第50章・ロロ

文字数 11,581文字

 ロルフ達が出発してしまうと、ティナは胸を撫でおろした。
 今年も、心中の複雑な思いを悟られず、ロルフの機嫌を損じもせず無事に送り出す事ができた。子供達には頷き、二言三言かけて行くというのに、相変わらずティナの前は素通りであった。足を止められても何か不備でもあったのかと怯えるだろうから、伏せた目の前をロルフの脚が通り過ぎる事を心の中では願っていた。
 船が見えなくなるまで見送るのも、無事を祈るとか寂しくなるからという意味合いはなかった。さっさと踵を返す事も可能であったかもしれないが、族長の奥方は冷たい、という評判が立つのは避けたかった。それが耳に入った時のロルフの反応を思うと恐ろしい。自らの身を守る為であったが、同時にそれは、子供達の目を誤魔化す為でもあった。極力、二人の間の不協和を悟られぬようにと、ティナは子供達の心の安定を一番に考えてきた。エリスやアズルに知られたかもしれない今では、そのような

は意味がないかもしれない。だが、何も知らないであろうハラルドの前では、少なくとも、従順で夫を気遣う妻を装わなくてはならなかった。
「お母さま、もう、戻りましょう。早朝の風は冷たくて強いわ」
 エリスがそっと、ティナの肩に肩掛けを掛けてくれた。優しい娘だった。いつでも、ティナの身を心配してくれる。この子が島を去ってしまったら、どれだけ寂しく心細くなるだろうかと思わずにはいられなかった。
 海に背を向けると、見習いとなった息子達がまだその場に残っていた。オルトは既に館へ昨夜の後始末の首尾を見に帰ったらしく、ハラルドは、仲間達と共に船のなくなった浜を駆け回っている。
「母上、館までお送りいたしましょう」
 ロロが口を開いた。「ハラルドは、まあ、放っておいても大丈夫でしょう。腹が空けば帰るでしょうから」
 夜明け前に、常よりも早く朝食を済ませていたが、ハラルドは興奮していて余り食べてはいなかった。その事が心に引っかかっているのを、ロロは見抜いていた。
 成長したのだ、とティナは思った。長兄として末弟を気に掛けるのは当然かもしれないが、すぐ下のオラヴとは毎日のように喧嘩をしていた姿からは想像のできない細やかな目の配りぶりだ。唯論(もちろん)、それは族長の跡取りとしてのロルフやヴァドル、オルトの教育の賜物であろう。だが、本人の自覚もできているようだった。
 館では、今日まで戦士達に仕えてきた見習い達をねぎらう意味でも、オルトが軽食を用意して大広間で待っているはずであった。ティナがこの島に来た当初は、前夜の戦士達の饗宴の後始末が大変であったが、床に藺草を多めに敷く事で随分楽にはなっていた。娘達や見習いの手を煩わせる事無く、速やかに片付けや掃除が済ませられるようになったので、その分ゆっくりとさせる事ができる。
 女達は、浜のあちらこちらで子供を遊ばせたり話に花を咲かせたりしていた。それに一渡り目をやって、ティナはロロと共に館に向かって歩み始めた。後ろからは、エリスの話し声が聞こえた。この夏の初めに館に上がった娘の一人と懇意にしているらしいとは気付いていたが、恐らくその娘が相手なのだろう、随分と心安そうに話している様子に、ティナは安堵した。特に親しい友人も持たずに来たエリスを、少々心配もしていたのだ。短い間であったとしても、同年代で忌憚なく話せる相手がいれば随分と心の持ちようも変わるだろう。
「準備で大変でしたでしょうから、今日は少しゆっくりなっさてはどうですか」
 ロロが言った。「姉上の支度の方も、大分(だいぶん)進まれたのではありませんか」
 その言葉に、もう、この冬しか残されてはいないのだという事が、改めて思われた。
「あなたたちの冬支度も必要ですから」
 ロロの成長は落ち着いていたが、オラヴやアズルはまだまだ背が伸びるだろうし、足の大きさも変わるだろう。
「少し、働きすぎではありませんか。まあ、我々が成長する以上は仕方のない事かもしれませんが、ハラルドなどはウナが支度を手伝っているではありませんか。誰かに手伝わせては如何ですか。館には若い女性も多くおりますし」
