第21章・死の翼

文字数 7,260文字

 その年の冬は、ティナが北海に来て初めて経験する厳しさであった。海は轟き、吹雪はなかなか止まなかった。ようやく雪がおさまったかと思っても、重く垂れ込めた雲で陽の光は遮られていた。
「スールさまのお加減はいかがでしょうか」
 族長室に入ってきたオルトが話しかけて来た。ティナは無言で首を振るしかなかった。
 スールは昨日から熱を出していた。そして、今日は嫌な咳をし始めている。療法師も手を尽くしてくれているが、状況は良くはならない。近頃、集落で流行っているという性質(たち)の悪い風邪ではないかとティナは疑っていたが、療法師は言葉を濁すだけだった。
 集落では、幼い子供や老人がその風邪で生命を落としている。ここ数日、弔いのない日はないと言っても良いほどであった。
 死が翼を広げつつある、とティナは思った。このような事は初めてだった。だが、ロルフはこのような状況にも慣れているかのように揺るがない。それだけが救いのような気がした。ロルフはティナに対してはどうあろうと、この部族の族長なのだ。それでも、スールが熱を出したと知るや、即この族長室に連れて来て看病するようにティナに言い付けた。今朝、出掛ける際にも心配げにスールの頬に手を当てていた。ティナと二人きりの時には決して感情を見せない男であったが、その横顔にティナは心打たれた。
 この人は、子供達を本当に愛している。
 それはティナの父親とて同じであっただろう。だが、具合の悪い時にこのように触れてくれる事があっただろうか。
 ティナには無言で、顔を向けることなく部屋を去ったロルフであったが、父親としてはそれ以上は望むべくもない人だった。いつものように一言もなかったが、ロルフは集落へ向かったのだろうとティナは思った。どれほど病人が出ようとも、族長としての仕事が増えこそすれ、減じることはないようであった。息子の一人の具合が悪いからと言って、務めを疎かにする人ではなかった。
 今までにも、他の子供達が熱を出したり風邪を引いたりすることはあった。だが、スールの熱と咳は違う、とティナの母親としての勘が囁いていた。まだ一歳にも満たない子だ。用心しすぎるということはない。殊に、乳児は弱く、冬を越せない者も多い。これまで自分達が一人の子も失わなかった事が奇跡に近いのだ。それでも、六歳を迎えるまではまだまだ安心はできない。
 ティナは溜息を吐いた。オルトが心配そうに見ていたが、ティナは大丈夫だと頷いた。
「皆の様子は、どうかしら」
「どのお子さまもお元気でいらっしゃいますわ」
 その言葉に少しは安心した。特に男の子達は集落の子供達と遊ぶこともあった。その中に、悪い風邪に罹った者がいないとは限らない。
「エリスは、どうしているの」
「弟君達のお世話をなさっています」
「そう――」
 エリスは風変わりな娘かもしれなかったが、姉として弟達の面倒は良く見てくれている。同じ年頃の少女達とは話もあわないようだったが、何とか問題なく付き合っているようだ。今は、スールの具合が良くないことで、子供達は族長の館に止めおかれている。しかも、大広間へ出ることも禁じられていた。狭い奥に閉じ込められて、外へでることもできず、子供達は不満であろう。
 集落で死者を出している風邪は、それだけの用心をしなくてはならない程の病なのか。オルトに問えど、首を横に振るばかりであった。今までに何度もこのような病が流行ることはあったと言う。ロルフは、それでも乗り越えてきたのだと。
 ティナの心に不安が広がった。スールが唯の風邪である事を祈る他はなかった。そして、他の子供達が病に罹らぬようにと。

