第28章・床上げ
文字数 4,864文字
女は回復に向かっているとロルフが女療法師から報告を受けたのは、族長室での一件から三日経ってからだった。
「もう、お生命の心配はございません。床上げまでには時間がかかりましょうが、お元気になられます。お子さま方にお会いになっても大丈夫かと」
そう言った女療法師を、ロルフは手を振って下がらせた。
やはり、あの時が最良の機会だったのだ。
だが、それはもう、逃してしまった。
オルトが大広間を出ようとする女療法師を捕まえて、何事かを訊ねている。
ロルフは目を閉じた。
女を離縁して放り出す事も考えた。だが、それは駄目だ。ヴァドルが手を差し伸べるかもしれない。それに、子供達の心がロルフから離れてしまう可能性もある。
何よりも、エリシフと同じ目の光を持つ女を、ロルフ自身が手放し難かった。
「お父さま」
エリスの声がして、ロルフは目を開けた。
「お父さま」胸の前で手を組み、エリスが立っていた。「お母さまにお会いしてもよろしいですか」
「駄目だ」
ロルフは言下に言った。だが、がっかりとした様子の娘を見ると、一言付け加えずにはいられなかった。「まだ、時期が早い」
ほっとしたように、エリスは弟達のところへ行った。そこには、生まれたばかりのハラルドを抱えた乳母もいる。
結局、子供達は長く会わせなかったにも拘わらず、母親の事を忘れなかった。エリスとロロが、まだ良く分からないであろうアズルにも、母親の話をしているのかもしれない。だが、ロルフは負けたような気分だった。最早、あの女と子供達を引き離してはおけないであろう。元気を取り戻したとなれば、外に出ぬのは不自然だからだ。
「奥方様がご快復に向かわれてるご様子で、安心いたしました」
いつの間にそこにいたのか、ヴァドルが言った。「族長船の事でお伺いしたのですが、後の方が宜しいでしょうか」
ロルフは首を振った。ヴァドルが微かに眉を上げた。これがエリシフであったなら、何をおいてもロルフは病床に向かうだろう。だが、あの女は違う。同じ目をしていても、エリシフではないのだ。
ヴァドルが前回とは変更のある人員を述べた。ロルフはヴァドルの人選に否やはなかった。だが、一応の形式として理由を訊ねねばならなかった。
報告が終わると、ヴァドルにも蜜酒が運ばれてきた。族長家の安泰を祈念してヴァドルは杯を揚げた。
二人は無言で杯を傾けた。あの時以来、二人の間の会話は必要最低限なものとなっていた。それをヴァドルがロルフの寵愛を失ったのだと見る者もいるようであったが、個人的な諍いでヴァドルの地位をどうこうするという心はロルフにはなかった。そう思う者がいるのだとすれば、それはロルフという人間を見誤っているのだ。
「ハラルド様も随分としっかりなさってきたようで」
ヴァドルが言った。
「お生まれになった時には非常に小さくあられたのに、赤子はすぐに大きくなりますな」
ロルフは無言で頷いた。ハラルドも榛色の眼と栗色の髪を女から受け継いだ。アズルのみが、ロルフと同じ青い眼をしている。だが、顔立ちはどの子も北海のものだ。
「貴方が――」ヴァドルの口調が堅くなり、ロルフは目を上げた。「貴方が私 めをお許しにならないのは、分かっております」
ヴァドルの目が、ロルフを捉えた。
「しかし、何度でも、私は同じ事を繰り返すでしょう」
最早ロルフはヴァドルに怒りを感じてはいなかった。ヴァドルが止めなければ、ハラルドはいなかった。
「私が短慮だった」
ロルフは静かに言った。「まだ産まれぬ身とは言え、ハラルドを失うところだった。お前には感謝すべきなのだろう」
愕いたように、ヴァドルはロルフを見た。ロルフから感謝という言葉が出ることは予想していなかったに違いない。
「いえ」ヴァドルは穏やかに言った。「あのような時には、誰でも我を忘れるものでしょう。無事にお生まれになった事ですし。次の御子も」