「あの娘たちにも、それぞれ仕事がありますから」
 このような事でしか男の子達に関われないのであるから、ティナはその機会を僅かであっても手放したくはなかった。だが、それをロロに向かって口にするのは憚られた。十代の男の子とは、母親から離れて行くものだという諦めもその中にはあった。母親の気遣いであってさえも煩わしく感じる年頃に、押しつけがましいと思われる事は口にしたくはなかった。
 嫌われたくはない、という気持ちから来るのは分かっている。だが、自分の子供達に嫌われたいと思う母親がいるだろうか。自分達の母子(おやこ)関係が儀礼的であるにしても、いつかはこの心を理解してくれるのではないだろうかという、僅かな望みを持っている事も否めなかった。その浅ましい気持ちは、どこまでも隠したく思っていた。
「母上のお身体に障りがなければ、それで良いのですが」
 ロルフがいなくなった今では、ティナは病を理由に引きこもる必要もない。だが、戻った時に、留守の間は活動的であったと知られるのも恐ろしかった。ロルフは、飽くまでもティナを長く患っていると島内外に印象付けたいようであった。
 そのくらいならば、いっその事、殺すなり捨てるなりしてくれた方がずっと楽だと思わずにはいられなかった。エリスや子供達の手前もあって、長患いから回復する事がなかったとしたいのか、それとも、ロルフには他に意図があるのか、ティナには分からなかった。誰も真相には辿り着けないような結末を、ロルフはティナに用意しているのであろうか。
「母上はサムル殿に、お会いになられましたか」
 ロロの言葉に、ティナは思わずその顔を見上げた。他意はなさそうな様子に安堵しながらも、その問いの真意を測りかねた。
「あの方は、今までに見た事のない(たぐい)の人で、私などは非常に興味を持ちました」ティナの反応には関わりなく、ロロは続けた。「義理であっても、兄を持つ、というのは、格別ですね」
 産まれた時から、ロロは長男の扱いをロルフからも周りからも受けていた。だが、異母ではあっても、ロロには兄達がいた。幼くして亡くなった美しい兄弟の事を思うと、今でも胸が痛んだ。自分のせいで死に至らしめたのではなくとも、小さな者達が生命を失うという事自体にティナの心は締め付けられた。そして、スールに思いを馳せずにはいられなかった。
 小さなスールを忘れる事など、有り得なかった。ロルフは二度とその名を口にするなと言ったが、それが忘れたいからではない事も、ティナには分かっていた。名を聞けば思い出さずにはいられない。忘れたくはないが、思い出すのは辛い。その痛みと苦しみは、胎内にいる時から愛情を感じていた自分の方が大きいだろう。
「――それで、お会いになった印象は如何でしたか」
 ティナはロロの言葉にはっとした。生返事で、サムルに会った事を肯定したようだった。
「あなたが感じたのと同じだと思いますよ」ティナは言った。「互いに幸福であれば、何も言うことはありませんもの」
 ロロは唸った。
「姉上のご気性を考えれば考えるほど、サムル殿に忍耐力が必要なように思うのですが」
 それには答えず、ティナは微笑んだ。言葉遣いや態度は大人びていても、まだロロは子供だった。詳しく説明する事もなかろうと思った。いずれは理解するであろうし、そうであって欲しいと願った。
「例年の如く、暫くは戦士の館の後始末に追われるでしょうが、今年の遠征の間は、私は館に戻っているつもりでおります」
 話題の転換に、ティナは思わず瞬きをした。通常、正戦士達が遠征で留守にしている間も、年少の者は残った年長の見習いの世話の為に戦士の館に留まる事になっていた。来夏にはロロは最年長となる。そうなれば、かなりの自由のきく身になるが、まだ、それまでには半年近くある。
「ヴァドル殿が父上に、見習いではあっても、私はゆくゆくは後を継ぐ身であるので、そろそろ族長の館で留守中に起こる出来事を知っておくべきだと進言して下さったのです」
