第54章・混乱

文字数 12,260文字

 目の前で起こっている事に、エリスは直ぐに反応できなかった。
 オルトが倒れた。
 ヴァドルが叫び、駆け寄った。
 それより一瞬遅れて、父が続いた。
 耳の中で大きな音がしていたが、定かに聞き取る事ができなかった。
 視界が、すうっと暗くなるような気がした。
 これは、悪い夢。きっとそうなのだ。暗闇に包まれれば、消えてしまう。消えてしまえ。
「姉上」
 オラヴの声がどこか遠くですると、エリスは思った。
「しっかりなさって下さい」
 両の腕を摑まれ、揺さぶられた。気を取り直すと、目の前にオラヴの心配そうな顔があった。
「今、ハラルドがウナを呼びに行っております。父上が、療法師を連れて来るよう命じられました」
 ヴァドルが床に膝をついてオルトを抱え、父は奴隷達に何事かを指示していた。
 しっかりしなくては。エリスは思った。肝心な時に役に立たないようでは、弟達に申し訳ない。
 オラヴの手をやんわりと押しやり、足を踏みしめた。ウナが来た時には、自分が指示をしなくてはならないのだ。
「呼びに行ったって――ハラルドの傷は大丈夫なの」
 オルトに背を、半ば抱えられるようにして厨房へ向かっていた末の弟の様子を思い出し、エリスは訊ねた。ハラルドは、かなりぎくしゃくとした歩き方だった。服が触れても痛いのかもしれない。
「相当痛そうでしたが、動けない訳ではありません」
 事もなげにオラヴは答えた。見習い戦士にとり、あの程度は傷の内に入らぬかのようだ。弟達がどのような生活を送っているのかと思うと、エリスは恐ろしかった。戦士の館での見習いの扱いや懲罰については、自ら語ろうとする者はいない。新入りに対して行われている非道な事も、アズルの口から出るまでエリスは知らずにいた。
 療法師が来て、状態が明らかになるまでオルトは動かせまい。
 エリスは必死で考えをまとめようとした。今は、弟達の事よりもオルトの方が重要だ。
「オルトの部屋を、とりあえず暖めておきましょう」エリスは女奴隷を呼んだ。「行火(あんか)か湯たんぽはすぐに用意できるかしら。寝具も温めて、いつでも運べるようにして」
 女奴隷は頷き、厨房へ向かった。そこでは常に湯を沸かしているはずである。療法師が薬湯を作るにしても直ぐに用意ができる。ただ、石は常に熱している訳ではないので、少し時間がかかるかもしれない。
 ウナが一人で小走りにやって来た。動揺を隠しきれないでいる。自分がしっかりとしなくては、駄目だ。エリスは改めて思った。ヴァドルも父も平静ではあるまい。
「ハラルドは、どうしたの」
 はっとしたようにウナが振り向いたが、ハラルドはついて来てはいなかった。「ハラルドは父上にお尻を柴で打たれたの。オルトが手当してくれたのだけど、まだ痛むから早くは動けないのでしょう」
 エリスのその言葉に、ウナは今にも気絶しそうな顔色になった。実子のように可愛がっているのであるから、それも当然の反応と言えたが、エリスは少し苛立った。自分よりもずっと経験豊富な大人であるウナがうろたえる(さま)は見たくはなかった。だが、ウナはあてにできそうにない。自分が何もかも仕切らなくてはならないようであった。
「療法師が来るまで、何もできませんしね」
 口惜しそうなオラヴに、ただ頷くしか出来ないのが苦しかった。
 待つ時間は長く感じられた。療法師は全て出払ってでもいるのだろうか。自分の気付かぬ内に、流行り病でも発生していたのだろうか。そのような、やくたいもない考えが浮かんでは消えた。
 まさか療法師も全員、病に倒れているのではないかと思い始めた時、ようやく、女療法師が来た。布に包んだ荷物を抱えて息を切らせてはいたが、落ち着いた顔でエリス達に軽く一礼して足早にオルトの方へ向かった。若くはあったが、ようやく取り乱してはいない大人が来た事で、エリスの心臓も少しは落ち着いた。