ヴァドルは、あの女にもう子はできないとは知らないのだろう。オルトもその事は話していないのであろう。
ロルフは黙って頷いた。全てが元のように行くとは限らないかもしれないが、取り敢えずは二人の間で和解はなされた。後は、時間が掛かるだろうが少しずつヴァドルとの間の信頼を取り戻して行けば良い。ヴァドルは、何人にも替えられぬ存在であるという思いを、ロルフは強く持った。
二人はかつてのように穏やかな顔で杯を傾けた。
※ ※ ※
いよいよ床上げだった。随分と時間が経ってしまったが、女療法師の言葉では、もう何の心配もいらないとのことであった。ふた月も床についていたのだから、脚の力も弱っているのでないかと思ったが、それは杞憂に終わったようだった。こんなに長く横になっていた事はなかった。子供の頃から丈夫で、滅多に熱を出すこともなかっただけに、この長い病床生活は、ティナの全ての力を奪ってしまったかのようだった。
乳の出も悪いために、ハラルドが連れて来られることはなかったし、ロルフが姿を現す事もなかった。オルトさえもが訪れる事はなく、ティナは全てから切り離されてしまったかのようだった。それが、ロルフの意向なのだろうか。ティナを幽閉する事が。
だが、女奴隷がティナに持って来た衣装は、晴れ着だった。
「族長からの、指示でございます」
そう言って、女奴隷はティナを湯浴みさせ、着替えさせた。真新しい長着は、裾に織り柄のある深い緑色の絹だった。高価なものである事は確かだ。交易島から来たものかもしれない。或いは、中つ海から。
北海に来てからは、様々な物の由来については考えないようにしてきた。そうでなくては、生きては行けないような気がしていた。あらゆる物を、北海は中つ海から奪って行く。
自分も奪われた存在であったが、その事はなるべく考えたくはなかった。過去を振り返ったところで詮ないことであったし、後ろを見て哀しくなるよりは前を向いていたかった。それが、何の展望もない未来であったとしてもだ。
ロルフが何を考えているのかについて、思いを巡らせることはもう止めにした。如何に考えようとも、ロルフはティナにとっては何年経とうとも他人のままであるという事を思い知らされるだけであった。殊に、役立たずとなったティナを生かし続けていることに関しては、混乱するばかりだった。確かに、あの時のロルフには殺意があった。何故に、それを翻したのかはわからない。知りたいとも思わなかった。
為されるがままにティナは着替えを終えた。床上げは確かに祝い事ではあるが、誰が喜んでくれるというのだろうか。ロルフがそうだとは、到底思えなかった。
それとも、これは死出の旅衣装なのだろうか。
あの時ロルフが躊躇い、断念したのは、弱った状態の人間を殺すということを良しとしなかったというに過ぎなかったのだろうか。
女奴隷が族長室の扉を開いた。
前にここから出たのは、ロルフに引き摺られてだった。スールの死んだ日以降、この部屋から出ることはなかった。
ティナは一呼吸して部屋から一歩を踏み出した。
それだけの決意が必要だった。死ぬ事が恐ろしいのではない。余りに長くこの部屋にいたが為に、ここが自分の居場所になってしまっていた。
どのような裁定が自分に下されようと、黙ってそれを受け入れるつもりだった。それでも、一生涯の幽閉であるならば残酷だと思った。愛しい子供達に会うことも適わず、薄暗い部屋で語り合う者もなく生涯を送らなくてはならないとするならば、ロルフはティナに対して最大の罰を与えたことになるだろう。今のティナにとっては、死は解放であった。
女奴隷がティナの前に立って歩み始めた。大広間の方へ向かっている。そこで、部族の人々の前で裁定を受ける事になるのだろうかと、ティナは不思議に思った。ロルフは族長だ。家長だ。ならば、家族に対しての全ての権限を有していることになる。それとも、ここ北海では、罪を犯した者は例外なく部族での裁定を受けるというような、まだティナの知らぬ法があるのだろうか。
