第22章・辛苦

文字数 7,220文字

 ロルフが一人で族長室に戻ると、オルトの眉が跳ね上がった。その腕にはスールはいなかった。見れば、小さな病床に横たえられている。
「ロルフさま、奥方さまはいかがなされましたか」
 それには答えず、ロルフは冷たくなった我が子の許へと向かった。まるで、眠っているかのようだった。今まで苦しんでいたのが、嘘のような安らかな寝顔だった。
「ロルフさま」
 オルトの声が逼迫しているように聞こえた。ロルフはスールを抱き上げた。軽いその身体にはもう、何の温もりも感じられなかった。
「あの女には罰を与えた」
 オルトの目が大きく見開かれたが、ロルフはそれを見てはいなかった。愛おしい幼子にその視線は向けられていた。
「何とおっしゃられました。罰を――お与えになったとは、どういう意味でございましょう」
 今は、オルトの声さえも煩わしいというのに、女の事をしつこく訊ねて来る。
「言葉通りだ。あの女は、スールの死を償わなくてはならない」
「スールさまの母君でございますわ」
 それがどうしたというのだ。ロルフは独りごちた。ただ、十月十日その胎の中で育てたというだけではないか。スールは、ロルフのものだ。ロルフの息子であって、決してあの女の息子ではない。
「奥方は、身籠もっていらっしゃいますわ。どちらに、いらっしゃるのでしょうか」
 ロルフは答えなかった。答えるつもりもなかった。まだ産まれぬ子の父親だと言われても、それがどうかしたかと思った。産まれて初めて、子はロルフのものとなるのだ。それも、男子ならば。
 オルトがヴァドルを呼ぶ声を、ロルフは遠くに聞いていた。
 スールの物言わぬ身体を毛布でくるんだ。離しがたかったが、葬儀を行わねばならない。いつまでも、こうして抱いている訳にはいかなかった。
 スールの死は、すぐに知れ渡るだろう。そして、再び、塚が築かれる事になる。最も小さな塚。それが、スールの眠る場所だった。
 集落は死の影に覆われていた。流行病で、多くの小さな生命と老いた者とがこの世を去った。弱い者から、病は生命の火を消して行く。スールは、あの馬並みに丈夫な女の血を引いているのだから大丈夫だと思っていた。だが、小さな身体は病には勝てなかった。
 口惜しかった。族長としての義務があるからといって、あの女に看病を任せたのが失敗であった。苦しむ我が子の前で居眠りをするような女だ。最初から信用などしてはいなかったが、それ程愚かだとは思いもしなかった。やはり、あの女は中つ海の者だ。自分の血を分けた子供を本当には愛してはいないのだ。北海の女のように情に厚くはない。
 スールは憐れだ。あのような女を母親として。そして、それはまた、ロルフの失敗でもあった。母親ならば、日中は子供達と過ごしているのならばと思い、女に看病を託した。だが、そうではなかったのだ。あの女には子供に対する情などありはしない。ただ、ロルフの機嫌を損ねぬように、子供達を気にしているふりをしていただけなのだろう。
 騙された自分の責任でもある。スールの生命を奪ったのは、あの女ばかりではない。自分もなのだ。
 ロルフはスールをそっと寝床に横たえた。
 思い切らなくてはならない。いつまでも未練に引かれて、この子をこのままにはしてはいけなかった。魂は神々の許へ、肉体は土に。それも早いほうが良い。地面は凍っているだろうが、それは奴隷に掘らせれば済む事だった。
「オルト、スールの葬儀の準備を」
 ロルフは姿勢を正して言った。何があろうとも、ロルフは族長でいなくてはならない。死が集落に居座っている以上、最も落ち着いていなければならない。それが愛する我が子の死であっても、冷静に物事を進めなくてはならない。涙を流すのは、その後だ。
 オルトは無言でお辞儀をして部屋を出て行った。スールの衣服や、好きだった玩具をまとめるのだろう。共に塚に埋葬するように。
 ロルフは、自分の武器の中から最も美しい短剣を選んだ。まだ赤子のスールには、実用的な物よりも装飾的な物の方が相応しい気がした。枕の下にある護り刀は邪悪な病を前に何の役にも立たなかったが、死出の旅路の護りにはなるだろう。
 スールの元気だった頃の姿が脳裏に浮かぶ。
 抱いてやると、いつでもロルフの顎髭に小さな手を伸ばしてきた。引っ張られても、それを止めさせる事はなかった。それは、他の子供達にしてもそうだった。スールの榛色の目は母親と同じ色であったが、その中にある光は、確かに北海のものであった。高座に座する時に膝に乗せてやっても、少しもじっとはしていなかった。好奇心にきらめかせた目で、あちらこちらを見てはあらゆる物に手を伸ばした。
