第40章・問題

文字数 10,621文字

 話し合いは、三日目にようやく決着しようとしていた。後は結納財を納めに来る頃合いと、エリスを送り出す時期についてくらいなものであった。
 間近にサムルを観察してロルフは、この決断が間違ってはいなかった事を確認した。
 サムルは礼儀正しく、常識を(わきま)えた男であった。年長の交渉人達の言葉に耳を傾け、余計な口出しはしなかった。要求した結納財の額や種類についても、不平は言わない。相当な額と量になり、交渉人達も渋る程であったが、サムルはあっさりと承諾した。
 自分の財産をどう思っているのか、その表情からは窺い知る事はできなかった。結納財を値切るのは揉め事の大きな要因なる。だが、どの男も、財産の殆どを持っていかれるような妻は娶りたくはないだろう。家の格の釣り合いとは、そういう所に現れる。等分の財も出せないようでは、困るのだ。後は自分で稼ぐのが、甲斐性というものだ。
 額が大きくなればなるほど花嫁の価値は上がり、余程の事が起こらない限り、男は離婚しがたくなる。大切に扱われる。持参財は結納財と同等であるとはいえ、夫の自由にはならない。しかも、夫の側に落ち度があった時には、離婚の際に妻の実家に返されるものである。男にとり、高額な結納財を払って手に入れた妻を手放すのは大きな痛手となる。ましてや、父権も持つ為に、子の養育も義務だ。複数の子を結婚させねばならなくなった時、その負担は莫大なものになろうし、財産の格が落ちる娘しか嫁として迎える事ができなくなる。
 サムルは、決してエリスとの離婚に同意しないであろう。理性の勝る男であれば、その損失が余りにも大きい事に震えずにはいられまい。エリスが離婚を訴えないように、気を付けるだろう。但し、女の側に重大な非がある時には持参財を渡さなくてもよいが、エリスはそのような事態を招く程に浅はかで短慮な娘ではない。相手に付け入られる隙を与える事はないと信じていた。
 婚約を決めた夜の宴では、エリスとサムルとは、それほど悪い雰囲気ではないように見えた。言葉を交わし、サムルはエリスに食事を取り分けていた。エリスの顔色は優れなかったが、それは仕方のない事であろう。慣れ親しんだこの島を去らねばならないのだ。逆に、サムルの顔は晴れやかであった。将来が安泰なのだから、これも納得できる。
 エリスの嫁ぎ先では多少の反発はあろうが、表立ってそれを口にする者はいまい。その行為は、自分達の族長である緑目とロルフへの反抗にあたるのだ。陰で言われる分に関しては、ロルフは心配してはいなかった。エリスは強い娘だった。サムルも気付けば対処するだろう。
 問題があるとすれば、緑目の息子の代になった時だ。だが、ウーリックは、何事が起ころうとも、サムルはエリスを守ると断言した。緑目とヴェステインが取り交わした証拠もあると言う。詩人(バルド)は大袈裟であるかもしれなかったが、偽りは述べない。北海で情報の伝達を担う役割を負うからには、発言には責任を伴う。
 ロルフは、手許の書き付けに目を落とした。これまでの合意が、金釘流のヴァドルの手で記されていた。
 支払われるのは、銀だけではない。布や武器、細工物に工芸品と、多岐に亘っている。
 持参財も同じようなものであるが、新生活に必要な物品は女の側の支度品であった。その話し合いにはオルトも加わった。婚家(こんか)に何があり、ないのかを訊く為だ。これには、女が加わった方が良い。向こうが心得ていなくとも、結納の日までに確認すれば済む事だった。男所帯であるとは聞いていたが、特に問題ではない。独立した所帯を持つ者よりは物があるというだけだ。使い古しが嫌だとエリスが言うのならば、大した出費ではない、新しく揃えるのが良いだろう。それも、オルトに任せておけば間違いはなかった。
「それでは、承服できない」
 ロルフ側の交渉人の一人が声を上げた。何事かと目をやると、向かいでヴァドルが同じように筆を止めて顔を上げてた。
「貴公は、族長の娘子(むすめご)を、何だと思っておいでなのか」
 戦士長のフロシであった。ロルフはヴァドルを見たが、書く事に専念していたのであろう、首を横に振った。
「何があった」
 ロルフに代わってヴァドルが訊ねた。
「サムル殿は――」フロシは不満そうに答えた。「サムル殿は、エリス殿にお付けする奴隷を、要らぬと申されるのです」
