第19章・日常

文字数 6,333文字

 船が交易島へ行ってしまうと、ティナはほっと一息ついた。本来ならばロルフがその指揮を執り、ティナとしてはもっと心穏やかに過ごせるはずであった。だが、子供達を亡くしてからというもの、ロルフがその島に足を踏み入れる事は決してない。この時期には、ロルフの心は穏やかではないのか、よく出掛ける。その理由は狩りであったり、他の集落への見回りであったりするのだが、それでも、館にロルフの姿がないとティナは落ち着いた。
 自分達二人の関係は一体、どうなっているのだろうかと思う事もあったが、それは心を煩わせる程の事でもなかった。子供達は順調に成長していたし、両親の関係がどのようなものであろうとも、表面上は穏やかである限りは落ち着いているようであった。
 エリスはお気に入りの詩人(バルド)が島を去ってしまってつまらなさそうであった。だが、詩人とはそういうものだった。決して一つ所にはいつかない。幼い内にそれを知るのも大切な事だとティナは思った。女の人生は場所に縛られている。そこでは出会いも別れも多いものだ。その事に馴れねばならない。まだ幼いが故に、エリスはすぐに詩人の事は忘れるであろう。
 それにしても、なぜ、今になってウーリックは去る事を決めたのだろうかと思う事もあった。ロルフは気に入りのウーリックを族長集会にも伴って行っていた。だが、その時には詩人は島を去らなかった。何か思うところがあって今の時期になったのかもしれなかったが、過去にティナが見て来た北海の詩人の動きとは少々異なってはいた。
 女の子はつまらないと愚痴を言い続けるエリスを宥めながら、ティナは館に戻った。そこではエリスの弟達が浜で船を見たかったのにとティナの裳にかじりついてきた。
「そんなことを言って、お母さまを困らせるものではありませんよ」
 オルトの言葉に、ロロもオラヴも手を放した。だが、アズルは抱っこをせがんで放さない。それをオルトが抱き上げた。
「本当に見送りに出なくてもよかったのですか」
 ティナは見送りに来なかったオルトに訊ねた。如何に忙しいとは言え、我が子が出立するのだ、母親として心配であろうに。
「ヴァドルは大丈夫ですわ。ロルフさまも見送りにいらしたのですし、もうあのように大きな息子に、母親の出番なんてありませんわ」
 オルトは笑ったが、ティナはそれは本心からなのだろうかと疑った。中つ海の騎士の母親達は、幾つになろうと結婚していようと、その世話を焼きたがっていたものだったというのに。そして、オルトはロルフには構いたがる。まるで本当の母親のように。
 ロルフの幼少期が不遇であったから、と言うのならば、父親のいないヴァドルもそうだっただろう。母親をロルフに取られた分だけ、ヴァドルの方が不幸だとも言えよう。オルトの心は常にロルフの方にあった。
 それではヴァドルが余りにも可哀想すぎる、とティナは思った。実の母親からの関心も薄いのでは、ヴァドル自身、人を愛するという事を学んでこなかったのかもしれない。その為に、未だに独り身なのかもしれない、と。
「それに、このおちびさんたちに手がかかりますからね」
 そうは言いながらもオルトは嬉しそうだった。子供に囲まれている時がオルトにとっても幸福な時間であるようだった。
「あなたがいなければ、どうしてよいのかわからなかったわ、オルト」
 その言葉が老女を喜ばせると知って、ティナは言った。何よりも頼りにされる事を好む人だった。
「奥方さまはエリスさまに、これからたっぷりと時間をかけなくてはなりませんもの」オルトは嬉しそうに言った。「男の子のことはお任せください」
 ティナは内心の哀しみを悟られないようにと微笑んだ。本当ならば子供の全てを自分の手許で育てたかった。だが、ロルフの決定に逆らう事はできなかった。そのような恐ろしい行為が自分に可能だとは思えなかった。逆らえば暴力で屈服させられる――ロルフとはそういう男だった。
「では、エリスは刺繍の続きをしましょう」
 エリスは乗り気でなさそうだった。だが、いずれは必要となるものだ。いざという時に慌てない為にも、今からが肝心だった。
「お母さまはいいわ。お好きなんでしょう、刺繍が。でも、わたしはあまり好きじゃないの」
「だからと言って、男の子のように振舞うのはどうかと思いますわよ」
 オルトが言った。
「女の子なんて、やっぱり、つまらないわ」
 エリスはむくれた。我が子ながら、その考えにはついていけなかった。「女戦士」に憧れ、男の子のように剣で遊びたがる娘を、ティナはもてあましていた。ロルフは乗馬を教える事によって、上手くその機嫌を取り結んでいるようであったが、ティナには、女が馬に跨るという事にも驚愕した。それが北海の常識であるにしても、中つ海では考えられない事であったからだ。
「あなたさまは族長の娘なのですから、他の娘たちの規範にならなくてはいけませんわ」
 オルトの言葉に、エリスは更にへそを曲げた。こうなっては言い聞かせるのも一苦労だった。
「お父さまのお持ちになる物に、刺繍をして差し上げたらどうかしら。きっと、褒めてくださるわよ」
