第47章・再訪

文字数 8,258文字

 何事もなく夏が去ろうとしている事に気付き、ティナは溜息をついた。
 エリスの結婚準備は着々と整っていた。だが、ロルフもオルトも、ティナに何かを諮ったり進捗を知らせるという事もなかった。我が娘の人生の大事に関われぬ哀しみと焦燥とが、ティナの身を焦がした。
 ロルフのティナに対する態度は変わらなかったので、果たして、エリスやアズルが二人の間にある真実に行き当たったのかどうかも分からない。常には、例え族長の子であったとしても、他人への配慮や優しさを持って欲しいと思いながらも、この度はただ、二人が鈍感であれと願った。
 あの時以来、エリスは大人しく無口になった。感づいたにしても、それを殊更にロルフやヴァドルに言い立てるような事はしなかったのであろう。分別がついたのかもしれない。それはそれで喜ばしい事であったが、同時に寂しくもあった。明るく活発であったものが静かにしていると、エリスではないような感じを受けてしまう。そうなる事を望んでいたというのに、自分勝手なものだと思わずにはいられなかった。
 アズル達も、以前と変わりなく一定の距離を置きながらも丁寧にティナには接してくれた。族長室へのロロの訪問と、アズルと向き合って作業をした時間とを、ティナは何度も繰り返し思い出しては噛み締めた。いつか、オラヴやハラルドともそのような機会が一度で良いから持ちたいと願わずにはいられなかった。過ぎた望みであるかもしれなかったが、個々の男の子達との時間が、僅かであっても欲しかった。どれほど子供達が遠い存在になろうとも、自分はその思い出を胸に生きて行けるだろう。
 何を思おうと何を為そうと、時間は淡々と過ぎて行った。全てが静かに、順調に流れた。時折、仕掛けられた悪戯にハラルドを呼ぶロルフの大声にその静寂が破られる事もあったが、結局は末の子には甘いという事を思えば、それはティナの心を波立たせるものではなかった。
 一日が過ぎるという事は、それだけエリスの輿入れが近くなるという事でもあった。不安はいつでもティナの胸にあったが、娘の決意を翻させるだけの力も権限も自分にはないのだと思い直した。結婚するまでは、エリスの人生はロルフが握っている。次にはそれが、サムルと名乗るあの男に変わるだけだ。男は女の人生を決める。本人の意思や母親の考えは関係がない。それは、北海であっても城砦であっても変わらない。
 悟られぬように長く息を吐き、ティナはエリスを見た。腰を落ち着けて黙っているからといって、刺繍の腕が上がった訳ではなかった。むしろ、物思う事が増えたのか、針目は時に不揃いになり、選ぶ色も布に比して目立たなさすぎたり悪目立ちしていたりと、どこかと取り留めがない。オルトがその事を注意しても黙って聞いてはいるが、従う気はないようだった。
「それは贈り物なのですから、もう少し糸選びに注意をなさらないといけませんね。恥をかくのはあなたなのですよ」
 オルトの言葉は少しばかり強くなった。エリスが今、取り掛かっているのは婚約者に贈る冬用の胴着だった。大青で染めたありふれた物だが、発色が最も良い生地をオルトは選んだようである。そこによく似た色を刺すものだから、エリスはしょっちゅう糸目を見失うのか直してばかりいた。
「直したところに穴が開かなければ、いいわ」近頃には珍しく、エリスが口答えをした。「どうせ、わたしのではないのだし」
 オルトが溜息をついた。それ以上は何を言っても無駄だと思ったのか、再びヴァドルの手袋を編み始めた。未だにティナには難しい結び編みを、すいすいと続けて行く。
 針を持てるようになれば、北海の女の子はまずは生涯使う事になる結び編み用の、平たく大きな鹿角か鯨骨より作られた針を贈られ、学ぶという。エリスは形だけティナから針を贈り、オルトから技法を学んでいた。こちらの方の出来栄えはまずまずのようであった。既に婚約者とその父親用の手袋と靴下の用意はできている。結納財の礼として相手に贈る祭礼用の華やかな靴の中敷きも大丈夫だ。冬の間はエリスの衣装づくりに費やせそうであった。
