第18章・詩人

文字数 6,448文字

 交易島へ船が出る前夜にも宴は開かれた。それまでに、ロルフとヴァドルとは必要な物品を協議し合った。殆どは穀物であったが、中には交易島でしか手に入れることのできない絹や香辛料も含まれていた。族長家や部族として必要なものの他にも、交易島へは行かぬ戦士階級の家からの買い物の注文もあった。細々とした頼まれ物を記録して集計するのはヴァドルの仕事だった。苦手な書き物に歯噛みしながら対峙していたせいか、宴ではほっとしたような顔をしていた。
 今宵はあの女もロルフの隣で宴に参加していた。スールの名づけの時の宴に少し顔を出したきりであったが、この夜は顔色も悪くはないようであった。
 正直、ロルフは女が同席していようが、どうでもよい気分だった。最初は確かに、出席して奥方らしくしている事に拘泥したが、今ではそれもどうでもよかった。所詮は中つ海の女だった。誰も女が出席しようがしまいが、気にもかけてはいないようであった。それは、女のこの部族での立ち位置を示しているようにロルフには思えた。
 ロルフの高座の横にはエリスが立っていた。普通、このくらいの年の子供は宴には出ないものだが、エリスのお気に入りの詩人が去る前日でもあった。どうしてもと頼まれれば、少しならばと譲らないでもなかった。非常に人懐こい子で、しかも赤ん坊の頃に感じた美しさを少しも減じてはいなかった。ひょっとするとエリシフよりも美しいのではないかと思う事があった。そろそろ嫁入り支度の準備を始めているようであったが、ロルフにはそれはまだまだ先のように思えた。
 やがて、宴も進んで行くと、詩人のウーリックが暇乞いにやって来た。ロルフとしては、この若い詩人を手放したくはなかったのだが、漂泊に身を置く事をよしとする者を無理に引き止める事はできない。
「三年もの間、お世話になりました」
 若い詩人は(こうべ)を垂れて言った。「長きに渡る御厚情に感謝を、申し上げます」
「ウーリックよ、お前ならばいつでも歓迎しよう」
 詩人は更に深く頭を下げた。
「有り難き幸せに存じます」
「ウーリックはどうして行ってしまうの」
 エリスが訊ねた。
「私には詩人としてやりたい事があるからです、エリス様」
「それが終わったら、この島にもどってきてくれるの」
「そればかりは、分かりません」
 詩人の答えに、幼い娘は少し、機嫌を損じたようだった。
「あなたがいなくなると、つまらなくなるわ」
「そう言って頂ける内に去るのが花でございますよ」
 ウーリックは微笑んだ。この男は、師匠から独立して間もない。まだまだあちらこちらを巡って経験を積む必要があるのだろうと、ロルフは思った。子供達が気に入る詩人というのは、本当に少ない。ウーリックはその稀な人物であったが、それは若いばかりではなかった。
「いつでもこの島に戻って来るが良い、歓迎する」
「有り難き幸せに存じます」
 詩人は深々と頭を下げた。
 そして、女の方に向かった。列席している以上は、礼を尽くさねばならないのだろう。
 ロルフは注意を娘に戻した。前の二人の子供にも、宴に時折参加させていた事を思い出した。そして、子供の成長は早いものだと思った。特に、娘だからそう思うのかもしれない。後十年もすれば、輿入れの話も出るだろう。いずれは自分の手の届かぬ場所へ行ってしまうのだ。娘に余り構うものではないとロルフは思わずにはいられなかった。
 女とウーリックは別れの挨拶を交わしていた。ウーリックが床に頭を擦り付けるのではないかと思うくらいに深く下げ、女の裳裾に唇付けた。
 その仕種に、ロルフは苛立ちを憶えた。詩人と族長の奥方との間の敬愛の表現としては行き過ぎている。女は少し愕いたようだったが、ウーリックの仕儀を止めようとはしなかった。
 二人の間にどれ程親密な感情があろうとも、それを吐露するのはこの場ではない。そして、ウーリックの仕種はロルフに対する挑戦だと取られてもおかしくはないのだ。宴に参加している者達はその事に気付いた様子はなく、ロルフも気付かぬ振りをした。
