第12章・冬の到来

文字数 5,988文字

 まだそれと分かるほどには膨らんでいない腹部を撫で、ティナは大広間でほっと息をついた。
 新しい生命を迎える準備は着々と進んでいる。夏至祭の頃に産まれるだろうと女療法師は言っていた。
 ロルフがティナの妊娠を喜んだのかどうかは分からなかった。だが、暴力を振るう事はなくなっていた。それは吉と取って良いのではないかとティナは思った。夜になると、ロルフはティナに背を向けてすぐに寝てしまう。それもまた、有り難かった。
 この子が自分とロルフとの関係を良くしてくれるのかどうか、まだティナには自信が持てなかった。ロルフの態度はさほど変化がなかったからだ。それでも、ロルフ自身が望んだ子だ。愛情を注いでくれるのではないかと思っていた。
 この子は、果たして、ロルフに似ているのだろうか。金色の髪と青い目で産まれて来るのだろうか。
 亡くなった二人の子供が前妻に似ていた事は、オルトの口から以前に聞けた。とても美しい子供達だったようだ。自分の子がそう言う意味でロルフの目に適うかどうか、不安でもあった。
 ティナは膝の上の産着を取り上げた。女の子だったとしても、ロルフは喜んでくれるだろうか。男は、やはり跡継ぎとなる男の子を望むものであろうし、特にそれを亡くしたロルフは待望している事だろう。だが、どちらが産まれるかは分からない。男であろうと女であろうと、自分はその子を愛せるとティナは思った。どのような経緯があろうとも、子供には関係のない事だ。乱暴され続けた上での受胎であったとしても、今、ロルフはティナに指一本、触れようとはしない。この子は自分を守ってくれている、そう思った。
 愛情ではないとしても、気遣っていてくれているのではないだろうか。ティナは思った。それならば、これからの生活にも光明が見えるというものだ。
 外は(みぞれ)が降り続けている。これがやがて雪に変わるのだとオルトは言っていた。本格的な冬を前に、全ての準備が調ったのは僥倖だと言う顔をしていた。それほど、ティナの冬支度は大変だった。確かに、この寒さでは中つ海の服では凍えてしまうだろう。いかに不恰好でも、北海の服装の方が暖かい。靴もそうだ。
 今までは外へ出る事は別に禁じられてはいなかったが、懐妊が分かってからはロルフの命令で完全に館に閉じ込められてしまった。先の奥方の時もそうであったというのだから、それは甘んじて受け入れるしかなさそうだった。また、このような悪天候に外に出たとて、良い事があるとも思えなかった。
 オルトは厨房から戻らない。産着に刺す刺繍を教えてもらう事になっていたのに、今日は忙しいようだ。夕餉に客を迎えるのかもしれない。
 悪阻がひどかった為、ティナは宴への列席は強制されなくなった。それが治まった今でも、ロルフはティナの同席を求める事はなかった。身重の女はみっともない、と城砦では言われていたが、同じ事を北海でも言うのだろうかと思った。オルトなら教えてくれるかもしれない。
 ティナはすっかりオルトに頼り切っていた。ロルフが族長になって以来、ずっと陰で支えてきたのはオルトだ。全てオルトに任せておけば安心だという気持ちがあった。
 いずれは、自分がその役目を果たさねばならないのだとしても、それはまだ先の事だろうとティナは思っていた。オルトは元気であったし、ヴァドルはまだ結婚する様子もない。ティナに子が産まれれば、今よりもずっと頼りにする事になるだろう。
 こんな時に心を分かち合える者が側にいないのは不便な事だと、ティナは思わずにはいられなかった。何と言っても、オルトは北海の女だ。心の全てを曝け出したとて、理解してもらえるかどうか分からない。良い人だとは思う。ヴァドルと同じく、北海のがさつな野蛮人とはどこか違う。だが、その精神は北海人だ。城砦に残して来た乳母のようには行くまい。
 涙ながらに別れた乳母を思い出し、ティナは目の奥が熱くなるのを感じた。近頃は身体の変調もあってか、涙もろくなっている。ぐっとそれを押し止め、ティナは腹部を撫でた。この姿を見たら乳母はきっと泣くだろう。母も泣くだろう。妹達も泣くかもしれない。だが、そこまで不幸せではなかった。
 幸せか、と問われると、それは違った。幸せでも不幸せでもない。ただ、淡々と毎日が過ぎてゆく。子が産まれるまではそれが続くのだろう。
 唯その日を待つしか、ティナにはできないのだ。
 外では風が唸り、北海が荒れている。その中を、ロルフとヴァドルは出掛けて行った。北海人にとり、この程度の荒天はものの数ではないのかもしれない。このような天候に、どのような用事があるのかティナには分かりかねたが、無事に戻ってくれば良いと思った。
 遠征に出る時には帰って来なくても良いと思ったのに、それはもう、随分と前の事のように感じられた。それは、ロルフを自分の掠奪者として見るのではなく、子の父親として良人として見るようになったからかもしれない。ロルフが城砦にやって来た真相を知って以来、ロルフを憎む事はなくなっていた。それは大きな進歩だった。将来へ目を向けるきっかけとなった。
