第30章・十一年後

文字数 6,926文字

 族長集会は無事に終わった。
 ロルフは杯を傾けながら、その時の事をゆっくりと思い出していた。
 今年、この島で行われた集会では、十七歳のエリスが女主人の役を務めた。妻は不例であると伝えると、皆は何の疑問も抱いた様子もなく見舞いの言葉を述べた。そして、エリスを皆の前に出した時の様子ときたら、思い出すだけでも自然と笑みがこみあげて来る。
 誰もが、一瞬、黙った。ざわめいていた大広間に沈黙が下りた。そして、感嘆の声。族長の誰もが、エリスの美しさを称えた。数人は、そこで適齢の息子の話を持ち出したものだった。そして、下の座に連なる者達が呆けたような顔から立ち直り、囁き交わすのが見えた。
 自慢の娘に、エリスは育っていた。少なくとも、外見上は。
 中身に関しては、幼かった頃と何一つ変わってはいなかった。独立心が強く、好奇心に溢れ、弟達に対してはまるで族長であるかのように振舞っていた。十二の裳着の儀式の時に与えた片刃の小太刀(スクラマサスク)を誇らしげに身に着け、居並ぶ族長達にも怖気付く事がなかった。
 男の子達はハラルドを除いて見習い戦士となり、この館を離れている。帰って来るのは月に一度であり、族長であるロルフは戦士の館に足を運ぶ事も殆どなかった。その月に一度の帰宅を許された日にも滅多に帰らなくなった息子達を頼もしくは思えど、子供達で溢れていた館は静かになった。そこに一抹の哀しさを覚えぬではなかった。戦士の館での様子は、未だにそこで起居しているヴァドルからもたらされた。何とかやっているようで、安心もした。
 ロロは二年で正戦士となる。そうなれば、共に遠征へ赴く事になるだろう。頭角を現してきているとは言え、ロルフはロロを族長船に乗せるつもりはなかった。自分もそうであったように、他の船での方が学ぶ事は多い。それは、他の子にしても同じだった。
 一番小さくて頼りなかったハラルドも、今ではもう、何の心配もなく育っている。この小さな悪戯者も来年には戦士の館に入り、この館はがらんとしたものになるだろう。老いたオルトも寂しがるだろう。
 集会から十日が経った。エリスの最初の求婚者が、昨日(さくじつ)、使者と共に島にやって来た。
 島をこの数年の内に去った詩人(バルド)達により、エリスの美貌は北海にあまねく知れ渡ったようであった。詩人は、様々な情報を持って北海に散らばったのだ。昨年の集会でも打診はあったのだが、ロルフはそれを笑って退けていた。島で行われる集会では十七の娘を披露するので、実際に目にしてその時に決めて頂きたい、と言った。
 想像していた以上の反応だった。
 実際に目にすれば、エリスの美しさが際立ったものである事が分かる。それは、容貌のみならず、エリスの佇まいにも言える事であった。生き生きといたその姿は、力強い生命力を感じさせた。容貌以上の美しさを、男達は感じ取ったであろう。
 大事な娘を安売りしたくはなかった。結納財が高くなればなるほど、持参財も見合うだけの用意をしなくてはならない。だが、それは問題ではなかった。婚家でエリスが大事にされる事の方が重大だった。それ程に、慈しんだ娘だ。
 許より、島の男に嫁がせる気はなかった。もし、もう一人娘がいたのならば話は違っていたかもしれないが、エリスは一人娘だ。皆、エリスは大事な駒であるというのを理解しているだろう。
 当のエリスは、自分に求婚者が現れるとは思ってもみなかったようだ。昨日(さくじつ)の愕きぶりは見物(みもの)だった。目を大きく見開き、何度も口を動かすが、言葉は出て来なかった。完全に混乱しているようだった。自分がもう、十七である事を忘れてしまっているかのようであった。元々、自らの美貌には無関心な娘であった。集落の娘達は十五や十六で色気づき始めるというのに、誰かに心を寄せるという事もなかったのだろう。弟達の世話に明け暮れていたからかもしれない。
 後、数日待っておおよその求婚者が揃ったところで、話を進めるのが良いだろうと思った。無論、それまではエリスには会わせない。それは、絶対だった。部屋と中庭の他には出さないようにしなくてはいけない。それを大人しく聞くエリスでもない事は分かっていた。放っておけば、気に入らない求婚者には石でも投げかねない気性だ。