 次の日もスールの熱と咳はおさまらなかった。集落から帰って来たロルフは、普段のように大広間で一服する事なく族長室にやって来たようであった。外衣の雪も払わずにいた。そしてスールの様子を見た。ティナはその間、療法師の男と共に使用人のように脇に控えているしかなかった。
 ロルフは無言だった。だが、その背中からは心配している様子がありありと感じ取れた。
「熱さましと咳止めの薬草を用いてはおります」療法師はロルフに言った。「しかし、なかなか効果があらわれません」
「何故だ」
 深く、低い声が部屋に満ちた。叱責する風でもなかったが、ティナは身が竦む思いでその声を聞いた。
「スール様は幼い故に、余り強い薬草を用いることが出来ません」
 ロルフは唸るような声を出すと、顎髭に手をやった。
「咳さえおさまれば、宜しいのですが」
 咳は赤子から体力を奪う。今も、苦しげにスールは咳をしている。代われるものならば代わりたかった。スールが苦しむのを見てはいられなかった。
 このような幼い子に、何と言う試練なのだろうか。
 自分が倒れても、ロルフは気にも留めないであろう。それならばいっそ、神々はスールではなく、自分を選んで苦しめればよかったのに。北海に連れて来られた時から、ロルフに選ばれたあの瞬間から、中つ海の神の恩寵は自分にはないのだと思った。北海の神々を信望している訳でもなかった。自分は、神にも捨てられた身だ。今更、別の苦しみを与えられてどう変わると言うのだろうか。
 ティナはそっと腹に手を滑らせた。
 身二つになったからと言って、神々は容赦をするものなのだろうか。
 それにしても、自分はいかなる理由によって、神の不興を買うことになったのだろうかとティナは思った。祈りの時間は欠かさず、真面目に神殿にも通った。特に何か無理な事を願ったという記憶もない。なぜ、自分がこのような目に会わなくてはいけなかったのか。そして、運命を受け入れて猶、苦しみを与えられ続けねばならないのか。
 スールの苦しみはティナの苦しみだった。だが、その苦しみを代わってやる事は出来ない。その事がまた、ティナを苦しめた。
 ロルフは息子の顔を撫でていた。外から帰ったばかりのその手は、恐らく冷え切っている事だろう。それでも、熱の高いスールには心地よいと感じられるかもしれない。
 優しい手つき。
 ここに来てから、そのような手で触れられた事は殆どなかった。ティナはロルフの妻であるのと同時に、奴隷でもあった。ただ、その命令を聞く事しか許されなかった。その生活に慣れてしまうと、もう、自らロルフに働きかけようと思う事もなくなった。それは機嫌を損ねるだけのものだと分かっていた。だから、今も、大人しくロルフの動静を窺っているのだ。
「苦しそうだが、少しは楽にしてやれないのか」
 その声は冷たかった。療法師は深々と頭を垂れた。
「恐れながら、族長、これ以上の治療は却ってスール様の生命を危険に曝す事になります」
 ロルフの眉間に深く皺が刻まれた。薬に関しては療法師の方が詳しい。それが分かっているからこそ、ロルフも苦悩しているのだと、ティナにも知れた。これ程分かりやすく感情が露わになる事のない人だった。スールの事が、余程気に掛かっているのだろう。
 無言で、ティナには一瞥もくれる事なくロルフは族長室を去った。ティナはスールの許に寄った。誰の目から見ても、スールの具合が悪くなる一方なのは明らかだった。その呼吸は熱で速くなっている上に、絶え間なく咳が小さな身体から発せられる。
「この子は――」ティナは療法師に訊ねた。「この子は、集落で流行っている病なのでしょうか」
「分かりません」
 壮年の療法師は首を振った。
「なぜ、分からないのでしょうか」
「どちらも同じ経過を辿ります」言い難そうに療法師は答えた。「明後日になっても、熱と咳が改善しなければ――」
 その先は濁されたが、ティナは身体が震えるのを止められなかった。
「大丈夫、きっと、あさってには、熱も咳もひきますわ」
 ようやくそれだけを言った。そうでなくては困る。スールが流行り病に罹ったなど、信じられなかった。薔薇色の頬をした愛らしい子。
「ただの、風邪だわ」
 最後は自分に言い聞かせるように呟いた。

