第56章・混迷

文字数 11,586文字

 オルトの調子はなかなか戻らず、ロルフは焦燥を感じていた。
 年齢と病を考えれば、全快する事はないであろうと療法師は語った。心臓の病は決して治る事がないのだというのは、ロルフも知っていた。だが、それがオルトの身に起るとは思ってもみなかったし、ヴァドルも同じであったようだ。如何にヴァドルが族長家の管理をする事がオルトの生きがいであると言おうとも、ロルフは隠居させる考えを固めていた。ヴァドルの気持ち次第ではあったが、このまま館で面倒をみるのもやぶさかではなかった。
 エリスの手腕なのか、館の全ては順調に動いていた。暫くの間であるならば嫁入り前の良い経験にもなろうが、いつまでもエリスに頼る訳にもいかない。ウナの評価がオルトの中で低いとなれば、新たな者を探さねばならなかった。
 これには、ロルフもヴァドルも頭を抱えた。病篤いオルトを煩わせぬようにと配慮した結果、誰を候補とするべきかも問えず、ずるずるとそのまま、ひと月が過ぎてしまうという事態に陥った。新たな者が館に慣れる時間やエリスの支度を考えれば、そろそろ限界であろう。
 寡婦や独身のままでいる娘を探したが、誰もが一長一短であった。家族や後見人と話をしても、オルトの後任というだけで怖気付いて断る者さえいた。オルトの仕事ぶりは、集落の者から見ても完璧であったのだ。その後釜ともなれば人の見る目も厳しくなろうし、例えロロの結婚までの話だとしても、評判によってはその後の人生に影響も出ると思われた。無事に役目を終えれば新たな結婚話も持ち上がろうが、何かしらの失敗を犯したとなると、集落にはいられないと考える者もいるだろう。身内に瑕疵(かし)があってはならないと思う者がいたとしても、責める事はできない。
 行き詰まってしまった以上は、オルトに直接問う他はなかった。
「それで、構わないのだな」
 ロルフはヴァドルに訊ねた。この男も、オルトの事で憔悴している。年長者が自分よりも早くにいなくなるのは、自明の事であった。だが、ロルフにも身に覚えがあったが、肉親に関しては違う、と思ってしまうのだ。
「エリス様は御支度の方もございます。早くに決めてしまわぬと、差し障りが出かねません。それは、母には許せぬ事でしょうし」
 気性から考えて、オルトは全てを自分のせいだと思うだろう。歳と病は人の自由にはならぬものであっても、オルトとはそういう人間である。自責は療養に障りがあるのではないかと、ロルフも心配であった。それでも、二人はぐずぐずとしていた。どちらも、その話を切り出すのは気が重いのだ。
「お話し中、失礼いたします」オルトに付けている女奴隷が二人に声をかけてきた。「オルトさまが、族長をお呼びになっていらっしゃいます」
 今まで、オルトから呼ばれる事はなかった。二人は顔を見合わせた。
「分かった」
 不審に思いながらも、ロルフは立ち上がった。ヴァドルもそれに続く。
 部屋の前で、オルトから事前に入らなくとも良いと言われてでもいたのであろうか、女奴隷は脇に退いた。
 病人の部屋に入ると、ヴァドルは扉の前に留まった。オルトが呼んだのはロルフであるので、邪魔にならぬように暗がりに身を潜めた。煩わせまいとする配慮だ。
「オルト、お前が私を呼び出すとは珍しい。何か、急ぎの用件か」
 なるべく平静を装ってロルフは言い、隅に()けてあった床几を引き寄せた。ゆったりと見えるように注意しながら座すると、オルトを見た。ロルフは、患い付いてから初めて、その顔をじっくりと見るなと思った。
 オルトは、鯨油蝋燭は明るいとはいえ、顔色などの細かな点までは判別できなかった。揺らめく火は、皺をより深く見せていた。上掛けの毛皮の上に置かれた手も、痩せて骨も筋も浮いている。髪も殆どが白くなっていた。この頃は縁に赤い糸で刺繍を施した布で頭部を覆っており、その下から垂れる三つ編みは確かに白くはあったが、若干、痛々しさは和らぐような気がした。
