第37章・深慮

文字数 9,833文字

 エリスの選択は、ロルフにとっては愕きであった。
「さて、どうなさいますか」
 静かにヴァドルが言った。その視線は、エリスの消えた家族用の棟に通じる扉に向けられていた。この男には、それほど愕くような選択ではなかったようだった。
「お前は、何か知っていたのか」
「何も」ヴァドルが答えた。「貴方がご存知の事以上には」
「それにしては、落ち着いているな」
 苦々しく思いながらロルフは言った。
「エリス様の事ですから、予想外のお相手を選ばれるのではないかと思っておりましたので」
 ヴァドルは肩を竦めた。
 そう言われれば尤もな事であった。ヴァドルの方が自分よりも慧眼であるのは、昔から変わってはいない。例え、それが自身の娘ではなくても――そうだからこそか、気性を良く心得ている。
「エリス様のご説明では、納得ゆきませんか」
 娘は、自分がサムルを選んだ理由を上げた。
 ――お三方とも、それぞれに良い人であることは、わかりました。皆さま、正直に忌憚なくわたしにお話しくださったと思います。その上で、サムルどのを選びました。他の方より、少しばかり率直であったというだけですが。
 ――お前は、サムル殿の生まれは承知しているのか。
 ――はい。でも、中つ海の人間を母に持つわたしと、奴隷を母君にお持ちのサムルどのと、どこが違うと言うのでしょうか。わたしの母が正妻で、サムルどのの母君がそうではなかったというにすぎません。どうせ、ソルハルどのの言葉は、この夏の間に北海中に知れましょう。他の人にとって、わたしたちの間に、違いはないと思います。
 ――その事で、お前が苦しめられる事がないとは言い切れぬ。その覚悟はあるのか。
 ――わたしは、あなたの娘でもあるのですわ、お父さま。白鷹ロルフの娘を、何と思っていらっしゃるのでしょうか。
 そう答えた娘に、最早、下がるように言うしかなかった。
 白鷹ロルフの娘――エリスは、まさしく自分の娘であった。その事を誇りに思うと同時に、危惧せずにはいられなかった。向こう見ずなところまで似なくても良かったものを、と思わずにはいられなかった。あの娘は、相手が自分を守ってくれるとは言わなかった。自分の身は自分で守ると言い切ったようなものだ。強い人間に育っていた。
「貴方は、アスヴァルド殿を、とお考えだったのでしょう」
 ヴァドルの言葉に、ロルフは我に返った。「族長の息子であり、後継者の弟であるあの方の妻であれば、エリス様の事をあれこれ言う者はおらぬとお考えであったのでしょう」
「そうではないとでも、言うのか」
「人は、陰でものを言います。それに気付かぬエリス様ではないと存じますが」ヴァドルは首を振った。「素知らぬふりを、エリス様はなさいましょう。そして、アスヴァルド殿は、気付いておられながらも何も仰言らないのではないかと。波風を立てる事を好まぬお人のようですから」
 ロルフは低く唸った。それは、守れないのではなくて、守る気もない、という事なのか。
「ケネヴ殿は、そのような事にはお気付きになりますまい。それ以上に私が恐れるのは、讒言(ざんげん)する者が現れて、ケネヴ殿が信じはしまいか、という事です」
「その点では、サムル殿は信用できるのか」
「ご自分があれこれと言われる事に慣れたお方であれば、目も耳も鋭いかと思われます。エリス様の名誉は、夫である自分の名誉に関わる事を充分に心得ておられるのではないでしょうか。それに、貴方やロロ様の信任を最も必要としている方です。集会で貴方とエリス様が顔を合わせた際に不都合があるようでしたら、貴方は離婚させる事も躊躇わぬでしょう。サムル殿にとり、それは避けたい事でありましょうから、しっかりと心配りはなさると存じます」
 ヴァドルの言葉には肯首せざるを得なかった。サムルには、エリスを守らねばならぬ事情があるのだ。アスヴァルドは部族の重要な地位にいる為に、エリスが不幸であったとて、簡単に離婚を切り出す事はロルフでもできない。ケネヴは、今は頭に血が上っているのかもしれないが、それが冷めればエリスの生まれを苦々しく思わぬとも限らない。