 ティナは苦し紛れで言った。ロルフがティナの作った物を喜んだ事はない。エリスに対して愛情を持っていたとしても、男の事である、そういった物事には気が回らないかもしれない。それでは娘が傷付くのかもしれないと、ティナは自分の言葉を後悔した。
「それはようございますわね」オルトがにっこりと笑って言った。「ロルフさまはお喜びになられますわ」
 そうだ、こういった事はオルトに任せればよい。それに、愛する娘からの贈り物だと知れば、ロルフの心も和むに相違ない。自分とエリスとでは違うのだ。エリスは北海で産まれ育った、ロルフの一番のお気に入りなのだった。自分はロルフの関心を引いたことがないというのに、中つ海の血を引くこの娘は父親の寵愛を受けている。何と皮肉な事だろうか。だが、ティナはロルフの関心を引きたい訳でもなかった。ただ、妻として、一人の人間として認めて貰いたいだけだった。そうでなくして、どうしてこの荒涼とした地で長く暮らして行く事ができるだろうか。
 オルトが自分の事をどう思っているのかは分からない。表面上は、族長の奥方として丁重に遇してくれている。だが、同時に、ロルフがティナをどのように思っているのかを知っているのも確かだ。
 自分はいつまで経っても北海の人間にはなりきれない。そうティナは思った。最早、中つ海の人間でもない。五人の子供の母親として、北海の流儀に従わねばならない。心の中では中つ海を決して忘れないようにしてきたつもりだったが、最近ではそれも危うくなって来ていた。身も心も北海の人間として育っている子供達の影響を、ティナも受けずにはいられなかった。それは、愛しているが故に理解したいと思うからだ。ロルフに対してはそのような感情は持ち得なかった。外見は美しくとも心の中は冷たい男に、どうして自分の方から心を開くことができるであろうか。
 エリスは少し機嫌を直したようだった。渋々ながらも針を手にした。それだけでも大きな進歩だ。
 ティナの娘であるならば、中つ海に産まれていればどれほど輝きに満ちた生活を送っていたであろうか。そう思うとティナはエリスが不憫でならなかった。北海での暮らしは、族長の娘とは言っても村娘と変わらないように思えた。いや、ずっと野蛮だ。馬に跨って野山を男のように駆け巡るなど、ティナには信じられなかったが、北海の人間には当たり前のようだった。それに、親に口答えをするなどお仕置きものにも関わらず、ロルフは笑って受け流す。お陰で、エリスは貴婦人とは言い難い野生児に育ってしまった。
 これでは、女の子を手許で育てる意味がないのではないかと思わざるを得なかった。
 自分が娘との生活に望んでいたのは、もっと穏やかなものであった。中つ海の親子のような関係でもあった。北海であっても、娘とならそのような生活が営めるのでないかと期待していた。それは、自分と中つ海を結ぶ細い糸のようにも思えた。
 だが、その期待は見事に裏切られた。思いもかけずロルフがエリスを可愛がったからだ。お陰でエリスは中つ海の貴婦人どころか、すっかり野蛮人の娘だ。
 単純な運針と模様の繰り返しばかりの初心者の刺繍は、ティナにも退屈だった。エリスの気持ちも分からないでもない。だが、先に進むにはどうしても必要なものであった。
 初めてロルフの服を仕立てた時のことがティナの脳裏に浮かんだ。唯論、オルトに教わりながらであったが、その退屈なことと言ったらなかった。恐れ以外何の感情も持てない男の為に衣服を作っても、楽しくもなかった。ただ、それが妻としての義務だと言うオルトの言葉だけが、針を運ばせていたようなものだ。せめてそれくらいはしなくては、ロルフにも誰にも正式な妻として認められないのではないかという思いだけだった。例えどのような男であろうとも、正式な妻であることがティナの誇りを支えていた。そうでなくして、どうしてこの地で生きて行けようか。子を産み育てることができようか。
 幸いにもロルフはティナに関心を示さなかった。出会いのあの最初の瞬間だけが、ロルフのティナに対する何らかの感情を揺り動かしたに過ぎない。何を思ってロルフが自分を妻に選んだのかは未だに分からない。だが、あの一瞬、興味深げに自分を見た青い目だけが、ロルフのティナに対する唯一の感情だった。ロルフは殴る時ですら何の感情も見せなかった。そのことが更にティナの恐怖を掻きたてた。この男なら、眉一つ動かさずに人を殺したのだろうと思わずにはいられなかった。
 だが、子供達はロルフのそういった面は全く知らない。子供達にはいつでも愛情深く、寛大な父親だった。だから、皆、ロルフに懐いている。男の子達は、いずれはロルフのようになってしまうのだろうか、というのがティナの恐れでもあった。中つ海を襲い、掠奪し人を殺めるような人間に育ってしまうのであろうか、と。
 仕方のないことかもしれない。子供達は北海の生き方しか知らないのだ。そして、その手本となるのがロルフのような男なのだ。中つ海の人間に対する優しさなど持ち合わせてはいまい。ティナが中つ海の者であることは、公然の秘密だ。わざわざそのことを子供達に教える者もおるまいと思われた。ロルフの怒りを買う恐れがあるからだ。
