第1章・交易島

文字数 7,334文字

「父上、あれが交易島ですか」
 舳先で島を見付けてはしゃぐ子供達に目を細め、白鷹ロルフは交易島を見た。
 子供達にとっては、初めての船旅だ。七歳と五歳になる息子達はロルフの自慢だった。子供達の母は亡くなって久しかったが、二人は共に美しかった妻の面影を宿していた。
 エリシフ――亡くした妻の事を思うと、今でも胸が痛んだ。ロルフが惚れ込み、互いに結婚できる年齢を待ちわびて一緒になった女だった。北海の女にしては線が細く儚げであったエリシフに、周りは健康な子が望めないのではないかと言ったものだった。だが、二人は健康に育っている。その代わりに神々はエリシフの魂を望まれた。
「そうだ、あれが、交易島だ」ロルフは息子達に笑いかけた。「余り身を乗り出しすぎるな、落ちるぞ」
 年長のエリタスがヴェリフの服を引っ張った。二人は顔を見合わせてくすくすと笑った。ロルフ譲りの黄金色の髪が揺れる。
 笑っていると、本当に良くエリシフに似ている、とロルフは思った。毎年は島に置いて来るのだが、今年は連れて来て良かったと思った。
 夏の交易の季節に、商人達への品物の補充と買い出しに毎年交易島を訪れる事になっていた。幼い二人だったが、連れて行って欲しいとの願いを、今年は無下にすることができなかった。他の島の族長達も小さな息子を伴って交易島を訪うことがある。それを目にしていただけに、ロルフは二人を連れて来て正解であったと思った。交易島には、商人達の子供もいる。殆どはもう十代なので、遊び相手と言うよりはよい子守になるだろう。
 交易島には中つ海の者達も多い。夏の終わりには、北海の者はこぞって中つ海の領地を襲いに行く。冬の食糧の為だ。交易島で夏の間にまかなう分だけではどうしても足りぬ冬もある。その為、交易島で出会う中つ海の者に、北海の者は余りよい顔をされない。だが、交易島は中立の地だ。互いに決して剣を抜いてはならないという規則がある。だからこそ、安心して子供を連れて行くことが出来るのだ。それは、家族を伴って夏中交易島に留まる商人達にしたところで同じである。
「港に付けても、すぐには降りるな」ロルフは息子達に言った。「交易島の者が査察に来るまでは、上陸はお預けだ」
 がっかりしたような顔に二人はなった。すぐにでも上陸して島を探検したくてうずうずとしているのだろう。ロルフにも覚えのある事だったからよく分かる。だが、規則は子供でも守らねばならない。子供とはいえ、二人は佩刀している。その柄に和平の紐がしっかりと掛けられていることを、ロルフは確認した。まだ小太刀だが、人を殺すことは出来る。子供だからと許されるほど甘い世界ではない。それならば最初から佩刀させない方がましだ。だが、それでは子供達の矜持が許すまい。竜頭船に乗り、外洋に出たというだけでも、二人はもう、一人前の大人扱いされることを望んでいる。だからこそ、ロルフは佩刀を許した。
「規則を守るのも、大人だ」
 ロルフは言った。
 可愛い息子達だが、その辺りはきちんと躾けておかなくてはならない。亡くした愛しい妻に似ているからと言って、甘いだけの父親ではなかった。
 その言葉に、二人ははっきりと頷いた。物わかりが良い。そう言った点でも、二人はエリシフに似ていた。子犬のようにじゃれ合うような喧嘩をする事はあっても、決して深刻な事にはならない。二人とも根が穏やかで、年長のエリタスは面倒見も良かった。長く患っていた母親に甘える事もなく、二人はいつも一緒にいた。
 後五年もすれば、エリタスは見習い戦士だ。ロルフはそれが待ち遠しかった。木剣で二人の相手をするのも楽しかったが、やはり、見習いになるというのはまた違った楽しみがあった。
 人はロルフに後妻を娶るように薦めるが、そのような気持ちはなかった。エリシフのような女は二人といない。それ以上の女がいれば考えもしようと言うと、皆、結局は黙り込む。エリシフ以上の女は、島にはいない。族長集会で他の島に渡って女を紹介されても、それは同じだった。美しいだけではなく、優しくたおやかであったエリシフ。確かに、難産の末にヴェリフを産んだ後は臥せっていた。そして、結局は回復せぬままに儚くなった。それはヴェリフのせいでも誰のせいでもなかったとロルフは思っていた。ただ、神々が余りにもエリシフを愛で賜うが為に起こった事なのだ。そして、いつでも神々の国からエリシフは自分達を見守ってくれると思った。現に、今回の船旅は順調だった。嵐に遭うこともなく、凪に摑まることもなかった。
