第44章・詰問

文字数 11,027文字

 エリスは大広間に父の姿を探したが、そこには書き物と格闘しているヴァドルがいるばかりであった。恐らくは、サムルの結納財とエリスの持参財の均衡について考え込んでいるのであろう、完全に没頭しているヴァドルは、エリスが入って来た事にも気付かぬようであった。
「お父さまは、どこ」
 思いがけず冷たくなったエリスの言葉に、ヴァドルは頭を上げた。僅かに眉がひそめられていた。
「エリス様、族長は今、鷹小屋にいらっしゃいます」
 それは、今は邪魔をしてはいけない、という意味でもあった。異名の元となった白鷹の飼育小屋は、父にとっての個人的な場所だった。
 ヴァドルも、当然、全てを知っているのだ。
 そう思うと、エリスは、生まれた時から知っているこの男、ずっと信頼してきたこの男にすら、嫌悪を抱いた。理不尽な事かもしれない。族長である父には、例え乳兄弟であっても、意見はできても、逆らう事は許されない。
 エリスは無言で大広間を後にした。背後から、ヴァドルの警告するような声がしたが、無視した。今は、父への要件の方が先だ。それから、ヴァドルを問い詰めよう。そう、思った。
 鷹小屋の前へ行くと、父は白地に黒い斑点のある大きな鷹を小屋に戻すところであった。
「お父さま」
 エリスは声をかけた。自分の声が硬く、冷たい事に気付いたが、どうする事もできなかった。
 父は振り向き、エリスの姿を認めると眉を寄せた。邪魔はされたくない、という顔であった。だが、それに怯むようでは、この要件は終わらないと思った。
「何だ」
 鷹の大きく鋭い爪から手を守る為の籠手を外しながら、不機嫌な声で問われた。
「お話があります」
 面倒な、と言いたげな溜息が父の口から漏れた。結納財を納める日までに決めねばならない事が多いのは分かっている。それが父を煩わせている事も、充分に承知している。だが、これは、それよりも重大な事案であった。自分の中の家族の根底が問われているのだ。
 籠手を外して革帯に挟むと、ロルフはエリスに向き直った。真剣で深刻な話があると、伝わったようであった。
「サムル殿の事か、婚約の事か」
 父の頭には、自分はその事しか考えていないように見えるのだろうか。エリスは思った。それはもう、終わった事だ。後は粛々と、父の知らぬであろう(はかりごと)の達成を待つばかりである。
「いいえ、そのようなことではありません」
 大きく息を吐き、落ち着け、と心を鎮めた。感情的になっても、良い事がないのは経験済みだ。そうなれば、父は自分を相手にはしないだろう。話を聞かず、エリスが荒れるがままに放置するだろう。
 父の顔が曇るのが分かった。何も心当たりはないのだろう。何も知らないと、何も明るみに出てはいないと高を括っているのか。
「申せ」
 いつもの、短い言葉が返ってきた。
「お父さまは、お母さまに暴力を振るわれていたのですね」
 声が震えた。それは、父に対する恐怖ではなく、怒りであった。
 父の形のよい――自分や兄弟によく似た眉が跳ね上がった。想定外の言葉であったのだろう。
「お答えください」
 青い目をしっかりと見つめて言った。父親だからといって、逃がす訳にはいかなかった。はぐらかそうとしても無駄であると、分からせたかった。
「エリス様、お止め下さい」
 追いかけて来たヴァドルが、二人の間に割って入った。その顔は血の気を失い、懇願するような口調であった。
 エリスはヴァドルに目を移さなかった。ただ、父だけを見てた。知っていて放置していたのならば、ヴァドルも同罪だ。
「あの女が、そう言ったのか」
 冷たい声だった。今の今まで聞いた事のない冷酷で人間味のない声音に、エリスはもう少しで父に詰め寄った事を後悔しそうになった。初めて父に、恐怖を感じた。敵に、犯罪者に死を宣告する際には、このように無表情に言い渡して来たのではないだろうか。それは、エリスの知らぬ父の姿でもあった。
