフ様のご両親は、如何なる非難を人から受けることになろうとも、共にあることを選ばれました。貴方の父君は、親の決めた相手を生涯愛し、守り続けられました。ビョルニは、自らを偽ってでも母を手に入れたいと思い、掌中の珠のように大切にしました。母は、幻想を愛し、現実を拒否し続けた挙句に全てを失いました。私は、毎日枕を並べていた相手がいなくなるのを寂しく思う気持ちも、ある種の愛情、愛着ではないかと思うのです」
 闇を更に濃くするような(ともしび)では、ヴァドルの表情の細かいところまでは定かではなかった。だが、声でロルフは判断することができた。長年の経験と感覚とで、ヴァドルが慎重に言葉を選んでいるのが分かる。
「そこに、貴方とエリシフ様との愛も入りましょう。互い同士だけで満ち足りた愛情を、貴方がたは抱いておられました。誰から見ても、貴方がたはお似合いでありました。貴方は言うに及ばず、エリシフ様も深く貴方を愛され、私は全てが不変であると信じて疑いませんでした」
 エリシフは、自分の両親のことをロルフに話したことはなかった。ロルフも、得た情報をエリシフに確認しなかった。言わぬことを追求しようとは思わなかったのもあるが、ロルフにとり、それはどうでも良いことであったのだ。
 だが、エリシフは自分との婚約と結婚をどのように捉えていたのだろうか。
 出会った時から、互いに好意(恋心、と呼ぶには早すぎた)を抱き合っていたのは事実だ。やがてそれが恋へ、愛へと進展していったのも。
 エリシフの中に、許されぬ愛を選び、戦士としての地位を失ったのみならず、中央集落より追放されて隠遁生活を送っていた両親の影が全くなかった訳ではあるまい。人々のエリシフを見る目は、決して温かなものではなかった。見習いの時にロルフは、売られた女と不忠者の娘を娶るのは族長家の血を穢す行為だ、正式な決定の前に拒否するのが次代の忠誠を得るには必要である、というような意味のことを言われた。そうでなければ人々はロルフではなく、親戚筋の中から最も相応しい者を選ぼう、そして、その者とはヴァドルであるかもしれぬ、と。
 族長としての地位かエリシフか。
 どちらかを選べと言われたならば、ロルフは躊躇いなくエリシフを取ったであろう。母親が、自由人でありながら奴隷よりも蔑まれる「売られた者」であったとしても、それは目の前にいるエリシフとは何の関連もなかった。エリシフはエリシフであった。
 だが、エリシフは。
 正当な地位からロルフが追われることを是とはしなかったに違いない。生きながらにして葬られる追放を命じられた両親が不幸ではなくとも、ロルフの未来を犠牲にして、エリシフが唯々(いい)としてそれを受け入れたとは思えなかった。
 ――わたしはあなたの鎖でいたくはありません。どうぞ、重荷に感ぜられるのであれば、そうおっしゃってください。将来に不安があるのでしたら、わたしは身を引きましょう。
 正式な婚約を前のエリシフが発した言葉は、自分が皆にどのように思われているのかを、ロルフの相続の妨げになる可能性をも知っていたからであったのか。強力な族長であった父の言葉に逆らうことのできる者はいなかった。だから、父が存命である限りは、皆はエリシフをロルフの妻として受け入れたであろうし、また、そうせざるを得なかっただろう。だが、父亡き後には、やはり不満は噴き出すだろうし、ロルフの立場も危うくなったのかもしれない。エリシフが父の養い子であっても常に一歩引いたところがあったのは、部族民からの無言の圧を感じていたからかもしれないと、ロルフは改めて思った。
 それでも、エリシフは族長の跡取りの妻としては期待以上の働きをした。結婚前には、族長の養い子として家族同様の権利と義務を負ってはいたが、エリシフは決してオルトより前に出ようとはしなかったし、むしろ行儀見習いに来た娘達よりも目立たぬ場所にいつもいた。結婚と同時に、オルトによって半ば強引に前に出させられたとの感はあったが、一家に他に女がいない以上は、エリシフは館の女主人だった。全ての鍵をオルトより渡された時のエリシフは、非常に頼りなく見えたものであったが、芯の強さが幸いした。少なくとも、人々の前では自信のなさを見せることはなかった。
 エリシフの細やかな気遣いはロルフと父ばかりではなく、部族の弱い者、小さい者、貧しい者にも向けられた。それが、第一歩であった。徐々に皆はエリシフを次の族長の妻、館の女主人として受け入れるようになったのだ。