 何が起こっているのか、知るのが怖くて近寄れなかった父とヴァドルの許へ、オラヴと手を取り合って向かった。
 ヴァドルの腕に抱えられたオルトの顔は血の気を失っており、生死も定かではない。恐怖が、エリスの中に広がった。
 女療法士は跪き、小声でヴァドルや父とやり取りをしていたが、エリスはその言葉の全てを聞き取る事はできなかった。二人の顔が曇った事を思えば、良くはない話のようである。ひそひそと囁き交わす三人の顔は厳しくなってゆき、オルトの様子に変化はなかった。
 ヴァドルがオルトを抱えて立ち上がり、父が頷いた。
「オルトを部屋に運ぶ」
 短く父はエリスに言うと、返事も待たずにヴァドルの先に立って歩み、家族の棟へと通じる扉を自ら開いた。いつの間に戻ったのかハラルドが隅にいたが、それには気付かぬ様子であった。
 誰もが、自身の不安の中にいた。オルトは、ヴァドルの母親であり父にとっても母であった。エリス達にとっては祖母であり、この館の屋台骨でもある。常に強く、族長家を裏で支えてきた。その存在を失うかもしれないという不吉な考えが、自分だけではなく皆の脳裏に浮かんでいるのではないかとエリスは思った。
 療法士の荷物をエリスは抱え、全員で行っても仕方がないのでウナとオラヴは大広間に残るよう言った。誰かが来た時に、大広間に誰かがいた方が良いであろうと考えた。この異変は、致命的な事ではない限り、外の者には出来る限り話さぬ方が――殊更に知らせる事ではないであろう。扉のところで小さくなっているハラルドに頷き、エリスは父達の後に続いた。
 家族の棟は冷えていた。自分達が支度品を検め、保管しておく物置部屋は更に冷えていた。普段はこちらで何かをする事はなく、殆どの時間を大広間や厨房などの暖かい場所で過ごす事が多かった。ハラルドが持ち込んだ鼬の臭いがまだ、微かにしているような気がした。
 オルトの部屋の扉を、父が開けた。

    ※    ※    ※

 誰かが部屋に飛び込んで来た時、ティナはロルフが自分の事で何か機嫌を損じて罰しに来たのかと、手にしていた布を落とした。
 それがハラルドだと気付くと、更に愕いた。思わず立ち上がったところに、ハラルドが懐に飛び込んで来た。その身体は震えており、何か、大変な事が起こったのではないかとティナは不安になった。先程、女達の悲鳴がして、エリスがハラルドの名を叫ぶ声がしていた。それと、関りがあるのだろうか。だが、ロルフにどれだけ叱られても、この子は懲りなかった。
 その感情をハラルドに見せる訳にはいかず、黙って背を撫でた。常にウナと共にいる為に、この子が自分に何かを求めているとは思わなかった。
「どうしました、ハラルド」沈黙に耐えられなくなり、ティナは遂に声をかけた。「ウナに、何かありましたか」
 ティナの服にしがみつき、震える子は顔も上げずに首を横に振った。常に明るい悪戯ばかりしているお調子者が恐怖で一杯な様子でいるのに、ウナの許へ行かなかったのは不思議であった。ゆっくりとハラルドの身体を離し、膝をついて顔を見上げた。
「どうしたの、話してごらんなさい」
 子供から話しかけてくるのではない限り、会話は禁じられていた。それを犯すのは勇気が必要であったが、今は罰を恐れている場合ではなかった。何か、ハラルドにとり恐ろしい事が起こったのだ。無言で撫でてやるばかりでは駄目だ。放置しておく事はできない。その思いが強かった。
 ハラルドは泣いてはいなかった。だが、その顔は暖炉の火に照らされていてもなお白く、生気が感じられなかった。
「オルトが――」