 フロシと同じく難しい顔をして、サムルは座っていた。
「何故にか」顔を曇らせてヴァドルはサムルに向かって言った。「船上で、家で、エリス様のお世話をする者は必要でありましょうに」
「家に、今以上の空間を設けるのは不可能です」
 サムルは言った。「ですから、付けて頂いたとしても、あちらでは置いておく場所もございません」
「台所の隅で良いではないか」
 フロシは言ったが、それにはサムルは答えなかった。
「今、貴公の家では、女奴隷を何人使っておられるのか」
 ヴァドルの問いに、サムルの顔がさっと紅潮した。他のサムル側の交渉人も居心地が悪そうであった。言い淀むのは、この男に絶えてなかった事であるだけに、ロルフは不審に思った。
「答えられよ」
 再び、ヴァドルが言った。今度は詰問口調であった。サムルの顔が、蒼ざめた。
「我が家では、奴隷は使っておりません」
 サムルの答えに、島の男達から唸り声が漏れた。戦士長ともあろう者が、奴隷を使うだけの財産を持たぬとは思えなかった。それでは、そもそも、求婚に相応しいだけの資産を持たぬという事になる。独り身の男は戦士の館で起居するので奴隷は持たぬものだが、サムルは父親と共に一つ家を構えていたはずだ。
「では、貴公と父君は、如何にして暮らしておられるのか」
 ヴァドルは追及した。
「父の姉が近くに住まいますので、そちらから必要に応じて人を遣わせてもらっておりました。食事は私と父、手の空いた者が作れます」
 これだから、男所帯というものは、という呟きがあちらこちらから聞こえた。それは分からないでもない。
 しかし、考えようによっては女奴隷がいないという事は、ヴェステインにもサムルにも、家に囲っている女がいないという証明になる。その点では、評価をしても良いだろう。
「エリス様を迎えるにあたって、婚礼までに奴隷を入れるのだな」
 フロシが腕を組んで少し尊大な様子で訊ねた。
「それは――」サムルは肩を竦めた。「それは、確約は致しかねます。父の意向も聞かねばなりません」
 大袈裟に皆は溜息をついた。ヴェステインが奴隷であってさえ家に入れるのを好まぬ人間であるならば、エリスを嫁がせるにあたっての不安要素になる。サムルにとっては妻でも、その父親にとっては、飽くまでも他人である。
「もし、ヴェステイン殿が拒否されたら、貴公はどうなさるのだ。エリス様に、我々の族長の娘子に、奴隷と同じ仕事をせよと申されるのか」
 アルニという男が非難するような口調で言った。「それは、我らに対する侮辱である」
 侮辱、という強い言葉に、数人が反応した。戦士に対する侮辱は、剣を抜かれる覚悟が必要だ。
「できる事でありましたら、私と父とで行うでしょう。行き届かぬところは、今まで通り伯母の力を借りる事になりましょう」
 その答えに、双方の男達は唸った。サムルは、何も考えていなかった事を白状したも同然であった。そして、その随伴者達も。
 ロルフは腕を組み、溜息をついた。どいつもこいつも、自分の足の下を見る事を忘れているのか。当たり前すぎて、その事を疑ってもみなかったのか。
 男所帯で気が回らぬのは良い。だが、エリスに家事をさせるのは、話が違う。族長の娘として育ったエリスに、自由民の女でさえせぬ事をさせようと言うのならば、心得違いであった。そのような事は学ばなかったし、学ばせるつもりもなかった。
 誰にも何も良い考えは浮かばぬようであった。オルトでさえも沈黙を守ってる。サムルは少し顔を赤らめて、気まずそうに座っていた。ロルフは顎に手を当てて考えた。
 殆どの事項は、滞りなく合意した。交渉するに悪い相手ではなかった。この一事を乗り越えれば、再び円滑に事は運ぶだろう。
 ロルフは、再びサムルに目をやった。この男がエリスをどのように扱うか、試してみたいと思った。まだ、エリスは本性を見せてはいないだろう。このような無理難題を出されれば、エリスは怒るかもしれない。その時、この男はどのように反応するだろうか。どのように対峙するだろうか。
「サムル殿」ロルフが声を掛けると、男ははっとしたように顔を上げた。「サムル殿、一度、娘の意向を聞いてみてはどうか」
 サムルの顔に安堵したような表情が浮かんだ。