「いいえ」ようやくの事で踏み(とど)まりながら、エリスは言った。「いいえ」
 ここを(あやま)たれると大変な事になると、頭の中で声がした。
「では、何故、そう思う」
 今、自分が対峙しているのは父ではないと、エリスは思った。ここにいるのは、恐るべき北海の族長であった。父が如何に強権的な家長、族長であっても、これほどまでに恐ろしく感じた事はなかった。これが、対外的な顔であるのか、母から見る父は、このようであるのかと戦慄せずにはいられなかった。
「答えを、ください」
 エリスは何とか言った。ヴァドルがエリスの肩に手を置き、押しやろうとした。それに抵抗しながらも、目は離さなかった。
「エリスさま、いけまぜん」
 ヴァドルの大きな身体が、エリスから父を隠した。そのまま後ろを向かされ、鷹小屋より離された。悔しかったが、女のエリスではヴァドルの力には勝てなかった。振り返って見た父の顔は相変わらず何の表情も浮かべてはいなかったが、目は、じっとエリスに据えられていた。徐々に遠ざかる姿に、エリスは自分の見当が外れてはいない事を確信した。
 馬小屋の近くで、充分に距離を置いたと思ったのか、ヴァドルの力が緩んだ。エリスはその腕を振りほどき、ヴァドルを睨んだ。
「あなたも、知っていたのね、ヴァドル」
 自分の声が険しいだけではなく、憎しみさえもこもっている事にエリスは気付いた。ぐっと手を握り締め、ヴァドルの胸を一つ、叩いた。柄の大きな男はそれにはびくともせず、どこか哀しい目でエリスを見下ろしていた。それが憐れみのように思えて、エリスは苛立ちを募らせた。


 そう、強くエリスが言うと、ヴァドルは一つ、大きな溜息をついた。
「知って、どうなさるのです」
 静かな声だった。
「過去を、死者を掘り起こしても何も変わりはしませんし、貴女が後悔なさるだけです」
「変わるかもしれないわ」
 その言葉にも、ヴァドルは首を振った。
「悪い方に、かもしれません」
「そんなことは、させないわ」
 エリスは怒りに震えて言った。絶対に、そのような事態は許しはしない。
「貴女がいらっしゃる間は、出来るかもしれません。しかし、来夏にはどうなさるのですか」
「ロロがいるわ。オラヴもアズルも」
「ロロ様は、まだ見習いでいらっしゃる。如何にご長男とはいえ、権限はお持ちではありません。その意味は、お分かりでしょうか」
 徐々に、冷たいものがエリスの身を包んでいった。すっかりと冷え切るまでに、エリスはぶるっと身を振るわせた。
 ロロが成人するまでの一年の間に恐ろしい事が起こるかもしれないと、ヴァドルは示唆しているのだ。だが、それは考えたくなかった。如何に族長が絶対的な権力であっても、有り得ないと思いたかった。自分の激情に流された浅はかな行動を後悔した。これでは、事態を悪い方向へと向かわせてしまっただけではないか。
「貴女が知ろうとしているのは、そういう類の事なのです」
 ヴァドルはまるで、聞き分けのない子供に言い聞かせるようにエリスに語りかけていた。「宜しいですか、決して、決して、他の者には訊ねてはなりません」
「でも、あなたは、知っていたのね」
 エリスは念を押した。ヴァドルが知っているならば、オルトも知っている。
 無言で、ヴァドルはエリスを見つめていた。
「ロロも――オラヴもアズルも知っているわ」
 その言葉に、さっとヴァドルの顔色が変わった。
「いいえ、それだけじゃないわ、他の人も、とうに知っているのよ」
「私の耳には、届いてはおりません」表情が硬くなった。飽くまでも、ヴァドルは認めようとしないのだ。「私を罠に仕掛けようなどと、お思いにはならないで下さい」
「あなたは、全てを知っている訳ではないわ」エリスは皮肉を込めて言った。「お父さまの副官であるあなたが聞いているようなところで、そのような話をする訳がないわ」