 自分達の血の半分が中つ海のものだと知ったならば、子供達はどうするのだろうかとティナは思った。
 北海に住まう中つ海の者は、ティナを除けば全て奴隷だ。そして、奴隷から産まれた子供は自動的に奴隷として扱われる。余程の才覚を見出されるか、跡取りのない者の男子であるならば話は変わるが、それは非常に稀な事なのだとティナは知った。
 中つ海の人間である自分は、ロルフの正式な妻に迎え入れられただけでも有り難く思わねばならないのだ。
 ロルフに感謝するなど、とんでもないと言いたかった。
 望んで北海くんだりにまで来た訳ではない。
 ロルフがティナの弟の生命と、自分に将来産まれるであろう男子とを計りにかけてティナを選んだのだ。船では荷物の一つででもあるかのように扱われた。この島に着てからは子供を産み続けるだけの存在だ。妻とは言っても、それは名ばかりのものに過ぎない。ロルフの子供に相続権を与えるためだけの、正妻だった。
 エリスにも、そのような人生が待ち受けているのであろうか。
 ティナとは異なり、エリスは北海の族長の娘であるから無碍には扱われまいと思うのは、楽観的すぎるだろうか。誰よりも美しいからといって幸せを得る訳ではないことは、数々の物語が示している。それでも、ティナはエリスの幸福を望んだし、その第一歩としての手習いだった。男子とは異なり、女子は産まれた時から人生においては不利なのかもしれないと、ティナは思うようになっていた。男ならば理不尽な強制には反抗する事も可能であろう。だが、女は唯々諾々と従わねばならない。中には男のように権力を手に入れた女城主もいるとは聞いていたが、人々の尊敬や騎士達の忠誠を集めるのは、かなりの苦労を強いられるであろうと思われた。男ならばすんなりと通ることも、女ではそうはいかないことも多い。
 エリスの言うように、女はやはり、損な生き物なのだろうかと思う時もあった。中つ海ではちらりとも頭をかすめたことのない考えだった。北海では結婚後はオルトのように自己主張をする女は珍しくないようだ。中つ海で生まれ育ったティナにはそのような考えはなかった。自己主張をすると言っても、誰に対してだろうか。ロルフになどとんでもないことだった。オルトに対してだろうか。だが、骨の髄までティナには中つ海での礼儀作法が染み付いていた。年長者、特にこちらが教えを請うような人に対しては感情を露わにしてはならないというものだ。何と言っても、オルトは北海で生きて行く術をティナに教えてくれた人だった。そのような恩のある人に自分を出すことなど、できようはずもなかった。
 エリスはどのような娘に成長するのだろうか。
 ティナは心配だった。
 ロルフの愛情を受けて、自由気ままに育ってきてしまった。長じてからのことを思えば、今からでも礼儀作法をしっかりと教え込む方が良いだろう。だが、それに反発するようならどうすれば良いのか。既にエリスは花嫁になることを「つまらない」と考えている。年頃になれば考えも変わるかもしれないが、半分はロルフの血が流れている娘だ。傲慢にならぬとも限らない。それだけは避けねばならなかった。そんな娘は婚家で愛されまい。それは不幸なことであった。
 自分は不幸なのか。
 ティナはどきりとした。
 この部族に自分を愛する者はいなかった。血を分けた子供達は別であるが、寝食を共にするロルフはその最たる者であろう。完全な無関心だ。
 愛されないというのは寂しいことであるのには間違いなかった。子供達からの愛情があるから、ティナは寂しいとは言えないのかもしれない。だが、心の中には大きな穴が開いたままだ。それが何であるのかを、ティナは追求しなかった。追求するのが恐ろしかった。ぼんやりと、そこにはかつてアーロンがいたのだと思った。思いがけずその間は裂かれてしまった、その喪失なのだろうとぼんやりと思っていた。それを深く追いたくはなかった。
 どれほど自分がアーロンを想おうと、それは過去のことなのだ。決してこの手には戻りはしない思い出であった。
 自分の愛した全てを思い出にしなくてはならなくなったのは、ロルフのせいだ。その点ではロルフを恨みに思っても許されるだろう。憎むことはできない。二人の息子を、愛した亡き奥方の忘れ形見でもある二人の息子を起こってはいけない暴力的な事件で失うというのが、どれほどの哀しみと痛みであるのかを、ティナも自分の子を持って知った。一人たりとも失いたくはなかった。失うようなことがあれば、どれほど自分は哀しむだろうか。その生命を奪った相手を、どうして憎まずにいられるだろうか。それを思うと、ロルフを憎むことはできなかった。ティナを妻にしたはよいものの、自分を目にする度に、ロルフは過去を思い出さずにはいられないだろう。中つ海の人間であり、殺人者の城砦の娘であるティナの存在は、ロルフにとり愉快なものではないだろう。それでも、生かしてもらえてはいる。
 ロルフの考えは分からない。
 分かろうとも思わない。
 子供達の健やかな成長をのみ、自分は楽しみにして生きるのだと、ティナは思った。
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