 年相応の老け具合なのであろうが、元気に立ち働いていた頃のオルトは生き生きとして、年齢を感じさせた事がなかった。それも、ロルフやヴァドルが見誤った原因の一つであろうが、もう少し注意深くあるべきであったと後悔した。
 ヴァドルにもオルトにも申し訳ない事をした――ロルフの中に苦いものが広がった。子供達も不安に駆られているだろうし、このような事は自分が真っ先に気付くべきであったのだ。
 ロロを始めとする戦士の館にいる男の子達は、暇を見てはオルトを見舞っていた。決して楽観しているのではない子供達の顔に、ロルフは暗澹たる思いであった。怪我人や病人など、死は日常である。それでも、子供達にとり、身内を失うのは物心ついて初めての事なのだ。いつかは経験しなくてはならないが、子達が哀しみに沈む姿をロルフは見たくはなかった。
「ロルフさま」オルトの声は張りがなく、小さかった。「わざわざご足労を願いまして――」
 能書きは良い、とロルフは(かぶり)を振った。早く本題に入った方が、オルトの負担も少なかろうと思った。
「わたしは、恐らく、もうこれ以上は恢復することはないでしょう」
 そんな事はない、とロルフは反論しようとしたが、オルトの微笑みと自分に向けられた目に言葉を失った。正直で残酷な療法師は、オルトに問われて真実を話したのだろう。
「今以上に悪くなる前に、あなたさまに申し上げておかなくてはならないことがございます」
 ロルフは頷いた。
「わたしは、多くの者を見てまいりました。ですから、誰がどのような仕事に向いているかを、見抜く目は持っていると自負しております」
 これまで、オルトの采配が誤った事はなかった。ロルフはオルトの人選を信用していた。
「あなたさまに指摘され、新たに考えました――この館を維持、管理して行くのに相応しい人物は誰であるのかを。あなたさまはウナをお考えのようでしたが、わたしの考えは変わりません。あの者は、主婦として小さな家を任せることはできても、この館は無理でございます。人には分というものがございますわ。それは、あなたさまも充分に分かっておいでのこととは存じますが」
「そうだな、ウナはでは役不足だ。数日で、それは明らかになった」
 ロルフの声は低くなった。オルトの前で自分の不明を認めるのは恥ではなかったが、良い歳をして、と思うと自然と構えてしまう。
「では、今、館は誰が切り回しているかを、ご存じでいらっしゃいますか」
「エリスであろう」
 オルトの顔に、再び笑みが戻った。それは、まるで気の利かない子供に対するかのような笑みであった。最早、壮年であるというのに、まだ子ども扱いをされる事に抵抗したい気持ちもある。だが、結局は生まれた時から世話を受けている者の弱味であろうか、何も言えなかった。
「エリスさまは冬が終われば、この館を去ってしまわれます。そのような方には頼めぬことはお分かりでしょうに」
「問答をしている場合ではない事は、お前も分かってはいるはずだ」
 ロルフは少しむっとして言った。自分達が困惑し、難儀しているのを他所から眺めているようなオルトの言葉に、苛立ちを隠せなかった。
「ええ、重々、承知しております」
 オルトは余裕のある様子で言った。ロルフが如何に憤ろうとも、オルトは動じた事がない。
「誰か、良い者に思い至って呼んだのではないのか」
「それは、あなたさまとヴァドルとでは見つけられなかったということで、よろしいですわね」
 不満を胸に、ロルフは溜息をついた。
「我々は忙しい。奥の事にばかり、かかずらっている訳にもいかん」
「でも、これで、その大切さが身に染みたのではありませんか」
 全く、オルトの言う通りであった。顧みた事がないのは反省しなければならない。一刻を争うような事ではなかったが、悠長にしていて良いという問題でもなかった。女の世界であるからと放置していた責任はロルフにあろう。オルトは必要とされている以上、自分から役目を降りる人間ではない事を良く知っていたはずだ。
「あなたさまを責めるつもりはありませんわ」オルトは静かに言った。「でも、ロルフさま、あなたにも知り得ないことがあるのは、理解していただけましたでしょうか」
