第5章・掠奪

文字数 7,037文字

「お止め下さいっ」
 一人の女が走り出て、ロルフの腕に取り縋った。
「どうか、お慈悲を」
 ロルフは女を見た。まだ若い。娘だ。身なりの良い所を見ると、領主の娘かもしれない。
「放せ」
 ロルフは娘を振り切った。
「どうか、お慈悲を。それでないなら、どうか、わたくしの生命をお召しください」
 女は皆、同じ事を言う。ロルフは舌打ちした。そんな愁嘆場に付き合っている暇など、ない。
 娘はロルフの脚に縋った。
「まだ八歳の、訳も分からぬ弟です。何かご無礼があったのだとしたら、このわたくしが償います。ですから、どうか、お慈悲を」
 ロルフは娘を蹴飛ばそうとした。だが、ふと止めた。この娘は、どこかエリシフに似ている。まるでエリシフを蹴飛ばすような感覚に陥った。
「お前が、この小僧の身代わりになると言うのか」
 ロルフは苛立ちを隠しきれぬままに言った。どうして中つ海の領主の娘が、エリシフに似ているのだ。いや、栗色の髪も榛色の目も、似てはいない。エリシフは白っぽい金の髪に青みがかった灰色の目をしていた。顔立ちも、エリシフのような華やかさはなく、平凡だ。
「はい、どのようなお仕置きでもお受け致します」
「どのような――」
 ロルフは娘を見つめた。「その言葉に、偽りはないな」
「はい。この生命でもっても、償わせていただきます」
 肘を摑んでロルフは娘を立ち上がらせた。エリシフよりも背が低い。それはそうだろう、この娘は中つ海の者だ。
「今の言質(げんち)、しっかりと取ったからな」ロルフは唇を歪めた。「皆も聞いたな」
 五人は頷いた。
「よろしい、では、お前の望み通りにしてやろう」
 ロルフは子供を突き飛ばした。高座から夫人が走り下りて来て少年を抱いた。
「名は」
「――セレスティアナ、ティナです」
「宜しい、ティナとやら」ロルフは呆けたような顔になっている領主に目を向けた。「取引きは成立だ」
「一体…」
 夫人がロルフににじり寄った。「一体、娘をどうなさるおつもりですの。どうか、生命ばかりは――」
「この娘自身が生命も取って良いと言っただろうが」
 夫人の喉からひっという音が漏れた。そして、ロルフの脚に縋った。
「その子はまだ十七歳。ふた月後には結婚も控えておりますれば、どうか、この老母の生命を代わりにお召しくださいませ」
 ロルフは夫人を蹴りつけた。娘が息を呑むのが分かった。「お母さま」と少年が叫ぶ。
「ならば心の準備も出来ておろう」ロルフは言った。「この娘、私が頂いて行く」
「頂いて行く、とは」
 領主が小さな声で言った。「それはどういう――」
「文字通りよ。私の妻として頂いて行く。まだ十七ならば、幾らでも子も産めよう、結婚を控えてるのならば、嫁ぐ準備も出来ておろう」
「何て事を…」
 領主は手で顔を覆った。
「それとも、ここでその小僧と、お前の子供達全ての生命を貰い受けるかのどちらかだ」
 夫人も領主も震えていた。少年だけが、意味が分からないという風体で姉を見ていた。
 小さい事だ。ロルフは思った。領主だ何だと言っても、結局は気の小さい男でしかない。ロルフに一対一の決闘さえも申し込めない。騎士共にしたところでそうだ。一人、真っ青な顔で唇を噛みしめている若者がいるが、それがこの娘の婚約者なのかもしれない。目の前で婚約者が奪われようとしているのに、手も足も出せないでいる。決闘の勇気もない。中つ海の者は、皆、臆病者だ。
 この娘の方が余程勇気がある。エリシフに似ているのならば、それも当然かもしれないが。
「それで良いな」
 静かにロルフが言うと、領主はがっくりと頷いた。夫人はわっと泣き崩れた。娘はロルフに肘を持たれたままじっとしている。この娘には意味が分かっているのかとその顔を見ると、真っ青で全ての感情が抜け落ちたようになっていた。その目が、やがてきょろきょろと動き、騎士達の方を見た。あの若者だ。だが、若者は目を逸らせたままだった。
「では、準備をしろ。全ての持参財と嫁入り支度を持たせろ。準備が出来るまで、襲撃は待ってやる」
 ロルフは部下に頷いて見せた。男達は大広間を去った。後に残されたのは、縛られて転がされていた船長だ。
「一人で残ったからと言って、簡単に私を殺せると思うな」ロルフは言った。「私は族長の白鷹ロルフだ。そう易々とは殺られはしない。夕刻までに私が戻らぬ時には――分かっているだろうな。北海人の復讐がどのようなものか、良く分かっただろう」
