第2章・追跡

文字数 7,085文字

 ロルフは広場に急いだ。そこへと到るまでには市場を通らねばならなかったが、人にぶつかろうと気にも留めなかった。相手も、北海人だと分かると黙ってやり過ごした。
 幼い子供達がどんな問題に巻き込まれたのかは分からない。だが、早く行ってやらねばという思いだけで身体が動いていた。如何にこの島に慣れた娘が共にいようとも、娘は娘だ。戦士ではない。同じように対応できるものではないだろう。
 こんなにも広場は港から遠かっただろうか。
 人並みを泳ぐかのようにロルフは思った。足を前に運んでも、なかなか前へと進まない。
 ようやく着いた広場には、人だかりができていた。
 不吉な思いを振り払いながら、ロルフはそこへ近付いた。
 人垣を掻き分けて前に出ると、目に入ったのは大量の血だった。
 その先には、布を掛けられた人の形をしたものがあった。
 一つは大きい――布の下からは金色の長い髪が見えている。女だ。
 その傍らの二つは小さかった。
 ロルフは脚の力が抜けるのを感じた。そして、その場に座り込んでしまった。這うようにして近付き、二つの小さな塊を隠している布を震える手で上げた。
 身体も震えた。
 そこには、エリタスとヴェリフがいた。
 二人は互いをかばい合うかのような姿だった。その顔は眠っているようでもあったが、顔についた血がそうではないと語っていた。
「ルナ…」
 ロルフの横で、アスラクがやはり、膝を付いた格好で女の布をめくり上げていた。
「何が、あった」
 誰に言うともなく、ロルフは言った。
「この交易島で、武器を振るうなど、何が、あった」
 子供達の剣には和平の紐が掛けられたままになっていた。
「しかも、女子供を――このように」
 人々がざわついた。ロルフはもう一度、同じ事を繰り返した。ざわめきが更に大きくなった。
「ロルフ殿」港の係官がやって来た。「私が聞いた話で良ければ、お話ししよう」
「偽りはいらん。真実を語るのならば」
 係官は頷いた。
「誓って」
「では、話して貰おう」
 係官の顔は相変わらず厳しかった。
「見た者の話によると、どこかの船の護衛が、その娘に声を掛けたそうだ。そして、銀を見せたらしい。だが、娘は相手にせず、立ち去ろうとしたところを男が腕を引いたという。それを子供達が制したが、相手は相当、酔っていたらしい、二人を怒鳴りつけると剣を抜く真似をして脅したそうだ。それでも子供達は後に引かず、男は和平の紐を切って切りかかったと聞く」
「娘は娼婦ではない」
 アスラクが涙声で言った。
「相手が先に和平の紐を切ったのだな」
「そう聞いた。現に子供達の剣には紐が掛かっているしな」
 ロルフは唇を噛んだ。
 優しい子供達だった。アスラクの娘が乱暴されようとしているのを止めようとしたのだろう。
 自慢の子供達だった。挑発されても和平の紐は切らなかった。
 だった、という言葉が、ロルフの胸を抉った。
「その殺人者は何処へ行った」
 ロルフは絞り出すような声で言った。
「仲間が連れて行ったらしい。その後の事はわからん」
「その男は交易島の法を犯した。何としても見つけ出せ」
「申し訳ないが」係官は言った。「我々は中立だ。殺人者は既に逃げた。そこからの個々の争いは自分達で解決して頂きたい」
 ロルフは拳を握り締めた。
 幼い子と女を切るような者を、この島の者は見逃すというのか。それでは、何の為の法なのか。自分達でどうせよと言うのだ。誰も殺人者の居場所は教えようとはせぬというのに。守った側が不利益になるような法とは、一体、何なのだろうか。
「では、我々がその殺人者を見付け出して殺しても、文句はないという事だな」
「それは、困る」
 係官は顔をしかめた。「交易島の中でそういう報復めいた事をされるのは、こちらとしても困る」
「それならば、殺人者を差し出せ」
「族長」
 アスラクが言った。「我々で探し出す他はありません。それが、この島の法でもあるのです。ですから、すぐに港へ戻りましょう。奴はきっと、逃げ出します。どうか、ルナの、娘の仇を――」
 ロルフは頷いた。アスラクの言う事が、恐らくは正しい。ここで港の係官と言い合っていても殺人者は見付からない。
「娘子の亡骸を運べ」ロルフは自分を追って来た部下に命じた。「そしてすぐに船に戻れ」
 二人の亡骸を再び布にくるみ、ロルフはそれを持ち上げた。