 無言でロルフは頷いた。オルトは、いよいよ、本題に入るようであった。

    ※    ※    ※

 エリスは仕事に集中しようとした。花嫁衣裳に刺繍を施すのだが、これがまた、難しかった。今までは面倒だからと避けていたので、裳裾に刺繍するのは初めてだった。刺さなくてはならない部分が延々と続き、決して完成しないのではないかという思いに囚われた。
 婚礼の日以降は仕舞っておかれるであろう衣裳に、細かな多色使いの刺繍を施すのは贅沢だ、と思った。ここまで良い生地と銀糸を使うのであれば、ただのお祭りには着られない。若くで死んだら死に装束にでもしてもらえるかもしれないが、その他の用途と言えば、集会に訪れた族長を迎えるのには相応しいかもしれなかった。だが、自分にはそのような機会が訪れる事はないと知っている。族長の甥の妻とは、例え族長の娘であろうと、そのくらいの立ち位置である。
「ウナは婚礼の時の衣裳は、後はどうしたの」
 エリスは針を止めて言った。何かと理由をつけては中断しようとするのは、怠惰である証拠だと思ったが、気の進まない仕事を続けていると直ぐに疲れた。
「わたしのはですね、こんなに良い生地でもなければ銀糸なんかを使ったわけではありませんでしたから、夏至祭や集落の結婚式にお邪魔する時などに着ていましたね」
 ハラルドの支度品を作りながら、目も上げず、手も止めずに答えた。
「わたしのは、そんな時でも着られないわ。贅沢すぎやしないかしら」
「族長のただ一人のお嬢様のお輿入れですもの。どれほど豪華であっても、贅沢すぎるということはありませんわ。この島から他の族長家へのお嫁入りにしても逆にしても、数十年ぶりのことですから、族長は糸目を付けぬつもりでいらっしゃるとオルトさまはおっしゃっておられましたし」
 自分の母の事は忘れられている、とエリスは哀しくなった。誰の記憶に残る事ないような、そんな婚礼であったのだ。ヴァドルの話では、とても性急で、二人の幼い子達の葬儀直後に行われたのだという。父は真新しい哀しみと恨みを胸に、母は何を考える暇もなく儀式に臨んだのだろう。それは集落の人とて同じであったに違いない。
「昔、年寄りから聞きました族長のお祖母さまの婚礼は、それはそれは見事なものであったらしいですわ。花嫁衣裳や持参財はもちろん、族長家への贈り物なども、素晴らしかったのでしょうね」ウナは手を止め、うっとりとしたような顔で宙を見上げた。
「エリスさま、向こうへいらっしゃいましたら、あちらの部族民にエリスさまのお荷物を披露することになるのですから、しっかりとお励みくださいませ。笑われるようなことがないようにいたしませんと、族長と花婿さまの名に傷がつきます」
 エリスはうんざりとした。集落で行われる結婚式でも、それは同じだ。あそこの嫁は素晴らしい刺繍や織物や編み物の腕の持ち主だ、とか、あれだけの結納財を支払っただけの価値はある、など、口さがない人々が言うのを子供の頃から見聞きしていた。更に、高価な持参財を持つ者より、趣味良く手業(てわざ)に優れている者の評価の方が高く、女達の中でも一目置かれるという事を、この夏の間に観察して知った。カトラ言葉によると、一人で生きて行けるだけの技量は皆に尊敬されるとの事だ。
 それでは自分は論外かもしれないとエリスは思った。女の仕事はどれも大して上手にできる訳ではなかった。堅焼き麺麭(ぱん)を作れば焦がすし、糸を紡げば節ができ、結び編みはこんがらがり、服を仕立てれば生地の裏表がちぐはぐになりがちで、とできない事を挙げればきりがない。
 できない事よりもできる事を数えろ、と人は言うが、エリスはどうしても、できない事にばかり目がいってしまった。それを知ってカトラは、自分に自信がないのはどうして、と訊ねてきた。あなたは族長の娘で、若くて美しいわ。どうして自信を持たないの、と。
 弟達の面倒を見る事に明け暮れ、自信もないのにある

をするのに慣れてしまったのかもしれない。