 ティナは自分の手仕事に目を落とした。今年の遠征に、ロルフが持って行く予備の袴を縫っていた。ひと月に及ぶ遠征から帰って来た時には、準備した衣服のどれもが血と思しき汚れの染みがつき、使い物にはならなかった。それでも、その冬に部族が無事に過ごせるように生死を賭けた戦いに出るのであるから、全てを新しく整えなくてはならないというオルトの言葉に従う外はなかった。
 そろそろ、結納財を持ってサムルとその一行がやって来る時期だったので、エリスが神経質になるのも分からないではなかった。計算ずくでの結婚を後悔し始めているのかもしれない。親が決めたからと、好きでもない男に嫁ぐ娘が圧倒的に多いとは言え、愛情のない結婚がどのようなものであるのかを知っているティナには、エリスの行く末が気掛かりでならなかった。エリスが語ったような条件でサムルが離婚に応じるとは今でも信じてはいなかったし、何よりもあの男を信用してはいなかった。
 去ってからといういうもの、誰もサムルの話はしない。ロルフは当然の事としても、オルトやエリスが一切、触れようとしないのは不自然であるように思われた。何か、やはり不都合があるのではないかと勘繰らざるを得なかった。訊ねればオルトは答えてくれようが、それに納得できるかどうかは別にしても、自ら働きかける事ができなかった。ロルフの許に話が伝わり、自分の決定に不満を言うのかと思われるのは恐ろしい事であった。
 静かに、ハラルドの養育係であるウナも共に女四人の時間が流れた。
 それを突然に破ったのは、低く長い喇叭の音だった。
 びくりとしてティナは顔を上げた。他の者も、皆一様に同じように顔を見合わせた。
「入船ですわ」
 オルトが言った。
 やがて、喇叭の数が増えた。盛大な迎えだ。どこの船であるのかが見分けられたのであろう。誰であるにしても、賓客だ。
「サムルさま、ですわね」
 覚悟をしなくては、とティナは思った。その場に居合わせようといまいと、サムルに会おうが会うまいが、あの男をエリスの婿として認めなくてはならないのだ。
「奥方さまは、こちらにいらしてください」オルトは立ち上がった。その仕種は年齢よりも若く、溌剌としていた。「ウナ、あなたはハラルドさまをしっかりと捕まえておいて。お許しがあるまで、決して大広間には来てはいけないと言い聞かせてちょうだい」と、エリスの方を向いた。「エリスさまは、お召し替えを致さなくてはなりません。あちらは正装でいらっしゃるのですから、普段着ではいけません」
 あからさまに面倒だ、という顔にエリスはなった。それでも、事の重大さは分かっているのか、渋々ながらも手にしていた布を柳の枝で編んだ籠にしまった。これも、エリスが編んだものであった。娘が嫁いで行ってしまってもこの籠は残り、見る度に今日の事を思い出すのであろうかと、ティナはぼんやりと思った。
 ハラルドの養育係のウナは頷くと、仕立て途中の袋――恐らくはハラルドの遊戯盤の駒を仕舞う為のもの――を片付けて皆に一礼をして去った。喇叭の音を聞きつけたハラルドが大人達の邪魔をしないように学問所に迎えに行くようだった。もはや、そういった年齢ではないが、勉学が終われば一目散に浜か大広間に現れるであろうから、先回りをしようというのだろう。
 オルトが、ティナは最初から呼ばれない前提で話をしていた事に気付いたのは、一人になってからであった。
 誰も、それを不思議には思わないのだ。
 気持ちとしては泣きたかった。だが、涙は出ない。日常となってしまった出来事に、誰も疑問を持たず、気遣われる事もない。
 気遣ってほしいのではない。ただ、正式に婚約が成立する娘の晴れの場にすら、自分は必要ないのだと判断され、皆がそれを当たり前のように受け入れるのが哀しかった。
 だが

 しかし――とティナは気持ちを切り替えた。
 サムルが来た、という事は、遠からずウーリックが答えを求めて来るだろう。
 ティナの心は、決まっていた。

    ※    ※    ※

