第10章・真相

文字数 6,610文字

 ティナは船団が遠ざかってゆくのを見守った。
 一応、言われた通りの事はした。
 族長の妻として、きちんと北海の正装に身を包んで部族の人々の前に出た。
 その気もないのに「ご無事なお帰りをお待ちしております」とも言った。若干、棒読みに近かったが、致し方あるまい。訛りのある北海の言葉で言ったのだから。それに、あの男もまともに聞いている様子もなかった。
 昨夜(ゆうべ)の態度とは大違いだった。
 ティナは浜に背を向けた。人々もそれぞれに散り始めていた。オルトを伴に、ティナは館に戻った。そして、大広間の惨状を目の当たりにして顔をしかめた。床には杯や食器が散らばり、吐瀉物の酷い臭いがした。このようなところで朝食を供したとは信じられなかった。
 オルトに、奴隷を呼んですぐに始末させるように言った。床を隅々まで磨き上げるよう付け加えるのも忘れなかった。男達がいないと思うとせいせいした。
 大広間から入るのを諦め、ティナは裏に回った。
 寝室では既に女奴隷が片付けを始めていた。
 昨夜の事を思い出して、ティナはどうしようもなく顔が赤くなるのを感じた。あの男は毎日、ティナの身体を物のように扱うが、昨夜は違った。酷く酔っ払っている事は分かっていた。だが――
 ああいうのを、乳母達は夫婦の事と言っていたのだろうかと思う。最初から最後まで、男の態度は違った。まるで別人のようであった。痛くもなかった。却って、自分の中に火を見付けた思いだった。
 もしかしたら、心のどこかで男は、自分の事を愛するようになっていたのではないだろうか。自分も男を愛するようになっていたのではないか。
 そう錯覚するほどに。男は優しく思いやりに満ちていた。
 しかし、その思いは最後には脆くも崩れ去った。
 エリシフ。
 そう、男は口走った。
 それが女性の名である事は分かった。問題は、誰なのかという事だ。族長であるあの男でさえも自由にならぬ女性なのか。それは、どういった女性なのだろうか。人の妻のなのか、それとも別の部族の女性なのか。そのような女を忘れられずにいる男を笑ってやりたかった。少しでも自分に気があるのではないかと思った自分が恥かしかった。全てを委ねてしまった自分が恥かしかった。
 いや、自分にあの男を笑う事ができるだろうか。未だに、アーロンを想って夜半に涙する事のある自分に、その資格があるだろうか。
 恥かしさの余りに見誤ってはいけない。結局は、恐ろしい北海の族長であるあの男も人間であったという事なのだ。自分と、どこが異なっているというのだろうか。
 ティナは思った。互いに、手に入らぬ者に焦がれている。
 そんな共通点があるとは思わなかった。
 どのような事情があって、その女性を手にする事が出来なかったのだろうか。ティナは興味を持った。だから、オルトに訊ねた。
「エリシフ、とは、誰のことなの」
 その名を聞いた途端に、オルトは青くなった。
「どちらでその名を…」
「どこでもかまわないわ。誰のことなのか、知っているのね」
 誤魔化そうとするかのように、その目が動いた。だが、そんな事はさせないとティナは思った。
「知っているのでしょう」
 オルトは溜息をついた。話したくない事は明白であった。それでも、ティナは知りたかった。あの男に、あのような振る舞いをさせる女がどのような者なのかを何としても知りたかった。それは、女としての意地かもしれない。
「決して、ロルフさまの前では、その名を口にしてはなりません」
 オルトは震える声で言った。
「ロルフさまの――族長の前の奥方さまのことです」
 前の奥方。
 その事は考えもしなかった。あの男に前に奥方がいたなど、誰も何も言わなかった。この部屋にも女の痕跡は一切なかった。それだけに興味がわいた。
「どういう人だったの」
「お美しい方でした。でも、二人目のお子さまの出産で身体を壊されて、亡くなりました。もう、四年になります」
 四年も前に亡くなった奥方を、未だにあの男は思い続けているのか。それに、それに、オルトは何と言った。二人目の子供、と言わなかっただろうか。