 ハラルドは、集会が終わって間もなくに訪れた他島の者に興味津々のようだったが、重要な客人である事を良く言って聞かせねばなるまい。ちょろちょろされては、まとまる話もまとまらなくなる。
 オルトは最近は老いて役に立たない。ハラルドの乳母がそれに代わるが、こちらも甘くて余り頼りにはなるまい。こういう時には、例えロルフの前であろうともエリスが強く言い聞かせるのが常であったが、今回、その役をエリスにさせる訳にはいかないだろう。自分が厳しく言わねばならないのか。このような事で頭を悩ます事になろうとは、思ってもみなかった。
 ロルフは溜息を吐いた。
 年を取ったものだ。あっという間にエリスは十七歳になった。ハラルドが正戦士になるのも、そう遠いことではない。その時、自分は、どのように思うのだろうか。

    ※    ※    ※

 エリスが勢いよく中庭にやって来た時、ティナは何事が起ったのかと思った。
 男の子達はハラルドを残して皆、見習い戦士となって館を出ていた。最初はひと月に一度は必ず帰って来たものが、今では殆ど寄り付かなくなった。子犬のようにじゃれ合い、賑やかであったのが、嘘のようだった。男の子はつまらない、と城砦の母親達が言っていた言葉を、ぼんやりと思い出した。もう、遠い過去の話だ。
 エリスは、本当に美しく育った。中身は北海人だが、その美しさは中つ海の貴婦人に混じっても遜色ないのではないかと思った。不憫だ、と感じずにはいられなかった。中つ海に産まれ、育っていれば、王侯の目に留まったであろうに。
 刺繍の手を止めて、ティナは娘を見た。傍にいるオルトが微笑んだ。この人は、いつでも子供達に甘い。年を取って、ますます甘くなっている。
「お母さま、聞いて」エリスはティナの許に来ると性急に言った。「昨日、お父さまに呼ばれたの」
 また小言を言われた愚痴なのだろうかと思ったが、エリスはずっと真剣な顔をしていた。
「何とおっしゃったと思う」エリスはロルフによく似た形の良い眉を寄せた。「わたしに、求婚者が来たんですって」
 思わず、針を落としそうになった。そのような話は聞いてはいなかった。昨夜、休む時も、ロルフは無言だった。尤も、二人の間に会話などあったためしがない。あの夜を最後に、ロルフと言葉を交わしてはいなかった。ティナは常に、ロルフが他の者に語りかける声を聞くのみであった。ロルフはティナの声を聞いたことがあるのだろうか。
 それに、エリスに求婚者。エリスは、もう、十七歳なのだから、そのような話があったとしてもおかしくはない。だが、母親である自分を抜きにロルフは全てを決めてしまうつもりなのだろうか。それとも、それが北海人の流儀なのだろうか。
 ティナは刺繍を脇に置いた。エリスは腰に両手を当て、仁王立ちになっていた。もう少し女らしくしなさい、と言いかけて、やめた。今はそのような小言は聞きたくもないだろう。それに、この子は完全に北海人に育ってしまった。
「これから数日の内に、何人かくるだろうって。冗談じゃないわ」
 まだまだ、この子には結婚の話は早そうだった。心構えもできてはいないのだ。
「そのようなことをおっしゃるのではありませんよ」
 穏やかにオルトが言った。「どなたが、いらっしゃったのでしょうか」
「――何とかという名前の、どこかの族長の次男よ」
 まるきり憶える気がなかったようだ。ティナはそっと溜息をついた。幼い頃は末の妹に似ているのではないか、と思った性格は、年々、ロルフに似てくるようだった。
「六人の使者を立てて来たそうだけど――」
「いらっしゃった、でございましょう」
 オルトがやんわりと言った。
「いらっしゃったそうだけど、わたし、顔も」「お顔」「――お顔も、は、拝見していないのよ」
 丁寧な言葉遣いには慣れていないのが明白であった。男の子ばかりの中の、長女だった。弟達の面倒を、頼りにならないティナや老いて行くオルトに代わって面倒を見て来たからであろうか。
「ひどい話だわ」
 エリスはひとしきり毒づいてからそう言った。
「それが、普通ですよ。結婚は、族長が良いようにまとめてくださいますよ」
 オルトの言葉にも、エリスは納得がいかないようであった。
「わたしにだって、好悪はあるわ。それは無視なの」