 それはまだ早すぎるぞ、若造、とロルフは思った。男の喉に刃を突き付けるのを躊躇わぬ娘だ。あれは緊急時であったと思うのならば、それは早計に過ぎる。エリスの目に宿る、束縛を嫌う強い光を見逃しているのだとすれば、大きな誤りだ。今更に、考えていた気性ではなかったと言っても、遅いのだ。
「中庭に、いるはずだ」
 その言葉に、サムルは立ち上がった。続いてウーリックも席を立った。
「私がお供いたしましょう」
 如何に求婚が認められたとは言え、正式に婚約が成立した訳ではない。それは、全てが決着し、交渉にあたった全ての者を証人として文書を交わして握手をしてからだ。それでも、結納財が受け入れられるまでは二人きりで会わせる事はない。
 ロルフが二人に頷くと、一礼をして大広間を出て行った。
「家事は女の仕事だ。それを代わってやるなど、サムル殿には矜持というものがないのか」
 アルニが呟いた。そういうこの男も、見習いや正戦士になりたての頃は、洗濯だ炊事だのと、戦士の館や遠征でこき使われてきたのだ。家長になったので家で威張っていられるのに過ぎない。ロルフ自身もそうだった。この場にいる誰一人として、女手のない家で家事をしなくてはならないサムルやヴェステインを嘲笑う事は出来ない。エリスのように何不自由なく暮らしてきた娘を嫁に貰うのならば、そのくらいの覚悟は必要だろう。
「その事はさておき、次に必要な物は何でしょうかな」
 ヴァドルが取りなすように言った。男達は、再び話し合いに戻った。

   ※    ※    ※

 ティナがエリスと二人きりで過ごすのは、久し振りであった。
 男達の話し合いで、花嫁側が用意しなくてはならない物の事で意見を言う為に、オルトは大広間に赴いていた。学問所から戻ったハラルドは、それまで共に手仕事をしていた養育係に連れられて軽食を摂りに行った。
 ティナは娘を見やったが、エリスの顔からは刺繍と格闘しているという事しか読み取れなかった。まだ、自分が下した決断の落とし穴には気づいていないようであった。
「もう、嫌だわ」エリスが糸を引っ張りながら言った。「糸が(よじ)れたわ」
 針に糸を通したまま捻れを戻していく姿に、ティナは思わず微笑んだ。自分と違って、エリスは刺繍は苦手だった。支度品に施す刺繍にしては色数が少なく華やかさに欠けたが、本人は気にしていないようであった。
 婚約者が決まって三日になるが、ロルフはその事について、一言もティナには話さなかった。相手に会わせるつもりもないようであった。
 財産の生前贈与にあたる持参財と、相手から花嫁の実家に支払われる結納財というものの調整の為に、まだ相手の一行はこの島にいると聞いた。妻を買うような慣習にティナは眉をひそめずにはいられなかったが、それが高くなるほどに向こうの家では大切にされるだろうとオルトから聞いて、納得せざるを得なかった。
 ぶつぶつと文句を言いながら、エリスは刺繍を再開した。エリスは余り刺繍が好きではなかったが、北海では夫の頭文字を刺す習慣はないので、殆どの物は既に仕上がっていた。後は、夫への贈り物である衣服だが、弟達の物で一通り縫った事のあるエリスであれば不安はなかった。大人物と子供物の違いはあれど、採寸も仕立ても大まかな北海の服は、身体が極端に大きいか小さいかしない限りは、大抵の者が着られるであろう。
 オルトから聞いた限りでは、持参財の内、三分の一は母親の財から出すのだという事であった。北海の決まりによれば、それはティナに付いて来た財から出されるのだ。その話さえもロルフがしないのは、まだ、持参財についての話し合いが終わってはいないからであろうか。それとも、ティナの財をあてにしなくとも良い程に、ロルフには充分な貯えがあるのか。
 妻の財産に夫は手出しできないというのが、この北海の法であるならば、猶更、婚約者となった男がエリスを離婚するはずがないと思った。
 エリスは、数年経てば離婚するつもりでいる。物事を、軽く考えている。
 そうではない。ティナは叫びたかった。そんなに簡単な問題ではない。結婚をするからには、二度とこの島には帰れぬ覚悟でいなければならない。弟達を愛するエリスであれば、子を置いて晴れ晴れとした気持ちで帰って来られるはずがなかった。どのように言葉を尽くそうと、夫は所詮は他人である。だが、子は違う。慕って泣く幼子(おさなご)を見捨てられるエリスではない。娘を揺さぶってやりたい衝動にかられたが、それを何とか抑えた。