 か細い声は、最後まで続かなかった。
「オルトが、どうかしましたか」
 心臓が一つ、大きく打った。そして、走り出した。
 ずっと、胸にあった不安。
 それが形を表したのではないかと、嫌な予感がした。
「オルトが、倒れた」
 簡単な言葉であったが、事の重大さは伝わった。目上の者に対する丁寧な言葉遣いも忘れられていた。
「いつのこと」
「さっき、僕を厨房に連れて行ってくれようとして」
 では、この子の目の前で倒れたのか。
「それで」
 性急に問うてはならないのかもしれないが、言葉は勝手に口をついて出た。
「父上とヴァドルが介抱を。姉上とオラヴ兄上がいて、兄上が、僕にウナを呼んで来いと」
「ウナには伝えたの」
 ハラルドは頷いた。
「とても愕いて、こけそうになりながら大広間に行った」
 大人が冷静でいなくてはならないところで、ウナは動顚してしまったのか。
「ハラルド」
 ティナは末の息子を抱き締めた。大人や年長者は目の前の事で精一杯で、子供の事を顧みる余裕がないのだ。
 誰にも頼れなくて、誰にも弱音を吐けなくて、ここに来たのだろう。
 痛々しいと思った。
 オルトが大事であるのは分かる。族長家を実質、支えているのはオルトであるから。現在の族長ロルフの親代わりであるのみならず、先代の頃から隅々にまで気を配り、何事も滞りのないようにしてきた人だ。館だけではなく、集落の人々にも頼りにされている。その大きな柱が倒れたのであるから、動揺するのも尤もなことであった。
 しかし、子供は忘れられて良い存在ではない。眼前で、祖母と言うべき人が倒れたのである。その心に受けた衝撃と損傷を思えば、誰かが気に掛けねばならないのだ。その意味から言えば、エリスもオラヴもまだ子供だ。
 この家が揺らぐのを子供には見せてはならない。そうティナは思った。自分がどれ程の犠牲を払う事になろうとも、守らねばならないものがまだあるのだと、神が、或いは北海の神々が教えて下さっているのだろう。
「大丈夫、大丈夫よ」
 子に向かってそう言ったが、それは自分に対する言葉であるのかもしれないとティナは感じた。「あなたが怖がることはないわ」
 ハラルドが、ティナに体重を預けてきた。
 いずれは起る事態であった。誰もがその事に目を瞑り続けていたが、遂に現実のものとなってしまった。ロルフやヴァドルは、子供達の事に関して、どのくらい当てにできるのだろうか。この危機を、どうして乗り越えるつもりであるのか。
 ティナには、子供達を守る為に、如何なる犠牲をも厭わぬ覚悟はできていた。

    ※    ※    ※
 
 父やヴァドルの受けた傷は、相当なものであるとエリスには分かった。
 部屋で、女療法師はオルトの状態を話した。
 オルトは以前から不調を自覚していたのだ。それを二人から隠していた。療法師は知ってはいても、自分を訪れる者の秘密は守る。その事を、エリスは目の当たりにした。
 後を女療法師に任せると、三人は大広間に戻った。残して来た者達は姿勢すら変えずに息を詰めて待っていたようであった。
 二人の大人が憔悴した様子で座り込み、難しい顔で沈黙を守り続けるのを傍らで眺めながら、エリスはこれからの事を考えていた。
「エリス」
 自分の名を呼ばれて我に返ると、父が厳しい顔で見ていた。ヴァドルは俯き、顔を手で覆っていた。
「オルトの状態が如何なるものであろうとも、この事はまだ、誰にも言うな。他の者にも周知させろ。今夜の祝宴は予定通りに開く。皆、それを期待しているはずだ。ロロの祝いを損なってはならない」
 黙っているのは良い、だが、ヴァドルの気持ちはどうなのだろうか。エリスはヴァドルに視線を移した。男は、ゆっくりと顔を上げてエリスを見た。