 予定では、正戦士に任じられると同時に跡取りとして認知されるのだとオルトから聞いていた。いよいよ、そのような年齢にロロも達するのだ。
「私自身は、跡取り云々など、まだ早いとは思うのですが」ロロは自信なさげに言った。「来夏には姉上も島を出られる事ですし、少しは共に過ごす時間も取れればと」
「オラヴやアズルは――」
 エリスの事を考えれば、他の二人も共にいられる方が良いのではないかとティナは思った。正戦士となれば族長集会の際に会えるのだとしても、それはまだ先の事だ。ロロに較べれば、まだまだ心情的にもぴんとは来ないのかもしれないが、別れてから後悔しても遅いのだ。
「二人も折を見ては戻るよう、ヴァドル殿から言われてはいると思います。最年長の代表者にも、話は通っているはずです。後の事を考えれば、それを拒否なり無視なりはできないかと存じます」
 言外に、物騒なものを感じた。族長の子であっても優遇されないのは実力を以て人を測る北海に会っては当然の事かもしれない。だが、ロロはそれ以上の、年長者の悪意を仄めかしたように思えた。遠征でロルフもヴァドルも、戦士長もいない中では、戦士の館では見習いの代表が全ての権限を握っているのであろう。
「唯論、引退した戦士達が指導に訪れてくれますので、そちらにも話は行っていると思います。何と言っても、姉上の結婚は、一大事ですからね。族長家の姉弟の結束を見せる為にも、出来る限り共にいる方が宜しいでしょう」
「それでも、冬の間も戦士の館で過ごすのでしょう」
 一抹の寂しさを感じてティナは言った。関りが少なくあっても、館に子供達の存在があるのとないのとでは、大違いであった。しかも、兄達の誰もいない初めての冬を、ハラルドは過ごす事になる。さぞやがっかりとするだろうと思った。可哀想でもあった。エリスの結婚支度の為に人々は忙しく、ハラルドの旺盛な活力は発散する場所をなくしてしまうかもしれない。
「できれば、交替ででも詰める事ができれば良いのですが、これは、遠征から父上達がお帰りになってからの話になるでしょう」
 遠征から戻れば、家畜の選別や収穫祭、冬支度などで追われる。そこから子供の為にロルフやヴァドルが取る時間があるのかどうかを、ティナは知らなかった。だが、ロロから求められれば、ロルフとても拒否はしないであろうと思われた。ヴァドルの意を汲んでではあっても、留守中の出来事を族長の館で見聞させるというのは、正式な後継者としてロロを認めているという事に他ならないだろう。
 男の子達の将来については、問題はなさそうであった。ロルフやヴァドルがロロを後継者に相応しいと認め、そのように接するのならば、周りもそれに従わざるを得ない。そして、ロロが族長として立つ頃には、最早、その母親が中つ海の人間であった事など、誰も気にしなくなるだろう。その際に自分がいなければ猶更の事、まだ生きていたとしても、ロロに中つ海の片鱗を見る事は不可能だと思った。
 オルトは、ロロ達が正戦士として任じられ、遠征に初めて参加する日を今から心配をしている。戦士として、族長の跡取りとして責務を果たせるかどうかを案じての事だ。だが、ティナから見る限り、ロロは北海の人間であった。自分の中の血を思って戦いを躊躇うような事はないと思った。それは、他の子にしたところで同じである。
 ロロが、他の子が残酷だというのではない。奴隷に対しても殊更に厳しい訳でもなかったし、態度としてはロルフに似ていた。要は、奴隷の存在に対して無関心だった。ティナ自身も城砦にいた頃にはそうであったので、それに関しては全く気にはならなかった。
 同胞が貶められているのに、それを残酷な事だとは思わないのか、と問われれば、ティナには返す言葉もなかったであろう。自分達が城砦で使っていた奴隷は、そもそもが同胞ではなかったか。同郷人ではなかったとしても、交易島から、或いは陸路から連れて来られる奴隷は、中原諸国の争いに於いて敗北した国や地域の人間が(おも)であると聞いていた。殆どが東方地域出身であるとは耳にした事があったが、それでも、同じ言葉を話し、同じ神を奉じる者である事には変わりがない。それでいてさえ牛馬並みに使役できるのならば、異なれば猶の事であろう。