大広間では宴が始まっていた。
ティナが姿を現すと、男達の喧騒が止んだ。そして、エリスが歓声を上げてティナに飛びついてきた。
子供達がいる。
その前で、ロルフは自分に裁定を下そうというのだろうか。
ティナはエリスを、そしてロロを抱き締めた。涙が自然に湧いてきた。如何にロルフが非情だと言っても、子供達の前でその母親を断罪するような真似はしないのではないだろうかと、ティナはちらりとロルフの様子を窺った。だが、その表情からは何も読み取れなかった。ただ、冷い端正な顔で、子供達がティナに甘える様子を見ている。
「奥方さま」
オルトの声にはっとすると、赤子を抱えた女――恐らくは乳母――と共にいつの間にか横に来ていた。
女が赤子を差し出し、ティナはようやく、我が子を目にし、腕に抱くことができた。小さいが、髪と目の色はティナと同じだ。顔立ちは、やはりロルフのものであるようであった。
オルトがハラルドを抱いたティナをロルフの前へ導いた。
子供を抱いたままで、ティナは震えた。ハラルドも断罪すると言うのだろうか。名付けた、ということは、この子は生きるはずではなかったのか。それに、この子には何の罪もないというのに。
ロルフの前で、ティナは深々と膝を折ってお辞儀をした。そして、顔を上げてロルフを見た。
その身体は、いつもに増して大きく、威厳を増して見えた。
ロルフはじっとティナを見つめ、そして頷いた。
オルトが、ティナに高座に着くよう促した。
ロルフの隣に座するのを許されるというのか。
ティナの脚は震えた。一体、自分の良人が何を考えているのか、見当も付かなかった。
ヴァドルが立ち上がり、杯を高々と掲げた。
「奥方様とハラルド様の健康を祝して」
その声は朗々として大広間に響いた。それに他の男達が応えて杯を掲げ、歓声を上げる。
ティナは混乱した。
自分は裁定を受けるのではなかったのか。ロルフから死を賜るのではなかったのか。
エリス達がティナの側に寄ってきた。久し振りに見る皆の顔は輝いていた。どの子供も健康そうで、きちんと世話を受けていたのが分かった。オルトも目を光らせていただろうが、ロルフも父親として充分なことを為していたのだ。
ティナはロルフを見た。だが、肝心のロルフはティナには一瞥もくれずに杯を傾けていた。
この嬉しい対面の後で、断罪されるのだろうか。この宴が終わった後で、生命を差し出すことになるのだろうか。
エリスは途切れることなく喋り続け、ロロ達男の子はティナの脚をぎゅっと胸に抱き締めていた。ハラルドを抱いているために、ティナは子供達を抱いてやることも撫でてやる事もできなかった。
すいと横から手が伸びてきて、ハラルドをティナの腕から取り上げた。
はっとして見ると、ロルフがハラルドを抱えていた。だが、ティナの顔は見ようとはしない。それでも一応の礼を、口ごもりながらティナは言った。空いた手の中に、エリスが飛び込んできて、すぐにティナの気を逸らせた。
自分が不在であった間の子供達の様子を聞くのは楽しくもあったが、寂しいものだった。いつの間に大きくなったのだろうか、エリスはすっかりと姉、長子としての立場に慣れたようだ。時折、腰に手を当てて弟達の悪戯を話す仕種は、まるで小さなオルトを見るようだった。
この幸せなひとときを味わった後で、ロルフから死を宣言されるのだろうか。
エリスの話に微笑みを浮かべて頷きながらも、ティナの胸からはその思いが去らなかった。
だとしたら、ロルフはとてつもなく残酷なことをしようとしている。子供達はティナに会うことができてこんなにも喜び、愛情を示していてくれているというのに、すぐにそれを悲嘆に変えてしまうというのか。そんなロルフでも、子供達はいずれ、事情を察して敬意を持つようになるのだろうか。