 それに、容色は歳を取れば衰える。誰しも、若いままではいられないのだ。そのようなものにしがみついても仕方がないと考えていた。
 現実的ねえ、と笑ったカトラの声が聞こえるようであった。もう少し、頭をやわらかくしないと生きづらいわよ。
 あなただってそうでしょう。そう反論したエリスに、カトラは肩を竦めた。
 わたしもね、夢も理想もあったのよ。でも、現実を見てしまうと、割り切った考え方のほうが楽だ思ったの。でも、あなたはまだ、現実を知らないでしょう。
 カトラの言う「現実」が何であるのか、エリスには想像しかできなかった。例の事を示しているのか、いないのか、カトラは明確にはしなかったのだ。
 父は、幼い頃から思っている通りに、美しい。(よわい)を経るに従って、その輝きと存在感は増してゆくように思われた。
 それに反して母は、父とは逆に、まるで年々、存在が薄く小さくなってゆくようであった。
 愛情も好意も、更に言えば尊重する気もない父によって母の全ては失われ、生気さえも枯渇しつつあるように感じられた。
 それがエリスの「現実」だった。だからこそ、理詰めで結婚を持ちかけたサムルに同意したのだ。アスヴァルドを選んでいれば、族長の娘という肩書きや容貌の衰えとは無縁の、それなりに幸せで穏やかな人生が送れたのかもしれない。その(みち)を選ばなかったのは、母の不幸を見ないふり、なかったふりをして生きて行く事などできなかったからだ。ヴァドルの口から過去の話を聞き、その想いは一層強くなっていた。
 ただ我慢をし、目立たずにいる事が母に課せられた人生であったとしても、少しでも安らげて平穏な日々が送れる可能性があるのならば、それを選ばぬ理由はなかった。母には許されてはいない選択肢を、エリスは持っているのだから。
 それが父への反抗であっても、弟達が自分の味方をすると言ってくれたのは心強かった。殊にロロは族長の相続権を賭けての決断である。母が不当に扱われている事くらいはエリスも知ってはいたが、弟達は殴打と恐怖に支配され続けている事さえも知っていた。そして、それを幼い胸の中にしまっていた。
 反撃を試みない母を、中つ海の人間である母を、人々は助けない。ならば、子供である自分が動かなくて、誰が動くと言うのか。ロロは半ば強制的であれ結婚をするだろう。他の弟達とて、今後、恋をしないとも限らない。自らの家庭を持てば、親に対する責任よりもそちらの方に重きが置かれる。父に反抗するのは容易ではなくなるのだ。
 これまでに、一度として周りにいる男達を意識した事のないエリスが、最も身軽であった。
 相手に現れたのがどうでも良い男ばかりならば、嫁いだとしても盛大にやらかして戻されるのも手であった。だが、アスヴァルドはエリスの気性も全て受け入れると言ってくれた。ケネヴはとにかくお人好しの実直者だった。どちらもそのような事態になれば傷付くであろうし、誰であっても自分の為に心を痛めるのは避けたかった。実際的な考えのサムルがいなければ、自分は途方にくれていたのかもしれない。
 針を持つ手が震え、視界がぼやけた。
 自分は、果たして、どれほどのものをあの男に負っているのだろうか。
 サムルはこちらの事情を知らなくても良い。
 また、何かを気付いたとしても、殊更にエリスにそれを指摘してくる男でもなかった。
 この心にある全てをサムルに打ち明けられたら、と思う事もあった。例え、エリスらしくもなく泣いてしまったとしても、サムルならば、あの時にそうしてくれたように抱き締めてくれるのではないだろうか。そんな風に考えたりもした。
 いつの間にか、自分はカトラよりもサムルを頼りに思っている。
 その事に気付いた時には愕然とした。だが、それも仕方がないのかもしれない。カトラは年長とはいえまだ十八歳だった。集落を出るのは夏至祭の時くらいで、後は生まれた場所から殆ど動いた事がない未婚の娘であった。
 返って、サムルは二十五歳で経験を積んだ正戦士であり、北海の島々ばかりではなく、交易島や中つ海にまで足を延ばしている。様々な物事を見聞きする中で、得た知見も多かろう。