「そうなさるのが、最善でしょう。母も折角のロロ殿の祝い事を台無しにはしたくはないと存じます」
 族長の乳兄弟として、飽くまでも陰の存在であろうとするのか、哀しみも苦しみも全て族長の為に隠そうとしているのだろうか、とエリスは不審に思った。だとすれば、それはひどく残酷な事だ。母親の時間の大半を取られ、常に母を奪った者より一歩引き、生涯それを支えねばならない。母親に何かがあったとて、ずっと側についている事も出来ず、宴では笑い、場を盛り上げる役目も引き受けなくてはならないのだ。
「奥の事はウナと分担してお願い致します」ヴァドルの言葉は静かであった。「お忙しいところを申し訳ありませんが、母に、誰かを付けて頂ければ幸いです」
 エリスとて、未だ意識の戻らぬオルトを一人にしておく事はできなかった。大丈夫、あんしんして、とその事を(うけが)うと、ヴァドルの顔に微かな笑みが浮かんだ。厨房の事は、自分とウナとで何とかなるだろう。族長集会では二人でオルトを手伝ったのだ。あれに較べれば、客に対する敬意であるとか順位などというややこしい礼儀を考えなくても良い分だけ、ましだろう。高座に座すのは父一人であるので、後は勝手に騒がせておくのが良いのかもしれない。多少の

があったとしても、気付かれる事はないだろう。
「ウナ、食材や調理の段取りは料理人に任せらるわよね」
 少し離れたところでオラヴと共に控えているウナに、エリスは声をかけた。びくりと身体を震わせ、ウナは慌てたように頷いた。本当に頼りになるかどうかは分からなかった。だが、二人で何とか奴隷に指図をしなくてはならない。料理の種類や並べる皿数は料理人の方が詳しかろう。
「厨房と給仕の段取りは、こちらでします」
 エリスは請け合ったが、念を押さずにはいられなかった。「私たちではなく、看護の心得のある者に、オルトを任せてよいのですね」
「心得のある者がいれば、その方が有難いです」
その言葉に頷くと、エリスはハラルドを呼んだ。
「今日、ロロが見習いの代表に選出されたので、その宴を開くとおっしゃっているの。オルトのことは、お父さまの許可が下りるまで誰にも言ってはならないわよ」
 少年は真剣な顔で頷いた。もし、という文言を使わなくて済んだのは有難かった。この場で脅すような真似はしたくはない。少しは成長したのかもしれなかったが、この状況では喜べはしないと、エリスは思った。ハラルドの心に、あの光景は強く残るだろう。
「オラヴ殿も、この事に関してはロロ殿にもお話にならないで頂けますか」ヴァドルが言った。「今夜の母の具合を見て族長と相談をしたいと思いますので、心苦しいとは思いますが、宜しくお願い致します」
 異議を唱えたそうではあったが、オラヴは承知した。
「では、わたしはウナと今から厨房へ行きます。ハラルドも一緒に。何か暖かいものでお腹を温めないと」
「我々には温めた蜜酒をお願いしたいのですが」
 ヴァドルの言葉に、エリスは自分の気の利かなさを恥じた。最も身体と心を温めるものを必要としているのは、父とヴァドルであった。
「すぐにお作りします」
 ハラルドはウナに任せ、エリスは厨房に向かった。皆を背にすると、目に涙が滲んだ。
 誰も頼れないとは、こういう事なのだ。泣き言をいう相手も、相談する相手もいない。常にオルトがその役目を担ってくれていた。この夏には更に、カトラがいてくれて、何かと話を聞いてくれた。他人に寄り掛かる事を知った身に、この出来事は重すぎた。自分が全てを仕切らねばならないのだ。
 唯論(もちろん)、結婚すれば、例え十七歳であろうとも一家を取り仕切らなくてはならない。自分も来年の今頃にはそうしているはずだ。だが、小さな家を管理するのと、族長家を支えるのとでは訳が違う。幸いにも、この冬には他島の滞在者はいなかったが、気を配らねばならないのは客人と家族だけではなかった。傍でオルトを見ていても、自分には役不足であるとエリスは思った。