「では、誰が申したのか仰言って下さい。私が、直々に確認いたしましょう」
「認めるとでも思っているの」エリスは笑った。年長者を嘲るような真似はしてはいけない事は重々承知だ。だが、止められなかった。「あなたの耳に入れば、お父さまも知るわ。そんな危険を、冒すような人がいると思っているの」
「貴女は、証拠をお持ちではないのでしょう」ヴァドルは静かに言った。「それでは、貴女の言葉を信用する事はできません」
 話をそちらに持って行って、はぐらかそうというのか。エリスは思った。絶対に、認めさせなくてはならない。父は、エリスが気付いた事を知ってしまった。このまま放置しておいて良い問題ではない。自分がこの島を去った後に起る事を思えば、安心はできない。
「アズルは、新人いじめで言われた、と証言できるわ。あの子は、お母さまが中つ海の人間である事も、とっくに知っていたわ」
 ヴァドルの顔から血の気が引き、また戻った。唇は固く引き結ばれており、握りしめた拳は微かに震えていた。
 怒っている。それも、心底。
 エリスは、この男が怒ったところを見た事がなかった。それでも、ヴァドルはまだ、その怒りを抑えている。エリスに見せぬようにしている。
「お父さまが、皆に口外しないようにと言ったのかもしれない。あなたが、言ったのかもしれない。それでも、いずれは族長の跡取りとなる者にさえ、そういう事をする者はいるのよ」
 族長家の係累は、既に血の遠い者しか存在しない。だが、ロロの生まれを盾に反抗する者がいないとも限らないのだという事を、エリスはヴァドルに語りながら気付いた。自分達の地位も、父が健在であればこそのものだ。サムルと同じく、不安定な土台の上にいる事に変わりはない。
「新人いじめの悪しき伝統がある事は、私も承知しております。私もロルフ殿も、かつてはその対象でありましたから。しかし、そのような事を口にされたのであれば、ロロ殿にしろ誰にしろ、私の許へ報告に来るべきです」
「あなたは、叔父のような存在だわ」エリスは少し落ち着いて言った。「でも、父の片腕である事に変わりはないの。見習いになったあの子達にとっては、何でも話せる相手ではなくなったのでしょう」
 ヴァドルを傷付けるかもしれないとは、エリスは思ったが、言わずにはいられなかった。何も知らずに無邪気でいられた頃と、見習いとして大人への一歩を踏み出した後とでは、ヴァドルの地位も変わるのだろう。現に、年上の者への礼儀とは言え、弟達はヴァドルを敬称で呼ぶ。心の中で、一線を引いたのだ。弟達にとり、もはや、ヴァドルは気軽に話しかけても良い存在ではない。
「そうであっても、です。新人いじめとは申しましても、それは悪ふざけの域を出てはならないものです。人の心に痛手を負わせてはならないのです」
「守られてはいないわ」
 ヴァドルの顔の蔭りは濃く、深くなっていった。この男も、何かしらの痛手を負ったのだろうか、とエリスは不思議に思った。ヴァドルの過去に、そのような出来事があったとは思えなかった。控えめな人ではあっても、陰など見せた事はなかった。
 しかし、自分が見ているものが全てではない事を、知ってしまった。集落の人々の自分を見る憐れみの目は、母が中つ海の者である以上の事を示していた可能性も高くなった。父の、母への態度の背後にある暗黒も知った。何を信じれば良いのだろうか。せめて、ヴァドルばかりは真実を述べて欲しかった。
 ヴァドルの肩が落ち、憤りをこらえていた身体から、ふっと力が抜けた。感情の山を乗り越えたようであった。
「貴女は十七歳です。年若くはありますが、それでも、大人です。聞き分ける事も、必要です」その言葉は穏やかであったが、強い命令でもあるとエリスは感じた。「貴女にとり、貴女のこれからの人生にとり、良い影響を及ぼさぬと年長である私が申し上げるのです。お引きください」
