第52章・憂愁

文字数 10,354文字

 カトラとの別れは辛かった。
 碌に話もできなかった、とエリスは思った。娘達が帰り、どことはなしに空虚に感じる館の大広間で、エリスは集落の女達がとりどりの糸を前に賑やかに興じているのを見ていた。
 カトラの迎えには父親と婚約者のヴィンドルスがやって来たが、兄のラウリの姿はなかった。
 二人の男は館に馬を置いており、厩舎や秣、放牧地の使用料は既に支払い終え、後はカトラを連れて行くばかりであった。途中までは親子とヴィンドルスとは道中を共にするのだと、父に挨拶をしていた。急いでカトラはまとめた荷物を取りに行き、その間、エリスは男達をこっそりと観察した。
 ヴィンドルスは、カトラとの再会を喜んでいるようだった。冷ややかな評とは異なり、決して計算ずくでこの結婚を決めたのではないようにエリスには思えた。下がるカトラの後ろ姿を追う目や、髭に覆われていてさえそれと分かる笑みは、カトラに対する温かな心の表れではないだろうか。もしも族長の眼前でなかったならば、カトラの両手を取ったり、あるいは抱き締めなどして、好意や喜びを見せたのではないかとエリスは思った。
 カトラの父親は娘が世話になった礼を述べ、エリスにも会釈した。二人が親しいのは、どうやら知っているらしい。遠征の間には、男達の間でも様々に噂や評判が飛び交うのであろうか。娘達が内輪で男達の事をあれこれと取り沙汰している事を、向こうは知っているのだろうか、とエリスは不思議に思った。だが、これから雪が積もるまでの間に結婚話がまとまる例が多い事を鑑みれば、遠征の間の退屈しのぎの話から発展する関係もあるのだろう。
 カトラの過去の行いが、誰にもばれない事を祈るしかない。相手は酔っていたのでその心配はないでしょうし、こちらが十四歳だったと知ったら、黙っているしかないわよ、と本人は笑ったが、エリスは心配であった。ヴィンドルスがカトラを館に出仕させたのは、信用しての事ではないかと思わずにはいられなかった。未通女(おとめ)ではないと分かっても文句を言う事はできないとしても、裏切られた信用は元には戻らない。それとも、そんな経験をしていたとしても許せるほどに、ヴィンドルスの想いは深いのか。
 前日にまとめてあった物に、今朝、皆で分けた交易島渡りの珍しい糸を加えるだけであったので、カトラが戻るのにそう時間は掛からなかった。
 つい先ほどまで笑いさざめいていたものが、今はもう、お別れなのだと思うと涙がにじんだ。
 二人は抱擁し合い、互いの幸運と幸福とを願い合った。カトラの声もエリスの声も涙混じりであったが、腕を解く時には微笑みを交わした。男達は二人を急かしたりはしなかった。
 戸口に留めてある馬の所まで送って行く事は許された。荷物はヴィンドルスが持ってくれたので、二人は手を指を絡ませて握り合い、無言で歩んだ。
 カトラは再び中央集落を訪れるかもしれない。だが、その時にはもう、エリスはいないのだ。弟達の事を見知ってはいても、カトラが声をかけ、消息を伝えたり聞いたりはしないだろうと思った。弟達も、夏の間だけ館にいた娘の事をいつまで憶えているか、エリスにも自信が持てなかった。自分がサムルと離婚してこの島に帰って来るまでは――いや、離婚された女との付き合いをヴィンドルスが快く思わないのであれば、決して会う事は適わない。
 戸口のところで、カトラの兄ラウリが三頭の馬の手綱を持って待っていた。エリスの姿を認めると、ラウリは軽く会釈をした。
 父親と同じ馬に乗り、カトラは静かに去った。
 そして、他の娘達も。
 その際には涙の別れとはならなかったが、仲の良い娘達の間ではエリス達のような場面が繰り返された。
 女が一人で集落間を行き来するのは危険でもあった。街道は通じていても、森で野獣や不心得者が出ないとも限らない。半日で行き来できるのならばともかく、武器を持った供がいないと無理であった。結局は、中央集落で大々的に行われる島内集会や祭り、族長家の祝い事を除けば、女の行動範囲は限られている。女でも片刃の小太刀(スクラマサクス)を常に携帯しているとはいえ、武器として使用する事は稀であり、護身用として振るうよりは日常の生活活動で使う事の方が多かった。