 軽い。
 子供とは言え、二人分だ。それなのに、とても軽かった。生きていた時の半分にしか感じられなかった。
 それが、魂の、生命の重さなのか。
 ロルフは二人を抱き締めた。知らず、涙がこぼれた。
 何もかも失ってしまった。
 エリシフも、子供達も。
 後は殺人者に復讐するのみだ。だが、その後には何が残されているというのか。愛する者達は全て、この世を去ってしまったというのに。

 港では皆が不安そうな顔付きで待っていた。
 ロルフが船に乗り、舳先に大事に抱えていた二人の亡骸を下ろすと、皆は何事かを察したようだった。誰もが沈黙した。
「ヴァドル」ロルフは船長を呼んだ。
「すぐに港を調べろ。和平の紐を切った男が乗った船を探せ。返り血も浴びているはずだ」
 男達が弾かれたように立ち上がった。例え酔っていたにせよ、それは霧散してしまったようだった。
 船上から人がいなくなると、ロルフは再び布を上げて我が子の顔を見た。最後に見たのは二日前の事だった。満面の笑みをたたえてアスラクの荷馬車に乗っていた。どうして、手許に置いておかなかったのだろうか。邪魔だと分かってはいても、大人の仕事を見るのも子供の将来には役に立ったはずだ。なぜ、あの時行かせてしまったのだろうか。
 答えない二人の顔は、やはり最後に見たエリシフにそっくりだった。二度までもエリシフを失ってしまったような気持ちになった。最早、その面影を宿す者は何処にもいない。
 まだ七歳と五歳だった。
 世の中の何を、この子達が知ったというのだろうか。世の中に何を、為したというのだろうか。まだ遠征とも縁遠かった。エリタスは自分の跡を継ぐはずの長子だった。ヴェリフはそれを補佐する役目を担うはずだった。だが、そのような日はもう、来ない。永遠に。
 二人の乱れた髪を手で梳いてやった。自分に良く似た、黄金色の絹糸のような髪だ。喉から嗚咽が漏れそうになるのを何とかこらえた。ロルフは族長だった。族長とは強き者。決して、弱味を他人の前では見せてはならない。
 やがて、部下の一人が駆け戻って来た。
「今、殺人者を乗せた船が出たようです」
 その言葉に、ロルフは立ち上がった。
「すぐに全員を集めろ。跡を追う」
 哀しんでいる暇はなかった。皆の集まるのは早かった。積荷船も同時に出発する。停泊料も何も知った事ではなかった。相手を逃がさぬ方が先だ。
 海に目をやると、一隻の船がもう潮時を逃したというのに出て行った。風を帆にはらみ、ぐんぐんと遠ざかる。
「あの船を追え」
 ロルフは命じた。
「あの船だ」
「了解しました」
 船長は言った。

 かなりの距離を開けられていた為、如何に船脚の速い竜頭船でも追い付くことは難しかった。だが、徐々にではあったが、その距離は近付いて来ていた。ただ心配なのは、夕刻までに追い付けるかどうかだった。陽が落ちてどこかの入り江に避難でもされれば、土地勘のないこちらは絶対的に不利だ。
「夕刻までに捕まえろ」
 ロルフは怒鳴った。
 積荷船は船脚が遅い為に引き離されて行くが、ロルフは気にも留めなかった。航跡を追って来れば何とかなるものだ。それよりも今は、前を行く中つ海の船に追い付く事が先だった。
 追い付いてからどうするのかという考えは、ロルフの中にはなかった。ただ、殺人者にはその生命で代償を支払わせねばという思いだけであった。正当な裁きを交易島が下さぬのであれば、北海の法が殺人者を裁く。
 中つ海の船は、やはりやましい所があるのだろう、ロルフの船を振り切ろうと必死で舵を切ってるように見えた。上陸する前に捕まえなくてはならない。上陸されてしまえば、中つ海の人々は殺人者を隠してしまうだろう。それだけは許せなかった。年端も行かぬ二人の子を殺しておきながら、悠々とその後の人生を生きる事は許しがたかった。
 ロルフは長剣の柄に手を置いた。和平の紐を解く。
 見付けたら、和平の紐も関係ない。ここは海上だ。確かに中つ海かもしれないが、強者の法が物を言う世界だ。
 ぐうっと舵が切られた。船長は舵取りの許で指示を出している。船の事は任せておいても大丈夫だ。
 距離を詰めながらも、ロルフの頭の中には復讐の事で一杯だった。殺人者の血を見るまでは、それは治まりそうになかった。殺さなくては気が済まなかった。それが北海の法でもあったし、ロルフの望みであった。