 港が見えてくると、男達に帆を畳むよう指示した。ここからは櫂で行く。
 二人の子供達は、目を輝かせて港が近付いて来るのを見ていた。客分の二人は、本来ならば艫にいた方が邪魔にはならない。だが、父が自分にそうしてくれたように、ロルフも子供達が舳先に上るのを許した。
 桟橋にいる港の者から綱が投げられ、誰かがそれを受け取った。そして、竜頭に括り付ける。
 反対側に積荷船も付けられた。
 厳めしい顔の係官が二人、船に近付いて来た。
「北の族長、白鷹のロルフだ」ロルフは名乗った。「積荷船と二隻。積荷は交易品だ」
「白鷹のロルフ殿、ようこそ交易島に」にこりともせずに男の一人が言った。「早速だが、検めさせて頂こう」
 男達は船に乗り込んで来た。子供が乗り込んでいるのを見ても表情一つ変えなかった。北海の者が子供を連れて来るのは珍しい事ではないからだろう。船長は防水の羊毛を被せた荷物を二人に示した。それが終わると、乗組員達の長剣を検め始めた。きちんと和平の紐が掛けられているのかを見ているのだ。最後にロルフが自分の長剣を見せた。北海の戦士ならば誰もが身に着けている鍔のない片刃の小太刀(スクラマサクス)と短剣は、長櫃の中にしまっていた。ここでは、そうせねばならない。他の者達もそうだ。
「子供も剣を持っているならば、それも検めさせていただきたい」
 係官は二人の腰の物に気付いて言った。
 ロルフは二人に頷いてみせた。大人しく、子供達は自分の小太刀を見せた。
「では、積荷船を検めよう」
 そう言うと二人は船を下りた。
「族長の父上に失礼な」
 エリタスが憤慨したように言った。だが、ここは交易島だ。係官の機嫌一つで上陸が適うかどうかが決まる。停泊料も納めねばならないが、それも係官の胸先三寸だと聞いた憶えがあった。
 積荷船にも当然ながら問題はなく、船長が停泊料を払った。予定では明日には出港だが、こればかりは商売の具合でどうなるか分からない。
「さ、もう下船しても良いぞ」
 ロルフが言うと、二人は競い合うようにして船を下りた。
 積荷船からは荷物が下ろされ始めていた。同時に、島の商人の所に使いが走る。
「邪魔にならぬようにしろよ。それと、勝手にうろつき回るな」
 中つ海の事を学び始めて日の浅い二人を自由にさせる訳にはいかなかった。
 積荷船の船長と二人で話し合わなくてはならない事もあった。交易島に着いたからには、ロルフのやらねばならない事は多い。正直、子供達にかまっている時間はないだろう。父もそうだった。
 父の跡を継いで三年、ロルフはようやく、族長という地位に慣れた。七部族の中では最も若かったが、集会で自由に発言をする事もできるようなった。エリシフに族長となった姿を見せる事が叶わなかったのは残念であったが、神々の御座(みくら)の側で見守っていてくれるのならば、と思った。
 全ての荷が下ろされたところに、交易島で商売をしている商人が荷馬車でやって来た。
「族長、お久しぶりでございます」
 商人――アスラクは頭を下げた。ロルフはそれに軽く頷き返した。
「最初に持って行った荷は、どうだ」
「例年通り、南溟の商人がほぼ買い占めて行きました。もう、殆ど残ってはおりません。これだけあれば」と積荷を指した。「帰るまでもちましょう」
「今年の値付けはどうだ」
「例年並み、というところでしょうか。まあ、もとが中つ海よりも高値で取り引きの出来るところですから」
 それ以上欲張っても何ですから、という事を言外に匂わせた。そして、ロルフに売り上げの取り分を渡した。革袋はずっしりと重く、商売が上手く行っている事を示していた。
 南溟の商人に北海の産物は人気がある。特に毛皮や鯨、鯱の骨細工は高値で取り引きされる。こちらは逆に南溟の香料や絹を買う。
「今回は息子達を連れて来た」
「エリタス様とヴェリフ様ですね。うちの娘で宜しければ、お世話を致します」
「娘子は幾つであったかな」
「十六になりました」
 それならば、子守としても充分であろう。ロルフは頷いた。
「ご出航は、明日で」
「予定はな」
「それでは、一晩、お子達を預からせて頂きます」
 許より、ロルフはそのつもりであった。
 二人の子供を呼び寄せると、荷馬車に乗るように言った。
「父上は、どうなさるのですか」
 エリタスが無邪気に訊いてきた。
「仕事だ。明日の朝、ここで落ち合う」
 ロルフの言葉に、子供達はがっかりしたようだった。だが、仕事に年端もいかぬ子供を連れて行く訳にはいかない。