 寄り添い、共に楽しみを分かち合うにはカトラが良い。だが、相談し、頼るにはサムルの方が良いような気がしてきていた。女同士の気安さはなかったが、それでも、信頼に足る人であろうと思う気持ちは、日々大きくなっていた。
「エリスさま、手が止まっておりますわよ」
 ウナの言葉にはっと、エリスは我にかえった。
 いつの間にか、考え事に耽っていて針を動かす事を忘れてしまっていた。最後に心に浮かんだ事を思い出し、エリスは恥かしくなった。
「大丈夫よ」
 気を取り直して、エリスは再び手を動かした。
「あまり根を詰めるのはいけませんが、少し、お急ぎにならなくては」
 選んだ模様が複雑すぎる訳ではない。簡単すぎるのでもない。複雑だとエリスの技量では手に余るだろうし、模様が崩れてしまうだろう。簡単だと折角の装飾が映えない上に、良い生地に対して釣り合いが取れない。それだけの腕しか持たないのかと、相手の家の者や周囲に侮られる結果にもなりかねないのだと、面倒な事ばかりであった。
 女というものは、そういうところをよく見ていて人となりを判断するのですよ、とオルトは言った。男達も、複雑で色数の多い装飾のある服を好みますからね。紡ぎから始まって、織物、仕立て、刺繍という一連の作業は大事なのです。
 男が何を好もうと知った事ではないわ。
 そう言い返したエリスに、オルトは溜息をついたものだった。
 優れた手業を持つ妻の存在は男にとっても誇りであり、また、自分がその技量に値する人間であると自慢するのですから、とたしなめられたのは言うまでもない。短絡的な考えではいけませんよ、と少々厳しく言われた。夫の価値が自分の腕一つで上がるのですから、それは無視してはいけませんと。
 それが、妻として夫の庇護を受ける為に必要な事でもあると、オルトは付け加えた。
 贈り物の体裁を取りながらも、付届けではないか。エリスはそう思ったが、叱られるだろうから黙っていた。
 夫が妻に負うのは保護と権利の保障であるはずだ。だが、父と母を見る限りでは、それは守られてはいない。父は母を保護するどころか暴力をふるい、権利も認めはしない。
 母の刺繍の腕は素晴らしい。父が幾重にも首飾りや腕輪を着けていても、決してその邪魔にはならずに引き立て役になり、同じ色と意匠であるのに裾に刺されたものはしっかりと目立っていた。人はそれに気付かないのか、それとも、気付いていながら、父の母に対する態度を知っていて敢えて無視しているのだろうか。館に出仕していた娘達も、カトラを含めて、その事に触れる者はいなかった。
 母にしてそれであるならば、生地と刺繍とを同色にしたり、いびつであったり均整の取れていない自分の仕立てたサムルの服は、決して評価される事はないだろう。却って、サムルの評判を下げるのかもしれない。
 娶ってみれば、とんでもない嫁だった。
 そう思われるだろう。
 白鷹の娘というだけで、若さと少しばかり綺麗なだけの女だよ。他には何の取り柄もありはしない。
 笑って仲間に言うサムルが見えるようだった。
 悔しいという気持ちは、なぜか起こらなかった。理性的な結婚であれば、どう思われようとも致し方のない事だ。そういう諦めもある。これまでに自分も、散々にサムルの事を心の中で貶めてきた。信用できないの、地味だの、胡散臭いだの。だから、自分が相手に何を思われていようとも、文句を言えるものではなかった。
 それなのに、目の奥が熱くなる。
「大丈夫でございますよ、余裕をもって日にちは取ってありますので、少々お急ぎになれば、充分に間に合いますわ」
 余程情けない顔をしていたのだろうか、ウナが慰めるように言った。その事ではないのだとは言えなかった。勘違いしてくれる方が有難いとさえ思っている自分に、エリスは気付いた。
「わたしは、そろそろ厨房の方を見てまいりますわ」暫くしてウナが言った。「ここはお一人でも大丈夫ですわね」