 理屈で選べば、確かにサムルが相応しいと言えた。
 だが、理屈だけでエリスが幸福になるものだろうか。ロルフは、アスヴァルドと(めあわ)せれば、エリスの部族内の地位も高く安定し、妹のように愛される穏やかな生活を送れるのではないかと思っていた。
 サムルでは、そのようにいかないだろう。
「どのみち、ケネヴ殿はここで脱落ですか」腕を組んでヴァドルは言った。「良いお方でありますれば、直ぐに立ち直られましょう」
 ロルフは頷いた。あの若者は残念だが、考え深く理性的に判断を下せるエリスには、役不足だ。最初は良くとも、エリスは直ぐに物足らなく思うだろう。
 では、エリスは理性でサムルを選んだのか。アスヴァルドとサムルの違いは、何であったのだろうか。
「なぜ、エリスはアスヴァルド殿を選ばなかったのだと思う」
 思わず、ロルフはその疑問を口にしていた。
 ヴァドルは首を傾げて考える風であったが、やがて口を開いた。
「エリス様よりずっと年上だと言いましても、不釣り合いな程ではありませんし、容貌も悪くはありません。背格好も人並みですし、服装の趣味も悪くはない――目立たぬ方ですが、そのような事はエリス様には瑣末(さまつ)でございましょう。お気に召さぬ要因がございませんな」
「オルトからは、何か聞いてはいないのか」
「ここ数日、母とは顔を合わすばかりで、何も話してはおりません」
 ロルフは眉をしかめた。この母子(おやこ)は、互いに関心が薄すぎはしないだろうか。ロルフが口を出す事ではなかったが、毎度の反応のなさに心配になるほどであった。さすがに四十四でありながら独り身の息子に母親がかける言葉も特にないだろうが、子は、親を気にかけるべきだと思っていた。特に、オルトは高齢だ、もう少し気を遣っても良いのではないだろうか。それとも、声をかけなくとも分かり合えているのか。
「オルトからは、私も何も聞いてはいない」ロルフは言った。「何か、変わった事があれば、言うだろう」
「ご尤もです」ヴァドルは短く刈った顎髭を撫でた。「それでは、何を以てエリス様は、アスヴァルド殿よりもサムル殿を選ばれたのでしょうか」
 中つ海の者を母に持つ引け目、からか。
 そうロルフは考えたが、有り得ないと打ち消した。エリスは生まれを卑しんだりはしない。自ら、白鷹ロルフの娘であると宣言した。
 サムルの方が男前であるかと言えば、それも同程度だ。共に人目を引くような容姿ではない。二人ともどちらかと言えば地味で、女好きのする(ほう)ではなかった。背丈も体格も、大して差がある訳ではない。
 年齢は、確かにサムルの方が若く、エリスに近い。アスヴァルドはまだ二十代とは言うものの、適齢期を過ぎている。十歳以上も年上の男は、さすがに十七の娘にとっては年寄りに見えるのだろうか。
 それとも、ヴァドルの言う、底にある冷淡さに気付いたのか。情の厚い娘であれば、そのような気質は嫌うだろう。
「逆に、サムル殿を選ばれる理由とは、何があるでしょうか」
 ヴァドルの言葉には、ロルフも腕を組んで考えた。
 サムルの何が、エリスの気を引いたのだろうか。より率直であったと、エリスは言った。何に対して率直であったのか、気になるところだった。
「貴方の後ろ盾を必要となさっている事を、正直に話されたのでしょうか」
 それは余りにも、馬鹿正直すぎる。求婚に来たならば、エリスの機嫌を損ねるような事はしたくはないだろう。
「それとも、ウーリックか」
 ヴァドルの言葉に、ロルフは低く唸らざる得なかった。
 あの詩人(バルド)の事を忘れていた。幼い頃に懐いていたのを、エリスは憶えているだろう。
「あの詩人の対面を許したのは、まずかったでしょうか」
 ウーリックからの要望で、ロルフが許可したものであった。あの詩人がエリスの決断に影響を与えたのだとすれば、それはロルフの責だ。ヴァドルが悔やむ必要はない。だが、ヴァドルとは、そういう男であった。