 このままオルトが回復しなければ、どうしたらよいのだろうか。夏になり、族長集会が終われば、自分は嫁ぐ事になっている。ウナに全てが管理できるだろうか。あんなに大切にしているハラルドであっても動顚してしまうと気遣うのを忘れてしまうのに、戦士の館に入る準備や増える客人のもてなしを任せておけるだろうかと、エリスは不安になった。
 だからと言って、サムルとの婚礼を延ばす訳にもいくまい。死ぬと決まったのではないし、血縁であるならば埋葬が終わるまでは待ってもらえるだろうが、オルトはそうではない。この島の者にとっては族長家同然であったとしても、法的には家族ではないのだ。
 死、という言葉が浮かんだ事に、エリスはぞっとした。
 オルトが死ぬなど、考えた事もなかった。だが、ヴァドルの母親であるのだから、とうに六十を越えているはずである。長生きであると言えた。それでも、いつかは終わりが来るのだ。
 早いか遅いかの違いはあれ、人は必ず死ぬものなのだという事を思い知らされたような気がした。何事もなく、この冬を乗り越えさせ下さい、と神々に祈らずにはいられなかった。

 愕いた事に、祝宴の始まる前には、オルトは厨房に入って来た。顔色も悪くはなく、足取りもしっかりしていて、全ては悪夢であったのかとエリスが思うほどに、普段と変わりがないように見えた。
「オルトさま」目ざとく見つけたウナが感に堪えないように言った。「心配いたしておりました。もう、お加減はよろしいのでしょうか」
「ええ」短くオルトは答えた。「もう、何ともありません」
 そうではない事は、エリスは既に知っていた。だが、黙っていた。忙しく立ち働きながらも聞き耳を立てているであろう奴隷たちの前で、あまり多くの事を語りたくはなかった。
 さっと辺りを見回し、オルトはエリスに向かって頷いた。
「段取り良く進んでいるようですわね。初めてなのに、あなたの采配は見事ですわ」
 本当は、投げ出したかった。泣きわめいてでも役目を降りたかった。そうしなかったのは、ただ、自分の矜持を守る為であったのだとオルトに言いたい気持ちを、エリスはぐっとこらえた。例え立っているのがやっとであっても、この老女に負担をかけてはならないという思いの方が強かった。
「そう言ってもらえれば嬉しいわ」エリスは何とか笑みを浮かべた。「あなたも無理はしないで。ここは、私たちで何とかするわ」
「そうは参りません」
 オルトも笑んだが、どこか自分に対して挑戦するようだとエリスは思った。弱っていると思われたくはないのだろうか。
「今夜はロロ様にとっては大切な宴でございますもの。間もなくお戻りになられましょうし、晴れ姿を拝見しない訳には参りませんわ」
 絶対に異変を悟られてはならない、というオルトの強固な意志が見えるような気が、エリスにはした。痛々しいという思いと同時に、苛立ちもその心に生じた。休まなくては身体がもたないのは、本人が最も良く知っているはずだ。それに、父やヴァドルはオルトがここにいる事を知っているのだろうか。
「族長には、ご挨拶申し上げておりますわ」エリスの心を読み取ったかのようにオルトが言った。「ヴァドルもおりましたし、大丈夫ですわよ」
 オルトのその言葉を聞いて、エリスの胸に父とヴァドルに対する怒りがふつふつと湧いて来た。一体、二人は何を考えているのだろうか。オルトを大切に思えば、休養させこそすれ、働かせるなどあり得ないと思った。その感情を抑えたくて、ぐっと拳を握り締めた。