 アーロンの事を思い切るのは辛かった。だが、想ってみてもどうしようもない事であった。今も、全て思い切れた訳ではない。本来ならば、自分はアーロンの子の為に迎える支度をしていたであろうにと思う事もあった。黒髪に黒い目のアーロンに良く似た子だっただろう。自分の未練に厭になる事もあったが、振り切れていないのは事実だった。
 そんな詮ない事を考える自分を情けないと思う。だが、心の奥底ではまだアーロンを恋慕っていた。
 ロルフは確かに良人であり、子の父親だ。だが、愛している訳ではなかった。年経ればまた、違った形での情が二人の間に生まれるかもしれないが、今は無理だった。ロルフの方もまだ、先の奥方を愛している。
 亡くなって四年が経つというのに、まだその愛情は薄れてはいないのかと思うと、アーロンと別れて半年も経たぬ自分が思い切れぬのも無理ないだろう。
 互いに好意を持って一緒になった訳ではないのだ。ロルフが不快げに眉をひそめる事はあっても、暴力をふるわないだけましというものだろう。子が産まれれば、ロルフも変わるかもしれない。
 外へと通じる扉が乱暴に開き、ロルフとヴァドルが戻って来た。ティナは産着を籠にしまうと、急いで暖炉の前の席を空けた。そして、二人にお辞儀をすると厨房に行った。そこではオルトが夕食の準備を指示していた。
「お帰りになりましたから、御酒(ごしゅ)と何か身体の温まる食事をお出しして」
 ティナが言うと、オルトは頷いた。すぐさま奴隷に指示をして準備させる。
「奥方さまはどうぞ、大広間の方にいらしてください」
 オルトの言葉にティナは従った。
 大広間の暖炉の前で二人は濡れた毛皮を脱ぎ、早口で何事かを話し合っていた。男同士の話だ、ティナには関係のない事だ。
 ヴァドルはティナの姿に気付き軽く頭を下げたが、ロルフはちらりとも見ようとはしなかった。いつもの事だ。
 奴隷が蜜酒と食事を持って来た。二人は席に着き、話を続けた。同じ奴隷が毛皮を暖炉の側に並べて乾かす。
 ティナは居場所をなくして族長室に引っ込んだ。そこでも暖炉には火が入り、暖かだった。家事室は事前に言わない限り火は入らない為、ティナは身体を冷やしてはいけないとオルトに言われて一日の殆どを大広間か族長室で過ごしていた。そこで編み物や縫い物をする。慣れない事ばかりではあったが、何とか形にはなっているようであった。ロルフもティナの作った服を何も言わずに着ている。新しい服をおろす時に、それが誰が作ったものなのかは注意を払ってはいないようではあったが。
 だが、それでも、儀礼用の正装でロルフが全く袖を通そうとしないものがある事にティナは気付いていた。恐らく、先の奥方のエリシフが作ったものなのだろうと思った。それほどまでにロルフは人を愛する事ができるのだと思うと、ほっとする反面、寂しさもつのった。慣れたとは言え、共に暮らす身である。無視されるのが辛くなる事もあった。言葉の一つも掛けて欲しくなる事もあった。
 せめて、人前だけでも普通の夫婦のように振舞ってくれれば良いのにと思うのだったが、ロルフは、中つ海から迎えた妻をそのように遇するつもりはないようだった。自分に正直だと言えばそうなのだろう。別に望んで迎えた訳ではないのだ。愛想よく振舞う義理もない。
 そして、部族の人々もその事を知っている。決して、ティナには話しかけない。存在も無視する。
 そんなティナにとっては、オルトだけが話し相手だった。同じ中つ海から来たとはいえ、奴隷は話し相手にはならない。そのオルトにも、本心は話せない。頼ってはいたが、そこまで気を許している訳ではなかった。息子のヴァドルがロルフの副官に取り立てられたと聞いたら猶更だった。自分の心情がヴァドルやロルフに筒抜けになる事は避けたかった。
 北海の冬は、これから本格的になるという。冬の間中、この館からは出られない。その意味では、ティナは北海の虜囚であった。

    ※    ※    ※

 ロルフは女が下がるのを目の隅で捉えていた。腹は出てきているが、それほど目立つというものでもなかった。だが、もう少しすれば、孕んでいると分かるほどに大きくなるだろうとロルフは思った。新たな我が子の誕生を、自分が喜んでいるのかどうか、ロルフには分からなかった。心の中を覗いても、そこには虚無しかなかった。自分はまだ、二十五と若い。幾らでも子を望む事はできるだろう。だが、本当にそれを望んでいるのだろうか。エリタスとヴェリフの代わりの子を、本当に望んでいるのであろうか。
 時が経つにつれ、ロルフはそのように考えるようになっていた。あの時は、それが最良の方法だと思った。今ではそうだったのかどうか分からない。だが、女の腹の中には自分の子がいるのは確かであったし、それを認めぬ訳にはいかなかった。