 今、目の前で賑々(にぎにぎ)しく笑い合っている女達も、そうして生きているのだ。
 娘達は館での働きの報酬として糸を貰うが、この女性達は値を払うので、見る目も真剣であった。交易の季節までに仕上げた作品は館で記録を取って預かり、交易島の商人の許で売られる。そこで売れれば利益は女達の物となる。そこで得られた利潤から、女達は再び糸を購入する。良い腕の女になれば、最高の金糸を手に入れる事もできる。出来の良いものはそれなりの値で買い取られる為、女達は刺繍の腕を磨く。夫に頼らず、自らの持参財の中からの出費なので、高価に買われれば個人財産を増やす事になるのだ。
 ――独立会計ですから、夫の衣服を作るというのは、贈り物をするということなのですよ。その代わり、夫は妻に何かと装飾品など、財産になるようなものを贈りますからね。
 オルトの言葉が甦った。
 母は、常に父の衣服を整えているが、父から何かしらを贈られた様子はなかった。衣食住を賄っているのだから、それで充分だろう、と父が思っているのだとすれば、母の立場は奴隷と変わらない。
 父はヴァドルと杯を傾けて談笑しており、女達の方には目もくれなかった。誰もが夫や恋人から贈られた装飾品を身に着けているのに、母は何も持たない。父は、それには気付かぬのであろうか。
 そんなはずはない、とエリスは思った。先の奥方には、父はまめに贈り物をしていたはずだ。自分の妻を着飾らせる事も、男の財力と権力の表象でもあるからだ。北海の、それも族長であるならば、妻を着飾らせるのは当然であろう。
 エリスは、くるくると右手の中指にはめた金の指輪を弄んだ。
 自分のような小娘であっても、飾り止めの一つや二つは持っている。普段は銅製の、それでも凝った装飾を施したものを使っていたが、祝祭や儀式用の銀の飾り止めは裳着の儀式の際に父から贈られた。胸を飾る色りどりの硝子玉は、エリスが生まれた時から、交易島へ行く度にヴァドルが一粒ずつ買って来てくれた物を紐で繋げたものだ。長さが足りない分は焼き物や木の実を足しているが、充分に気に入っていた。これだけの数の硝子玉を持っている娘も少ない。
 対して、母は、装飾のあまりない銀製のものは一つ、大切にしまっている事は知っていたが、それは決して使わない。常に、簡素な骨製のものである。首飾りも使わず、腕輪は、恐らく、結婚の際に神の前での誓いの証としてはめられたものだろう。
 高価な貴石でできた小さな飾り球を幾重にも重ねた首飾りをし、指には金や銀の複数の指輪をはめて、いつでも誰かに与える事ができるように様々な太さの腕輪をしている父とは、大きな違いであった。もの心ついた時から、その差は不思議だった。
 ソルハルの口から母の出身を知り、中つ海の人は着飾るという事をしないのであろうかとも思ったが、写本師の所で見せてもらった本の絵では、女性は男性よりもきらびやかに着飾っていた。貴人の娘であったという母も本来は、そうしてしかるべきであったのだ。
 納得できない思いが、もやもやとしてきた。
 集落の女達が漁った後の残り糸を、母はいつも使っている。妻の為にと糸を買う男もいる事をエリスは知っていた。時間を忘れるほどに母は刺繍に打ち込み、精緻な美しい作品に仕上げるが、それが売り物になった事もない。ただ、父や自分達子供の服や枕、小物入れを飾るにとどまっていた。勿体ない、と思い、母に訊ねてみた事もあった。無言で微笑むだけで、答えは返ってこなかった。オルトに訊いても、族長の奥方さまのお作りになるものを売り物にするわけには参りません、と言われただけであった。ならば、糸を選ぶ権利もあるのではないだろうか。それすらも持たずに「奥方さま」と言って持ち上げるのは、却って侮辱している事にならないだろうか。
 誰かに聞いて欲しいと思った。だが、カトラにすらそれは話す事ができなかった。エリスの母の件は知っていたであろうし、それを承知の上で親しくしてくれていたのだから、問題はないはずであった。それでも、カトラはほんわりとした顔に似合わず時に辛辣な事を言うので、微妙な話題は躊躇われた。今となっては後悔しかなかったが、サムルとの契約は秘密であるとしても、心の内の全てを打ち明けても良かったのかもしれない。そして、北海の戦士の娘としての意見や思いを聞いておいても良かっただろう。