「アスラクの娘の言う事を良く聞くのだぞ。それと、他の北海からの商人の子と遊んでも構わないからな」
 遊びたい盛りの子供には、こちらも効いたようだった。二人は顔を見合わせて笑った。
 子供達を見送ると、ロルフは早速、積荷船の船長と合流した。
「後、二往復というところでしょうかね」
 船長は言った。島からごっそりと物品を持って来たのだ。そのくらいはかかるだろう。
 帰り船に必要なのは春の収穫で集まった穀物と、武器にする鋼だ。後の物はアスラクが仕入れて冬の始めに持って帰ってくるだろう。遠征の終わりに手に入れるであろう物を合わせれば、それで充分に間に合う計算にはなっていた。その他に細々とした各自の買い物はあったが、これは今日の内に済ませるだろう。
「後は任せて、我々は取引所へ向かおう」
 取引所では、様々な物が並べられている。交易島では手に入らぬ物はないと言われる所以だ。穀物は当然の事として、奴隷や武器、南溟の香辛料までもがある。その中で特に北海の者が欲しがるのが穀物と武器にする為の鋼である。穀物は相場により値が上下する為、思う程に手に入らぬ時もある。だが、鋼は見る目さえあれば誰でも手に入れる事ができる。その為に鍛冶屋も同行させているのだ。
 交易島は中立だ。それ故に、北海の者にも武器にする為の鋼を売ることを躊躇わない。交易島の旗さえ掲げてさえいれば、襲われないと知っているからだ。それどころか、北海の者が遠征で手に入れた物品と知っていてさえ、買い取りもする。その由来は問われない。アスラクのような者が、その窓口を知っている。
 それを狡いと言う者もいるだろう。だが、ロルフはそうは思わなかった。誰しも、生き残る事に必死なのだ。先の事は北海と交易島との密約であるが、中つ海と交易島とが何らかの密約を交わしていたとしても、それはそれで仕方のない事だと思っていた。北海と中つ海の中間に位置する交易島には、それなりの生き残る術が必要なのだ。それは完全な中立だけで保てるものではあるまい。
 後の事は竜頭船の船長ヴァドルに任せ、三人は連れ立って取引所に向かった。
 そこまでの道々にある市場も賑わっていたが、取引所には及ばなかった。ここでは大きな取り引きが倉庫や広場で行われる。南溟からの不思議な服装や肌の色の男達も多い。全体的に暗い色の髪の者が多い交易島では、ロルフのような黄金色の髪は目立つ。また、青い眼も、体格の良さも北海人であることを物語っていた。見渡したところ、他に北海人の姿はないようだった。
 広場では奴隷が売りに出されていた。今回の航海では奴隷は必要なかった。前回の遠征で充分な数が確保できた事と、この冬がそれほど厳しくなかった事によるものが大きい。とにかく人間は、積荷船に乗せるにしても竜頭船に乗せるにしても厄介な代物である事には間違いがない。今回、必要ないのは幸いだった。
 ロルフ達は目的の穀物の取引所まで来たが、そこは騒然としていた。いつもの賑わいとは、何かが違った。
「様子を見てきましょう」
 積荷船の船長がそう言って倉庫の方へと急いだ。ややあって戻ったその顔は曇っていた。
「どうやら、穀物船の到着が遅れているようです」
 良い知らせではなかった。それは、今回の穀物の値が上がる事を意味していた。
「先に鋼を買いますか」
 船長が提案してきた。
 その方が良さそうだった。この分ではいつ取引所が開くのか分からなかった。
 鋼の買い物はそれほど時間の掛かるものではなかった。鋼の塊は重かったが、それでも、充分な仕入れが出来た。どういう訳か、同じ鋼を使っていても中つ海と北海では剣の出来が全く異なる。断然、質が良いのは北海の物だ。戦いで負けた相手が武器を落としても、北海の戦士は見向きもしないほどに、それは違っていた。その功績は全て鍛冶屋にあるだろう。
「今日はとにかく、取引所は開かないだろうな」
 ロルフは船長に言った。「何か、他に情報はなかったか」
「明日には到着するのではないかとの事でしたが、はっきりとは致しません。何しろ、海の事ですから」
 一旦、三人は船に引き返した。そこには既に荷はなく、乗組員達も殆どが上陸していた。船にいるのは数人の見張りと船長だけだった。
「お子達はどうされますか。明日、こちらに来られるのでしょう。このままでは、暫く逗留する事になりかねませんが」
 ヴァドルの言葉に、ロルフは内心、唸った。余り子供達と離れているのは好かなかった。だが、ここに置いていても退屈するだろう。鍛冶屋を呼んで、アスラクの店に伝言を持たせた。仕事が長引くので、暫くアスラクの許にいるように、と。