「エリス様は何と申しましても年若くいらっしゃいますので、ウーリックの推挙するサムル殿をひいき目でご覧になったとしても、おかしくはないでしょう」
 少し、言葉を切った。「しかし、ウーリックはエリス様に対して、自分はサムル殿を直接エリス様に推挙する気はない、と明言しております。その時以降、二人が顔を合わせたという事はございませんし、それだけで判断して良いものかと迷いますが」
 ウーリックの存在が予想外であったのは、確かだ。詩人のサムルを評する言葉は美麗なものではなく、友人として、衷心からのものだと信じる事ができた。それでも、詩人の言葉は三人分、と言われるのには、意味がある。言葉巧みに自分の意見に相手を引き込む力は侮れない。ヴァドルのような真っ直ぐな人間が、知らぬ内に口車に乗らぬとも限らなかった。殊に、詩人が島に滞在していた間、二人は親しかった。
 エリスが、詩人との思い出にほだされたとも思えなかった。懐いていたとはいえ、それは子供の頃の話だ。成長した今では、族長の娘として一線を引く事を知っているはずだ。そうでなくてはならない。
 苛立ち、ロルフは思いを巡らせた。
 もし、ウーリックがエリスの考えに影響を及ぼしたのだとすると、それは如何なる言葉によって起こったのであろうか。詩人は自由に言葉を操る。その意味では、魔法を使うのと同じだろう。魔法は女のものであるが、詩は男のものだ。そのどちらも、人を幻惑させる。知らず、エリスがそのような技にかかったというのもあり得る事だった。
 魔法や詩の幻術に惑わせれぬようにと育てなかったのは、ロルフの責であるのか、あの女のものであるのかは分からない。エリスがウーリック以外の詩人を好まなかったと言って、安心してはならなかったのだ。
「ウーリックの話では、サムル殿から使者を頼まれたのではなく、自らサムル殿に申し出たという事でした。そこに、何らかの意図があったのでしょうか」
 普通は、年少者である求婚者が年上の者に使者になってくれる事を頼みに行くものである。
「ウーリックとサムル殿の関係は、如何なるものであったのか、知っているか」
 ロルフはヴァドルに訊ねた。
「ウーリックがあの島へ渡ってからの知り合い、という事でしたから、かれこれ二年になりますか」
何故(なにゆえ)、ウーリックは自ら買って出たのだろうか」
「貴方とエリス様に仕えていた事がある、と言ったそうです。何らかの助けにはなるかもしれぬと」
 確かに、サムルにとっては助けとなった。規定の人数を揃えられなかったので、ウーリックがいなければ、競い勝ったは良いものの求婚には来られなかった。
「他の随伴人は年上の正戦士であり、サムル殿のお人柄や財産については間違いないと申しております。船の乗組員は年下か同年齢ではありますが、これも正戦士です。どの者もサムル殿に対して悪心(おしん)は持たぬようです。むしろ、決闘の介添人になるも辞さぬ者達ですな。これらの者達には、サムル殿は当然、正戦士として、戦士長の嫡男として認められておりますれば、悪くはない縁組ではあるのですが」
「身分が今後も保証されるとは限らない、という事か」
「はい」
 ヴァドルは難しい顔になった。「年上の者の賛同を得られなかったのであれば、猶更です。この求婚自体が、部族の争いの種にならぬとは言い切れません。唯論、緑目殿はそのような事も考慮済みでいらっしゃいましょうし、ご健全であられる間は不満も抑えられましょう」
 ロルフは沈黙した。それは、サムルに感じていた不安だ。
「ウーリックを呼べ」ロルフは言った。「直接、問おう」

 ロルフの言葉に否やはなかったのか、ヴァドルは一礼すると直ぐにウーリックを呼びに出た。そして、思ったよりも早く帰って来た。
「お呼びでしょうか」
 詩人はロルフに一礼して言った。常に離さぬ竪琴を手にしていたが、詩の為に呼ばれたのではない事は分かっている顔であった。
「訊ねたい事がある」
 ロルフは静かに言った。この男には、サムル以上に用心しなければならないと思った。詩人の言葉には、気を付けなくてはならない。今までは、そこまで警戒をしていなかった。だが、状況が変わったのだ。