 父がどのような行動に出るか分からぬ今となっては、止める訳にはいなかった。
「では、あなたが、お母さまを守ってくれると言うの」
 エリスはヴァドルを見つめて言った。「わたしの代わりに、ロロが成人するまで、あなたは、お母さまを守ってはくれないの。これまでと同じく、見なかったこと、なかったこと、知らなかったことに、してしまうつもりなの」
 ヴァドルの表情が硬くなった。
「私が、一度も奥方様をお守りした事がなかったとでも、お思いですか」
 二人は睨み合った。
「何が、あったの」ゆっくりと、エリスは言った。「そんなことで納得するような、引くようなわたしではないことは、あなたは承知しているでしょう」
「何を知ろうとも、貴女はもう、後戻りはできないのです。サムル殿との結婚も、なかった事にはできないのです。その事は、お分かりですか」
「お父さまは、わたしが知ってしまったことを、ご存知になったわ。それは、わたしの軽率さがもたらしたことだけど、わたしは、その責任を取らなくてはならないわ」
 二人の会話は噛み合わなかったが、それでも、エリスは自分の思いを全て言い切ってしまわなくては気が済まなかった。ヴァドルの言葉は、真実を知られたくないという言い訳にしか聞こえなかった。
「わたしが島を離れたら、誰がお母さまを守ってくれるの。ロロが駄目なら、どうすればいいの」
「宜しいですか、この件に関しては、二度と族長に持ち出してはなりません。貴女は、起こってしまった事に対して、何もできないのです。その事を受け入れて下さい」
「これから、を変えなくてはならないわ」
「貴女は、全てを台無しになさるおつもりですか」ヴァドルの声は厳しかった。「貴女は、既に人の生命を危険に曝してしまったのです。これ以上、追及なさってはいけません。貴女が真実を知ったとなれば、族長は私か母を疑われるでしょう。私は、あの方に敵対するつもりはありませんし、母も同じです。痛くもない腹を探られるのは、真っ平です。保身に聞こえるでしょうが、構いません。私共は貴女にではなく、ロルフ様に忠誠を誓い、人生を捧げてお仕えしてきたのです。貴女が族長の平穏を乱そうとなさるのならば、出航の日まで閉じ込める事も躊躇いませんよ」
「お父さまの平穏とは、何」エリスは唸った。「お父さまの平穏のためならば、お母さまはどうなってもよいと、あなたは言うのね」
「極端な話をしているのではありません。私は、誰しも平穏であれと思っているだけです」
 エリスは苛立った。ヴァドルとオルトが自分達姉弟よりも、父を優先するのは分かる。だが、母はどうなのか。族長の正妻として、同じく守らねばならない存在ではないのか。父の寵がないからといって、切り捨てられるものなのか。
「わたしも、弟達も、もはや平穏ではいられないわ」歯を食いしばって、エリスは言った、「なぜ、お父さまはお母さまを身も心も踏みにじろうとなさるの。それが、結婚の本当の姿だと言うの。だから、あなたは結婚しないの、ヴァドル」
「女性に離婚の権利がある事は、ご存知でありましょう」
「お母さまに、どこへ行けと言うの。離婚してこの島に置いておかれるほど、お父さまが寛容だとは思わないわ。それに、族長が、わざわざ連れて来て正式に結婚した中つ海の人間を、そう簡単に離婚するとは思えない。それを恥とお父さまは考えるでしょうね」
「女性に暴力を振るうのは、離婚の原因になります。それは、男の恥でもあります」
「中つ海の人間は、別なのでしょう。奴隷と同じで、打とうが叩こうが、それは主の自由だわ。お父さまは、あなたは、皆は、そう思っているのではなくて」
 ヴァドルは暫し、黙った。エリスには男が何を考えているのかは分からなかった。言い訳だろうか、反論だろうか、どちらにしても、知りたいと思う真実とは違う。だが、その足掛かりにはなるのかもしれない。