「若い娘の好悪など、あてにはなりませんからね」オルトは飽くまでも静かに言った。「父親である族長が、冷静に選んでくださいますから」
「オルトは、そうやって結婚したのね」エリスは矛先をオルトに向けた。「それで、幸せだったの」
「わたしの結婚は、やはり、父が決めましたわ。良人は、大人しい人でありましたよ」
 大人しい、とは言っても、北海の戦士なのだ。中つ海とは、基準が違うだろう。
「――ヴァドルは、その人に似ているの」
「少しは。でも、今はわたしの話ではありませんでしょう」
「顔も知らない人と結婚するくらいなら、わたしはヴァドルと結婚する方がいいわ」
 エリスの考えも分からないではない。自分も、若い頃にはそう考えていた。だが、現実は、違う。
「ヴァドルは、あなたには年を取りすぎていますわ。お父上と同じ年齢ではありませんか」
 さすがのオルトも、苦笑いした。
「もし、求婚者でお爺ちゃんが来たら、わたし、ヴァドルと結婚するって言うわ」憤然としてエリスは言った。「その方が、ずっといいわ」
 この島の戦士達がエリスに気がない訳ではないのを、ティナは男の子達からの話で知っていた。館に帰って来た時の愚痴で最も多いのが、姉の事を色々聞かれる、というものであった。だが、族長に娘を欲しい、と言い出せる者はいないようである。それが良い事なのか悪い事なのか、ティナには分からなかった。少なくとも、エリスの方は男達の事を何とも思ってはいないようであった。
「お母さまは、わたしに味方してくださるでしょう」エリスが言い、ティナは物思いから引き出された。「お父さまに、何とか言ってください」
 ロルフに、何が言えるだろう。あの人は、自分の決めたことに口出しを許す人ではない。特に、ティナには許すまい。
 娘の言葉に、ティナは首を振るしかなかった。味方には、なれない。
「お母さまは、おいくつでお父さまとご結婚なさったの」
「――十七よ」
 声が震えませんように、と祈った。
「お母さまのお父さまが、お決めになったの」
 どうして、そのような事を知りたがるのだろうか、とティナは思った。過去は、思い出したくはない。
「あなたのお父さまが、お決めになったのです」
 エリスは憮然とした表情になった。期待していた言葉とは違っていたのだろう。どのような答えを、この娘は望んでいたのだろうか。娘がどのように思おうとも、自分達が見知らぬ者同士であった事までは知らなくとも良い。あのような過去は、知られたくもない。
「エリスさま」オルトが言った。「あなたに求婚にいらした方も、ご自分で決断していらっしゃったのですよ。嫌々いらっしゃったわけではないのですから、そのようなお顔をなさってはいけません」
「わたしのことを何も知らないで、それでも求婚できるのね」
「それは、あなたがお美しいからですよ。誰だって、あなたをご覧になれば、妻にと望むでしょう」
「美しい」エリスは怒ったように言った。「たった、それだけのことじゃない。そんなのは、見た目だけだわ。本当のわたしではないわ。そんな男は願い下げよ。お父さまだって、そのくらいはお分かりになっていらっしゃると思ったのに」
 我が強く、はっきりとものを言うところは、ロルフにそっくりだった。この気性は一生変わるまい。中つ海では、このような性格の娘は受け入れられないが、この北海ではどうなのだろうか。
「どこでも、美しい女は好まれますよ」辛抱強くオルトは言った。「強い女も好まれますが、それは芯のこと、男に強気に出るのはよろしくありません」
「結婚するまでは、でしょう。自分を偽って売り込むなんて、わたしにはできないわ」
「口の悪いことをおっしゃいますな」
 誰も、あのロルフでさえも、この娘の気性を直す事はできなかった。多少、ロルフがそれを面白がっていても、エリスは女として許される範囲を越えているようにティナには思われた。だが、愛しい娘である事には変わりがない。この気の強さに、どのくらい支えられて来たことか。
「ねえ、お母さま。ご結婚なさる時、お母さまはお父さまのことを、少しでも好きだったの」
 答えられない質問だった。無言で、ティナは微笑んで少しだけ、肩を竦めて見せた。
「好きでもない人と、どうして結婚できたの」
 榛色の目が、ひたとティナに据えられた。