 心中は平静ではなかった。
 女はロルフの所有物だった。他の者が手を出しても良い存在ではなかった。だが、その心をまでも所有できるものなのだろうか。密かに女とウーリックが心を通わせていたとしても、それを自分がどこまで止められるものなのだろうか。
 幸せな結婚ではない事は、詩人の慧眼をもってすれば簡単に見抜けるだろう。ウーリックはそこにつけ込むような、下種な男ではない事くらいはロルフも承知していた。だが、三年もあれば、二人が互いの気持ちを確かめ合う機会は幾らでもあっただろう。
 ロルフは不機嫌に蜜酒を飲み干した。父親の機嫌が変わった事に気付いたのか、エリスが不思議そうに自分を見上げてる事に気付いた。何でもないと言うように、その頭を撫でた。
 そう、これは何でもない事だ。二人が情を通じていたというのならば別だが、それは有り得ない。オルトや奴隷の目を隠れて、そのような事が可能だとは思えなかった。もし、そのような事があったのだとすれば、ロルフは全ての子の父親を疑う事になる。また、女はそれ程器用にも見えなかった。
 気付いた時には、ウーリックは席に戻っており、ヴァドルと何事かを話していた。
 何が二人の間に交わされたにせよ、それはロルフの生活を危うくさせるものではないはずだ。女は、ロルフの怒りを知っている。そして、それを恐れているはずだ。そうである以上は、おかしな行動はするまいと思われた。

    ※    ※    ※

 ウーリックが裳裾に唇付けた時、ティナは大いに愕いた。
 中つ海では、それは男性から女性への崇拝を意味していた。婚約が決まった時、アーロンはティナの足下に跪き、そうしたものだった。だが、この北海ではどのような意味を持つのであろうか。
 こればかりは、オルトにも訊く事ができないとティナは思った。
 何か、重大な意味が隠されていたとすれば、それを他人に公にするのは憚られた。だが、ウーリックはそれを公衆の面前で為したのだ。誰も見ていなかったにせよ、詩人の意図をティナは測りかねた。素早く横目でロルフを見たが、気付いた様子はなかった。孕んではいない今、もし、この詩人の行為がロルフの癇に触るような事があれば、どのような折檻を受けねばならないかわかったものではなかった。
 ウーリックの目は、熱に浮かされたようだった。これを最後と思っての行動だろう。二度とこの島には来ないだろうとも言った。ティナの幸福を願っているとも。
 族長の妻にどのように深く想いを寄せようとも無駄な事だった。詩人の事である、それは肉体的な欲望ではなく、精神的なもなのだろう。いずれにせよ、ティナはその想いを受け入れる事はできなかった。
 ウーリックの(いだ)いていた想いがいかなるものであれ、それをロルフが許すとは思えなかった。二人は五人まで子を生しているのだ。その存在は大きい。そして、これからも自分はロルフの望むがままに子を産むのだろうとティナは思った。
 それが、自分が北海まで来たそもそもの理由だった。弟の生命と引き換えにした約定であった。それを後悔しているのか、と問われても、ティナは否定しただろう。弟の生命を救う事ができたのだ、城砦に安寧を取り戻す事ができたのだ、何を後悔する事があるだろうか。
 ウーリックが自分の席に下がった後も、ティナは考え続けていた。
 自分が去る事を余儀なくされた後、城砦はどうなったのだろうか。両親や姉妹は、弟は、そしてアーロンは。皆、もうティナの事は忘れてそれぞれの道を歩んでいるのだろう。自分も子供達の事で精一杯で、かつての家族を考える暇もなかった。
 妹達は皆、もう嫁いだだろうか。弟の成人はまだだが、立派に育っただろうか。そして、アーロン。アーロンは、新しい恋を見つけただろうか。
 最早、かつての婚約者の面影も定かではなくなっていた。圧倒的なロルフの存在感の前には、アーロンはただの若者でしかなかった。