 まだ、十七歳なのだ。恋も愛も知らない子供であれば、そのような未来は想像できないに相違ない。相手の男がどのような言葉でエリスをその気にさせたのかは分からなかったが、結婚を取り引きであり契約であると言ったとしても、簡単に離婚に応じるとは思えなかった。持参財と同等の結納財を支払うのであれば、族長の娘であるエリスの(あたい)は高いだろう。いくら手をつけられないとはいえ、エリスが重大な過失――例えば、密通を犯して家を追い出されるような事態であれば、その賠償財として持参金は夫のものとなる。そうでない限りは、離婚の理由がどちらにあるにせよ、結納財が夫の元に返る事がないのであれば、相当な財産持ちでもない以上は、夫婦関係が破綻しようとも結婚を継続するしかない。それとも、(はかりごと)を用いるか。
「どうなさったの」エリスの声にティナは物思いから引き戻された。「お顔の色が、あまりよくないわ」
「大丈夫よ」
 努めてティナは平静を装って言った。これから、この娘に何をどのように教えれば良いかを考えねばならない。
 それが、母親としての最後の務めであると思った。船に乗ってしまえば、もう声は届かない。助けたいと思っても、差し伸べる手もなかった。この島を出れば、エリスは一人で歩んでいかなくてはならないのだ。見も知らぬ人々に囲まれて、夫を頼る事も許されない。その辛さと孤独を、まだ、この娘は知らない。知らぬままに過ごせるような人生を生きてほしかったが、その願いは叶わなかった。ならば、少しでも苛酷な運命に対峙できるような心構えをさせねばならない。
 自分のような生き方をしない為にも。

    ※    ※    ※

 いつになく手を止めている母に、エリスは不安になった。
 まだ、自分の不用意な言葉が、母を苦しめているのであろうか。それは、如何なる言葉であったのか。
 弱い人であると分かっていたのに、自分は本当に不注意だ。
「お邪魔を致します」
 涼しい詩人の声がした。エリスが声の方へ目を向けると、ウーリックとサムルとがこちらへやって来るところであった。二人はエリスと母の前に来ると、深々と一礼をした。
「ご無沙汰しておりました、奥方様」
 ウーリックが最初に口を開いた。「ご挨拶に出向きますのが遅くなり、申し訳ございません。エリス様の求婚の使者の一人として参りましたので、ご容赦を願います」
 母は静かに頷いた。この十一年の間の事を訊こうともしない様子に、エリスは少し苛立った。ウーリックは、四年もこの島にいたのである。もう少し愛想よく接するべきではないだろうか、
「ご紹介申し上げます。この度、エリス様とご婚約なさいます、サムル殿です」
 詩人が身体をずらせてサムルが挨拶をできるようにした。
「お初にお目にかかります」サムルが言い、再び一礼した。「私は、緑目の戦士長ヴェステインの子サムルと申します」
 エリスの前では、これほど丁寧ではない。恐らく、父の前ではこのように振舞っているのだろう。そう思うと、苛立ちがつのった。自分は求婚された側であるというのに、態度が違うとはどういう事なのだろうか。若いので軽く見られているのか。
 母は、無言で頷いた。元より他人には簡単に心を開かぬ人である。愛想よく歓迎されるのだと思っていたのならば、拍子抜けした事であろう。母は、自分がこの求婚と結婚を、どれほど嫌っているかを知っている。その相手を、温かく迎えるはずがない。
「正式な場にてお会いできればと願っておりましたが、このような形でご挨拶を致します事を、どうぞご寛恕下さい」
 淀みなくサムルは言った。まるで、最初からそう言おうと準備してきたかのようであった。
「サムル殿は、緊急にエリス殿と話し合わねばならない事柄がございまして、このようにお伺いいたしました所存です」
 ウーリックが横から言った。母が何も反応しないでいると、サムルはエリスに向き直った。常の笑みはそこにはなく、真剣な顔をしていた。何が起こったにせよ、それは深刻な事なのであろう。
「母君のお耳には入れたくはありませんので、少し、離れませんか」
 サムルは小声で言った。庇護者が傍にいるのに二人きりで話す、というは、異例の事であった。思わず母を見たが、ウーリックが話しかけて気を逸らせていた。これは、二人の図り事なのか。