 騎士達に目をやると、皆視線を逸らせた。ただ、あの年配の騎士だけが、正面からロルフの目を受け止めた。少なくとも、一人は多少は気骨のある者がいるという事かとロルフは思った。
 乱暴に、ロルフは娘を放した。
「旅支度をして来い。準備ができ次第、すぐに出発だ」
 娘――ティナはロルフを見た。ぼんやりとした目をしていたが、ゆっくりと頷くと足を引きずるようにして大広間から出て行こうとした。
「ついでに言っておこう。自害など、考えぬ事だな。そのような事をすれば、この領地は血の海だぞ」
 ティナの肩がぴくりと動いた。やはりそうかとロルフは思った。気概のある娘の事だ、式を前に掠奪されるくらいならばと考えても無理はない。
 あの娘はエリシフではないぞという声が聞こえた。それは分かっている。自分が愛した女の身体は、今は冷たい土の中に横たわっている。それに、そっくりという訳でもない。ただ、何処となしに似ているだけに過ぎない。だが、それでもロルフは良いと思った。どのみち償わせなくてはならないのならば、代償を将来の子で支払って貰うのも手だった。エリシフに何処か似ているあの娘の産む子であるならば、エリタスやヴェリフに良く似た子が出来るかもしれない。決して代わりにはならぬが、それでも、何もないよりは

だ。
 そんなに都合良く行くだろうか、と囁くものもあった。だが、今はそれしかなかった。全てを失ってしまった今となっては、その細い糸に縋るしかなかった。
「喉が渇いた、酒でも貰おう」
 ロルフはそう言って床に転がった船長の上に座った。男はぐう、と唸った。この男はまだ人質としては有効だった。
 すぐに領主の近習の少年が杯を持って来た。それに震える手で葡萄酒を注ぐ。
「まずは、お前が飲め」
 ロルフは近習に言った。怯えながらも、少年は杯に口を付けて一口、飲んだ。
 それを見るとロルフは杯を手に取り、一息に飲んだ。
 騎士達は何も出来ないでいる。殺そうと思えば出来るのに、とロルフは心の中で嘲った。六十人の北海の戦士だとて、この城砦を攻め落とす事は出来ない。町から逃げて来た者を助けるだけでも、領主としての義務は充分だろう。町は再建すれば済む事だ。それなのに、誰一人としてそれが思い付かないのか。それとも、領主の命令がなければ何も出来ない木偶の坊なのか。
 もう一杯を注がせ、次はゆっくりと味わった。渋みが強かった。やはり、蜜酒の方が好みではあったが、中つ海では葡萄酒が普通のようだった。
「女の支度は時間の掛かるものだと承知しているがな」ロルフは冗談めかして夫人に言った。「そう長くは待てんと伝えろ」
 夫人は侍女を向かわせた。
 機嫌が良くなった訳ではない。やはり、まだ、あの少年の首を掻き切れば良かったと思っていた。この城砦の子供全てを殺せば良かったと思っていた。だが、それでは心は満たされまい。例え中つ海の血が入ろうとも、亡くした者が戻る方が良かった。そうだ、家族だ。エリシフに似た子供達を持つ事によってのみ、それは満たされるとまではいかなくとも、少しは慰めになるだろう。何も残らないよりは幾らかでもましだという程度に過ぎないにしても、だ。エリシフに似ていない子供ならば殺してしまえば良い。嬰児殺しは普通に行われている。決して特別な事ではない。
 領主夫人は侍女に抱えられ、涙ながらに高座に戻って行った。誰も何も話さず、ただ夫人の嗚咽だけが大広間に広がっていた。領主夫妻の苦しみと、無能な騎士共の煩悶とを見るのは愉快だった。これが北海ならば、本当に領主の全ての子供達の生命も貰うところだが、仕方あるまい。あの娘の勇気と何所とはなくエリシフを思わせる事に免じて、それは勘弁してやろう。
 このような地で、エリシフを思い出させる娘に出会うとは思わなかった。
 愛しい女を失って、どれ程の月日が経ったであろうか。未だにその面影はロルフの中では鮮明であった。他の女には目もくれぬ程に、エリシフを愛し焦がれ続けてきた。子供達がいれば、それで良かった言うのに。その子達まで奪われてしまった今では、エリシフに繋がるものは何でも自分の側に留め置きたかった。人はそれを嘲笑うかもしれない。だが、それは本当に大切なものをなくした事のない者の言葉だとロルフは思った。