 エリスには目もくれず、オルトは厨房頭を呼び、次第を問い始めた。そこには、倒れて意識を失っていた姿を微塵も感じさせないオルトがいた。そう振舞う事がオルトの矜持であるのか意地であるのかを、エリスは判別する事はできなかったが、館の人々の動揺を鎮めるには最も効果的であるのは分かった。
 一家を預かる者は、かくあらねばならぬ。
 オルトの姿に、エリスはそう感じた。身を以てして、その事を自分に教えようとしているのだろうか。
 自分がオルトの立場であれば、同じようにできるかどうかを心の内に訊ねてみたが、無理だという思いしか出ては来なかった。自分はそんなには強くはない。その事が身につまされた。
 夫を、ヴァドルの父親を若くで亡くして以来、オルトは誰かに頼られる事はあっても、誰かを頼る事はなかったのではないだろうか。
 それを思うと、如何に厳しい人生をオルトは送って来たのかと思わざるを得なかった。
 母も、そうだ。
 エリスは、数年で離婚して母と共にどこかへ引っ込もうと思っていた自分の考えが、如何に甘いものであったのかを知った。母は、きっと、その事を危惧していたのであろう。あまり乗り気ではなく、自分の事を信じてはくれない母に対して抱いていた焦燥を、恥かしいと思った。女が一人で生きて行くには、それなりの覚悟が必要だとは想像していたものの、まだ若く、経験の浅い自分に、果たしてそれが可能であろうか。男達に侮られず、家の中で働く者も畑や放牧場で働く者まで統率し、全島集会には家を司る者として圧倒的に数の少ない女として出席し――弱い母を父や悪意ある人々から守る事が、自分にできるのだろうか。
 弟達は味方になってくれるとはいえ、それぞれに家庭を持てば力になってもらうのは憚られるだろう。ロロは後継者として忙しくなり、表立って父に逆らう事はできまい。逆らう事は、相続権を賭ける事になりかねない。そして、父が万が一、自分達を捨てるような事態になれば、日々の暮らしさえも定かではなくなるかもしれないのだ。
 オルトのような女性を間近に見ていると、一人で生きて行くのはとても簡単で、自分にもできるのだと勘違いをしてしまう。だが、オルトは特別なのだ。それぞれに独立して家を構えている女性達も、特別なのだ。
 そんな強さは、今の自分には望めない。数年後にその境地に達しているかも分からない。
 状況が変われば、自分にもできるようになるだろうと考えていてはいけない。やらねばならぬのだという強固な意志が必要なのだ。
 その覚悟をしてはいなかった。
 所詮は、族長の一人娘として育った世間知らずであったのだ。父の名とオルト、ヴァドルに守られていたのだ。精神的にも独立し、なおかつ弱い母を支えて行かねばならない苛酷さを、本当には理解してはいなかった。そんな自分を信じてはくれないと思うのは、不遜で恥かしい事である。母は、オルトよりもずっと孤独で辛い年月を過ごして来たのだろう。父の暴力に耐え、無理解な子供に心を痛め、族長の奥方でありながら蔑ろにされて、心折れるのも当然の事であった。
 うち萎れ、無気力でいる母は、抵抗しながらも敗れた人の姿なのかもしれない。
 そう思うと、エリスの心は冷えた。
 自分がそうなっても、おかしくはないのだ。
 夏になれば行かねばならぬ島にはウーリックがいるとは言え、それは交易島への船が出るませの暫くの間に過ぎない。親しい友を作るつもりもなかったし、結婚が契約であると誰かに告げる事もできない。たった一人で、乗り越えなくてはならないのだ。
 サムルは、エリスを白鷹の娘としてある程度は敬意を持ち、蔑ろにする事はないだろう。だが、頼らせてくれるかどうかは別問題だ。誰かを頼ってしまえば、ますます一人で生きて行く事が難しくなるだろうし、頼ろうとしたところで、拒否されるかもしない。
 エリスは、即座にその考えを否定した。