ロルフの表情からは何一つ窺うことができなかった。
「もう、お生命の心配はございません。床上げまでには時間がかかりましょうが、お元気になられます。お子さま方にお会いになっても大丈夫かと」
そう言った女療法師を、ロルフは手を振って下がらせた。
やはり、あの時が最良の機会だったのだ。
だが、それはもう、逃してしまった。
オルトが大広間を出ようとする女療法師を捕まえて、何事かを訊ねている。
ロルフは目を閉じた。
女を離縁して放り出す事も考えた。だが、それは駄目だ。ヴァドルが手を差し伸べるかもしれない。それに、子供達の心がロルフから離れてしまう可能性もある。
何よりも、エリシフと同じ目の光を持つ女を、ロルフ自身が手放し難かった。
「お父さま」
エリスの声がして、ロルフは目を開けた。
「お父さま」胸の前で手を組み、エリスが立っていた。「お母さまにお会いしてもよろしいですか」
「駄目だ」
ロルフは言下に言った。だが、がっかりとした様子の娘を見ると、一言付け加えずにはいられなかった。「まだ、時期が早い」
ほっとしたように、エリスは弟達のところへ行った。そこには、生まれたばかりのハラルドを抱えた乳母もいる。
結局、子供達は長く会わせなかったにも拘わらず、母親の事を忘れなかった。エリスとロロが、まだ良く分からないであろうアズルにも、母親の話をしているのかもしれない。だが、ロルフは負けたような気分だった。最早、あの女と子供達を引き離してはおけないであろう。元気を取り戻したとなれば、外に出ぬのは不自然だからだ。
「奥方様がご快復に向かわれてるご様子で、安心いたしました」
いつの間にそこにいたのか、ヴァドルが言った。「族長船の事でお伺いしたのですが、後の方が宜しいでしょうか」
ロルフは首を振った。ヴァドルが微かに眉を上げた。これがエリシフであったなら、何をおいてもロルフは病床に向かうだろう。だが、あの女は違う。同じ目をしていても、エリシフではないのだ。
ヴァドルが前回とは変更のある人員を述べた。ロルフはヴァドルの人選に否やはなかった。だが、一応の形式として理由を訊ねねばならなかった。
報告が終わると、ヴァドルにも蜜酒が運ばれてきた。族長家の安泰を祈念してヴァドルは杯を揚げた。
二人は無言で杯を傾けた。あの時以来、二人の間の会話は必要最低限なものとなっていた。それをヴァドルがロルフの寵愛を失ったのだと見る者もいるようであったが、個人的な諍いでヴァドルの地位をどうこうするという心はロルフにはなかった。そう思う者がいるのだとすれば、それはロルフという人間を見誤っているのだ。
「ハラルド様も随分としっかりなさってきたようで」
ヴァドルが言った。
「お生まれになった時には非常に小さくあられたのに、赤子はすぐに大きくなりますな」
ロルフは無言で頷いた。ハラルドも榛色の眼と栗色の髪を女から受け継いだ。アズルのみが、ロルフと同じ青い眼をしている。だが、顔立ちはどの子も北海のものだ。
「貴方が――」ヴァドルの口調が堅くなり、ロルフは目を上げた。「貴方が
ヴァドルの目が、ロルフを捉えた。
「しかし、何度でも、私は同じ事を繰り返すでしょう」
最早ロルフはヴァドルに怒りを感じてはいなかった。ヴァドルが止めなければ、ハラルドはいなかった。
「私が短慮だった」
ロルフは静かに言った。「まだ産まれぬ身とは言え、ハラルドを失うところだった。お前には感謝すべきなのだろう」
愕いたように、ヴァドルはロルフを見た。ロルフから感謝という言葉が出ることは予想していなかったに違いない。
「いえ」ヴァドルは穏やかに言った。「あのような時には、誰でも我を忘れるものでしょう。無事にお生まれになった事ですし。次の御子も」
ヴァドルは、あの女にもう子はできないとは知らないのだろう。オルトもその事は話していないのであろう。