「子供が、いるの」
 この館に起居してひと月になったが、子供の姿は見た事がなかった。気配すらもなかった。あの男に子供がいるなどとは信じられなかった。
「おられました」
 オルトは過去形で言った。では、二人とも亡くなったのだ。だから、あれほどにまであの男は子に執着するのかもしれない。男というものはそういうものだと乳母も言っていた。中つ海でも、赤子や幼い子が生命を落とすのは珍しい事ではなかった。この北海に於いては猶更だろう。
「お二人とも、つい先ごろ、亡くなられました」
 それは、ティナにとっては思いがけない言葉であった。
「つい先ごろ、とはどういうことなの。どうして亡くなったの」
 オルトは青い顔で真っ直ぐにティナを見ていた。その表情からは、哀しみ以外は何も窺うことは出来なかった。
「初めての、航海だったのですわ」オルトは言った。「お二人とも、それははしゃいで、族長と共に海に出ることを楽しみにしていらしゃいました。交易島は中立、だから子供を連れて行っても安全と、誰もが思っておりました」
 交易島。確かに、そこには世界中の人間が集まって来ると聞いていた。島の平和を守る為に武器の使用は禁止されているという事も。
「しかし、そうではなかったのです。詳しくは何があったのか、ロルフさま以外は知らないようですが、北海の商人の娘と共に、お二人とも中つ海の男に殺されておしまいになったのです」
 中つ海の男。
 ティナははっとした。
 あの男の殺した飲んだくれの騎士。
 あの騎士が、恐らく、二人の子供を殺したのだ。
「とても愛らしいお子さま方でした。エリシフさまにそれはよく似ていらして――ロルフさまも大変な可愛がりようでした」
「前の奥方を愛していたのね」
 ティナの声は震えた。だが、オルトはそれには気付かぬようであった。
「はい。それはもう、エリシフさまもロルフさまも、とても愛し合っていらっしゃいましたわ」
 愛した奥方によく似た二人の子を亡くしたからといって、ティナを連れて来る必要があっただろうか。わざわざ、自分に子供を産ませる必要があるのだろうか。
 ティナは背筋が寒くなるのを感じた。
 そうだ、もし、男が自分を望まなければどうなっていただろう。弟は殺され、自分と妹達は乱暴された挙句に殺されていたかもしれない。北海の海賊の事だ、それだけで済むだろうか。
「お子たちは、まだ七歳と五歳でいらっしゃいましたわ」ティナの心に気付かぬのか、オルトは話し続けた。「商人の娘は十六歳であったといいますから、親の嘆きはいかばかりでございましょう」
 その責任の一端を、自分は担わされたのだ。
「二人は、どこに葬られたの」
「大広間の入口の脇でございます」
 あの小さな塚。あれが、男の子供達の墓だったのだ。
 急にティナは男が憐れに思えた。愛する妻を亡くし、その忘れ形見である子供達まで、失った。それも、ティナの弟よりも幼くして。あの酔いどれ騎士のせいで。
 いかに酔っていようが、交易島の法を犯すのは看過できない。しかも、女性と幼い子供二人だ。領地に戻ったとて、父がいかようにでも処罰を下したであろう。だが、騎士はあの男に捕まってしまった。残酷な事で知られる北海の族長に。そして、あの騒動が起こったのだろう。
 たかだか二隻の船で中つ海の領地へ乗り付けるのは、蛮勇としか言えない行動である。いかに北海の戦士と謂えど、城砦の騎士と兵士を以てすれば簡単に追い払えたはずだ。そう、人質さえいなければ、事はもっと簡単に運んだはずだ。
 騎士は何よりも人命を優先する。
それが同胞ならば猶更だろう。どれほどの嫌われ者であろうとも、共に戦う仲間だ。そこが弱みでもあったのか。
 あの男が何を考えて、ティナをここに連れて来たのかは分からない。オルトもそれを知らないだろう。男は余り口数の多い方ではなさそうだった。また、話すほどの事でもないと思われているのかのどちらかだろう。