 いつでも自分は、こうして後になって気付く。
 エリスは下唇を噛んだ。
 全てが遅くなってから気付くようでは、いけない。
 肝に銘じていたはずであった。
 後悔ばかりが、エリスの胸に浮かんだ。

    ※    ※    ※

 日々は静かに過ぎて行った。
 家畜の選別や収穫祭も終わり、ロルフはようやく、一息つく事ができた。
 ハラルドが大人しくなった訳でもなく、見習い代表の投票が終わった訳でもなかった。だが、族長としての仕事は取り敢えずの区切りがついた。
 屠畜では羊は自らの運命を悟ったのかのように、諦めとも哀しみとも取れる目で大人しく引かれて行く。だが、豚は死を恐れるのか大暴れし、運命から逃れようとするかのように猛る。おかげで牙に引っ掛けられて数人が軽い怪我をする羽目になったが、豚は血までも搾り取られる。
 豚のあがきを見る度に、ロルフはあの城砦での光景を思い出さずにはいられなかった。
 虚勢ばかりの腰抜け騎士や、うろたえる城主夫妻、殺人者の喉を掻き切った時の感触、恐怖に小便を漏らす少年。記憶は赤い霧がかかったように甦り、最後にそれを破るのは、自分を見上げる若い娘の姿であった。
 人々が笑い、興奮している中で一人、ロルフは冷たい記憶の中にいた。
 全てを終えて宴になだれ込んでも、中つ海での記憶はロルフを苦しめ続けた。兎のように無抵抗ではなかったが、無残に殺された二人の息子と子守りをしていた娘。アンデルの悲痛な顔が浮かんでは消える事を繰り返した。
 それは、生涯、ロルフを苦しめるだろう。狩りで鷹が鳥や兎を仕留める時、屠畜の時、犠牲(いけにえ)を捧げる時、遠征で血が流れる度に記憶は甦り、自分の失ったものの大きさを思い知らされるのだ。
 冬に向けての行事を全て終え、静かな大広間で一人杯を傾けていると、殊に孤独がロルフの心を凍えさせた。
 厨房からは、今は若い娘達の賑々しい声は聞こえない。夏の間に出仕していた全ての娘が実家に帰り、奴隷ばかりになった館はしんしんと冷えるようだった。遠征の間にも娘達の縁談は進み、父親や兄と言った年長者の間での約束事が交わされた。それに立ち合い、証人となったのはロルフとヴァドルの二人だった。時にはそこに法の守護者が関わる事もあったが、それはかなり話が詰められた場合であった。
 娘達の中には自分やロロに対して色目を使う者もいた事も、ロルフは承知していた。唯論、相手にはしない。若い娘というのは厄介な存在であり、自分には若さと美しさという武器を持っており、男はそれに弱いのだと信じ切っている節があった。留守中、ロロに女に誘われても絶対に乗ってはいけないと注意しなくてはならなかったのは、実に嘆かわしかった。ロロは晩熟(おくて)のようで、なかなか理解できないようであったので、噛んで含めるように説明しなくてはならないのも大変であった。あの若さで女の策略に引っ掛けらる訳にはいかない。だが、若い後継者であるが故に、誘惑が多いのは、ロルフ自身の経験で知っている。
 エリシフという子供時代からの婚約者がいると知っていながら、年頃になると娘達はロルフの関心を引きたがった。それは自分が跡取りであるからというのは承知していた。父も、そう言った。日々、美しくなってゆくエリシフに、ロルフは他に言い寄る者が現れはしないかとやきもきしたが、娘だけではなく、男達もエリシフには冷ややかであった。確かに、儚げな姿は北海の男の好みとは異なっていたが、それでも、ロルフは心配であった。貴方の婚約者に手を出すような怖いもの知らずはおりませんよ、とヴァドルは笑ったものだった。
 結婚を前に、男ならば憶えておかないと花嫁の前で恥をかくぞと言われ、戦士長に引っ張られてその愛人の所に連れて行かれた。こいつに女の事を教えてやれ、と女に声を掛けると放置された。
 その時だけだ。
 裏切りだとは思わないのよ。そう女は言った。だから、あれは

経験しなくてはならない事であった。言い訳だという思いは、今でもある。いずれはロロに、ヴァドルなり戦士長なりを介して女を与えなくてはならないだろう。同じ島でなら笑い話になるところも、島外から花嫁を迎えるとなれば、初夜をしくじる訳にはいかない。