 エリスが支度を整え、呼ばれた大広間へ行くと、そこはすっかりと様変わりしていた。
 長卓子が並べられているのは変わらないが、長椅子は全て片付けられ、慌てて掛けられたのか、壁には普段よりも華やかな綴れ織りが吊るされていた。その前には部族の長老や重鎮だけではなく、このような場には余り居合わせぬ法の保護者までいた。家族として弟達も高座近くに控えている。
 高座には背凭れ高い椅子が一つ据えられ、父が座していた。その傍らには、いつものようにヴァドルが立っている。エリスに気付いても、二人とも厳めしい顔を崩さなかった。
 これは、公式の場だ。
 そう思うと、エリスの脚は震えそうになった。万が一にもそのような事は起るまいが、ここでサムルが何か

をやらかせば、全ては台無しになってしまう。
 事前にオルトから言われていた通りに、ヴァドルとは反対の父の傍に行った。軽く父に対して膝を折ると、父とヴァドルがにこりともせずに頷く。公式の場に慣れている二人からは、緊張した様子は窺えなかった。むしろ、迎える側である為か真剣な表情ではあるが、余裕すら感じられた。
 大広間の入口には、長櫃が幾つも運び込まれていた。その中に結納財が入っているのだろうとエリスは思った。銀や金ばかりではない事は承知していたが、自分には高価な(あたい)が付けられたのを目の当たりにすると、複雑な気持ちになった。オルトは、その多少が父の自分に対する評価でもあると言ったが、サムルは本当にそれで引き合うのだろうかと疑わずにはいられない。白鷹の娘とは言え、中つ海の血を引く自分に、今後、それだけの価値が伴うのだろうか。
 自分の身は、自分で守らなくてはならない。取り引きをしたとて、全てが清算されるまでは相手を信用してはならない。
 母は、そう言いたかったのだろうか。
 ふと、そのような思いがエリスの脳裏に浮かんだ。
 全ての荷物が運び終わったのか、男達が入って来た。その中にはウーリックの姿があった。サムルの推薦人として、結納財の受け渡しの証人たるべく立ち会うのだ。詩人としての臨席ではない為に竪琴は手にしていない。
 最後にサムルが入ると扉が閉ざされた。緊張した面持ちで、サムルは高座に近づいて来た。
 くすんだ金色の髪は縛らずに肩に落ちかかっている。顎をぐるりと取り巻く短い髭は最後に見た時と変わりはなかった。大きめの銀の留め具をつけた濃い茶色の外衣をまとい、縫い取りのひとつもない簡素な赤い胴着に、少し茶色がかった袴を身に着けていた。磨き上げた金具の革帯や剣類の鞘は以前と同じようだった。
 瑕疵のない姿だった。堂々とはしているが、惚れ惚れするという感じではない。自分はサムルに対して特に辛辣なのかもしれないが、人目を引くような男前ではないのだから、皆もそう思っている事だろう。今までに館を訪れた凡百の使者と大差ない扱いのようであるのは、この儀式が終わるまでは正式に部族の一員として認められてはいないという事なのだ。
 サムルは高座の前に来ると、エリスには一瞥もくれずに父の前に跪き、(こうべ)を垂れた。
「よくお出でになられた、サムル殿」ヴァドルの声が、しんとした大広間に広がった。「この度の来訪の用向きをお伺いしよう」
 分かっている事を大袈裟に言い立てるのはエリスは好きではなかったが、これは全て形式化された男達の美意識だった。
 顔を上げ、サムルは父を見た。
「族長、白鷹ロルフ並びに皆様にご挨拶申し上げます。ヴェステインの子サムル、この度は白鷹殿のご息女エリス様との婚約の証として結納財を持参いたしまいた。どうぞ、検め下さりお納め頂きますよう申し上げます」
 ヴァドルが高座の下にいる法の守護者に合図した。ジルデンという名の最年長の男が、巻物をヴァドルに手渡した。サムルも立ち上がり、立会人に向かって頷いた。代表の男が同じく巻物を手にしてサムルの傍らに立った。
「それでは、これより結納財の検分を行う。双方とも宜しいな」
 ヴァドルが言い、無言の父を見た。鷹揚に、しかし一言も発さずに父は頷いた。