 それからロルフとヴァドルは、アスラクから受け取った分の金銀の重さを確かめた。持参した分と合わせると結構な額にはなるが、穀物船がどの位の量を運んで来るのかにもよって買い付けできる量は決まってしまう。取引所の前で待つ員数の多さを考えると、今回の分は高騰する恐れがあった。不作とは限らないだろうが、穀物の取り引きは交易島が一手に引き受けている。ここに荷が届かない以上は仕方がなかった。
 取り引きが成立するまでの間、乗組員達は広場で飲んだくれている事になるのだろうが、問題さえ起こさなければどれほど酔っ払おうともロルフは気にしなかった。そんな連中は中つ海にもいる。船で待つだけの身は何かと退屈なものだ。見張りでさえ、遊戯盤を囲み、骰子を振ったりしている。交易島で揉め事を起こしそうな輩は、取引きの為の航海に最初から連れては来ない。
 遠征は別だ。遠征は、全ての戦士を連れてここに立ち寄る。一息つく為でもあるし、物品を売る為でもある。どのみち、一晩しかいないのだ。揉め事を起こす暇もない。それに、ロルフの怒りの凄まじさを知っている者達だ、余計な手間は掛けさせない。
 普段は快活なロルフであったが、子供の頃はその怒りにまかせての行動がかなり問題視された。父の根気強い教えとエリシフとが、その怒りを制御する術を教えてくれた。今では滅多に怒ることはないが、それでも皆は昔を思ってか未だにロルフの怒りを恐れる。
 港に船は多かった。中には南溟の船も見えたが、ロルフはそれには興味がなかった。南溟とは商売も上手く行っている。奇妙な人々だが、北海人を下に見ることもない。良好な関係だと言っても良いだろう。だが、中つ海は違う。最初から北海人を見下している。北海人の方も、中つ海の者には良い印象を持ってはいない。
「待つ身は退屈ですな」積荷船の船長が言った。「族長は上陸されないので」
「用は別にないからな」
 淋しい事に、エリシフに土産を買う必要もなかった。
「では蜜酒でも如何ですか。それとも、交易島ご自慢の葡萄酒の口ですか」
 ロルフは蜜酒を選んだ。

 翌日も穀物船は来なかった。アスラクによると、たまにこのような事態はあるのだと言う。だが、長く待つ訳にはいかなかった。待つ時間が長いほどに、値が高騰することは目に見えていた。ならば、遠征で不足分も補うまでだ。値を釣り上げた代償を支払わせるだけだ。
 三日目には出航の準備に取り掛かった。飲んだくれている者を広場で探すのはそれほどの手間ではなかったが、ちょっとしたいざこざはあった。和平の紐を長剣に掛けている為に、すぐには互いに武器を使う事はできない。だが、挑発に乗るのは愚かだった。
 港で酔い覚ましに水をかぶらせ、正気に戻す。外洋で帆走するまで正気でいれば良いのだから、楽なものだ。
 船長達は食糧と麦芽酒(エール)の樽を数えていた。食糧はともかく、水代わりの麦芽酒がなくては話にならない。数日の航海だが、男達にはそれしか楽しみがないのだから。凪や嵐で流された時の為に充分に積み込んであったはずだ。
 一応、朝早くから取引所に向かったが、結局は閉ざされたままだった。この分では絶望的だと判断して、島には鋼と染料とを仕入れて戻る事になった。アスラクの許にも使いをやって子供達を連れてくるように言ってあった。準備ができ次第、娘と共に船に来る手はずになっていた。
 だが、いくら待ってもアスラクは現われなかった。これでは潮時を逃してしまう、と思った時、血相を変えたアスラクが走ってきた。
「ロルフ殿、娘がこちらに伺ってはおりませんでしょうか」
「何を言う」胸騒ぎを感じながらロルフは言った。「こちらこそ、お前達を待ちわびていたのだぞ」
「娘が――お子達と共にいる娘が、戻りません」
 さっと血が下がるのをロルフは感じた。そんなはずはない。アスラクの娘は生まれた時から毎夏をこの島で過ごしている。迷子になろうはずがない。それに、よしんば二人の子供が迷子になったとしても、一人で探し続けるほどに愚かではあるまい。
「――どういう事だ」
「何か――何かが起こったとしか思えません」
 不吉な物言いは止めろ、と言おうとした時だった。港の係官が慌てた様子で二人の許へやって来た。
「先程、広場で北海人の子供二人と娘一人が――」
 ロルフは最後まで聞いてはいなかった。
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