「――族長に、嗜虐趣味はございませんよ」
 自らの鬱憤を晴らす為に、奴隷を打つ者はいる。エリスは父がそのような人間ではない事は知っていた。奴隷に手を挙げた事はないし、怒鳴りつける事もない。むしろ、無関心でいると言った方が良いだろう。
「では、お母さまに非があると、あなたは言うの」
 愕いたように、ヴァドルの目が見開かれた。何をどう推論すれば、そのような結論に至るのか理解できない、という風情であった。
「お母さまに非があるから、暴力を受けても仕方がないと、あなたは言うの」
 ヴァドルが大きな溜息をつき、エリスから目を逸らせた。
「奥方様に非があった事など、ないと存じますが」
「それでも、あなたもオルトも、何もなかったふりを続けるのね。あなたたちは、卑怯者よ」卑怯者。それは、誰であっても侮辱と取られる言葉あったが、エリスは構わないと思った。「なぜ、止めようとしないの。あなたやオルトの言葉なら、お父さまだって無碍にはされないわ。それなのに、どうしてそんなにお父さまの肩を持つの。お母さまは、責められる所以もないのに打たれておいでなのよ。それを、何とも思わないの。北海の女ならば、反抗も反撃もするかもしれない。でも、お母さまが、抵抗することもできない中つ海の人間だからなの」
 エリスの問いに、ヴァドルは考えを巡らせているようであった。どのように説明すれば、自分が納得するのか、理解するのかを、探しているようであった。
「このままでは、わたしは、お母さまを一人にはしておけないわ」エリスは追い打ちをかけるように言った。「サムルとの結婚を、もう一年、伸ばして。理由は、わたしが病気になったから、と言えばいいわ。結婚は、するわよ。それが、族長の娘に生まれた者の務めですもの。でも、お母さまを一人にはしておけない。ロロが成人するまでは傍にいるわ。どうしても来夏に島を離れなくてはならないのだったら、一緒に島を出てもらうわ。具合のよくないわたしの付き添いとしてなら、誰も文句は言わないでしょう」
「いけません」ヴァドルが慌てたように言った。「奥方様を伴うなど、族長はお許しにはなりませんし、奥方様も、望まれないでしょう」
「どうして、お母さまが望まないと思うの。来夏にはハラルドも戦士の館に入るわ。そうすれば、ロロ達がハラルドの面倒を見るでしょう。養育係もいるわ。お母さまの仕事は、終わるのではないの。いずれは皆、独立してゆくのよ」
「ハラルド様がいらっしゃるからではありません」ヴァドルは頭を振った。「それは、古い契約なのです。それ以上は、貴女が知る事ではありません」
 その言葉で納得がいかないのは、ヴァドルも分かっているのだろう。エリスの両肩を摑み、軽く揺すった。
「結婚とは、家同士の契約です。好きあって結婚する者もおりますが、稀です。それでも、生涯、平穏に添い遂げる者も多くいる事は、貴女もご存知のはず。私が独り者なのは、ただ、縁がなかっただけです。族長とも、奥方様とも、関係はありません。ましてや、貴女の結婚の幸福を、私が願わないとでもお思いですか」
 エリスは唇を噛んだ。自分の幸せなど、どうでも良い。今は、母を救う事の方が重要だ。自分が思っていたよりも悪い――酷い状態に、この家はあったのだ。その事に気付かなかったのは、まだ子供のハラルドと自分だけだった。
「貴女が浅慮な事をなさらなければ、全ては穏便に済んだのです」ヴァドルの言葉が、追い打ちをかけた。「ご自分に責任があるのだと思われるのでしたら、これ以上は首を突っ込まぬ事です」
「どうして、穏便に済んだと思うの。お母さまは不幸なままだわ」
「族長が幸福だと、お思いなのですか」