 自分一人が犠牲になる事で大勢の生命が助かるのならば、それも良しとしなくてはならないのだろう。何と言っても、自分は領主の娘なのだ。いざという時には真っ先に犠牲にならなくてはならない事もあるだろう。今回が、その良い例だったのかもしれない。
 ティナは後に残してきた家族を思った。もう、自分の事は死んだものとして諦めただろうか。それとも、まだ嘆きの中にいるのか。
 嘆いたからと言って、何かが変わるものでもない、といつかは気付くのだろう。それが遅いか早いかだけの話だ。

 オルトの話を聞いてから、ティナは入口の塚が少し恐ろしくなった。そこに遺体が埋まっているのかと思うと、そのすぐ傍で生活するのは躊躇われるものがあった。だが、人々はそのような事には無頓着なようだった。ここでは、死者を戸口の近くに葬るのが一般的なのであろうかと思った。
 塚の小ささが、子供達の幼さを強調しているように思えた。自分には何の責任もないはずであったが、ティナは罪悪感なしにそこを通る事ができなかった。会った事もない子供達であったが、その奥の母親の塚が二人を守っているように感ぜられた。お前達が、殺したのだよ、と。
 自分は完全によそ者だった。望まれて来たとはいっても、そこには愛はない。まだ、あの男は死んだ奥方を想っている。そして、亡くした子を取り戻そうとするかのようにティナを孕ませようとしている。いや、もう孕んでいるのかもしれない。
 その男も、今は海の上だ。
 父の領地を襲うのかもしれない。舅であろうと、それはあの男には何の意味も持たないのだろう。縁は切れたのだ。北海から中つ海の事を思っても届きはしない。中つ海とは違う神の棲うこの地では、ティナの願いは聞き入れられまい。
 男達が帰って来るまでひと月かふた月はかかるという。その間、ティナは自由だ。とは言っても、この島の中だけに限られるが、それでも、毎晩凌辱される生活から解放されるのは有難かった。
 そのようにして得た家族で、あの男は何を望むのだろうか。
 愛してもいない自分との間にできた子でも、愛せるのだろうか。
 十七歳のティナには分からない事が多すぎた。
 これは政略結婚だと考えればよいのだ、と以前には思った。その思いに今も変わりはない。だが、男の経験した事を知り、ティナの心には変化が生じてきていた。
 これはただの政略結婚ではない。男の復讐も兼ねているのではないだろうか、と。自分の子供達を殺した騎士に父は責任がある。その領主の娘を辱める事は、あの男にとっては意味があるのだろう。だから、最初は打擲もしたのだろう。
 いずれ、それは変わるだろうか。男の中で復讐が終わったと感じる時が来るだろうか。それが来るのだとしたら、いつだろう。
 ロルフ。
 ティナはこっそりと男の名を口にしてみた。
 聞き慣れない名であるのは仕方のない事だが、それでも、悪い響きの名ではない。
 元凶はあの騎士だ。だが、そのような事はあの男――ロルフには関係のない事なのだろう。相手は誰でも良かったのかもしれない。弟でも、ティナでも。だから、自分の生命が取られなかったのは幸いと考えるべきなのだろう。
 可哀想な人だ、そう思った。怒りをぶつける事でしか哀しみを癒す事が出来ないでいるのだ。気持ちのやりどころを知らないのだろう。ティナにも、そういう時にはどうすれば良いのか分からなかった。だが、ロルフのやり方が正しいとは思えなかった。他人にそれをぶつけるのは、決して許される事ではないと思う。自分がロルフの立場だったとしたら、どうだろう。果たして、復讐せずにいられるものなのだろうか。それは、女の考えでしかないのか。
 ティナには分からなかった。

 あの恐ろしい北海の男達が館に来る事はないのだと思うと、ティナはほっとした。女達も背が高く、体格も良かったが、男達よりはましだった。中庭で糸を紡いでいると、生け垣の向こうからはいつもと変わらぬ賑やかな声が聞こえてきた。頼りになる者達がいなくなって心細くはないのだろうかとティナは思った。
「男の人達がいなくなっても、皆、平気なの」
 ティナはオルトに訊ねた。
「皆、慣れておりますから」