「何なりと」
 昔と変わらぬ柔和な笑みだった。これを、子供達は好きだった。炉辺に集う幼い子供達と詩人の姿は、ロルフの良き思い出の一つであった。台無しにするような事態にはなってもらいたくはなかった。
「ウーリック、お前は自らサムル殿の使者に名乗りを上げたそうだが、その理由を問いたい」
 ロルフの高座の前で、ウーリックは深々と頭を下げた。
(わたくし)は四年に渡り、この島に留まる事を許され、族長をはじめ、皆さまのご厚情を頂きました。殊にお子様方と過ごさせて頂きました日々は、肉親もなく漂泊に身を置く私にとり、誠に幸福な時間でありました。緑目殿の島に滞在して二年になりますが、あちらでも良くして頂いております」
 詩人の長口調にロルフは苛立った。だが、これも詩人の修辞の内と思い、心を鎮めた。
「私は流浪の身なれば、一つ所に何事も為す事無く今まで過ごして参りました。漂泊詩人であれば、仕える(あるじ)も持たず、心の赴くままに旅をし、滞在する事を許されております。それでも、族長のご息女エリス様のお噂はかねがね耳にしておりました。こちらで懇意にさせて頂きましたエリス様がご無事にお美しく成長なさっている事を、密かに喜んで参りました。此度(こたび)の族長集会には、私は参加を致しませんでした。この島へ赴けば、懐かしさに去り難くなり、志半ばで島を去る事を恐れた為にございます」
「志半ば、とはどういう意味か」
 ヴァドルが口を挟んだ。詩人はヴァドルを見やり、静かに答えた。
「私の志とは、この北海に伝わる古謡を集める事。消えゆくばかりの古謡を出来る限り集め、記録する事にございます。老いた詩人だけではなく、古老の記憶の中にあるものを探し求める事でございます」
「それが、集会に参加しなかった理由と、どう繋がるのだ」
 ヴァドルは顔をしかめた。
「その時、私は緑目殿の島で最も高齢の詩人殿に教えを受けていた最中でありました。集会は半月ばかりかかります。その間の、老詩人の健康に不安があった為でございます」
 詩人はロルフに向き直った。
「サムル殿とエリス様のお話を聞き致しましたのは、族長に老詩人の死と埋葬をご報告に上がった時でございます。白鷹殿のご息女の結婚話とあれば、エリス様の事に間違いないと存じました。(わたくし)めはサムル殿ともヴェステイン殿とも、利害がある訳ではありません。私にとり、あの島は借りの宿に過ぎませんが、そのお人柄を充分に知ればこそ、自ら推薦人に名乗りを上げました次第です」
「サムル殿が規定の人数を集められぬと知っていたか」
「薄々は」
 ロルフは椅子の背に凭れ、脇息に肘を置いたまま両手の指を組んで詩人を見つめた。
「何故、サムル殿は規定の人数を集められなかったのだ」
「年長者には、頭の固い方も多いものでございます。ヴェステイン殿は、ご子息の為に助力を申し出られていらっしゃいましたが、サムル殿はお断りになっておられます。この度の求婚は人生の一大事であれば、自らの力で成し得る限りを尽くすと仰言いました」
「だが、結局は結納財はヴェステイン殿の(かか)りにもなろう」
「嫡男の、ましてや独り子の結婚ともなれば、父親はその義務を負うものでございます。この求婚は、ご父君の許しを得てのものでありますれば、ご心配には及ばぬかと存じます」
 結納財の支払い能力を憂うものではなかった。それは、些細な事でしかない。サムルは、父親に対して自らの力で推薦人を揃えると豪語しながら、結局は失敗したのだ。その事を恥じはしないのか。結納財の全てではないにしても、親がかりであるならば、最初から大口を叩くものではない。
「規定の員数を集められなかったのに、緑目殿は出発を許されたのか」
「私めが三人分を担うと申し上げました。緑目殿は難色を示されましたが、慣例の年上ではなく、同年輩の者が許されるのであれば、サムル殿とて充分に頭数を揃えられました。自薦される方々もおられましたので、緑目殿はお許しになったのです。もし、ご要望でありますれば、すぐさま選びも致しましょう」