 サムルは拒否はしないだろう。そう思った。結納財を納めに来た時の優しさは、見せかけだけのものではなく、情も懐も深い人のように感じた。ただ、その中に自分が含まれるかどうかは、分からない。思えば、自分はずっとサムルに対して不躾な態度を取って来たのだ。そういう女は数年、生活を共にするだけで充分だ、なるべく関わらずにいようとサムルが思っていたとしても、責める事はできない。それでも、自分を頼ってくる者を無碍にする人ではないと見受けた。だからと言って、それに甘えてはいけないのだ
 オルトのように強く生きる為には、自分はどうすれば良いのか、そして何を選択して行けば良いのか、これから考えて行かなくてはならない。
 ほっとひとつ、溜息をついてエリスは仕事に戻った。
 しっかりしなくては。心弱くいる事は、自分には許されてはいないのだ。

    ※    ※    ※

 ロルフとヴァドルは沈黙したまま座っていた。
 オルトが意識を取り戻し、起き上がれるようになったのは良かった。自分の足でしっかりと歩き、編んだ髪にも乱れはなく、倒れた時の老いて弱った姿は微塵も感じさせなかった。だが、謝罪の言葉を述べながらも、一切の質問を許さぬという風情に、二人も口を閉ざさざるを得なかった。
 なぜ、今まで体調の事を黙っていたのか。
 いつから変調をきたしていたのか。
 今後の事をどう考えているのか。
 そう言った全てを封じられ、ロルフは苦い顔で、厨房へと向かうオルトを見送らざるを得なかった。
「母は――頑固ですから」
 ややあって、ヴァドルが言い訳のように言った。
「何も言えなかったのは、私も同じだ」ロルフは溜息をついた。「あのように振舞われると、つい、気持ちは叱られていた幼い頃に戻ってしまうな」
「はあ」
 ヴァドルは杯に口を付けたが、実際に飲んでいるようには見えなかった。エリスに持って来させた温めた蜜酒は、卓子の上に忘れられて久しく、とうに冷え切っていた。
「あのままでは、いけない。療法師から既に我々が聞いている事は分かっているだろう。問題は、如何にしてオルトを休ませる事ができるかだ」
「そのお話は、もう、為されたのでしょう」
 手の中で杯をこね回し、ヴァドルは俯いて言った。
「だが、後任がウナでは気に入らなかったようだ。誰か他に心当たりはないのかと説得を試みている最中だった」
「しかし、これで少しは懲りたでしょう。非常に痛い目には遭いましたが、自分の年齢を考えなくてはならない事も良く分かったと存じます」
「オルトの身体を犠牲にして良いものではない」ロルフは顔をしかめた。「もっと早くに、後任を探すべきであった」
「今も厨房へ行きましたし。療法師の話を聞く限りでは、止める理由にもなりますまい」
 若い女療法師は、オルトの病は心臓であると言った。常々、胸に痛みは感じていたようで、療法師から一応の薬草を処方されていた。それで効けば良し、効かなければ別のもう少し作用の強い物を、と試していたところであると療法師は言った。だが、劇症の発作を起こしたとなると、オルトの年齢を考えれば、良き事ではない、とも告げた。
 表面上は、普段と変わりなく見えるかもしれない。本人も、発作が収まればそう思うだろう。しかし、この病は決して直る事はない。発作の間隔も、徐々に短くなるだろう。オルトの齢では、思ったよりも早く「その時」が来るかもしれない。
 淡々と語る女療法師に、ロルフは事態の重大さを知った。療法師というものは、深刻であれば深刻であるほど、感情抜きに告げる。ヴァドルもその事に気付いたのか、黙って聞いているばかりであった。
 共に、オルトの手で育てられた。
 ロルフにとり、母とは、何の記憶もない産みの母ではなく、オルトであった。