 三日経ってもスールの熱と咳は引かなかった。療法師はティナに、最悪の事も頭に入れておいた方が良いと言った。だが、ロルフには何も伝えてはいないようだった。ロルフのスールを見る顔は日々曇り、苛立ちがその背からも窺えた。
 ティナは神に祈った。これまでにない程に熱心に、祈った。だが、途中で中つ海の神では駄目だと気付いた。ここは北海だ。北海の神々に祈らねばならない。ティナは北海の神々にも祈った。スールの生命が助かるのならば、北海の神々に帰依しようと思った。
 スールの具合は一向に良くならなかった。それどころか、悪くなる一方だった。ティナは昼夜なく必死に看病した。出来る事は限られていた。ロルフも夜には苛々と部屋を歩き回るようになった。薬を飲ませ、身体をあたためて頭を冷やす――その位の事しか療法師も打つ手がないようであった。
 長く、ティナはスールの目を見てはいなかった。自分と同じ榛色の目は、病を得てからずっと閉じられたままだった。
 ロルフは常に無言だった。だが、ティナはもう、ロルフの存在すらも目に入らなかった。ただただ、スールのみだった。他の子供達の事も、念頭から消えた。誰も何も言わないのならば、きっと元気でいるのだろうと思った。
 六日もすると、スールはもう、薬さえも受け付けなくなった。療法師は何も言わずに部屋を去った。見限ったのだ、とティナは思った。だが、ティナは希望を捨ててはいなかった。まだ、スールは生きている。ならば、快方へと向かう事もあるのではないだろうかと、諦めなかった。
 それでも、限界はやって来た。
 不眠不休で何日も看病を続けていたせいか、ティナも疲弊していた。スールの病床の傍らに膝をつき、愛おしい顔を眺めた。今日は咳がましになったのではないだろうかと思った。熱は相変わらず下がらなかったが、咳の分だけ、苦しさも減じたように感じられた。
 握った熱い小さな手に、自らの指を差し入れてみる。
 弱々しくはあったが、握り返す力を認めてティナは溜息を吐いた。
 療法師は諦めてしまったが、スールは良くなっているのではないだろうか。病に罹った全ての子が生命を失う訳ではないのだろう。特にスールは、頑健なロルフの息子である。集落の他の子供よりも体力があるのではないだろうか。
 ティナはスールの顔を見つめながら敷かれた毛皮に頭を乗せた。
 何て、可愛らしい子なのだろう。
 どの子も可愛いのは同じであったが、スールはとりわけ愛らしく思えた。最も幼いからかもしれない。誰に似ているかは関係なかった。誰の血を引いているかも。
 無条件で、ティナは子供達を愛していた。それは、自分が両親から受けた愛情とは違っているのかもしれないが、それでも良いと思った。両親のティナや姉弟への愛情は、距離を置いたものであった。しかし、この北海では、ティナは自分が胎内で育てた子供以外に拠り所を持たなかった。いかに親切にしてくれるからと言っても、オルトはロルフに忠実だ、心から安心できる相手ではなかった。中つ海の者は、北海では奴隷である。ロルフはティナがそのような者と口をきく事さえも許さなかった。そしてティナも、自分が中つ海の者でありながら、北海の族長の妻の座についている事を引け目に感じていた。
 普段はオルトに任されているスールを、自分だけのものにしておけるのがこのような状況でなければ、どれほど良かっただろうか。
 スールの顔を眺めながら、ティナはそのような事をとりとめもなく考えていた。

 いきなり肩を摑まれて、ティナははっとした。
「何をしている」
 厳しく冷たいロルフの声がした。いつの間にかスールの脇で膝をついて眠り込んでしまったようだった。
「スールの様子を――」
 そう言ってティナはスールに目をやった。静かに眠っている。だが、違和感があった。血色が悪い。
 ティナは慌てて再びスールの傍らに膝をついた。そして、見つめた。
 小さな胸は動いてはいない。
 嘘だ。
 そのような事が、起こって良いはずがない。
 スールを腕に抱いた。力なく、その身体がぐにゃりとした。そんなはずはなかった。高熱と咳に苦しみながらも、スールは力強かった。頬を押し当てると冷たかった。
 不意に、ロルフがティナからスールを奪った。その顔は蒼く、引きつっていた。
 駄目、その子を返して。
 そう言おうとしたが、言葉が出なかった。その代わりに喉から出たのは悲鳴だった。
 それを聞きつけてか、オルトが部屋に飛び込んできた。
「奥さま、いかが――」
 勢い込んで来たものの、その足と言葉は、ロルフの腕の中にいるスールに落ちるや止まった。そして、ゆっくりとロルフに近付くと、無言でスールの身体を抱いた。ロルフがはっとしたように顔を上げた。初めて会った時と同じ、冷たい青い目だった。
「お前が付いていながらっ」
 ロルフの言葉は鋭くティナの胸を抉った。認めたくはなかった。だが、ロルフの全てがティナの思いを否定した。
 ロルフがティナを平手で打った。その勢いで床に倒れたが痛みは感じなかった。
「ロルフさま」
 オルトが声を上げたが、それはティナの耳には入らなかった。スールから、目を離す事が出来なかった。
 何度も、ロルフはティナに手を上げた。それでもティナには何も感じられなかった。
 腕を摑まれ、無理矢理立たされた。そしてそのまま、引っ張られた。
 スールから引き離される。
 それだけが、ティナの心にはあった。一人にしてはいけない。その思いだけで、ティナはロルフに抵抗した。だが、力ではロルフに勝てるはずもなかった。
 部屋から力ずくで引き出されると、ティナの身体から力が抜けた。全て、夢なのだ。自分は悪い夢を見ているのだと思った。ずるすると引き摺られて外に出た。寒さも感じなかった。だから、これは夢なのだと確信を持った。
 ロルフは無言でティナを連れて行った。やがて、薄暗い場所に放り込まれた。