 エリスは頷いた。いつの間にか、ウナが厨房を取り仕切り、エリスは自分の支度に専念する事になっていた。責任を誰かに任せられるのは良かったと思ったが、ウナで大丈夫なのだろうかとの懸念もあった。動顚し、何もできなかったウナの姿が、エリスの脳裏には、こびりついていた。
「お夕食までは、こちらで作業なさってくださいね。お衣裳は、決してこの部屋から持ち出さないことをお忘れなく。休憩に、何か温かなお茶でも運ばせましょうか。お茶をいただく際には、お衣裳はお片付けになってくださいまし。他の弟君はともかく、ハラルドさまは決して、お入れしてはなりませんわよ」
 急にしっかりと指示をするようになったウナに、エリスは違和感を感じずにはいられなかった。このところ、ウナはまるでオルトを思わせる調子で、エリスに対しても大胆な事を言うようになっていた。何がウナを変えたのか、エリスは不思議に思った。オルトが自分を真似るように言ったのだろうか。それとも、ウナ自身が考えを新たにしたのか。
「最近、ハラルドはおとなしいわね」
 エリスの言葉に、自分の道具の片付けをしていたウナは手を止めた。
「大広間で大人達に混じるのがお楽しいようです。時折、ボズが娘のランヴェイグを連れてまいりますし、父親達と共に遊びのお仲間が訪れもいたしますもの。こちらで悪さをされるよりはよろしいようです。夏には戦士の館にお入りになるのですもの、少しは落ち着ていただかなくてはなりません。それに、ヒャルティや学者戦士の方が勉学の進み具合も見てくださいますから、下らない悪戯をお考えになる時間もないと思いますわ」
 少しばかり寂しそうではあったが、ウナも、子供はいつか成長して離れてゆくものだという事を納得したようであった。オルトが言い含めたのかもしれないとエリスは思った。ウナのハラルドへの思いは執着と言ってもよいほどに、強かったのだ。何年も待ちわびてようやく得た子を数か月で亡くした事を思えば、それも分からないではなかった。自由民ではなく戦士であったのならば、ハラルドを養い子としたいと申し出ていたのかもしれないほどの可愛がりようであった。しかも、ウナはその後に夫にも先立たれた。血縁もいない。ハラルドがただ一つの心の拠り所であったとしてもおかしくはないのだ。
 ハラルドが見習いとしてこの館を出れば、ウナは仕事を失う。父はハラルドの面倒を見てきたウナを簡単に放り出すような事を、族長という立場からしてもするまい。だが、エリスには自信が持てなかった。母に対する扱いを知って以来、自分の抱いていた父の姿の全てがあやふやになってしまっていた。
 用済みとなったからと養育係を館から去らせるよりは、管理者として置いておく方がずっと良いに決まっている。集落に家を与えて後々の面倒を見る、再婚の世話をする、という方法もあったが、時機を鑑みれば、管理者としてこのまま館で使う方が実際的である。内情も族長家の人々の気性も心得ているウナ以上に適任者はいないと思われた。
 心配があるとすれば、オルトが倒れた時に大いに動顚し、何をどうすれば良いのかも思い至らずにいた事であろう。突発的な出来事には弱い可能性がある。
 しかし、オルトがいたついてひと月余り、エリスに先んじて厨房や奴隷達に指示する事も増え、今ではエリスは婚礼支度のみに専念するようにとウナに言われるようにまでなった。
 何かがウナの中で変化をしたにしても、それはエリスの埒外の事であった。陰にオルトがいても、今の様子を見る限りでは、後任を務めるのは充分であると思えた。
 後任が決まれば、ひとまずは安心してエリスはこの島を離れる事ができる。オルトの状態がどうあろうと、予定は変えられない。その時に何がどのようにあっても、夏の始まりに父が赴く族長集会で相手の同意が得られない限りは、取り決め通りに嫁がなくてはならないのだ。
 父は、決して時期をずらせはしないだろう、という思いがエリスの中にはあった。オルトもそれを良しとはしないであろう事も。例え、母に何かがあったとしても父は考えを変えないだろうし、ロロやハラルドに、であっても父は同じ決断をすると思った。族長は何事にも揺るがぬ