「何か、心配事でもあるのですか」
 急に黙り込んだロロに、ティナは不穏なものを感じて言った。どことはなしに陰りのある表情に、不安が掻き立てられた。
「申し訳ありません――遠征が終われば、投票が待っておりますので」
「とうひょう――」
 ティナには何の話であるのか分からなかった。中つ海では聞いた事のない言葉であったが、北海では時に耳に入るものの一つだった。
「ええ、私も来夏には最年長となりますから、見習い代表の候補でもあるのです。父上は私に代表となる事を望まれるでしょうが、こればかりは、投票によって決まりますから」
「あなたが、代表に」
「まだ、候補に過ぎません。来夏に最年長となる者全てが候補者なのです。父上も代表でいらしたと聞き及んでおりますし、私が後継者して立つのであれば、皆もそれを期待するでしょう。しかし、私には皆の支持を得る自信がありません。選ばれなければ、父上を失望させてしまうでしょうし」
 支持が得られないとは、ロロが自分の、中つ海の血を引いているという事に起因するのであろうか。ティナの身体が震えた。それが、息子の将来を閉ざしてしまうのだろうか。ロロがロルフの寵を失い、嫡男としての地位を追わてしまうのではないかと思うと、気が気ではいられなかった。自分では、この子を護る事はできない。
「ヴァドル殿は、そのような心配は無用と仰言(おっしゃ)るのですが、やはり、父上のお気持ちを考えますと」
 出来の悪い息子では後継者として認める事はできない。
 そう、ロルフが思ったとしても、ティナは愕かなかった。生まれたばかりの我が子の生死を決めるような人である。瞬き一つ、眉の一つも動かす事なく人を殺せる人である。自分の利にならぬと思えば、ロロを切るような事も平気でやってのけるかもしれない。オラヴもアズルもハラルドも、子供である今は可愛がってはいても、成人して目に適わなければ同じ事かもしれない。何しろ、皆はロルフが愛し続けている先の奥方の子ではないのだから。美しく聡明であったと聞く幼い兄弟とは違うのだから、ロルフの子供達への愛情には限りがあるのかもしれないと、ティナは不安になった。
 どれほど深くロロが苦悩しようと、エリスの時と同じでティナは差し延べるべき手を持たなかった。
 わたしは何があろうと、あなたを変わらず愛し続けるのですから、大丈夫ですよ。
 そう言ってロロを抱き締める事ができれば、どれほど良いだろうかと思った。だが、生まれてすぐに取り上げられ、授乳の際にしか抱く事を許されなかった子に対して、取るべき態度を知らなかった。
 ただ俯き、黙って歩み続ける母親に、ロロも何も求めてはいないように思えた。
「父上は、ヴァドル殿と最終投票の際に同数であったそうです。結局はヴァドル殿が辞退をされて父上が代表になったと聞いております。本当に、あのお二人はあらゆる面で双子のように拮抗していらっしゃる。私もあのような相手を持ちたいとは思うのですが、いかんせん、私の基準に相手を貶めてはなりませんからね」
 そういうところが、少年たちには物足らないのかもしれないとティナはふと思った。ロロは時に非常に自信なさげに見える。普段はロルフの跡取りであるとの自負からか、大人に対しても堂々と振舞っている。だが、エリスや弟達といる時には、ふと、そういったところが顔を出すのだ。幼い頃にはエリスには抑えつけられてはいたものの、弟達に対しては容赦しない面もあったというのに、いつの間に変わってしまったのだろうかと、ティナは不思議に思った。
 ロルフは、このようなロロを好むまい。
 その考えが頭に浮かび、ティナはぞくりとした。
「お寒いのですか」身体を震わせたティナに気づいたのか、ロロが言った。「中は火を使いますので、暖かいと思います。お急ぎになれますか」