 ふとした瞬間に、それでも、美しい灰色の目には憂愁が宿った。互いの愛に対する不安ではないことは分かっていた。幸福はいつかは失われるものと考えていたのか、それとも、自らの薄命を予感していたのか。
「貴方は愛されるにしても憎まれるにしても、激しすぎるのです」
 ヴァドルの言葉は静かであったが、ロルフの心臓は跳ね上がった。父にも、お前の感情には中庸というものはないのかと、何度も叱責されたことを思い出さずにはいられなかった。
「母は、愚かであったと思います。自分を愛している者の存在に最後まで無頓着で、自分もまた、相手を憎からず思っていたことにも気付かなかったのですから」
 確かに、オルトはビョルニに「うんざり」していたとは言ったが、「嫌いだ」とは一言も漏らさなかった。
「親の決めた結婚であれば、殆ど顔を合わさぬままに夫婦になる者も多うございます。離婚する者も確かにおりますが、それでも、愛の有る無しは朴念仁の私には全くの不明のことながら、生涯添い遂げ、片割れが儚くなった時には哀しみ、慟哭する者も少なくはありません。互いの存在に対する慣れなのかもしれませんが、それを愛と呼ぶことはできないでしょうか。家に、傍らにいるのが当然と思っていた存在に去られて、遅まきながら、自分の中の愛に気付くのではないでしょうか」
「何が言いたい」
 ロルフは唸った。
「貴方と、奥方様のことです」ヴァドルは言った。「貴方が中つ海の者を憎む心も、エリシフ様、お子達のことを等しく愛しておりました私には理解できます。。しかし、それは今の奥方様の為したことでもなければ関りのあることではございません」
 あの女が直接、殺しに関わっていないことくらいは分かっている。全ての罪を償うのは、だが、規律を配下に守らせることのできなかった領主の責務だ。跡継ぎを奪われたのであれば奪い返す。それが正当な裁きというものだろう。
 そこに割って入ったのが、あの女だった。
 向かい風に立ち向かう時のエリシフのような強い光の目をしていた。何もかもが異なっていたというのに、それだけは、ロルフが他の女には見ることがなかったものだ。
 弱々しい外見に反して、エリシフは強力な意志の持ち主であった。結婚に対して一瞬でもロルフが躊躇したならば、どれほど愛していようとも決して振り返ることなく去ったであろう女だった――頼りにしてくれて大丈夫だとロルフはエリシフに言い続けていたが、実際には頼っていたのはロルフの方であったのかもしれない。
 失われた者を取り戻したいと思ったのは、その時であったのか。望みどおりにロルフはエリシフと同じ目の光を持つ妻を手に入れたが、魂はエリシフではなかった。また、異なる女から得られる子達が、亡くした子供とは違うのは当然であった。
 それでも、ロルフは美しく生まれたエリスに魅了された。ロロには自身の名を与え、続く子達にも詩に謳われる勇士たちの名を授けた。慈しみ、鍛え、今や長子のエリスは手を離れようとしており、末のハラルドも十二歳を迎える。どの子とて大事にしなかったということはない。最初に儲けた二人に比して愛情が及ばなかったとも思わない。
「これ以上、あのお方を責めるのは酷だとは思し召されませんか。長く耐えてこられたのです。愛せよ、と申すのではありません。しかし、神の御前で結ばれた方であります。奥方様としての扱いをなさるべきです。どのような境遇にあろうと、あのお方が貴方を憎んではいらしゃらないことは、ご存じでありましょうに。それに、復讐は既に果たされております。そうはお考えにはなりませんか」
 あの女が自分の運命を粛々として受け入れていることも、ロルフは見ていた。抗ったところで、状況は好転するどころか悪化すだけだと女は理解したのだ。女の感情など、考えたこともない。
「島の者達も、貴方が奥方様を正当に遇していらっしゃるのを目にすれば、態度を変えましょう。お子達も順にお二人の手を離れます。母が全てを奥方様に委ねた今こそ、関係を見直される好機ではないでしょうか。愛情の有無はともかく、この島にあのお方を連れていらっしゃった貴方から、歩み寄るべきでありましょう。心開き、敬意を以て接すれば、困難や問題があろうとも、お二人で乗り越えることも可能かと存じます」
 かつて、あの女は北海に馴染もうとするかのように振舞っていた。積極的にロルフの世話をし、部族とも接しようとしていた。それを拒んだのは、ロルフだった。自分の頑なな態度が、どれ程の年月が経とうとも女が中つ海の人間であり、可愛らしい子供と年頃の娘が無残に殺された記憶を皆の心に呼び覚ましたに相違ない。