ロルフは黙って頷いた。全てが元のように行くとは限らないかもしれないが、取り敢えずは二人の間で和解はなされた。後は、時間が掛かるだろうが少しずつヴァドルとの間の信頼を取り戻して行けば良い。ヴァドルは、何人にも替えられぬ存在であるという思いを、ロルフは強く持った。
二人はかつてのように穏やかな顔で杯を傾けた。
※ ※ ※
いよいよ床上げだった。随分と時間が経ってしまったが、女療法師の言葉では、もう何の心配もいらないとのことであった。ふた月も床についていたのだから、脚の力も弱っているのでないかと思ったが、それは杞憂に終わったようだった。こんなに長く横になっていた事はなかった。子供の頃から丈夫で、滅多に熱を出すこともなかっただけに、この長い病床生活は、ティナの全ての力を奪ってしまったかのようだった。
乳の出も悪いために、ハラルドが連れて来られることはなかったし、ロルフが姿を現す事もなかった。オルトさえもが訪れる事はなく、ティナは全てから切り離されてしまったかのようだった。それが、ロルフの意向なのだろうか。ティナを幽閉する事が。
だが、女奴隷がティナに持って来た衣装は、晴れ着だった。
「族長からの、指示でございます」
そう言って、女奴隷はティナを湯浴みさせ、着替えさせた。真新しい長着は、裾に織り柄のある深い緑色の絹だった。高価なものである事は確かだ。交易島から来たものかもしれない。或いは、中つ海から。
北海に来てからは、様々な物の由来については考えないようにしてきた。そうでなくては、生きては行けないような気がしていた。あらゆる物を、北海は中つ海から奪って行く。
自分も奪われた存在であったが、その事はなるべく考えたくはなかった。過去を振り返ったところで詮ないことであったし、後ろを見て哀しくなるよりは前を向いていたかった。それが、何の展望もない未来であったとしてもだ。
ロルフが何を考えているのかについて、思いを巡らせることはもう止めにした。如何に考えようとも、ロルフはティナにとっては何年経とうとも他人のままであるという事を思い知らされるだけであった。殊に、役立たずとなったティナを生かし続けていることに関しては、混乱するばかりだった。確かに、あの時のロルフには殺意があった。何故に、それを翻したのかはわからない。知りたいとも思わなかった。
為されるがままにティナは着替えを終えた。床上げは確かに祝い事ではあるが、誰が喜んでくれるというのだろうか。ロルフがそうだとは、到底思えなかった。
それとも、これは死出の旅衣装なのだろうか。
あの時ロルフが躊躇い、断念したのは、弱った状態の人間を殺すということを良しとしなかったというに過ぎなかったのだろうか。
女奴隷が族長室の扉を開いた。
前にここから出たのは、ロルフに引き摺られてだった。スールの死んだ日以降、この部屋から出ることはなかった。
ティナは一呼吸して部屋から一歩を踏み出した。
それだけの決意が必要だった。死ぬ事が恐ろしいのではない。余りに長くこの部屋にいたが為に、ここが自分の居場所になってしまっていた。
どのような裁定が自分に下されようと、黙ってそれを受け入れるつもりだった。それでも、一生涯の幽閉であるならば残酷だと思った。愛しい子供達に会うことも適わず、薄暗い部屋で語り合う者もなく生涯を送らなくてはならないとするならば、ロルフはティナに対して最大の罰を与えたことになるだろう。今のティナにとっては、死は解放であった。
女奴隷がティナの前に立って歩み始めた。大広間の方へ向かっている。そこで、部族の人々の前で裁定を受ける事になるのだろうかと、ティナは不思議に思った。ロルフは族長だ。家長だ。ならば、家族に対しての全ての権限を有していることになる。それとも、ここ北海では、罪を犯した者は例外なく部族での裁定を受けるというような、まだティナの知らぬ法があるのだろうか。