であると部族の者も考えているだろうから、父は簡単に物事を変える事はあるまい。
 如何にオルトの病に動揺していようと、父とヴァドルはその事を他の者の目から隠し通すだろうとエリスは思っていた。どれほど二人が大きな衝撃を受けていたとしても、部族にとってはオルトは館の管理人に過ぎない。ヴァドルに対しては母親の不調に気遣う者もいるだろうが、父にとり、オルトは乳母であった事を思えば、それほど篤い心を抱いているとは思うまい。
「お夕食になりましたら、誰かを寄こしますわ。大広間でお召し上がりになられるのでしょう」
「そうね」
 母は、普段に増して部屋から出て来なくなった。食事は全て部屋で摂り、姿を見ず声も聞かぬ日々が続いていた。まるで、あの恐ろしい年のようだとエリスは思わずにはいられなかった。
 スールの死からハラルドのお披露目まで、自分達姉弟(きょうだい)は母と会う事を禁じられていた。幼いオラヴとアズルが母の存在を忘れてしまわないようにと、エリスは懸命に母の話をし、何かと言えば引き合いに出した。オルトは忙しく、弟達を甘えさせる事がなかった。今から思えば、本当に母の具合が良くなかったのかどうかは怪しくはあった。だが、自分達は子守りに誰かの手を必要としていたのだ。それを許さなかったのが父であるのかオルトであるのか、エリスには分からなかったが、幼い子供に全てを押し付けるというのは、大人達の取り返しのつかない失態ではあった。
 大広間は男達の喧騒が渦巻いて嫌になる事もあったが、ハラルドがいる。末席で一人で食事するのも厭わない子ではあったが、やはりそれでは可哀想だった。
「では、しっかりとお励みになって下さいまし」
 ウナはそう言い、出て行った。
 一人残されたエリスは、渋々ながらも続きを刺し始めた。
 様々な思いが胸を去来したが、集中をしなくてはならない。仕上げられないのは唯論(もちろん)、雑なのも恥であった。
 サムルの恥にはなりたくない。
 ふとそう思って、すぐに打ち消した。
 苦手なものは苦手なのだ。エリスが刺繍を苦手な事くらいは、サムルも承知している。あの贈り物にしたところで、他の人と較べれば(あら)が目立つのも分かっていた。受け取った際の、嬉しそうな照れたような顔が見せかけだけのものであったとしても、エリスに非難する権利などない。周りには幸福であると見せる必要があったのだから、間違っているとも思わなかった。
 エリスは、自分が右手の中指に嵌めた指輪を無意識の内に(もてあそ)んでいる事に気付き、はっと手を止めてまじまじと指輪を見つめた。
 こんなに高価なものを贈らなくても良かったのに。族長の娘だから特別な物を用意しなくてはならない、という事はないはずだ。父に対して見栄を張りたかったから、だろうか。サムルに限って、それはないと思いたかった。むしろ、印象に残る物を贈り、自分の存在を誰彼なしに――殊にエリスに対して忘れぬように主張する意味があるのではないか。
 これが最後とばかりに、恋愛ごっこを楽しもうとする娘がいない訳ではない。だが、自分がそういった(たぐい)の人間であると思われるのは無性に腹立たしく、哀しい事であった。
 しかし、サムルがエリスの気性を心得ているのならば、そのような事はしなくとも良いと分かっているはずである。決して浮ついた人間ではないと自分では思っていたし、また、愛や恋を弄ぶ気もなかった。
 エリスの気性がどうあれ、全く関心がないという事であろうか。
 誰に何を思われようとも構わない。けれども、サムルには誤解されたくはなかった。どのくらいの時間を共に過ごす事になるのかは分からなかったが、仮にも夫婦として暮らし、最低でも男子を一人、もうける事を約したのだ。信用がなくては、とてもではないが耐えられはしないだろう。
 自分に信用のない事が悔やしい。
 サムルに関心を持たれない事が哀しい。
 その理由を考える心の余裕はなかった。
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