 杯越しに見える風景は、ロルフにとっては何の意味もなかった。
 泣く女達も、青ざめた騎士達も、己の力と知恵のなさに憐れみを持っているだけだ。本当にあの娘を手放したくないのならば、ロルフを殺せば良い。殺される事にロルフは恐怖も愕きも感じないであろう。だが、それをしない者達は、自分達を憐れんでいるに過ぎない。そのような者共に向ける気持ちはなかった。
 三杯目の葡萄酒を飲み終わる頃、娘が大広間に戻ってきた。先程の服は着替えている。より旅に適した軽装だ。袖口の広いのは船旅には頂けないなとロルフは思った。だが、それがこの辺りの女の服装であるならば、仕方がないだろう。
 娘は泣いてはいない。その後ろに付き従う女達は、またしても泣いている。もう、女の涙にはうんざりだった。北海の女は、これ程泣いたりはしない。
「用意は出来たようだな」
「今から、荷物を運びます」
 蒼い顔の娘は言った。
 やがて、大広間に長櫃が三つ運び込まれた。
「開けろ」
 ロルフがそう命じると、侍女らしき女が蓋を開けた。中は服だ。もう一つには様々な布が入っていた。結婚の支度品だろう。最後の一つは細々とした生活用品だった。
「持参財がない」
 そうロルフが言うと、領主は近習に何事かを囁いた。少年は頷くと静かに去った。
「今、持って来させる」
 領主の声は小さかった。無理もないだろう。娘をただの子を産む為の道具として、誰も知らぬ北海へと送り出さねばならないのだ。自分の無能さ故に。
 男が二人がかりで大きな箱を運んで来た。中を検めさせると、金銀の他、宝石類がぎっしりと入っていた。
「生命の代価としては安い物だが、まあ、仕方ないだろう」
 ロルフは言った。如何に財宝を積まれたとて、二人の息子は帰って来はしないのだ。改めて、その事がロルフの胸を締め付けた。
 この財の半分はアスラクの物だ。今、自分の目の前に立っている娘とそう変わらぬ歳の娘であった。アスラクの唯一人の子だった。アスラクの心は自分と同じく、これでは慰められぬであろうとロルフは思った。いや、世界中の宝を積まれたとしても、自分達が慰められる事はないであろう。
「では、出発だ」
 二人の少女が走り出て来て、ティナという娘に抱きついた。妹なのだろう。
「せめて、家族の別れを」
 領主の言葉をロルフは鼻で笑った。だが、ここまで来たのだ、気前のよい所を見せておくのも悪くはないだろう。
「少しだけだ」
 娘は妹達と共に高座に向かった。両親の前で、本当に嫁に出る娘のように膝を沈める。領主も夫人も高座を下りて娘を抱き締めた。
 誰もが涙にくれていた。少年も泣いていた。
 愁嘆場は嫌いだった。いつまでもだらだらと涙を流し、くだくだと仕様もない事を言い合う。
 涙を流したからといって、何かが変わる訳でもない。涙を流せるだけ流せば子供達が生き返ると言うのならば、エリシフが甦るというのならば、とっくにそうしていよう。涙は何も変える事ができない。
「荷物を運ぶ馬車を用意しろ」
 悲嘆にくれる家族を他所に、ロルフは騎士に命じた。年配の騎士の指示で若い者達が動いた。その荷車に自分と娘が乗り、港まで行けば良いだろう。騎士達がついて来るならば、それも良かろう。領主の娘を連れているのならば、どのみち、手出しはできまい。
 ロルフは蒼い顔をして娘を見つめ続けている若い騎士を観察した。きっちりと切り揃えられた黒髪に黒い目。髭も生やしてはいない若造だ。握り締められた拳は震えている。いっその事、この男に護衛をさせるのも良いかもしれないとロルフは思った。目の前で女を掠奪される時、偉そうな騎士がどのような反応を見せるのか、興味があった。
 荷物が運び出され、準備が整った事が分かった。
「そろそろ良いだろう」
 ロルフは言った。「何時までやっていても、何も変わらんし時間の無駄だ」
 娘が振り向いた。その顔にやはり涙はなかった。
「参ります」
 静かにそう言うと、娘はロルフの許へ来た。ロルフは娘の肘を摑んだ。
「ではな、この娘は頂いて行く」ロルフはにやりと笑った。「二度と会うことはないであろうがな、

殿


 ぐいと娘を引き、ロルフは大広間を出ようとした。
「待たれ」年配の騎士が声をかけて来た。「我等の領主の御嬢様を、一人で行かせると言うのか」
「侍女なら、北海にでもいくらでもおるわ」