 何が起こったにせよ、それはこの婚約に関した事なのだ。本来ならば、二人は他の随伴人と共に、父やヴァドル達と交渉にあたっているはずであった。
 取り引きの事がばれたのだろうか、と思ったが、すぐにそれを否定した。二人の他にはオルトしか知らない。ウーリックが承知しているとは思えなかった。今まで話さなかったのならば、オルトが喋るはずもない。
 エリスは頷き、母からは聞こえないであろう場所に移動した。
「何が、起こったの」
 それでも声をひそめてエリスは言った。「重大なことなのでしょう」
 サムルは真顔で頷いた。
「貴女の、事です」その声は低かった。「貴女の輿入れにあたっての」
 随分と先の話である。結納財と持参財については、もう、決着がついたのだろうか。
 サムルは言うべき言葉を探しているようであったので、エリスは黙って待った。きまりが悪そうに、サムルは首の後ろを搔いていた。こういう姿を見せるのも初めてであった。
「貴女の側の交渉人に言われました」サムルはようやく口を開いた。「貴女には、船や家で使う奴隷が必要だ、と」
 そんな事か、と拍子抜けをした。もっと、大事(おおごと)かと思っていた。
「大事ですよ、私達父子には」エリスの心を読んだように、サムルは言った。「貴女をたった一人で船に乗せる訳にいかないのは、確かです。女人(にょにん)――それも嫁入り前の娘一人で乗るには、何かと不自由が多いですからね。それに、私の家にはそもそも、奴隷がおりません」
 真面目な顔をして言うサムルに、エリスは考えた。交易島へ行く商人の妻や娘は船に乗る。同じ事を、自分はしてはならないのか。それは、族長の娘だからだろうか。周りにいるのが、家族ではないからなのだろうか。
「船に一人で乗るくらい、わたしは、かまわないわ」
 疑わし気に、微かに眉を寄せてサムルはエリスを見た。
「お母さまも、一人でこの島にいらっしゃったのだし」
 呟くような声でエリスは言った。どのような状況であったのか、それは聞けば分かるだろう。何が不自由で何が嫌であったのか、母は教えてくれるに違いない。
「しかし、家ではどうなさるのです。貴女を手伝う者はいないのですよ」
「今までは、あなたはどうしていたの」
 逆にエリスは問うた。男所帯である事は知っていたが、奴隷がいないとは思いもしなかった。サムルの父は、仮にも族長の弟で戦士長である。自由民ですら使うものを、そのような身分の者の奴隷のいない暮らしなど、考えられなかった。
「私と父は、何とか暮らしていましたよ。時には伯母が人を遣わせてくれましたし、それでも何とかなるものです」
 サムルの表情には陰があった。そうだ、この人の母親は奴隷であった。生涯、解放されぬ身であったのではなかったか。
「あなたの、母君がなさっていたの」
「元気な間は」
 その答えは短かった。
 亡き人の思い出が、まだこの男の中には色濃く残っているようであった。自分にとり、スールの死が決して消えないように、いや、母親であれば猶更の事、思い出せば哀しみはつのるのであろう。
「自分のことは、自分でできるわ。でも、家事はしたことがないの」
 正直に答えた。家政ならば学んだ。しかし、それは人を使う事を前提としたものだ。
「父とは相談しなくてはなりませんが、もし、父が奴隷を使う事を了承しなかった場合には、貴女に負担をかける事になります。自由民の女もせぬ事を貴女にさせるのは、白鷹殿とこの部族への侮辱と捉えられかねません」
 エリスは肩を竦めた。サムルの父が嫌だと言う事を、自分がどうにかできるとは思わなかった。
「あなたの父君が何とおっしゃるのか分からないのなら、今、その話をしても無駄でしょう」
 そう言った。
「父は、恐らく、誰も家には入れないでしょう。そういう人です。しかし、白鷹殿は、貴女に家事をさせる事を許されないでしょう」
 サムルの顔は曇った。このような事で、自分の計画が頓挫するかもしれないとは思わなかったのだろう。それは、お互い様だ。
「それなら、あなたがやればいいわ」
 その言葉に、サムルの緑の目が見開かれた。ようやく、この男を愕かせる事ができたと、内心、エリスは喜んだ。
「ああ、まあ、そういう事ではあるのですが」
 ややあって、気が抜けたようにサムルが言った。
「戦士の館や遠征で、少しは出来るのでしょう。だから、男二人でも生活してゆけるのでしょう」
 サムルが、笑みを浮かべた。あの嫌な笑いであった。