 やがて、中つ海の船に竜頭船は追い付いた。船縁は高かったが、手鉤を投げて相手の船を捕まえた。向こうは抵抗する素振りはなかった。抵抗すればどう言う目に合うかは、良く知っているのだろう。
 ロルフは真っ先に手鉤の綱を渡ろうとしたが、それは部下に止められた。最初に族長が行くのは罠の可能性がある以上は危険だ、と。罠が仕掛けられているとはロルフには思えなかった。そのような事をしても、軍船と商用船とではどだい戦える人数が違う。ロルフの船の乗組員は全員、戦士だ。鎖帷子を着けてはいなくとも、戦いにかけては玄人だ。相手の船は北海人を殺したというので慌てて逃げるような者達だ。戦いには慣れてはいないとロルフは踏んでいた。
 取り敢えず、部下を三人、送った。
 暫くすると、その内の一人が舷側から姿を見せて頷いた。
 ロルフは相手の船に乗り込んだ。
 先に送り込んだ三人によって、乗組員は艫に集められていた。どの顔も暗く沈んでいた。
「殺人者を差し出せ」
 ロルフはそれだけ言った。
 だが、誰も動こうとはしなかった。
「この中に、殺人者がいることは分かっている、さっさと差し出せ」
 無反応な者達に苛つきながら、ロルフはもう一度言った。
「一人一人の服と剣を検めろ」
 ロルフは部下に命じた。そして、部下達が乗組員の中から武器を携帯している者を選び出し、それを検め始めた。
 結果は、すぐに出た。
 一人の男の長剣には、まだ血がこびり付き、濃い藍色の服にも血の跡があった。
 部下はその男をロルフの前に引き出した。
 この男が。
 ロルフはその男をじっくりと見た。
 茶色の髪と目の男で、口髭を生やしていた。体格は中つ海の者としては良い方だろう。だが、態度は堂々としている訳でも脅えきっている訳でもない、中途半端なものだった。
「犬を切ったとは言わせんぞ」ロルフは男の剣を渡されて言った。「犬を切ったところで、交易島の法を犯したことに変わりはないがな」
 どうしてくれようか、と思った。この男一人を殺すのでは、とても三人分の生命には値しない。
「お前には家族がいるのか」
 ロルフが訊ねると、男は頷いた。
「では、その家族とやらの許へ向かおうではないか。家族の血で支払って貰おうか」
 家族を殺せば、この男に同じだけの哀しみと衝撃を与える事ができるだろうか。
 ロルフは戦士と思しき者達を帆柱に括り付けさせた。他の乗組員は解放する。そして、数人の部下を呼ぶと、この船を監視下に置かせた。
「お前達の港へ案内しろ」ロルフは船の船長に言った。「変な気は起こすな」
 中つ海の船長はがくがくと頷いた。

 そこからは二隻が連なっての旅だった。積荷船も追い付き、三隻は共に港を目指した。
 ロルフは自分の船に戻った。一時でも子供達の側を離れたくはなかった。離れてしまったが為に、このような事態に巻き込まれてしまったのだ、今度目を離すとどうなるのか知れたものではないという恐怖感が、ロルフには生まれてた。
 夕刻には、船は港に着いた。
 交易島以外の中つ海の港は初めてだった。見た目は交易島とそうは変わらない。万が一に備えて、港の見える位置に停泊して夜を過ごす事にした。港からは竜頭船と積荷船を隠すような格好で停泊した。船の乗組員は全員、縛り上げ、戦士と共に帆柱に括り付けさせた。交代で見張りをたて、何があっても逃げ出させないようにした。
 灯火はなく、月明かりの下で、ロルフは子供達の顔から血を拭き取ってやった。柔らかな頬は赤ん坊の頃と変わらなかったが、最早、薔薇色に染まることもなく、冷たくなっていた。
 良く似た兄弟だった。髪や目の色はロルフから受け継いでいたが、顔立ちはエリシフのものだった。成長すればどれほど美しい青年になっていただろうと思わずにはいられなかった。だが、少年達の未来は永遠に閉ざされてしまった。これ以上は成長する事はないのだ。
 静かに、ロルフは涙を流した。どれほど、この子達を愛していた事だろう。自分の生命を投げ出せばこの子達が生き返るのだとすれば、躊躇わずにそうしただろう。だが、それは有り得ない事だった。美しい眠っているかのような死に顔は、エリシフと全く同じだった。疲れたから少し眠るわ、言ったエリシフは、そのまま目を醒す事はなかった。今は三人で神々の国にいて再会を喜んでいるのだろうか。ロルフ一人をこの世に残して――