 おかしい、と思った。心の片隅ででもまだ愛しているのならば、その面影ははっきりと思い出せるはずだとティナは思った。自分は、諦める事によって、アーロンへの愛情を封じて来た。それはいつしか忘れられた想いとなってしまっていたのではないだろうか。忘れようとする内に、本当に忘れてしまったのではないだろうか。
 そう思うのは辛かった。だが、恐らくはそれが真実だろう。
 自分はロルフの前に跪き、その機嫌を窺ってばかりの人間だった。それでは奴隷と何ら変わるところはない。それ以外にできる事があるだろうか。いつでもティナが気にしなくてはならないのは、ロルフの機嫌だった。殴られるのは厭だったし、できる事ならば避けたかった。誰しも苦痛は避けたいはずだ。しかも、それが身に憶えのない事によってもたらされるのだとすれば――。
 ティナはその思いを振り払った。いかにロルフとはいえ、そのような無体な事はするまいと思った。二人は形だけでも夫婦なのだ。理不尽な暴力が許されてよい訳がなかった。
 だが、それは本当だろうか。
 この島に来たばかりの頃は、ロルフによく叩かれた。女相手に手加減はしただろうが、それはティナの心を潰すには充分な威力を持っていた。今後も、それを使わぬという保障はどこにもない。ロルフは、ティナが他人に関心を示す事すらも許してはくれないかもしれない。それは、まさに、主人が奴隷に対して働く暴力と些かも変わる事がないのではないだろうか。
 自分は飽くまでもロルフの所有物なのだ。先の奥方はこのような束縛を受けなかったであろうに、自分は鎖こそなけれロルフの奴隷に過ぎないのだ。それは、何人子供を持とうと変わるまい。
 自分に二心(ふたごころ)のない事は、ティナは自分でも分かっていた。自分が愛したのはアーロンだけであるし、それ以外の人間などものの数ではなかった。特に北海の人間など、どうしてその対象になり得るであろうか。洗練されてもいなければ教養がある訳でもない。礼節ある騎士を見て育ったティナにとり、北海の男達は野蛮でしかなかった。それは、ヴァドルであれウーリックであれ変わらない。優しさは持ち合わせていても、それは他の者に――特にロルフと比しての事である。中つ海の、城砦の騎士とは比べ物にはならなかった。
 そのヴァドルとウーリックは、高座のすぐ下で飲み交わしていた。それまでの事など忘れたかのようなウーリックの仕種に、ティナは拍子抜けをする思いだった。あれは詩人の言葉に過ぎないのだ。恐らく、北海では詩人は島を辞する時、族長の奥方に対してあのように振舞うのであろう。何も気にする事はあるまい、とティナは思った。だが、ふとロルフを見ると、宴では余り見せない厳しい顔をしてウーリックを見やっていた。
 ティナはどきりとした。身体が震えた。二人きりになった時、ロルフがどのような所業に出るのか、不安になった。あれは、不機嫌な顔だ。ロルフは明らかにウーリックに対して不快感を抱いたのだ。それは、今までになかったことだった。いつでも詩人はロルフのお気に入りであったし、機嫌を損じる事などなかった。別れの挨拶にしても、詩人の言葉をロルフは機嫌よく受け取った。それが不機嫌に転じたのだとすれば、それは、やはりティナに対する態度が関係しているのではないだろうか。
 エリスが何事かをロルフに話しかけ、その顔には再び笑みが戻った。ティナから見ても、ロルフはエリスを特に可愛がっていた。産まれた直後の素っ気なさからは想像できなかった。ロルフの亡くした子は男の子だった。女の子は初めてだからこそ、可愛いのかもしれない。だが、その事を差し引いてもエリスは愛らしい子供だった。ロルフは男の子達には少し厳しい顔を見せる事もあったが、エリスはひたすらに愛おしいようであった。そこには北海の血も中つ海の血もないようだった。
 それとも、自らの血を分けた者ならば関係なく、ロルフにとっては愛しいものなのだろうか。