 静かなヴァドルの声に、エリスははっとした。戸口の塚が脳裏に浮かんだ。最初の奥方と子供達を父が愛していたのならば、どれほどの痛手であっただろうか。スールを失い、哀しみの中にいた父の姿をエリスは忘れる事ができなかった。自分達には見せないようにしていたが、ふとした拍子に見せた虚無感や途切れる事のない酒は、やり場のない悲哀を幼かったエリスにさえ感じさせた。
「唯論、貴女方を得て、族長が幸福でなかったとは言いません」ヴァドルが言った。「貴女方は、ロルフ様にとり、大切なお子です。それは、忘れないで下さい」
 ヴァドルの手が、エリスの肩から離れた。
「どうして、そこまでして隠そうとするの」エリスは言った。自分の父への愛情を盾にされて悔しかった。「ハラルドも、いずれ知ることよ。それは、あなたが戦士の館の風紀を正そうとしても、変わらない。ロロが、ハラルドに告げるでしょう。そうなれば、知らないのはわたしばかりだわ。わたしが女であり、真実で大きな傷を受けるからと思って黙っているのなら、間違っているわ」
「貴女がお強い事は、存じております」ヴァドルの言葉は、どこまでも穏やかであった。「貴女は、お若かった頃の――貴女くらいの年頃であったロルフ様のご気性にそっくりでいらっしゃる。何を申しましても、私の言葉は貴女には届きますまい。真っ直ぐである事は良い事ですが、正義が常に幸福をもたらすとは限らないのですよ」
 エリスは目を落とした。正義が必ずしも正しいものではない事は、分かっている。自分が傷付くのは恐ろしくはない。知る事によって、父が、ヴァドルが傷付くとでも言うのだろうか。散々に人を貶めてきた人々に対しても、傷付けないように配慮しなくてはならないのか。
 黙り込んだエリスに、ようやく理解したと思ったのか、ヴァドルはその腕を軽く叩いだ。
「何も、なかったのです。族長の前では、そのように振舞って下さい。それが、誰にとっても最善の道なのです」
 何も、なかった。
 母の苦しみもロロ達の心痛も、全てなかった事にしようというのか。
 ただ、父の為だけに。
 エリスの胸は痛んだ。父は守られているというのに、母は守られないのか。何も悪い事はしてはいないと、ヴァドルも言ったその人が、最も大きな苦しみを味わわなくてはならないのは、なぜなのだろうか。その理由を、ヴァドルは教えてはくれない。最も知る必要がある事柄が、自分からは隠されている。
 エリスの幸せを願っているとヴァドルは言う。サムルは良い人かもしれないが、エリスは愛してはいない。いずれは別れるのだと知っているからこそ、この結婚を自分は承諾した。幸運である事は確かであるが、幸福なのか不幸なのかは分からない。
 例え短期間であったとしても、後ろ髪を引かれる思いでこの島を離れたくはなかった。その僅かの間に、何が起こるか知れたものではないのだから。そして、それは自分の愚かさが招いた事態だ、逃げる訳にはいかない。自分が母を守らなくて、誰が守るのか。
 今後、母が幸せになる道を、誰も共に探ってはくれないのであれば、自分が探す。共に母を守ってくれる人でなければ愛せないだろうし、それで良いのだ。半身を流れる白鷹の血を愛しても、もう半分の中つ海の人間である部分も等しく愛してくれるのでなければ、自分は愛する事ができないだろう。そのような奇特な人間が、北海にいるとは思えなかった。
 それに、知ってしまった出来事は、なかった事にできるほどに軽い問題ではない。ロロ達が父の前で、何も知らない風を装っているのが信じられなかった。一時(いっとき)の反抗がその表れだったのかもしれないが、なぜ、皆黙ってやり過ごしたのだろうか。たかだか十二にして、既に母の安全を考えるだけの知恵があったのか。それとも、族長である父への絶対の忠誠と服従を嫌というほど叩き込まれたのか。
 弟達にとり、強い戦士である父とヴァドルは常に憧れの的だった。その幻想を打ち砕かれて、何とも思わなかったはずがない。母が中つ海の人間だからと、仕方なくそれを受け入れたのかもしれないし、弱い人間は淘汰されるべきだという、北海の倣いに従ったのかもしれない。