 ロルフは、殺人に関しては女個人を恨むものではなかった。
 だが、スールは違う。逝くと決まっていたものならば、せめて自分の腕で抱き、生命の消えるまでを愛情をこめて見つめていてやりたかった。あのように、一人で寂しくこの世を去らせるなど、決して許せることではない。
 あの冬、集落では毎日、何人もの人間が死んでいった。気付けば一家全員という事例も多々あった。老人と幼い者から、疫病で生命を落とした。
 スールはその中の一人だった。
 集落は死と嘆きの最中にあった――子を、親を亡くした哀しみと怨嗟の声が途絶えることはなく、ロルフもヴァドルも疲弊していた。オルトも子供達が病に罹らぬよう気を遣い、活力に満ちた子らを館に閉じ込めておくのに精力を尽くしていた。誰もが、自分の役割を必死に果たしていた中で、あの女がしたことはスールの世話のみではなかったか。
 生命には生命を以て償わせる。それを妨げたのはヴァドルだ。
「貴方にとり、最も許せぬのがスール様のことであるのは承知しております。しかし、それも母の申した通りです。貴方も私も、休息を全く取れなかった訳ではございません。誰も頼る者がおらず、子の看病で碌に休まずに疲れ切った母親達も目にしたではありませんか。子を亡くしたからと言って、そんな親を責める者がおりましたでしょうか。貴方も、慰めの言葉を掛けていらしたではありませんか。それが上辺だけの、本心からのものではなかったと申す者はおりますまい。もう、貴方も奥方様も、充分に苦しまれ、哀しまれました。もし、貴方がスール様の復讐として奥方様を処していらっしゃるのであれば、もう充分だとは思し召されませんか。新しい関係を構築する時が来ようとしているのだと、私は思います。お二人だけの人生が、いずれは始まりるのです。その時の為にも、どうか、前にお進み下さいますよう、私からお願い申し上げます」
 ロルフは無言でヴァドルを見つめた。この男が、ロルフの家庭内の事情に口を出すのは珍しいことであった。だが、人生を共にするというのであれば、ヴァドルがいるではないか。
「出過ぎた真似を致しておりますことは、重々、承知の上であります」ヴァドルは噛み締めるように言った。「しかし、私はもっと以前に和解をお勧めすべきであったと、後悔しております。そうしていたならば、エリス様のお心を傷つけることもなかったかと思うからです」
 エリス。
 そう、あの娘は、両親の間柄が尋常ではないことに気付いてしまった。自分達の仕種や言葉から、見抜かれてしまった。
 隠しおおせると思っていた自分の傲慢さに、ロルフはようやく気付いた。他の子達――殊にアズルの目を誤魔化しきることは不可能であろう。誰よりも聡いあの子は、違和感を感ずれば遠からず真実に辿り着くであろう。心優しくもあるアズルはその時、何を思うのか。
「私は、貴方の幸福を願っております。いつまでも哀しみと恨みに囚われていらっしゃる貴方を、亡き方々は望んではおられますまい。和解をお勧め致しますのは、皆様に成り代わってのことと思し召されませ」
 神々の許にいるエリシフやスールが自分を神々の園から見ているのか。そこに、父や母もいるのだろうか。父が自分を愛していたとは未だに信じられなかったが、同じ立場であったならば、自分も愛する心を封印するのを躊躇わなかっただろう。自らを不運のロルフなどと嘲ったことがあるものの、父の悲哀と孤独を思うと何とも大人げないと恥じ入るしかなかった。
 そして――エリシフは、ロルフが再び誰かを愛することを望んでいた。
 しかし、それはあの女ではない。日々を共にしようとも、心開くことなく今まで過ごして来た。ヴァドルは良いように取っていたが、真実はあの女の中にはロルフに対する恨みもあろうし憎しみもあろう。暴力で全てを奪った男に、それ以外の感情を持てるはずもない、とロルフは思った。最初から破滅しかない関係なのだ、何も望んではいなかった。互いに、憎悪以外の感情が介在する余地もない。
 ヴァドルの語るのは、世迷いごとにしか聞こえなかった。
 自分にはヴァドルと子供達がいれば、それで良い。
 ロルフは、無言でヴァドルに背を向けた。

 一度も目を醒ませることなくオルトが逝ったのは、それから二日後のことであった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み