「それには及ばぬ」
 ロルフは(かぶり)を振った。その必要は感じなかった。誰が来ようと、サムルが如何にエリスに相応しい男であるかを語るだけだ。人数が増えるばかりで、内容は変わらない。
「その事はさておき、お前はエリスにサムル殿が相応しいと思ったからこそ、自ら申し出たのであろう」
「その通りにございます」
「母親が解放されぬ奴隷であったとしてもか」
 その言葉に、一瞬、緊張が走った。だが、直ぐにウーリックの穏やかな声が大広間に広がった。一つ間違えれば、ロルフへの侮辱にもなりかねない、危険な問いであった。
「確かに、法の定めるところでは奴隷の子は奴隷であります。しかし、例外として、自由民や戦士の父親が相続権を求め、族長がそれを認めた時には身分が保証されます。生まれはどうありましょうが、族長がヴェステイン殿の嫡男としてサムル殿を認められていらっしゃるのであれば、私はそれに従うまでにございます」
「今後、それが変わらぬと言い切れるのか」
 ヴァドルが割って入った。「緑目殿やヴェステイン殿に何かあった際に、反故にされはしまいか」
「ご心配は、尤もです」詩人は落ち着いた声で答えた。「しかし、族長と戦士長とは、立会人の前で書面にて取り決めを交わしておられますので、それを(ないがし)ろに出来る者はおりますまい」
 ロルフは頷いた。立会人は死んでしまえばそれきりだが、サムルが戦士長の嫡男であり正式な跡取りであると書面に残したとなれば、法はサムルを守る。
「では、エリス様はサムル殿の相続についての争いには巻き込まれぬ、と保証できるのだな」
 飽くまでヴァドルは慎重であった。
「私は、そう信じております。白鷹殿が、ロロ様が、エリス様の後ろに控えていらっしゃるのであれば、安易に事を起こす者はおりますまい。万が一、騒動の起こるような事態になりましょうとも、サムル殿はエリス様とそのお子を守られます」
 しっかりとロルフの青い目を見つめて詩人は言った。ヴァドルが深く息を吐いた。
「何故、そのように確信を持って言えるのか」
 今度はロルフが追求する番であった。
「緑目殿の島に寄宿して、たかだか二年の身ではありますが、私はサムル殿の評判も素行も存じております。遠征も共に致しました。同じ船です。それ故に、気性も存じておりますし、同じ乗り組みの方々がどのように思っていらっしゃるかも、承知しているつもりではおります」
 遠征で同じ船に乗り組んだというのは、大きかった。ひと月以上も寝食を共にし、互いに背を預けて戦うのだから、その人となりも分かろう。特に詩人は耳が良い。
「現に――」詩人は続けた。「現に、此度(こたび)の乗り組みは、一度はサムル殿と窮地を共にした事のある方々ばかりでございます。烏滸がましくは存じますが、皆のあの方に対する、信頼の証であると言わせて頂きましょう」

「全くもって、難儀な事ですな」
 詩人が下がると、ヴァドルが言った。その眉は寄せられ、深い皺を刻んでいた。
 ロルフも唸った。
 生まれ云々を別にすれば、サムルは最も相応しい男に思われた。戦いを共に潜り抜けて来た者の支持は、信頼に足る。それが同年輩であれ、年下であれ、変わらない。年上の口添え人達は殊更その事には触れなかったが、求婚という場にあってさえ喧伝せぬのを美徳とするのか。
 アスヴァルドやケネヴの随伴の者達は、口々に自分達が推薦する者の事を褒め称えた。普段の行いから遠征での活躍まで、あらゆる面を。サムルは、なのに、男達が誇る遠征を評価に加えぬというのか。
 遠征時に中つ海で捕えた者は奴隷として連れ帰られるか、帰還の途中で交易島で売られるかだ。母親が奴隷であったという事から、遠征の話題を忌避するのか。
「しかし、ウーリックは、サムル殿が貴方の後ろ盾を必要としている事も隠しませんでしたね」
 口添え人は、不利な事は言わないものである。また、それは、相続についてサムルが重大な問題を抱えているという事でもある。