 一番小さな身体が、最も苦しむ事となった。苦しむ子に、ロルフは何もしてやることが出来なかった。
「ロルフ様、奥方様です」
 そう言ってヴァドルが部屋に入って来た。その腕には、あの女が抱かれていた。気を失っているのか死んでいるのか、ぐったりとしていた。
「今、母が療法師を呼ぶよう手配しております」
 ヴァドルはロルフの了承も得ずに女を寝台に横たえた。
 オルトが姿を現し、女を見ると悲鳴を抑えるように口に手をやった。
「大丈夫です、母上、気を失っておられるだけです」
 二人は無言でロルフを非難しているようだった。オルトは毛布ばかりではなく、毛皮も女の身体に掛けた。そして靴を脱がせ、青くなった足をさすった。
「こんなに冷え切っていらして」
 冷えたからどうだと言うのだ、とロルフは思った。
「すぐに療法師が参りますわ」
 ロルフは、心配そうに女を覗き込む二人から目を逸らせた。なぜ、二人とも、あの女の事を気に掛けるのだろうか。
「ロルフ様、今回の事に関しては、奥方様に何の落ち度があったと言うのでしょうか」ヴァドルは言った。「奥方様は身籠もっておられます。貴方の御子です。それを、あのような場所に閉じ込めるなど、してはならない事で御座います」
 貴方の御子――その言葉に、ロルフは苛立った。
「その女はみすみすスールを死なせた。その罰は受けるべきだ」
「まさか」ヴァドルはロルフの方に一歩踏み出した。「そのような事は、有り得ません」
「だが、事実だ。その女は、スールの横で居眠りをしていた。その間に、スールは死んだ」
「ずっと、お一人で看病なさっていらしゃったのです」オルトが言った。「限界だったのですわ。だから、わたしが交代しますと申し上げましたのに」
 そういう申し出があったのは確かだった。だが、オルトがいなければ、誰が他の子供達の世話をすると言うのか。そう言ってその言葉を封じたのはロルフだった。
「貴方は、もう一人の御子も失うところだったのですぞ、その事は分かっていらっしゃいますか」
 珍しくヴァドルが反抗的になり、ロルフの苛立ちは増した。では、自分に責任があると言うのか。スールの死の責任は自分、ロルフにあると。
「奥方様は良くやっていらっしゃいました。それを責めるのは、間違っております。スール様を失って苦しいのは、貴方ばかりでは御座いません」
 ヴァドルの言葉に、ロルフは拳を握り締めた。
「お前は、その女の味方をするのか」
「味方をする、しないではありません。御二人は、等しくスール様の事で悲しみ、苦しんでいらっしゃる――」
 最後までは言わせなかった。ロルフはヴァドルの胸ぐらを摑んだ。オルトが慌てたように立ち上がった。
「子のいないお前に何が分かると言うのだ」
 二人は睨み合った。
「確かに、私には子はおりません。しかし、貴方よりは奥方様の事が目に入っております」
「お前は」
 ロルフは唸った。「お前は、エリシフの事が好きだったな。それで、今度はその女という訳か。お前は、私の物を欲しがるのだな」
「ロルフさまっ」
 オルトが声を上げた。だが、ロルフは構わずにヴァドルを締め上げた。
「ええ、エリシフ様の事は、貴方程ではありませんが、私もお慕いしておりました」
 よくも、いけしゃあしゃあとそのような言葉が出るものだ。
「しかし、奥方様は違います。可哀想なお方です。どうか、もう少し公平な目で御覧になって下さい」
 ヴァドルは肉体的な抵抗はしなかった。だが、口からはロルフに対する非難の言葉が次々と紡ぎ出される。
「奥方様は、貴方に劣らず、御子方の事を心に掛けておいでです。その事をお認めになって下さい」
 ロルフはヴァドルを突き飛ばした。体格の良い副官は、二、三歩後ろに引いただけだった。その事が、余計にロルフの癇に触った。
 ヴァドルは何があろうと自分の味方だと思っていた。エリシフに懸想している事もずっと知っていたが黙っていた。エリシフの心は自分にあると分かっていたからだ。だが、今、目の前に横たわっている女に気があるのだとすれば、それは違う。その女は愛されて良い存在ではない。しかもヴァドルなど、勿体なさすぎる。
「ロルフ様、族長、どうぞお聞き下さい。御子達も、奥方様には懐いておられます。どれほど、奥方様が御子達の事に気を掛けていらっしゃるのか、知らぬ――いえ、目を向けようとしないのは、貴方ではありませんか」