「あなたは、思い定めた人がいるのですか」
 逆にティナは訊いた。それならば、求婚者を厭うのも分からないでもない。だが、そのような人がいるならば、エリスは自分に言ったはずだという思いもあった。
「そんな人、いる訳ないわ。この島の男連中は、わたしには声もかけてはこないのですもの」
「声をかけてくる人を、好きになるとは限りませんよ。姿を見ただけで、好きになることもありましょう」
 オルトが言ったが、エリスは鼻で笑った。
「声をかける気もない人を、どうして好きになれるの。そんなの、有り得ないわ」
 情緒の欠片もない子に育ってしまった、とティナは嘆いた。それも、この北海では詩人(バルド)が歌う詩が男の為のものが中心のせいだろう。書物もないのだから、古の人々の物語に接する機会もない。恋物語など、知りようがなかった。
「あなたは、まだ子供でいらっしゃるのですわ」
 オルトは首を振って笑った。
「そう言うオルトは、どうだったの」
「昔のことは、忘れました」
「年を取ったことを逆手に取るのね、ごまかすのね」エリスは地団太を踏みかねない様子だった。「お母さまは、どうだったの。好きな人はいなかったの」
 最も訊かれたくはない質問であった。
「そのような人――」
 そう言いながらも、心の中では最早、思い出す事のできなくなってしまったアーロンの面影を探していた。どのような髪と目の色をしていたのかさえ、遠くなってしまった。
「お母さまは、お父さまのことを結婚が決まる前からご存知だったの」
 ティナは首を振った。
「なら、わたしの気持ちもお分かりになるでしょう。何も知らない男と結婚を決められるなんて、わたしは嫌よ」
「嫌でも、お父上が決められたのなら、それに従うしかありませんよ。それが、子供の、娘の義務です。親に対する愛です」
 オルトが言った。どこかに寂しそうな響きのある事に、ティナは気付いた。オルトには、本当は、他に好きな人がいたのではないだろうかと疑った。ヴァドルの話はすれど、オルトの口から亡くなった良人の事は出なかった。それほど長い時間を共に過ごさなかったのか、愛せなかったのどちらかなのだろうかと思った。オルトの人生をティナは知らなかったし、今まで興味もなかった。
「わたしだって、お父さまが嫌いなわけではないわ。愛していないわけではないわ」エリスは反論した。「でも、それとこれとは別よ。結婚するのは、お父さまではなくて、わたしなのですもの。お父さまが勝手にわたしの人生をお決めになるなんて、信じられない」
「あなたが幸せになるようなお相手を、選んでくださいますよ」
「わたしの幸せが、お父さまに分かるなんて、思わない」
「そのようなことは、おっしゃるものではございません」
 オルトは、いつでもロルフの味方だ。それは変わらない。
「オルトでは、話にならないわ」エリスは言った。「いつだって、お父さまが正しいのですもの」
「そのようなことはありませんよ」
 反論するオルトをよそに、エリスはティナに向き直った。
「お母さまから――」言いかけて、言葉を切った。「無理よね、お母さまからお父さまに頼んでいただくのは。お母さまは大人しい方なのですもの」
 ティナは俯いた。娘に何もしてやれないのが哀しかった。だが、ロルフに逆らうことなど、できようはずがなかった。そのようなことをすれば、どのような報復が待っているか分からない。
「いいわ、自分でなんとかするから」
 エリスがロルフに反抗しても、きちんと躾けられなかったと自分に怒りが向くかもしれない、とティナは思った。そして、そう思った自分を情けない、と思わずにはいられなかった。娘の幸せよりも、自分の安全の方を心配するなど、母親として許されることではないだろう。
「いけません、お父上のご意向に反対なさっては」
 有難い事に、オルトがエリスを諫めてくれた。
「反対ではないわ、意見よ」
「女子供が、家長に意見など、申してはなりません」
 大袈裟に、エリスは溜息をついた。オルトに何を言ったところで変わらないと悟ったのだろう。
「女は、つまらないわ」
 子供の頃から何度も繰り返されたその言葉に、何一つ返せないのも変わらなかった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み