 心配そうなその顔に、ティナは大丈夫だと微笑んだ。だが、このロロの優しさが生命取りにならねば良いがと思わずにはいられなかった。ロルフは気に入らないであろうし、機嫌を損じればロロの将来は見通しの暗いものとなるのかもしれない。
 その一方で、ロルフはそんなに簡単に息子を切り捨てるような薄情な人間ではない、と言うティナがいた。情に厚いからこそ、未だに亡くなった人々を愛し、心を痛めているのではないだろうか。エリスに生きる事を許し、また、婚約に関しては意見を尊重してくれたのではなかっただろうか。
 二人は無言で歩んだ。後ろからは、エリスやオラヴの声や笑いが聞こえてきた。
「オラヴが――」
 館の戸口が近くに来た時、おもむろにロロは言った。「オラヴが不愛想である事を、どうか不快には思わないで下さい」
 他の人間といる時にはオラヴは機嫌よく笑ったり喋ったりするが、ティナの前では常に無口でにこりともしなかった。それが少年の成長につきものの反抗的な態度であるとしても、ロロに較べれば随分と長かった。
「不快になど――」
 そのように感じているとロロに思われている事に、ティナは哀しくなった。どの子のどの態度に対しても、不快になど、思った事はない。寂しいとは感じはしたが、オラヴに対して負の感情を(いだ)くなど、あろうはずもなかった。
 確かに、オラヴは跡取りであるロロや、ゆくゆくは学者と呼ばれるのではないかと言われているアズル、手の付けられない悪戯者のハラルドに較べれば目立たないかもしれない。容貌や体格も皆とは違っている。オルトがふと漏らした言葉によればロルフの父親に似ているそうだが、その事を殊更に意識したこともなかった。がっしりとして、どこか繊細さに欠けるところはあったが、愛する子であった。
「オラヴは、母上にどのように接すれば良いのか、分からずにおります。どうか、暫くはこのまま、見守ってやって下さい」
 ロロのその言葉に、ティナは黙って頷いた。自分に口出しのできる問題ではなかった。
「私自身、そのような時期がありましたが、反省しております」
 大広間へ通ずる扉に手をかけ、ロロが言った。目は、ティナを見てはいなかった。また、あの翳りのある表情をしていた。
 ロロが反省する事など、何もないのだと伝えたかった。成長の過程の一つであると承知している。自分も、子供たちほどではないにしても、そのように成長してきたのであろうし、恐らく、エリスもオラヴも大人になろうとしているのだ。その事で親である自分が傷付くなど、何ほどのことでもなかった。
「私は――」ロロはティナの目を見て言った。「


 言葉の真意を測りかねてティナは立ち尽くした。ロロは直ぐに目を逸らし、扉を開けた。
「いっちばーん」
 躊躇っているティナの傍らを、ハラルドが叫びながらすり抜けた。その首根っこをすかさずロロが捕まえた。
「こら、ハラルド、母上が先だろう」
 自分は怒られないと思っていたのか、ハラルドは不満そうにロロを見上げた。
「礼儀をわきまえる事ができなければ、見習いにもなれないぞ」
 長兄にそう言われて、ハラルドは大人しく後ろに下がった。納得した訳ではなさそうではあったが、ハラルドにとっても見習いになれるかどうかは大きな問題であるのだと分かる。次の夏には、この天真爛漫な子からも明るさが奪われてしまうのだろうかと、ティナは寂しく思った。
 二重になった扉を入ると、既に大広間は片付けられて床の藺草も敷き替えられており、混ぜられた香草の爽やかな香りが混じっていた。朝食も充分に摂れそうであった。早朝にはまだ徘徊していた猟犬も追い出されたのか、姿がなかった。大広間に犬がいるのは城砦でも日常の光景であったが、北海の犬は狼のように大きく獰猛なので、ティナは恐ろしいと思っていた。だが、産まれた時からその犬を知っているからか、子供達は平気で撫でたり邪魔な時には押しやったりする。宴会の際には鬱陶しいと蹴とばす男もいるので、その度にティナは反撃されるのではないかと恐ろしかった。