 父親であり、族長であるという事は、何と煩わしく忌まわしい事かと思わずにはいられなかった。
 誰であっても、父親と言うのはそういうものであるのかもしれないと思った事もある。だが、大抵の男は親の言いつけで娘に求婚するとは言え、相手に既に好意を抱いている事が多い。或いは、心を寄せている娘の親に、父親を通じて話し合いをしてもらう事もある。もし、ロロにそういう娘がいたとしても、情勢次第ではその女を娶る事は叶わず、生涯日陰の身に置く事しか出来ないかもしれない。族長の愛人であるならば、島の戦士の娘であったとしても承知するだろう。子は認知する事で相続権を認められるが、私生児であるのは生涯変わらず、嫡子に較べると相続できる額は僅かなものだ。
 人の上に立つ者として、家族に対して時には残酷な決断をしなくてはならない事もある。ロロの幸福を望めば、好いた娘と一緒になるのが最も正しい答えだ。だが、島の事を考えるとなると、話は異なる。
 時には、もし、これがエリタスであれば、自分はどうしたであろうかと思う事もあった。エリシフが健在であれば、また別の道があっただろう。
 ロルフは目を閉じ、ゆっくり長く息を吐いた。
 思い出はいつでも美しいものだと人は言う。
 自分とエリシフであってさえ、長く共にいれば、どこかで衝突する場面もあったかもしれない。それだけの時間を、神々は自分達にはお与え下さらなかった。神々が、代わりにロルフに賜
ったのは、あの女との気の遠くなるような長い時間だ。
「何か、ございましたか」
 オルトの声に夢想は破られた。常に堂々巡りの苦しみに終わる取り留めのない過去の思い出から解放されるのを、ロルフは内心、喜んだ。
「少し、時間ができたので休んでいたに過ぎない」
 高座に座り直し、ロルフは言った。「変わりはないか」
「はい、館はいつも通りでございます。娘達はいなくなりましたが、皆も冬支度で忙しいでしょうから、そうそう大きな宴も暫くはないかと存じますが」
 ロルフは頷いた。報告に訪れた数人をもてなすくらいでは、大した人手は必要はない。冬至祭では見習いの他に集落の女達も厨房の手伝いに来る。饗宴に供する為に用意した食材が余れば手伝い人に分けられるので、殊に厳しい家計の者は喜んで来た。稼ぎ手を失くした家の女にとっては、願ってもない臨時の仕事でもある。
 冬の間の大広間では、皆が集まってもだらだらと飲む事も多い。それならば忙しくもないので、今の人数で充分だろう。
「エリスの支度は、充分にできるか」
「心安くいらっしゃいませ。全て、順調に進んでおります」
「拗ねたり、自棄(やけ)になっている様子はないのだな」
 最も心配な事であった。エリスはロルフより感情を隠そうとしているが、全て上手くいっている訳ではない。天気の悪い日が多くなった近頃では、大広間の片隅でエリスが作業をしている事もあった。決して、嬉しそうでも楽しそうにも見えなかった。義務でしているに過ぎないのだという思いが、手に取るように分かった。
「間に合えば、よいのだが」
「殿方の気になさることではございませんよ」オルトはにっこりと笑った。「そちらはわたくしどもにお任せくださいまし」
「今日は、エリスとハラルドはどうしている」
「エリスさまはお衣装の作業を、ハラルドさまはお友達と外へ遊びに行かれました」
 冬支度が始まると、学問所も閉まる。教師役も忙しくなるからだ。例年、ハラルドとその郎党が何かしらの騒ぎを起こす時期でもあった。
「どこからか苦情が来たら、まずはヴァドルに伝えてくれ。夕刻にまとめて聴こう」
「承知いたしました」
 オルトは一礼した。
 そのまま下がるのかと思えば、黙ってじっと佇み、ロルフの次の言葉を待っているようであった。何も言い忘れた事はないはずだと不審に思いながら、ロルフは考えを巡らせた。
「他に、何かあるのか」
 思い当たる事はなく、ロルフは渋々オルトに訊ねた。
「族長は――ロルフさまは、わたくしの後釜としてウナをお考えなのでしょうか」
 淡々とした口調であったが、非難するような響きのある事をロルフは聞き逃さなかった。