 それからが、長かった。サムル側の者が巻物に書かれた物品とその個数を述べると、他の者が長櫃よりそれを取り出して長卓子に置く。ヴァドルが自分の持つ巻物を読み上げ、長老の一人が卓子の上の物を検める。武器はその品質を、布は正確な長さを、銀や金は重さを厳密に量ってゆく。全てを終えるのはいつになるのだろうと思う程に、全てが慎重に時間をかけて行われた。
 ジルデンが父の傍に行き、何事かを囁いた。
 ようやく終わったのだと分かった時には、エリスは溜め息をつきそうになった。
 それにしても、サムルはよくぞこれだけの物を揃えたと感嘆せずにはいられなかった。いかに親の援助があろうとも、その親が戦士長であろうとも、相当な財産だった。それと引き換えの価値がエリスにあるとサムルは思い、父の要求するがままに支払うのだ。
 価値がない、と分かった時には、サムルは約束を反故にするだろうか。契約だ、とは言うものの、正式に神にかけて誓った訳ではない。立場としては、サムルの方が勝るのだ。
 父がおもむろに立ち上がり、エリスは考えを破られた。その顔には微かな笑みが浮かべられていたが、決して本心からのものではない事はエリスには分かった。青い目は、冷たいままだ。
 高座から下り、族長としての顔を崩さずに父はサムルと対峙した。サムルの顔も緊張している。
「婚約は、これで正式に成立だ」父がサムルに右手を差し出した。「歓迎する、婿殿」
 サムルは破顔して父の手を握った。
「有難うございます。決して、貴方に後悔はさせません、白鷹殿」
 二人は固めの握手を交わした。
 これで、儀式は全て終わった。一同に杯が回され、蜜酒がなみなみと注がれた。エリスも手に銀の杯を持った。だが、そこに注がれたのは蜜酒ではなく葡萄酒であった。これが、どれほど高価なものであるのかは知っていた。この日の為に――自分の正式な婚泊の為に特別に用意されたものなのだ。族長集会でさえ、初日と最終日に族長のみが口にする事ができる交易島渡りのものだ。
 ヴァドルが乾杯の音頭を取った。大広間に集まった男達がそれに応えて乾杯を叫び、杯を高く掲げた。エリスは少し上げるだけに留めたが、それまでの緊迫した空気が一変し、皆の厳めしかった顔に安堵と歓喜の笑みが浮かんでいる事に気付いた。
 大広間の扉が開け放たれ、外で控えていた見習い戦士達を集落に報せる為に走らせる。遠くの集落には、年長の見習いが馬を飛ばす手はずになっているのだとエリスは聞いていた。
 この夏の間に、今まで知らずにいた年若い者達もエリスが中つ海の血を引いている事を知った。サムルの生まれについても広まっている事だろう。ソルハルの捨て台詞のように「お似合い」だと人々は思うのだろうか。
 複雑な思いを抱えながら、エリスは大人しく杯に口を付けた。甘いのか苦いのか、折角の高価な葡萄酒も味が分からなかった。
 杯から目を上げると、父とサムルが何事かを話していた。喧騒の為に内容は聞こえなかったが、双方ともおかしな緊張は見られないように思えた。
「おめでとうございます」
 ヴァドルが近付いて来て言った。「これで、私共もひと安心です」
 その顔には笑みはなかった。エリスが大人しく結婚するかどうかを、今でも測りかねているのかもしれない。オラヴとは話してはいなかったが、ロロとアズルはエリスが予定通りに嫁に行く事を望んでいる。弟達が何を考えているにせよ、今の自分はそれに従うより他に道はない。
「ありがとう」
 エリスは澄まして言った。笑顔は、見せなかった。
「すぐに、集落の者達が参ります。エリスさまはサムル殿とお並びに」
 下に控えていたオルトが小さな、しかし、この喧騒でも聞こえる声で言った。まるで、ヴァドルと話をさせたくないかのようだ、と思いながら、エリスは杯を後ろに控えていた娘に渡した。
 サムルに目を向けると、男達の少し手荒な祝福を受けていた。部族の一員として迎えられたのは結構だが、気を緩めてはいないかと少々、不安になった。白鷹の一人娘の婿になる、という願望を叶えて油断をしてはいけない。この結婚が「契約」だと知れば、父は簡単に自分を切り捨てるかもしれないのだ。