 反論しようとしたところで、扉が開いて女療法師が入って来た。その顔は緊張でか強ばっていたが、ロルフに一礼をするとさっさと女の様子を見に行った。
 気勢を削がれたロルフは足音も荒々しく部屋を出た。自分の後からヴァドルが来るのが分かったが、掛ける言葉はなかった。
 誰よりも信用していた乳兄弟だった。互いの事は知り尽くしていると言っても過言ではないだろう。そのヴァドルが、自分に反旗を翻した。それも、あの取るに足らない女の事で。
 それはロルフにとり衝撃であった。オルトは女だ。だから、あの女の側に立つのも分からないではない。だが、ヴァドルだ。誰よりも身近にいて、共に長い時間を過ごしてきた友であり兄でもあった。それが、たった一人の中つ海の女に惑わされた。
 あの詩人――ウーリックならば分からない事もなかった。詩人は、理想を追い求めるものだから、常に無言でロルフの隣に座す女に何かを見たとしても不思議はない。それにまだ若かった。ヴァドルは違う。そんな夢見がちな所のない、しっかりと大地を踏み締める男だった。心は常にロルフと共にあるものだと思っていた。
 自分は、もう、何も何人(なにびと)も信じられなくなりそうだと思った。ヴァドルはロルフにとっての最後の砦だと言えた。時には辛辣な意見をする事があっても、それは全てロルフの力になる為だった。それが、今回は、何故(なにゆえ)ヴァドルが女の肩を持つのか理解に苦しんだ。そして行き着いたのが「気がある」という事だった。
 あの女は、自分から子供だけではなく、ヴァドルをも奪おうとしている。どのように籠絡したのかは謎であったが、大方、ヴァドルが子供達に剣術を教えている時にでも色目を使ったのだろう。それでなければ、あのヴァドルが自分に反抗するはずもなかった。
 許す事は出来なかった。女もヴァドルも。

    ※    ※    ※
 
 気付くと、そこは族長室だった。
「お目ざめになりましたか」
 女の声に目を向けると、そこには女療法師の姿があった。
「わたしは、生きているのですね」
 ティナの目に、涙が溢れてきた。
「危ないところでございました」女療法師は微笑んだ。ティナに笑みを見せる人間は少なかった。「もう、ご心配はありませんわ。お子も無事です」
 では、あれは全て夢であったのだ。そうでなければ、自分とロルフの勘違いだったのだ。
「スールは、スールはどこに」
 女療法師がはっとしたような顔になり、ゆっくりと頭を横に振った。
「スールさまのご葬儀は、昨日済みました」
 何の事か、ティナには分からなかった。子が無事だと、先程言ったのはこの女療法師ではないか。
「奥方さまは、三日間、お眠りになっていらっしゃいましたので、記憶が混乱しているのですわ」
 どういう事なのだろうか。全ては、その三日間の内に見た夢ではないのだろうか。
「大変残念なことでございますが、スールさまはお亡くなりになりました。憶えていらっしゃいますか」
 スールが死んだ。あれは、夢ではなかったのか。全て現実に起こった事なのか。では、無事な子とは、誰の事なのか。そう思って気付いた。女療法師は、胎の子の事を言っているのだ。
 ティナは起き上がった。そして、寝床を出ようとした。
 慌てて、女療法師が身体を押えた。
「いけません。まだ、横になっていらっしゃらないと」
 スールの側に行きたかった。それが、例え冷たい塚であろうと構わなかった。この目で見るまでは信じられなかった。
 スールの名を呼ぶと、オルトが部屋に入って来た。
「奥方さま」
 オルトは女療法師と共に、ティナの身体を押えにかかった。
「何を騒いでいる」
 冷たい声に、ティナの身体が凍り付いた。ロルフの姿が見えた。その青い眼は鋭くティナを見据えていた。
「スールの葬儀は済ませた。二度とその名を口にするな」
 それだけを言い、ロルフは去った。その言葉の中に温もりはなかった。共に子を亡くした身だと言うのに。
「さあ、奥方さま、お休みになってください」オルトが言った。「起き上がっては、まだお身体にさわります」
 大人しくそれに従う他はなかった。ティナはやはり、ロルフが恐ろしかった。ぼんやりと、スールの死に際して暴力を振るわれた事も思い出した。だが、身体の問題ではなかった。心が、ロルフを前にすると完全に萎縮してしまう。