「お前は良く仕えてくれている。だが、もう、齢である事は自分でも分かるだろう。私も、もう、娘を嫁に出す年齢になった。お前も、そろそろ楽をしても良い頃合いだ思うが」
「お(いとま)を頂くことに否やはございません。しかし、ウナではわたくしの後は務まりませんでしょう。あの者は、命じられたことを為すには非常に有能ですが、自ら人の前に立って采配を振るう(ほう)ではございません」
 オルトはきっぱりとした口調で言った。
「お前を追い出す気はない。だが、ヴァドルの事も考えるべきだ」
「追い出される、とは思ってもおりまん。あなたはそのようなお方ではない事は、わたくしが一番よく存じ上げております。それに、ヴァドルは独り身を貫くことを選んだ子です。今更、わたくしを必要とはいたしませんでしょう」
 ロルフはそっと溜息をついた。背筋を伸ばし、硬い表情を崩す事ないオルトが苦手なのは、今も昔も変わらない。穏やかな言葉で、しかし断固とした態度で叱られた子供の頃を思い出さずにはいられない。
「いつか、お前も身体が動かなくなる時が来る。その時、お前に頼り切っていた我々は、どうすれば良いのか。その事は考えてはくれぬのか」
 泣き落としに近いやり方であったが、仕方がない。「エリスは嫁に行き、ロロは嫁取りにはまだ早い。お前の後を引き継ぐとなれば、相応の時間を要するだろうに。誰か、お前の目に適う者はいないのか、或いは心当たりは」
 徐々に厳しい顔になるオルトに、最後は懇願するような口調になった。壮年の族長であろうとも、産まれた時から世話になっている乳母には敵わぬ。
「まあ、良い。だが、考えておいてくれ。お前のようにはいかぬかもしれんが、それは仕方のない事だと思い、こらえて欲しい」
 乳母でこれならば、実母ならどれほど難儀させられるのかとロルフは思わずにはいられなかった。老いて息子夫婦と同居する事になった親が、いかに多くの問題を引き起こすのかを知らぬのではないだけに、厄介だと思った。一家を取り仕切る事に慣れた母親と、息子一家を支えてきた嫁との確執は殊に困る。男達だけでは解決できず、オルトに収めて貰う方が多かった。
「お前がまだ共に暮らすつもりがないのならば、ヴァドルは館で冬越しをさせるのが良かろう。一人は慣れぬだろうからな」
 不満げなオルトに文句を言われる前に、ロルフは急いで言った。
「有難いお言葉でございます」
 オルトは頭を下げた。気勢を削がれたのか、ロルフに反対するような言葉はなかった。
 鷹揚に頷いて見せたが、ロルフは心底、安堵した。老いた乳母に、自分は役立たずだなどと思って欲しくはなかった。まだまだ、頼らねばならない事は多い。そう、ロロの結婚などもその一つだ。
 父親であるロルフの乳母であったのだから、ロロにとりオルトは、育ての祖母にも等しい。結婚に際して多少、不満や反抗心があったとしても、そこはオルトが巧く抑えてくれるだろうとロルフは考えていた。
「ヴァドルには私から話をするよりも、お前からした方が良かろう」
 オルトの顔がぴくりと動いた。
「わたくしよりも、族長のお口から直接、仰言った方が宜しいかと。わたくしがあなたさまに懇願したように思われるのは、心外でございます」
 頑固な女だ、とロルフは思った。二人で話す機会を与えようとしたのに、それも拒否すると言うのか。
「だが、ここで過ごす間の準備について話し合う事も多かろう」
「まあ」オルトは苦笑を浮かべた。「長年、こちらでお世話になっておりましたのに、今更、何について話し合えと申されるのでしょう」
「お前は、ヴァドルの事をどう考えているのか」
 つい、ロルフの口から厳しい言葉が漏れた。それでは、余りにもヴァドルを(ないがし)ろにしていると思った。
「ヴァドルは、わたくしのただ一人の子です。しかし、あなたさまは、今は亡きご両親より託されました部族の宝でございます。(おの)ずから、立場も異なります。乳兄弟であっても、ヴァドルはあなたさまの臣下である事には変わりません。それは、わたくしもです」
 頑なな言葉に、ロルフ大きな溜息をついた。この母子(おやこ)を頼もしくは思っていたが、二人の関係をどうすれば良いのかは皆目、見当が付かなかった。