 厨房の方からは焼き立ての麺麭の香りがしていた。冬を旨に建てられているからか、窓というよりは空気孔に見える穴しか土を固めたような壁にはなく、壁に掛けられた綴織の、本来は鮮やかな色さえもがくすんで見えた。
 ティナの姿に気付いた女奴隷が、慌てて厨房に向かって行った。
 子供達を従えるようにして入ると、オルトが出て来て一礼した。
「何か、お持ちいたしましょうか」
「子供達と見習い戦士に、食べる物を」ティナは静かに言った。「ハラルドには多めにお願いします」
「奥方さまは」
「部屋で少し、休みます」
 そう言うと、ティナはロロ達に会釈した。必要以上に関わってはいけない、深い関りを持ったことをロルフに知られると恐ろしい、という感情が大きくあった。オルトは親切であり、ロルフの不在の時にはティナを立ててはくれるが、それに甘えていてはいけないと思った。オルトはロルフの乳母だ。帰還したロルフに、ティナの振る舞いの全てを報告しないとも限らない。
「それでは、後でまた、お目にかかります」
 ロロは丁寧に言い、軽く一礼した。弟達もそれに続く。
 どうしようかと迷っている様子のエリスに、ティナは残って、これからやって来るであろう見習い達に充分な(ねぎら)いをするようにと言った。エリスは、女主人としての振る舞いを身に付けねばならないのだ。
 それは、ティナには教えられない事であった。城砦での事であるならば、何でもできたであろう。だが、北海では何をどうすればよいのか、オルトを見ていてもさっぱり分からなかった。自分には、例えロルフやオルトから任されるような事になろうとも、務めるのは無理な話であった。
 部屋に下がると、そこは自分だけの空間であった。何の装飾もない殺風景な場所ではあったが、今日から暫くの間は、ロルフが急に部屋に入り、物思いや手仕事に耽っている自分の心を乱す事もない。滅多にない事ではあったが、それでも、機嫌を損じぬよう息を殺し、ロルフが早く用事を済ませて出て行ってくれるのを待つのは辛かった。ましてや、夜には同じ寝台で横になるのだ。いっその事、他の女の所へ行くか誰かを引き込んで自分を追い出してくれればよいのにと思う時もあった。
 それは正しい姿勢ではないとは分かっていた。城砦であれ北海であれ、妻帯者が女を作るのは珍しい事ではなかったが、公然とその存在を認めているならともかく、ロルフは他の女と関係を持っている事を大っぴらにはしなかった。傍らで横になるティナだからこそ、館で使用しているのとは異なる微かな石鹸の香りに気付いたのかもしれない。
 ロルフはまだ、先の奥方を忘れてはいない、愛し続けている事は知っていた。だが、恐らくは、やり場のない感情の吐け口として女達を必要としたのであろう。亡くした子供達の思い出と結びついているティナの姿は見たくなかっただろうし、暴力ではそれは発散できぬと思ったのかもしれない。
 それならば、自分を正妻として目に入るところへ置かなくても良いのではないか、とも考えた。別れるなり、他所へ追いやるなり殺すなりすれば良いものを、ロルフはどの手段もこの十一年の間、取ろうとはしなかった。北海の人々の信じる婚姻の女神や契約の神の存在がそうさせるのかどうか測りようがなかったが、奇妙な事ではあった。
 これからも、それが続いて行くとは思わなかった。
 男の子達は、エリスが去り、正戦士に任じられればロルフに忠誠を誓い、母親の血を疎ましく感じるようになるだろう。そうなれば、自分が消えたとしても皆は見たくない存在がなくなって、ほっとするだろうと思っていた。
 先程までは。
 ロロの言葉は、まだティナの頭の中をぐるぐると回っていた。
 詩人と同じ言葉を、ロロは口にした。
 一体、ロロは何を以て自分はティナの味方だと言ったのか。
 その真意を、ティナは測りかねた。
 ロロは、何を知っているのだろうか。アズルがロロに何かを話したのであろうか。
 エリスが弟に何かを諮るとは思えなかった。エリスには男ではなくとも、長子として皆の面倒をみてきたという自負がある。年下の者に何かを相談するのはあり得ない。それとも、そうしなければならない程に追い詰められていたのか。