大広間では宴が始まっていた。
ティナが姿を現すと、男達の喧騒が止んだ。そして、エリスが歓声を上げてティナに飛びついてきた。
子供達がいる。
その前で、ロルフは自分に裁定を下そうというのだろうか。
ティナはエリスを、そしてロロを抱き締めた。涙が自然に湧いてきた。如何にロルフが非情だと言っても、子供達の前でその母親を断罪するような真似はしないのではないだろうかと、ティナはちらりとロルフの様子を窺った。だが、その表情からは何も読み取れなかった。ただ、冷い端正な顔で、子供達がティナに甘える様子を見ている。
「奥方さま」
オルトの声にはっとすると、赤子を抱えた女――恐らくは乳母――と共にいつの間にか横に来ていた。
女が赤子を差し出し、ティナはようやく、我が子を目にし、腕に抱くことができた。小さいが、髪と目の色はティナと同じだ。顔立ちは、やはりロルフのものであるようであった。
オルトがハラルドを抱いたティナをロルフの前へ導いた。
子供を抱いたままで、ティナは震えた。ハラルドも断罪すると言うのだろうか。名付けた、ということは、この子は生きるはずではなかったのか。それに、この子には何の罪もないというのに。
ロルフの前で、ティナは深々と膝を折ってお辞儀をした。そして、顔を上げてロルフを見た。
その身体は、いつもに増して大きく、威厳を増して見えた。
ロルフはじっとティナを見つめ、そして頷いた。
オルトが、ティナに高座に着くよう促した。
ロルフの隣に座するのを許されるというのか。
ティナの脚は震えた。一体、自分の良人が何を考えているのか、見当も付かなかった。
ヴァドルが立ち上がり、杯を高々と掲げた。
「奥方様とハラルド様の健康を祝して」
その声は朗々として大広間に響いた。それに他の男達が応えて杯を掲げ、歓声を上げる。
ティナは混乱した。
自分は裁定を受けるのではなかったのか。ロルフから死を賜るのではなかったのか。
エリス達がティナの側に寄ってきた。久し振りに見る皆の顔は輝いていた。どの子供も健康そうで、きちんと世話を受けていたのが分かった。オルトも目を光らせていただろうが、ロルフも父親として充分なことを為していたのだ。
ティナはロルフを見た。だが、肝心のロルフはティナには一瞥もくれずに杯を傾けていた。
この嬉しい対面の後で、断罪されるのだろうか。この宴が終わった後で、生命を差し出すことになるのだろうか。
エリスは途切れることなく喋り続け、ロロ達男の子はティナの脚をぎゅっと胸に抱き締めていた。ハラルドを抱いているために、ティナは子供達を抱いてやることも撫でてやる事もできなかった。
すいと横から手が伸びてきて、ハラルドをティナの腕から取り上げた。
はっとして見ると、ロルフがハラルドを抱えていた。だが、ティナの顔は見ようとはしない。それでも一応の礼を、口ごもりながらティナは言った。空いた手の中に、エリスが飛び込んできて、すぐにティナの気を逸らせた。
自分が不在であった間の子供達の様子を聞くのは楽しくもあったが、寂しいものだった。いつの間に大きくなったのだろうか、エリスはすっかりと姉、長子としての立場に慣れたようだ。時折、腰に手を当てて弟達の悪戯を話す仕種は、まるで小さなオルトを見るようだった。
この幸せなひとときを味わった後で、ロルフから死を宣言されるのだろうか。
エリスの話に微笑みを浮かべて頷きながらも、ティナの胸からはその思いが去らなかった。
だとしたら、ロルフはとてつもなく残酷なことをしようとしている。子供達はティナに会うことができてこんなにも喜び、愛情を示していてくれているというのに、すぐにそれを悲嘆に変えてしまうというのか。そんなロルフでも、子供達はいずれ、事情を察して敬意を持つようになるのだろうか。
ロルフの表情からは何一つ窺うことができなかった。