 オルトは責任感が強すぎる。如何に死の床にある人や族長に頼まれたとて、そこまで忠誠を尽くさなくてもよいのではないだろうか。乳母としての役目はとうの昔に終わっている。養育係としても、ロルフとヴァドルが揃って見習いになった際に、母親に戻る事も可能であったはずだ。そうしておれば、父が館の管理を任せたいと乞うたとしても、それが母子関係に何らかの影響を及ぼしたとは思えない。
「お話が終わりましたのならば、仕事に戻りとうございますが」
 ロルフは無言で頷いた。これ以上、話しても無駄なような気がした。オルトは心の内を見せなかった。
 内心を自分に吐露しないのは、子供だと、頼りないと思っているからだ。
 そう感じて、ロルフの胸は針で刺されたように痛んだ。ヴァドルが心情を語らぬ理由は分かる。数か月とは言え、年長であるからだ。兄として弟を見ているようなものだ。
 しかし、乳母であり養育係でもあったオルトから半人前扱いされるのは辛かった。いつまで経っても、自分が至らぬ人間であると思い知らされる。
「ああ、エリスさまのことですが――」去りかけたオルトが振り返って言った。「親しくしておりました、カトラという娘が下がりましてからこちら、お元気がありません。係累の者が参ることがございましたら、消息をお訊ねいただけませんでしょうか」
 カトラという娘を、ロルフは具体的に思い出す事ができなかった。金髪のぼんやりとした印象の娘、としか見てはいなかった。再び会えば分かるだろうが、その程度のものであった。
「灰色のオムンドの娘で岬のヴィンドルスの許嫁(いいなずけ)か」娘を迎えに来た二人を思い出した。「和毛(にこげ)ラウリの妹でもあったな」
 娘を迎えに来た際、兄のラウリは馬を引いていて館には入らなかったはずであった。
「若者二人は来る事もあるだろうが、集落が別だ。互いに消息は知りたくもあろう。心しておこう」
 オルトはそれを聞くと、軽く一礼をして去った。
 誰いなくなると、再び憂愁がロルフの心に甦ってきた。がらんとした大広間は、普段に増して陰鬱に思えた。父が、常に人がここにいるようにしていたのも分かる気がした。厳しく、ロルフに甘い顔を見せる事のなかった人であったが、それでも、十年連れ添った母を亡くしたのは痛手であったのだろうか。ロルフの知る範囲では愛人も持たず、再婚の話も全て断っていた。
 互いに婚約の時に初めて相手をご覧になったそうですよ、とオルトは言った事があった。そうであっても、仲睦まじくあられました、と。
 父が亡くなり、仮埋葬をしていた母と兄達と姉を掘り起こすにあたっても、ロルフは慣習に従ってその様子を見る事は叶わなかった。会った事もない兄姉を実感する事はできなかったし、母にしても同様であった。
 端艇に、父と共に葬られる真新しい白い麻布に包まれた遺骸を目にしても、何の感慨もわいてはこなかった。むしろ、死出の旅を共にする父の愛馬や愛犬への哀惜の念の方が強かった。亡き母や兄姉(きょうだい)を前に、自分は何と薄情な人間なのかと思った。小さな、例えは悪いが袋に入れた兎のような大きさの遺体を、兄や姉と思う事ができなかった。
 ロロ達にとり、エリタスやヴェリフも同様に感じられるのであろうか。情の薄い自分の血を引いた子供達だ、そうであってもおかしくはない。何の感情もなく、エリシフと二人の子供を自分と共に葬り、殺された白鷹の為に溜息をつくのだろうか。
 それとも、あの女に似た方が良かったのか。
 ロルフの頭を時によぎる、かつて見た愛情に溢れた目で子供達を見つめる母親としての女。自分のような酷薄な男と強奪されるようにして結婚し、子を産みながらも、なぜ、その子達を愛せるのか。それ程にまで、情の深い女であったのか。
 オルトやヴァドルの言うように、スールの死はあの女が放置していたせいではないのかもしれない。だが、それを認めてしまうと、自分の居場所を失ってしまうような気がした。
 ロルフは頭を振り、その思いを追い払った。杯に残った蜜酒を飲み干すと、音を立てて卓子に置いた。
 慌てたように隅の暗がりに控えていた女奴隷が酒壺を手に近づいてきたが、無視した。
 必要なのは酒ではなかった。
 無言で荒々しく立ち上がると、ロルフは出口に向かった。
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