 ティナの愚かな行動がどのような心のざわめきを起こしたのか、エリスもアズルも表面には見せなかった。だが、ロロは知っている。そう、ティナは感じた。
 そうでなくして、なぜ、味方であるとわざわざ告げなくてはならないのか。
 自分は子供達に負担をかけている。
 その事がティナの胸を締め付けた。まだ十代の、多感な年頃である。エリスは十七歳なので大人としての扱いを受けてはいるが、中味はまだまだ子供だ。だが、ロロは大勢の青少年に揉まれる事によって、ティナが思っていたよりも早く大人になっていたのかもしれない。
 自分では、上手く隠しおおせて来たと思っていた。だが、それは思い上がりに過ぎなかったかのか。誰もが、ティナがロルフから最初より暴力を受け、それに支配されてきた事を、実は知っていたのであろうか。
 初夜の始末をしに来たオルトは、ティナが殴られ、暴行された事を知っているはずだが、それを人に告げるような真似はしないと信じられた。それならば、ティナはもっと部族民から憐れまれ、嘲笑われていたであろう。蔑まれもしただろう。奴隷からは同情の目で見られていたかもしれない。族長の正妻とは言っても、結局は奴隷と同じではないか、と。
 ああ、とティナは両手で顔を覆った。
 全てを知り、理解した上でロロがあの言葉を発したのだとすれば、二度とは顔向けができない心持ちであった。十六歳の、それも男子であるならば、親に対しても異性に対しても微妙な年頃であろう。姉のエリスが異性に興味を持たなかったからと言って、ロロもそうであるとは限らない。城砦でも、そのくらいの年齢の男子に恋を囁かれたと言う娘も少なからずいたものだ。
 恋や愛に対して夢を持っているはずであった。親に対してもまだ、頼り、敬意を感じているはずであった。結婚についても、ぼんやりとした印象しか持ってはいなかっただろう。
 しかし、ロロが両親の結婚の実態を知ってしまったとなれば、どれほど幻滅したであろうかと思う。残酷な現実を前に、跡取りであり、結婚も自由にならぬ身である事を思えば、ロロの絶望は如何なるものであったのか。
 せめては希望を持っていて欲しかった。それはロロばかりではなく、いつかは娶る娘の為でもあった。互いに現実に気付く事があっても、先延ばしにできるものであるならば、それなりの情も生まれように。異性としての愛情ではなくとも、ティナの両親のように互いに敬意を持ち、尊重し合う関係へと落ち着きもしようものを。
 ロロの見ている将来を思うと、目の前が暗くなった。
 見習い代表の「投票」の行く末に悩むのは、族長の跡取りとしては当然のものであるかもしれない。だが、そこに昏い影を落としているのが、ティナの中つ海の血だ。消したくても消せない、北海にあっては蔑まれる血を、ロロは憎みはしなかったのか。
 ――私達は、母上の味方です。
 私達、という複数を示す語に、ティナは崩れ落ちそうであった。それは誰を指しているのかを考えたくはなかった。
 オラヴを見守って欲しいという言葉もまた、ティナの胸を抉った。
 ハラルドを除く皆が、知っているのかもしれない。そして、互いに諮ったのかもしれない。
 全てを承知の上で味方である、と表明してくれるのは有難く嬉しい事ではあった。だが、北海の戦士として生きるにはどうなのであろうか。ロルフは、愛する子供達がティナの側についた事を知れば、どう出るのだろうか。
 ティナでは、ロロや他の子供達の将来を保障する事はできない。
 北海という世界で生きて行くのならば、ロルフに従わなくてはいけない。
 いつか、父子(おやこ)で対立する日が来るのであろうか。
 族長であるロルフの力は絶対だ。
 かと言って、自分が身を引けばどうなるのか。ロロ達はロルフに反発をせずに済むのか。それとも、子供達はロルフを疑い、責めるだろうか。
 未来は、全く見通す事ができなかった。
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