 厨房へ向かうオルトを止められなかったのは、「母」として「祖母」としての役目を果たしたいという強い意志を、ロルフにも感じられたからだ。この夜が終われば、どれほど反対し、抵抗しようとも引導を渡すつもりであった。後の事はエリスとウナに取り敢えずは任せ、冬の間に誰か良い者を、ロロの結婚までの仕事であっても、選ばねばならない。
 ロロ――そう、今宵、ロロが戻った時にオルトの姿がなければ、不審に思うだろう。ロルフやヴァドルに直接、訊ねる事はないだろうが、遠からず答えに辿り着くであろうし、その時には傷付きもしよう。それを避ける為には、オルトは無理をするだろう。
 どうして、それを止められるであろうか。ロロとオルト、双方の心を考えれば、簡単に解決する問題ではなかった。
 自分はオルトに甘えているのだろう、とロルフは思った。ヴァドルの本心は、母親を族長の言葉で止めて欲しかったのではないだろうか。オルトは母親であるとは言え、常にロルフの陰にいて、甘える事のなかったヴァドルである。幼い頃にはその事に気付かず、ロルフがオルトを占領していた感もあった。
「ヴァドル、済まない」
 その言葉は拍子抜けするほどあっさりと、ロルフの口から出た。ヴァドルは弾かれたように顔を上げ、眉を寄せてロルフを見た。
「何の、事でしょうか。貴方から謝られるような事など、心当たりがありませんが」
「オルトを制止できなかった」
「ああ――」ヴァドルはどこか上の空で言った。「ああ、その事ですか」
 まるで重大な事ではないような言い方であった。頭と心とが乖離してしまっているかのようだった。
「母の気性は、私も存じております。誰がどれほど心を尽くしても、母の意志を()げる事は叶わないでしょう」
「今夜だけだ。明日には、役目を降りて貰う――いや、降ろす」
「母から生きがいを、奪わないで下さい」
 ヴァドルの言葉に、ロルフは愕いた。オルトの休養を、ヴァドルも望んでいたのではなかったのか。その為に、亡き父親の家を新しくしたのではなかったのか。
「母にとり、この館での仕事は生命なのです。貴方や、貴方のご家族に仕える事が、母にとっての人生なのです」
「そのような事を、言わないでくれ」ロルフは言葉を絞り出した。「我々は、お前から母親を奪っているのだ」
「いいえ、私はそうは思いません。思った事もありません」
 ヴァドルは静かに言った。「母は、人生の全てを族長家に捧げたのです。貴方の乳母から館の管理者に仕事が移った時、その選択をしたのですから、貴方がそのように思われる必要などありません」
 その目に偽りはないと、多くの時間をヴァドルと共有してきたロルフには分かった。
「父を亡くし、実家も失くした母にとり、ここは拠り所でもあったと思います。私はここで、貴方の乳兄弟として共に育てて頂きました。先の族長には、成人するまで後見人になって頂いておりましたし、その事を感謝こそすれ、謝罪されるのは心外です」
「お前は聡い子供だった。父もお前を気に入っていた」ロルフは言った。苦い思いもあったが、今ではもう、遠い事であった。「ただ一人この集落に残った遠縁であれば、その後見人になるのも当然の事だろう。ましてや、父親同士、近しい仲であったと聞くのだから」
「私の養育費用も、先代は全て負担して下さっております。食事、衣服、学問、戦士支度。その全てを」
「それは、お前が受け取って当然のものだ。オルトの働きは、それ以上の価値がある」衷心からロルフは言った。「我々が享受したものに較べれば、お前が受けたのは微々たるものだ」
 ヴァドルは俯き、何度も首を横に振った。その考えは、今度はロルフにも読めなかった。
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