 ゆっくりと、エリスは高座を降りてサムルに近づいた。それに気付いた男達が分かたれ、サムルがエリスを見た。その緑の目は、決して浮かれてはいなかった。厳しく、品定めをあうるような目でもなかったので、その辺りは以前のサムルだ。
「エリス殿」サムルは胸に手をあて、軽く上体を傾けた。「一別以来、お変わりはありませんか」
 大ありだわ。そう言いたいのを、ぐっとこらえた。その事は誰にも知られてはならない。真実を口にする代わりに、エリスは

と微笑んだ。そして、同じように軽く挨拶をした。
「お気遣い、ありがとうございます。あなたの方こそ、お変わりはありませんでしたか」
 オルトに教わった儀礼的な受け応えであった。
(わたくし)は、貴女に再び(まみ)える事を夢にまでみましたよ」
 にっと笑ったその顔は、それが真実であるのかどうかを窺わせなかった。儀礼的であろうとなかろうと、エリスは揶揄われているのではないかという気持ちが拭えなかった。そういうところも、変化はない。
 知らず安堵している自分に、エリスは少しく動揺した。自分の周りでは大きく物事が変わろうとしているのに、この男の身辺は安定しているのであろう。家族の前であろうとも、常に気を張っていなければならなくなった自分とは、何という違いであろうか。羨ましくなると同時に、不変なものもある事に安心せずにはいられなかったのか。
「サムル殿、貴殿はもはや、我が眷族である。和平の紐を解かれよ」
 父の言葉に、エリスはびくりとした。他人の館に入る際には、集落の者同士であってさえも、訪問者は長剣に和平の紐を掛ける事を義務付けられている。それを免除されるのは家族のみである。この館では父と弟達、そしてヴァドル以外の者は全てそれに従っている。
 サムルの扱いが、変わるのだ。
 重大な転換であった。サムルにとってだけではなく、互いの部族にとっても、族長の一族に迎え入れられた者には相応の敬意を払わねばならない。
 これが、サムルの欲したものなのか。
 エリスは思った。緑目の館では内戚としてそれなりの扱いは受けているであろう。だが、他の島で和平の紐を掛ける事を免除されるのは、族長のみである。エリスの婿として、サムルは息子と同等の扱いを、義理の息子としての扱いを、少なくとも表面上は受けるのだ。
「一族に連ねさせて頂きます事を、光栄に存じます」サムルは深々と頭を下げた。「しかし、未だ女神の御前にて誓いをなさぬ(わたくし)めに、そのお言葉は早すぎるかと」
 サムルの答えに、父は鷹揚に頷いた。これも、結局は様式であった。このような事が公式の場では多いのだろうかと、エリスは不思議に思った。二人は当たり前のように、意味があるのがないのか、エリスには分からない形式的な会話を暫く続けた。
 父が再び高座に戻ると、サムルはエリスに向き直った。いつの間にか、サムルの手にしていた杯がなくなっていた。
「後で少し、二人でお話ができますか」
 密やかな言葉に、エリスは少し愕いてサムルを見上げた。
「船の件で」
 その意味を察して、エリスは小さく頷いた。サムルの父親ヴェステインがどのような判断を下したのか、エリスにも興味があった。そもそもの問題であった同伴する奴隷については、既に父は何らかの連絡を受けているのであろう。それでなければ、上陸からこうも早く事は運ばなかっただろうと思った。交易島にヴァドルが行った際に、既に返答はあったのかもしれない。その事を知らされなかったのは、ひとえに結婚は家長の判断によるものであるからだろう。
 こうして儀式が行われた以上は、二人きりで話す事があろうとも、オルトとて咎めはできないとエリスは知っていた。問題は、いつ、抜け出すかだ。間もなく、ハラルドや大勢の部族の者達がやって来る。明日には、サムルは出航するだろう。
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