 ならば、自分は少なくともロルフの人生に意味のある事を為したのだろう。ティナは思った。それが、例え自分の人生を犠牲にしたものであったとしても、少なくとも、一人の人生には灯りを点すことができた事になる。それで、自分の人生は満足するべきなのだろう。誰も幸せにしないよりは、ましだ。
 そう考えて、ティナはロルフを思った。ロルフの人生は、一体どのようなものなのだろうか。子供達はロルフを父親として愛しているようだ。その事で、心は満たされているのだろうか。誰かを幸せにする事よりも、その心は部族民に向いているようだ。それは族長として当然なのかもしれない。宴での様子を見る限りでは、ロルフは皆から恐れられているが敬愛されてもいるようだった。白鷹ロルフの名は、詩人達も畏敬を持って語る。
 ヴァドルは、ロルフをどのように思っているのだろうか。数月年上なだけの乳兄弟でありながら、その境遇は大きく異なっている。ティナの乳母は乳飲み子を亡くした女だったが、妹達の乳母はそうではなかった。誰もが自分の子よりも主の子を優先させていた。それができなくては乳母は務まらないのであろうが、残酷ではあった。ヴァドルは才覚があり、副官に取り立てられているが、子供時代はどのようであったのだろうか。ロルフを羨んだり憎んだりする事はなかったのだろうか。穏やかなヴァドルからは想像もできなかったが、そのような時代はなかったのだろうか。
 ティナはそっとヴァドルとウーリックの様子を窺った。
 正直言って、ウーリックの事は何も知らない。どこの生まれでどのような育ちであったのか、これまでどのような場所を巡ってきたのかも知らなかった。そのような者に対して、三年の間、ロルフに仕えていたにしても特別な感情を(いだ)く事が可能なのかどうか、ティナには分からなかった。ウーリックの方とて、ティナが中つ海の生まれ育ちである事は知っているであろうし、ロルフの妻になった経緯(いきさつ)も承知しているだろう。だが、二人きりで話をした事もなければ、深い話をした訳でもなかった。愛情を抱くなど有り得るだろうか。
 詩人(バルド)が歌う詩は戦いや叙事詩であったが、その心の中は蝶よ花よと歌う歌人(バード)と変わらぬものなのだろうか。歌人の歌は全て偽物だとティナの乳母は言った。大袈裟に感傷的に過ぎるのだ、と。だが、城砦の婦人達はそんな歌人の歌にうっとりと耳を傾けていた。何分かの真実はその中にあるからではないかとティナは考えていた。
「可愛らしいお(つむ)をそのような事で悩ませるのはお止しなさい」
 アーロンは言ったものだ。「歌人の歌など、聞き流しておけばよいのです」
 騎士は、恋の仇敵となる歌人を好まなかった。だが、北海の戦士は詩人を好む。それは、それぞれに謳う物が異なるからだろうとティナは思った。歌人は婦人好みの抒情詩を歌う。詩人は戦士好みの叙事詩を歌う。中つ海では叙事詩は歌われるものではなく読まれるものだった。詩人の歌も筆記してみればその良さがわかるのかもしれなかったが、書物を持たない北海は文化的に遅れているのだとティナは思わずにはいられなかった。北海の者は女には文字は必要ないと思っているようであった。その点では中つ海も変わらないが、文字を全く習わないというのではなかった。必要以上の学問は不要だというに過ぎなかった。文字は教養であった。
 何もないのにロルフからあのように睨まれるのであれば、いっその事、もっとウーリックと親しくしておいてもよかったのではないかとティナは皮肉に思った。二人の間には何も起こりようがないにしても、疑われるのは嫌だった。ましてや、それで暴力を受けるような事があれば、ロルフを恨まずにはいられないだろう。子供達の父親を恨み、憎む事だけは避けたかった。今以上に悪い関係になるのも。
 穏やかに暮らして行く事だけが、ティナの望みだった。
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