 それがオルトの答えだった。エリシフと子供達の一件以来、オルトは少しよそよそしくなった。ロルフの口にしない事を、自分からティナに知らせた事を後悔しているのかもしれない、とティナは思った。
 北海の慣習は中つ海とは全く異なっていた。だが、徐々にではあったが、ティナは憶えていった。
 この北海まで攻めて来るような者はいないにしても、嵐の時など、男手が必要な時もあるだろうに、と思った。だが、北海の女達はそんな事は平気なのかもしれないし、自由人と呼ばれる人々も奴隷もいる事から大丈夫なのだろうと思い直した。
 静かな日常だった。ロルフがいないだけで、こんなにも心が落ち着くのだと改めて思った。夜に怯える事もなければ、機嫌が悪くなりはしないかと気遣う事もない。つかの間の自由であったとしても、それを享受しない手はなかった。良人の物作りは一旦終了して、自分の冬支度にかかった。北海の冬は厳しいと言う。だから、オルトの言うように分厚く不格好な手袋や靴下を作り、外套を仕立てた。それでも寒い時には、上から毛皮を着るのだと言われた。中つ海では、毛皮は外套の襟や袖口に使われる程度だ。獣の皮を着るというのは抵抗があったが、寝床には夏でも毛皮が敷かれていたので、ここの人々にとっては、毛皮は非常に身近なものなのだと感じた。ロルフの遠征の支度品の中にも、毛皮は入っていた。
 ロルフの事に考えが及ぶと、ティナは複雑だった。帰って来なくても良いと思う時もあれば、帰って来たらどう迎えようと思う時もある。両手(もろて)を上げて歓迎する訳ではないにしろ、二人の子供の話を聞いて以来、ティナの心には変化が生まれて来ていた。ただ毛嫌いするだけではなく、何とか折り合いをつけてやって行こうという気持ちが生まれつつあった。
 アーロンの事を忘れた訳でも、慕う気持ちが減じた訳でもなかった。ただ、もう二度とは会う事のない人を思って枕を濡らすより、政略婚であっても毎日顔を合わせる人と生きて行かねばならない方を優先するだけの事だ。向こうが態度を軟化させないのならば、こちらから先にそういう態度を見せれば、相手も変わるのではないかと思った。いずれにしても、逃げ場はないのだ。この島でロルフの妻として生きて行かねばならないのだ。それならば、少しは前向きになった方が良いのではないかと考え方を変えた。アーロンを想う気持ちに変化はなかったが、仕方のない事だった。いずれは、自分もこの島で母になる。そうなった時に、産まれてくる子を愛せないのでは、余りにその子供が可哀想だ。政略結婚であっても、両親は自分達を愛してくれた。そのように、自分もしたかった。それには、ロルフを違った目で見ることも必要であった。
 二人の子供を失って、ロルフはどれほど哀しんだであろうか。傍から見ていても、それは分からない。ロルフはティナから全ての感情を隠していた。だから、ティナもロルフの苦しみと哀しみに気付かなかった。
 それを少しでも和らげる事が出来れば良いのに、と思わずにはいられなかった。復讐されたとは言え、同胞の、父の部下が犯した罪だった。ロルフの側にいるティナが償わなくてどうするというのだ。それは、やはり、子を産んでロルフに再び家族を持たせる事になるのだろうか。ロルフはそれを望んでいるようだ。また、自分に出来る事と言えばそのくらいなものであろう。子供を産む道具扱いされるのは嫌だったが、今のロルフの心の状態では仕方がないのかもしれない。家族を持てば、それも変わるかもしれない。
 本当の事を知って良かった、とティナは思った。もし、この事を知らなければ、何時までも自分は自らの憐れみの中から立ち上がれなかっただろう。また、知った時期も良かった。ロルフの不在で、ゆっくりと考える時間ができたし、気持ちの整理もつけられる。それは、同時にアーロンを思い切るという事も意味していたが、未来のない想いにいつまでも囚われてるのも愚かだった。
 ティナは未来へ目を向ける事にした。
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