 ロルフは動じなかった。
「では――では、せめて、港までの護衛をつかまつる」
 騎士は言った。ロルフは鷹揚に頷いた。
 大広間を出る時に、外に集まっていた城砦中の人々が二人に道を空けた。誰もが俯き、視線を合わせようとはしない。
 それを睥睨するとロルフは出口に向かって歩み始めた。憐れな人々。一人の娘を犠牲にする事で生き延びた者達。軽蔑しかロルフの心にはなかった。中つ海の者は勇気がない。多少の犠牲を払おうとも自分達の誇りを守ろうという勇気がない。だから、奴隷にされる。その生活に甘んじる事が出来る。
 出口のすぐ脇に、荷馬車が用意されていた。
「乗れ」
 ロルフは娘に言った。娘は黙ったまま大人しく、よじ登るようにして御者席に座った。一人で何かをする事には慣れていないのだろうかと、ロルフは訝しんだ。北海の女とは違う。
 その横に座ると、ロルフは手綱を手にした。騎士達が慌てたように厩舎から馬を引き出してきた。その事を全く気にしていない事を示す為に、ロルフは馬を歩ませた。無言で、騎士達が後に付いて来る。
 町の人々は、行きと同じく黙ってロルフを見送った。娘の姿を目にしても、誰も一言も喋ろうとはしない。
 港まではすぐだった。ロルフの部下達は既に出航の準備を整えていた。荷馬車が近付いてくるのを見ると、一旦、手を止めた。
 ヴァドルが男達に声を掛け、集めた。
 桟橋の所で馬を止めると、男達が寄って来た。
「後ろの荷を運べ」
 短くロルフは言った。そして荷馬車を降りると、娘に下りるよう仕種で命じた。ゆっくりと、娘は下りた。
 四つの荷は全て艫に集められた。
 娘の腕を摑むと、ロルフは桟橋を渡り、船に乗るように言った。だが、娘は足がすくんだように動かなかった。ロルフは溜息をつき、娘を抱え上げて舷側を渡した。
「艫でじっとしていろ」
 ロルフは言った。どうせ、動きたくとも動けないだろうと思ったが、念の為だ。男達は興味津々といった様子で娘の動きを見ていた。桟橋のたもとでは、騎士達が馬を下りていた。
 そう言えば、娘は一度もあの若い男の方を見なかった。ロルフは急に思い出した。それは愉快だった。あの男は、婚約者に見限られたのだろう。一言も発せぬままに婚約者を引き渡す事しか出来なかった者だ。騎士の名と長剣は無用の長物だ。
 積荷船は何時でも出航出来るという合図をロルフに送った。領主の船で乗組員達を監視していた者達も帰って来た。これで、全ては終わりだ。もう二度と、この地を踏む事はない。
 ロルフは船に乗った。背中の楯を舷側に据えると舳先へ行き、ヴァドルに頷いた。
 ヴァドルは出港を命じた。(もや)い綱が外され、船が港から自由になる。
 櫂が下ろされて桟橋から離れる。騎士達は為す術もなく、それを見送る。
 いい(ざま)だ。ロルフは思った。騎士の目の前で何かを掻っ攫って行くというのが、こんなにも気持ちの良いものだとは思いもしなかった。遠征では、騎士達が来る前に襲撃を終えるのが普通だったからだ。唯論、戦った事もあったが、地の利はあちらにあるし、騎馬の分だけこちらが不利だった。苦戦を強いられる事も多かった。だが、その騎士達が、今は阿呆のように領主の娘と宝物(ほうもつ)を持った北海人を見送るしか術がないのだ。これ程、愉快な事があるだろうか。
 娘はじっと城砦を見ていた。家族を思っているのだろうとロルフは思ったが、同情はしなかった。条件無しの取引きを持ちかけてきたのは、娘の方だ。
 遠ざかる港に、ロルフはほっと息を吐いた。後は北海へと帰るだけだった。部族民は族長の帰りを待ちわびている事だろう。だが、ロルフ個人を愛し、待つ者はそこにはいない。
 ロルフは再び娘を見やった。その考えている事は分からない。だが、立ち姿も表情も、エリシフと同じ雰囲気があった。そうだ、似ているのは雰囲気だ。顔立ちも少しは似てはいるが、それよりも、醸し出す空気がエリシフと良く似ていた。ロルフは唇を噛んだ。それならば、あの娘から産まれる子が亡くした二人に似る事はないかもしれない。だが、これは賭けだった。勝つか負けるかは、蓋を開けてみるまでは分からない。それも、何度でもだ。
 ロルフは前方へ目を転じた。
 帰ろう、北海へ。全てはそこから、始まる。
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