 明日には、船を港に着ける。そこで何を為そうとしているのか、ロルフは自分でも分かってはいなかった。ただ、あの男の家族が現われぬ場合、死は確実にあの男に落ちるであろう。だが、それでも一人分だ。あと二人分の生命を償わせねばならない。あの殺人者一人ではアスラクの娘の分にしかならぬであろう。
 港には領主がいるのだと、ロルフは聞いた事があった。では、明日は、その領主の許へ行って賠償を請求するのが一番だろう。こちらは後継ぎを二人とも失った。領主もそれに見合うだけの損失を覚悟するべきだろう。配下の者の為した事を知らぬとは言わせぬつもりだった。領主ならば、責任がある。族長が部族の全てに責任を持つように。
「ロルフ殿」ヴァドルが声を掛けて来た。「あの殺人者についてですが――」
 躊躇うような口調がそこにはあった。
「話せ」
「家族とは言っても、いるのは老いた両親のみのようです」この男はロルフの乳兄弟だけあって、その心の動きにまで敏感だ。「港から上った所にある城砦に領主がいるそうです。あの船は、領主の命で交易島に来ていたものです」
 では、領主にこの代償を支払わせるのが適当という事か。
「領主にはエリタス殿とそう変わらぬ歳の後継ぎがいるそうです」
 ロルフは笑いそうになった。
 領主にエリタスと同じくらいの歳の跡取りがいる。
 これ程好都合な代償はないだろう。領主も跡取りを失えば良いのだ。そうすれば、この痛みも少しは和らぐかもしれない。
「その話は確かか」
「あちらの船長との話です。偽りを言っても得はありませんでしょう」
 ヴァドルの言う通りだろう。虚偽を口にしたところで、助かるか助からないかはロルフの胸の中だ。それならば、正直に言った方がまだしも生き残れる可能性はあるというものだ。
「なら、明日は殺人者と船長を連れて領主の城砦へ行く」ロルフは言った。「随行に適当な人数を選んでくれ」
 ヴァドルは(こうべ)を垂れた。
 船長が行くと、ロルフは子供達の亡骸の傍らで横になった。
 眠れるとは思わなかったが、そうして星や月を見ていると、二人とこの船旅に出た時の事を思い出すのだった。二人とも興奮して寝付けない様子だったのを、麦芽酒を飲ませ、満天の星を見ながら様々な話をしたものだった。そう、二人の母エリシフについても話した。ヴェリフは唯論の事、エリタスももう、母親の事は殆ど憶えてはいなかった。それを哀しくも寂しくも思ったものであったが、二人は、母親がいないのが当たり前になってしまっており、そのようには感じてはいないようだった。今では、思い切り母親に甘えている事だろう。
 何度も何度も、その顔を確かめたくなり、身体を抱き締めたくなった。ひょっとするとまだ、息があるのではないかと思う事もあった。だが、確かに二人は事切れていたし、その生命は戻る事はない。
 北海の男らしく、北海の女を守って死んだのだ。手に抜き身の武器はなかったとしても、大神は幼い子らの勇気を讃えられるであろう。その高座の横に、愛で賜う。
 そして、自分は一人この世に残された。
 愛する者達は全て大神の許へと召されたというのに、自分はまだまだ、この世で為すべき事があるという事なのだろうか。確かに、後継ぎのないままにして置くことはできない。せめて、血縁の中からでも次の族長を決めねばならなかった。それが終われば、自分もお召しがあるかもしれない。
 ロルフは子供達の亡骸を見やった。布に包まれてその顔は見えなかったが、ロルフにははっきりと見える気がした。
 父は、必ずやお前達の仇を討ってやるぞ。
 ロルフは思った。明日は城砦で領主に目通りする。こちらは船長や戦士といった人質を連れている。否応もあるまい。そして、その目の前であの殺人者の喉を掻き切ってやる。その後で、領主の跡取りだ。子供だとて躊躇う筋合いはない。それで相殺と言う訳にも行かない。それでようやく二人分。もう一人分は、賠償財で賄う他はないだろう。それでアスラクの心が安らぐというものでもない事は、ロルフが一番良く知っている。だが、恐らく、他に解決策はなかろう。唯論、領主にもう一人男子がいれば別だ。その子が赤子であろうとも、その生命で償って貰うしかあるまい。北海人の恐ろしさを思い知らせてやろう。血讐の凄まじさを知らしめてやろう。
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