 ヴァドルは、この事を心配していたのであろうか、とロルフは思った。
 そのヴァドルは、遠征からの帰還の翌日に行われた投票によって全会一致で副官に選ばれた。退路を断たれ、ヴァドルは渋々ながらも副官になる事を承知した。そういう男だからこそ、ロルフも信用するのだった。
 柵から逃げ出した数頭の羊が波にさらわれそうだというので、霙の降りしきる中を出掛けた。結局はロルフ達が着く頃には、件の羊は安全なところに引き上げられていたのだが。
 事後の策を話し合い、戻って来た。女もさすがに族長の妻という立場に慣れてきたのか、すぐに酒と食事を持ってこさせた。男同士が話し合うのに、邪魔にならぬよう下がりもした。結構な事だとロルフは思った。身重の今は殴って言う事を聞かせる訳にもいかない。正しい判断を下すようになったのは、ロルフにとっても有り難い事であった。
「冬至祭は例年通りに執り行いますか」
 ヴァドルが訊ねた。
犠牲(いけにえ)の羊を一頭、増やしても良いだろう」
 ロルフは言った。二人の子を失った。そして、今、女の腹には新しい子がいる。神々の恩寵を願う方が良かろう。
「承知いたしました」
 律儀にヴァドルは頭を下げた。
 族長家の羊の中から、最も立派なものが犠牲に選ばれる。目星は付けてあったが、それはヴァドルにも分かるだろう。それほどに、立派な雄羊だ。
 冬至祭を無事に終えたら夏至祭だ。その頃には、自分は再び父親になっているのかもしれない。
 父親とはどういうものであったのか、もう忘れてしまったような気がした。その感覚も、二人の子供達と共に死んでしまったかのようだった。
 ヴァドルと冬至祭の話をしながらも、ロルフの思いは別の方向へと流れていった。
 あのような子供達とは二度とは出会えぬであろう。どのような子供もあの二人のようには愛せはしまい。この世の美の全てを集めたような女の産んだ子だった。中つ海から来たその辺の石ころのような女の産む子と較べるのは酷だろう。
 エリシフ。あのような女も二人といない。あの女がエリシフと同じ雰囲気をまとっている事からして、エリシフに対する冒瀆のようにも思えるのだった。あの時には、それで充分だと思った。
 女主人然としている女を見て、苦々しい思いが起こることもあった。それは、本来ならばエリシフの為の地位だった。だが、一度もそれを享受しないままにエリシフは逝った。
 エリシフの死と共に、ロルフの世界は色を失った。それが再び色づき始めたのは、子供達がいてくれたからだ。今のロルフにとり、世界は冬の北海にも似て灰色に覆われている。
 あの女では駄目だ。
 ロルフは思った。あの女よりも姿形がエリシフに似た女ならば北海にもいる。それでも駄目だったものが、まとう空気が同じだからと言って、よくもあのような女を選んだとも思う。全く似ていない訳ではない。それは余りにもぼんやりとしすぎていた。あの女もあの女なりに美しくはあるのだろう。だが、エリシフの足許にも及ばない。そんな女から産まれる子を、どうして望んだりしたのだろうか。
 あの時の自分は、怒りで目が暗んでいたに違いない。
 そうロルフは結論付けるしかなかった。
 選ぶならば、やはり北海の女だった。北海の女ならば、面倒な慣習の問題もなければ、嫌々ながらに館の女主人の座を守る事もなかったであろうに。白鷹ロルフの妻になると言えば、北海の女ならば誰もが喜ぶであろう。力ずくで言う事をきかせる必要もなかったはずだ。
 あのような事件さえ起こらなければ、自分は後添えなど必要なかった。
 結局、思いはいつもそこへ戻ってしまう。
 あの女が悪い訳ではないという事も分かっている。
 だが、このやりきれない思いを何処かで発散させねばならなかった。そうでなければ哀しみと苦しみでどうにかなりそうだった。
 オルトは、自分があの女に暴力をふるった事を知っているだろう。だが、何も言わない。二人の死に心を痛めたのはオルトも同じだった。詳しい事情はヴァドルから聞いていて、あの女に変な同情はしないのかもしれない。オルトは何時でもロルフの味方だった。乳母とはそういうものなのだろう。
 母の顔は憶えてはいない。ロルフの前に四人の子を死産した後にロルフが産まれた。だが、結局エリシフと同じように産後の肥立ちが悪く、そのまま儚くなったという事だった。父は最早若いとは言えなかったので再婚はしなかった。ロルフが丈夫に育ったのは、幸運と言う他はないだろう。
 その点では、あの女は丈夫そうだ。悪阻は酷くて痩せたが、今では治まっている。何人でも産めそうだと思ったのは間違ってはいなかったようだ。小柄な女だが、エリシフのような華奢さはない。
 ロルフは蜜酒を一息に飲み下した。
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