 サムルには、エリスをどうしても手に入れたい事情がある。
 詩人は、それを認めた。他の者も、知っているだろう。敢えて口に出さないのは、偽りを述べるのとは違う。推奨されはしないが、非難される謂れにはならない。アスヴァルドの冷淡さや他人に対する無関心、ケネヴの激しやすさを黙っている事と差はない。認めた分だけ不利にはなろうが、詩人が口を滑らせたとは思えなかった。全員の共通認識であるか、サムル自身が公言して憚らぬかのどちらかだろう。
 皆に触れて回る程の痴れ者とは思えない。
 恐らく、サムルが相続権の問題を抱えているのは、あの島の人間にとり、殊更口にするまでもない自明の事なのだろう。正式な文書が交わされているにも関わらず、サムルの地位が盤石ではない事も、ウーリックは認めた。
 自分達が詩人の言葉に幻惑されてはいないのは、明らかであった。互いに目配せし、自分が術中に嵌ってはいないか確認し合った。その事にウーリックが気付いていようとも構わなかった。自分達が警戒している事を見せるのは、牽制になる。
「ソルハル殿は、捨て台詞に奴隷の子には奴隷の子が似合う、と仰言っていたそうですが、その事がエリス様を傷付ける事になりませんかね」
 ソルハル。あの男の事は考えたくはなかった。それに、敬称を付ける必要もないと、ロルフは内心で毒づいた。
 中つ海のあの女は、ロルフにとっても奴隷だった。だが、正妻の座に就けたからには、その子供達はロルフの子としてそれなりの処遇を受けるべきであった。面倒な手続きは婚礼の後に済ませた。ヴァドルの了解の下、あの女はオルトの養女として登録されている。正式に認められたものである事も確認済みだ。ソルハルのような若造にそれが分かっていたとは思えない。法では、あの女は北海人としての権利を有している。
 一応は。
 ただ、それをロルフが認めてはいないというに過ぎない。そもそも、北海の法を知らぬであろうあの女を、認める必要があるとは思えなかった。あの女は領主の娘であったのかもしれないが、ここでは自由民ですらない。
 法の場に出る事があれば、あの女も北海の女と同じ権利を持つ。しかし、その危惧はなかった。あの女が法を知っているとは思えなかったし、例え知っていても、ロルフを訴えてどうするというのか。裁くのは、ロルフである。
 しかし、サムルの母親は、権利をも有さない奴隷であった。如何にヴェステインに正妻がおらぬとも、奴隷の子が嫡子と認められるのは特別な事だ。サムルは、その特殊な例である。子供の頃に余程、利発であったのか、勇敢であったのか、その辺りの事情はロルフには分からない。ただ、ヴェステインの事はかねてより知っていたが、子がいるとは思いもしなかった。自分の事は何も話さない、無口な男であった。緑目が弟に妻のない事を嘆きはしても、誰かをという話にまで発展はしなかったのが思い出された。
 それは、既にサムルの母親の存在があったからか。
 ロルフは深く息を吐いた。
 ヴェステインは、その女奴隷を愛していたのか。そうならば、何故、解放せずに放置していたのか。解放し、誰かの養女にして娶れば、何の問題もなかったはずである。解放奴隷を養女とするのを快しとする者は少ないだろうが、銀と恩とで解決ができよう。ヴェステイン程の男に恩を売れるとなれば、肯首せぬ者がいないとは思えなかった。
 ウーリックは、サムルは何があってもエリスとその子を守ると言った。大きな事だ。なかなか、そうは断言できないものである。遠征を共にしたという信頼が、そこにはあるのだろう。勇敢な正戦士である事を疑う余地はなさそうであった。
 しかし、今日の内には決断しなくてはならない。
 明日は、エリスの婚約を発表する事を三人には話していた。それを違える訳にはいかない。
 ヴァドルは深い物思いに(ふけ)っている。二人で、話し合わなくてはならない。長くなるだろうが、娘の、エリスの幸せを思えばこそであった。
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