「しかし、我々が留守の間は、貴女がせねばなりませんよ。どうされますか」
 大した事ではなかった。
「あなたが、教えてくれればいいわ。簡単なことなら、できるでしょう。堅焼き麺麭くらいなら作れるわ」
「白鷹殿にどう言い訳をなさるおつもりですか。それとも、それを理由に離婚をお考えですか」
 意地悪な質問であった。確かに、父の耳に入ればそういう事もあるだろうが、集会でもない限り、その可能性は低い。サムルの島での集会は、まだ何年も先の事である。
「その前に、離婚しているかもしれないわ」
 聞こえないように言ったつもりであったのに、サムルはしっかりと聞き取ったようであった。その顔に笑みが広がり、サムルは胸に手をあてて軽く一礼をした。
「なるほど、そういう可能性も、ありますね」サムルは笑いを含んだ声で言った。「貴女は、慧眼だ」
 そういう風に揶揄われるのは嫌いであったが、取り敢えずは、サムルの帰りを待っているであろう交渉人達への返答を考えねばならない。下手な答えでは、この話は流れてしまうかもしれなかった。このように条件の良い話はこの先ないだろうと思うと、何としても年長の男達を言いくるめねばならない。
「でも、あなたはどう言い訳するつもりなの」
 エリスは言った。そもそも、サムルが原因なのだから、考えるのは自分の役目ではない。
「父の承諾を得なければならない事はお伝えしています。後は、貴女の返答次第だと」
 そう返されて、エリスは頭を抱えたくなった。そのままを伝えられるはずもなかった。サムルに家事をしろと言ったと知られれば、オルトに叱られるのは目に見えている。交渉人達も目を剥くだろう。サムル側の交渉人は、侮辱されたと怒るかもしれない。
「船に一人で乗るかどうかは、あなたがもう一度、ここを訪れるまでに決めるわ。後は、あなたの父君の返答次第ね」
 サムルは神妙に頷いた。ここは揶揄ったりはしないのだ。
「でも、表向きの返事を用意しなくてはならないのでしょう。何か、ないかしら」
 エリスは腕を組んだ。自分よりも年上のサムルに良い考えがないものを、どうすれば乗り切れるだろうか。
 ちらりと、母とウーリックに目をやった。跪いて詩人が何事かを話していたが、母はそれを礼儀正しく聞いているだけのように見えた。四年もこの島にいた詩人ならば、もう少し打ち解けても良いのではないかと思った。
「父は、農場を持っております。そこから、取り敢えずは引いて来る、というのは如何でしょうか」暫くの沈黙の後、サムルが口を開いた。「外の納屋にでも置くというならば、父の意向とも矛盾しないでしょう。偽りを申し上げるのは心苦しいですが、伯母に頼るというものよりは現実的で良いとは思います」
「妥当なところね」
 それにはエリスも賛成するしかなかった。
「島に戻れば、父ともその辺りの事を相談せねばなりませんが」
「だめだったら、やっぱり、あなたがやるのね」
 今度はサムルの顔に大きな笑みが浮かんだ。
「失望は、させないと思いますがね」
「――期待しているわ」
 エリスは腕を解いて母とウーリックを見た。やはり、それほど親しげには見えない。母が外の人間に心を開くという事があるのだろうか、と不思議に思った。そのような生き方を、ずっと母は続けて行くつもりなのか。
 話が終わったので、サムルは二人の方に向かって歩み始めた。
「サムル」
 思わずエリスは声をかけて、しまった、と思った。敬称を付け忘れるのは、常識知らずのやる事だ。心の中では、常に敬称なしで考えていたので、つい、それが出てしまった。
「なんでしょうか」
 全く気にした様子もなく、サムルが振り返った。「何か、抜けている事でもありましたか」
「あなたは、それでもかまわないのね」
「別に生命を取られる訳でもありませんし」
 サムルは笑んだ。男とは矜持を後生大事にするものだと、エリスは考えていた。集落の者達は、何かと言うとそれで揉めて父に訴えて出る。だが、この男は、最底辺の仕事をしても平気だと言うのか。
 それほどまでして、この男は後ろ盾を必要としているのか。
 自分は、この男の大事な駒だ。その父親にも、無碍に扱われる事はないだろう。
 母は、心配性なのだ。何も、悪い事は、起こらない。
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