 どのような事情があろうとも、ロロ達はエリスに何も伝えなかった。その事実はエリスを傷付けていた。いずれは島を去らねばならぬ姉に、何を言ったところで事態が好転するとは思えなかったのだろう。
 誰も頼れない信用できない中で、十二歳のロロが何を感じたのかに考えを巡らせると、残酷だ、と思わずにはいられなかった。当時十三歳であった自分に何ができたのかは分からない。だが、今の自分と同じように、父に詰め寄り、事態を悪い方へと導いてしまったであろう事は、目に見えている。
 自分は、誰よりも激情に流されやすく、抑制がきかない。
 その事を思い知らされた。
 だからこそ、ただ知りたいのではなく、知らなくてはならないのだ。
「お父さまに話してしまったのは、わたしの不明だわ。だからこそ、知る必要があるのよ」
 ヴァドルの表情が、再び硬くなった。堂々巡りだ。それでも、自分が真剣である事は伝わるだろう。
「覚悟はできているわ」エリスは念を押した。「あなたが話さなければ、オルトか弟に訊くしかなくなるのよ」
「母と弟君を、この問題に巻き込むのはお止め下さい」ヴァドルは眉をしかめた。「私を脅すのもです」
「あなたを脅すつもりなど、ないわ」
「私の母と弟君とを盾になさっておいでです」
「もう、お父さまに詰め寄ったりはしない。誓うわ、契約の神と法にかけて」
 ヴァドルはじっと、エリスを見つめていた。誓いが神聖なものであり、軽々しく口にするものではない事は、エリスも承知している。それは、神との契約でもある。誓いを立てた相手に契約終了の宣言もせずに破るのは、神との契約を一方的に破棄する事だ。神罰が下る事も覚悟しなくてはならない。
「貴女が本気だ、という事は理解しました。聞けば、貴女は納得して嫁がれるのですね。ならば、お誓い下さい。この件を族長に二度と持ち出さぬ事、私が話したと他言せぬ事、宜しいですか」
「黙って嫁に行け、とは言わないなのね」
 自分が散々、駄々をこねるような事を言ったのを思い出してエリスは言った。
「貴女だとて、どこかで鬱憤を晴らす必要はあるでしょうから」ヴァドルは腕を組んだ。「但し、私が直接知っているのは、ほんの一部です。後は居合わせた他の者から聞かされたり、族長自らお話しになった事ですので、真偽のほどは不明である事をご承知おき下さい」
 伝聞は、信用ならない事が多い。詩人が語るのでなければ、大袈裟に面白おかしく改変されている恐れもある。だが、何もないよりはましだろう。父はヴァドルに偽りは述べまい。隠していることはあろうが、少なくとも、誇張はない。
「ヴァドル、あなたが真実を語るのだという確証が欲しいわ」
「私にも誓えと申されるのですか」
「そこまでは望まないわ。あなたの名と剣にかけて真実を述べると言って」
 ヴァドルは頷き、長剣の(つか)に手を当てた。
「私は、父と祖父達の血と名にかけて、我が剣にかけて、真実のみを語りましょう」
 あっさりと宣言した事に、エリスは少し愕いた。ごまかそうという気は、ヴァドルは最初から持たぬようであった。
 次は、エリスの番であった。エリスが片刃の小太刀を抜こうとすると、それをヴァドルが制した。誓え、と言ったのはヴァドルではないかと、不信に思い男を見た。
「ここでは、なりません」ヴァドルは低い声で言った。「人目に付きます。誰にも知られる事を憚られるのですから」
 辺りを見回し、ヴァドルは厩を指した。
「この裏に、確か、厩番が休憩をとる場所がありました。そこへ行きましょう。話すにしても聞くにしても、腰を落ち着けた方が宜しいでしょう」
 エリスに否やはなかった。
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