 ティナが起こった事は全て現実だと気付いたのは、身体の深奥から来る痛みによってだった。
 そこは、余り来た事のない納屋だった。土間の上に半ば横たわるように座っていた。きりきりとした痛みに、ティナは眉をしかめた。助けて、と胎内から声がするような気がした。
 ああ、そうだ。スールを置いて来てしまった。
 そう思ってから、最後に見た我が子が脳裏に甦った。
 動かない胸、冷たく力ない身体。それが意味する事は明らかだった。
 スールの生命の火は消えてしまったのだ。
 涙が溢れて来た。腹も痛んだが、胸はもっと苦しかった。嗚咽が止めどなく喉から漏れる。
 あの小さな子が、一体何をしたと言うのだろうか。神々の意に背く何を為したというのだろうか。苦しんで苦しんで、一人で逝ってしまった。一人で行かせてしまった。立ち去った魂は、もう戻らない。
 それでも、ティナは神々に祈らずにはいられなかった。愛しい子を返して欲しいと願わずにはいられなかった。
 ふらふらと立ち上がって、扉を押した。動かない。ロルフは外から閂を掛けたのだ。
 罰する為に。
 この場に長くいれば、身体が冷え切って胎の子は流れてしまうかもしれない。そう思ってティナは扉を叩き、助けを呼んだ。だが、返事も動きもなかった。それも当然だろう。この冬の最中に外で仕事をする奴隷も少ない。また、誰もがロルフを恐れているので、聞えていても助けてはくれないだろう。
 ロルフも胎の子の事は知っているはずだ。だが、やはり、産まれるまでは父親としての愛情は注げないのであろう。あるいは、ティナへの怒りのせいで何も見えなくなっているのだろうか。
 かつて、ティナの城砦の騎士がロルフの子供達を殺めた。今度は、ティナがロルフの子を死なせたのだ。ロルフが許すはずもなかった。だが、この子を流してしまったならば、ロルフは再びティナを責め、今度は息の根を止めるだろう。
 それも、良いのかもしれない。
 ふと、ティナは思った。
 子を道連れにするのは気が引けたが、このままここで果てるのも自分の運命だったのかもしれない。いや、自分の命運は、あの時、ロルフの刃の下に身を投げ出した時に既に尽きていたのだ。今、生きているのはロルフの慈悲でしかない。意志のない生活の中で、自分はとうに死んでいたのだ。
 そう思うと、気が楽になった。
 弟と母親を失った子供達は最初は悲しむだろう。だが、まだ幼い。すぐに忘れてしまうに違いない。そしてロルフは、今度は北海の女を娶るだろう。唯論、その女は子供達を可愛がらなくてはならない。なぜならば、ロルフが子供を愛しているからだ。その点では心配はないと言える。
 自分は、子供を産むだけの存在だった。だからロルフに良人としての誠実さを求めはしなかったし、そうではない事も承知していた。自分がいなくなれば、ロルフは気に入った女を妻に迎える事が出来るのだ。それは、ロルフにとっても良い事ではないだろうか。
 ティナは土間に身を横たえた。
 このまま、肉体的な死を迎えればよい。それが、誰にとっても良い道なのだ。
 ごめんなさい、と心の中で胎の子に語りかけた。あなたに落ち度は何もないの、でも、わたしは生きているわけにはいかないの。
 そっと目を閉じる。このまま眠ってしまえば、恐らく目醒める事はないだろう。

 どれくらいの時間が過ぎただろうか、ティナが寒さの中でもうとうととし始めた時に、がたがたと大きな音がして、いきなり納屋の戸が開かれた。
「奥方様」
 低いその声はうわずっていた。「奥方様、しっかりなさって下さい」
 ゆっくりと目を開けると、そこにはヴァドルの姿があった。だが、眠たくて長くは瞼を開けていられそうになかった。
「ああ、良かった。気付かれた」
 ヴァドルは安堵したように言った。
「今、中にお連れいたします」
 そう言うやヴァドルはティナの身体を抱き上げた。放っておいて、とティナは呟いた。どうせ、生きていても仕方のない生命なのだから。
 そして、意識が途切れた。
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