「今は、胎子を大切になさいませ」
 オルトがティナを宥めるように言った。

    ※    ※    ※

 すんでのところで胎子を失うところであったと、ロルフは呼ばれた女療法師に言われた。女の身体は、それ程までに冷え切っていた。
 スールを失った代償は、誰が支払うのか。それは、あの女だ。だが、胎の子にはそれは関係のない事であった。それは、ロルフの子だった。ようやく、ロルフは女の胎内に宿った子を生きた物として認識できた。そうであっても、もし、女子ならば自分の手の中にその生命はあるのだ。
 一命を取り留めた女は取り乱していた。それでもロルフの心は動かなかった。余計に冷えた。子を失ったのは自分だけだと思っているような女の姿に、苛立ちを覚えた。
 これで三人の子を亡くした。
 それでロルフが悲しんでいないとでも思ったのか。
 先の二人よりもずっと小さなスールの身体を冷たい土の中に横たえる時、涙を流さなかったとでも思うのか。
 大広間の高座に座し、ロルフは蜜酒の杯をあおった。すぐさま、控えていた奴隷がそれを満たす。
 このところ、酒量が増えている。それは仕方のない事だ。オルトもヴァドルも分かっているのか、何も言わない。普段は賑やかな子供達も、死を間近に経験して静まり返っている。
 今は幼い子達も、いずれは三つの小さな塚の意味を知るだろう。例えロルフが教えなくとも、周りの大人が教えるだろう。あるいは、年長のエリスかロロが。
 目の奥が熱くなった。それをぐっとこらえると、ロルフは再び蜜酒を口に運んだ。
 三人の子に先立たれたれ、四人の愛する者を見送る事になった。だが、自分はまだ生きている。その事がロルフの心に重くのしかかっていた。
 エリスは、いずれは遠くに嫁に行くのだろう。そして、他の子達は、病ではなくとも、事故や戦いの中で失われるのかもしれない。そう思うとやりきれなかった。自分は、常に愛する者を見送る立場なのだろうかと思う程であった。
 そして、何よりも信頼していたヴァドルも失われた。
 あの一件以来、二人では会ってはいなかった。オルトは女療法師と共に女に付き切りだった。スールの弔いの場にはオルトも姿を現したが、とてもではないが耐えられそうになかった。それで、早々に下がらせた。オルトもスールを可愛がっていた。赤子となると誰でも可愛いのか、老いた相好を崩し、嬉しそうにその腕に抱いていたのが思い出された。所詮、女は女の味方をするものだ。その点では、ロルフはオルトを大目に見ていた。自分の乳母であったという弱味もあったのかもしれない。生まれて間もなく母を亡くしたロルフにとり、オルトは母親でもあったからだ。
 しかし、ヴァドルは違う。共に子殺しの犯人を追って、中つ海くんだりにまで出張った仲間だった。全てを安心して任せられる相手だった。自分が早死にしたならば、ロロの後見人として子供達の事も託す事になっていた。
 あの女は、どのような手を使ってヴァドルを誘惑したのだろうか。虫も殺さぬような顔をして、如何にも庇護が必要な女のふりをしたのだろうか。自分に対してその手管を使わなかったのは、エリシフの事を忘れぬ自分よりも初心(うぶ)なヴァドルの方が(くみ)しやすいと思ったからなのだろうか。
 策略に長けた中つ海の女ならば有り得ぬ事ではなかった。彼の地は、千々に乱れている。それは、男女の別なく謀略を巡らせているからだと交易島で聞いた。北海では女に相続権はない。だが、大陸ではその限りではないと耳にしていた。あの意気地なしの弟がいなければ、女は領主となっていたのかもしれないのだ。そのような女が、ヴァドルを虜にするくらいはお手の物だろう。
 ロルフは溜息を吐いた。
 女は、完全に子供から切り離した方が良いだろう。悪影響しか与えないであろうから。出来ればエリスもだ。女子は母親の手許で育てられるのが当然とは言え、あの女では駄目だ。オルトと共に過ごさせる方が、ずっと良い。弟達と過ごす方が、あの女といるよりもずっと有益だと思われた。
 最初は母親を求めるかもしれないが、まだまだ子供だ。すぐに新しい環境にも慣れるに違いない。弟達の世話に追われれば、そのような気持ちは霧散するだろう。
 そのような家庭の事にまでロルフが気を配らねばならなくなったのは、あの女のせいだ。
 ロルフにとり、今では女は不吉な存在であった。
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