第4章・領主の娘

文字数 5,967文字

 ティナの毎日は光り輝いていた。
 後ふた月もすれば、生活が変わる。領主の娘としての生活から、騎士の妻としての生活に。
 幼馴染みのアーロンとの結婚は待ち遠しかった。乳母や侍女達はこっそりと結婚の秘密について話してくれたが、まだティナにはそれはぴんとは来ないものだった。全てが夢を見ているようで、何もかもが美しく思えた。
 アーロンを愛しているのか、と聞かれれば、当然、と答えただろう。子供の頃からお互いを知っていて、いつかはこうなるのではないかと思っていた。アーロンの父親はこの城砦の騎士長でもあった。部屋は移らなくてはならなかったが、生活はこの慣れた城砦の中だ。人も場所も、馴染みのものばかりだった。それでも、領主の娘と騎士の妻とでは立場が違う。そうなってさえも、アーロンと共にいられるのならば大丈夫だと思えた。
 歌人(バード)の歌うような、燃えるような恋ではないかもしれない。しかし、アーロンと共にいると気持ちが落ち着くし、幸せだった。婚約が成立してから、皆の目を盗んで二人きりで会う事も楽しかった。妹達にはそれは分かるまい、と思った。何かと理由を付けてはアーロンと二人きりになろうとするこの想いは、まだ子供の妹達には分かるまい。軽い抱擁から、しっかりとした抱擁へ。そして、初めての唇付け。
 その事を思い出すだけでも、ティナの顔は自然と赤くなるのだった。
 どんなに言葉を尽くしても、その感覚を伝える事はできない。話に聞いていたのと少し違ってはいたが、それでも、アーロンの腕が身体に初めて回された時の感動に匹敵するものだった。あの高揚感。ふわふわと足が地に付かなかった。乳母達はすぐに感づいたようで、あれこれと言ってきた。それは煩わしいと同時に嬉しいものであった。
 結婚したら、その先もあるのですよと、皆は言う。あれよりも素晴らしい事が、本当に起こるのだろうか。夫と妻は(しとね)を共にすると言うが、素晴らしい事はその時に起こると言う。詳しい事は誰も教えてはくれない。きっと、それは経験していてさえも顔の赤くなるような出来事なのだろう。
 父と母がこの結婚を決めたのは、唯論、アーロンの働きもあるだろう。だが、次期騎士長と城砦の長子との結婚は、また、別の意味がある。両親としては、まだ幼い弟の後見としての役目を担って欲しいと思っているのだ。妹達はこの城砦の外へ嫁ぐ事になるだろう。だが、自分はここに留まって、アーロンと共に弟の成長を見守って行くのだ。
 それをつまらないとは思わなかった。城砦の外へ嫁ぐというのは、顔も知らぬ人のところへ行く可能性も意味していた。そんなのは御免だわ、とティナは思った。結婚式で初めて会うような人と、アーロンとの間に起こった事をしなければならないなんて、絶対に嫌だった。その事を考えると、妹達が可哀想に思えるのだった。
 どんなに美男子でも、わたしはそんな結婚はいやだわ。
 ティナは思った。それよりも、毎日顔を合せていながらも、二人きりのほんの僅かな時間に抱擁し合うような関係の方がずっと良い。歌人の歌物語に不義の恋の物語が多いのも納得出来る。
 好きでも愛してもいない人との結婚なんて、耐えられない。
 では、父と母はどうだったのか。政略結婚であった二人は愛し合っているというよりは、互いに尊重し合っているように見えた。それでも四人の子に恵まれ、幸せそうに見える。だが、母が若い頃、城砦の騎士達や歌人に仄かな想いを抱いていたのかどうかは分からない。
 仄かな想い――そう、ティナのアーロンに対する想いも、それに近いかもしれない。アーロンの積極的な愛の言葉にも、ティナはうっとりと耳を傾ける。それは、まるで歌人の歌のように心地よい。だが、ティナの方からアーロンに愛の言葉を掛けた事があっただろうか。唯論、腕試しや試合の時にはアーロンを応援する。だが、それは子供の頃から変わらない。いつも側にいるのが当たり前だった。だから、燃えるような恋に胸を焦がす、という事がないのかもしれない。
 幼馴染みなので、互いの事は知り尽くしていると言っても良かった。それでも、結婚が決まった後、アーロンが情熱的な詩を捧げてくれた時には愕きもした。恋する男は詩を作るものですよと侍女に言われても、そんなものなのかと思っただけだった。お返しにいつも使っている髪紐を渡すと良いですよと言われ、その通りにした。すると、アーロンはそれを腕輪にしていつも身に着けてくれている。愛されているのだと思った。それと同じだけの愛を、自分はアーロンに返せているのだろうかとも思う。
「殿方には、自分は追いかけているのだと思わせるのがよいのですよ」
 侍女達はそう言う。だから、ティナは男と女の愛情には差があるのだと思った。男はとにかく情熱的だ。だが、女はそれよりも醒めた目でいるのだろうか。
 結婚の準備は全て整っていた。婚礼衣装も長櫃一杯の布類も。アーロンの母親は先年亡くなったので、ティナが一家の主婦とならねばならなかった。だが、城砦の中での事なので心配はしていなかった。乳母も侍女達も共について来てくれるのだ。
 その日も、ティナは手遊(てすさ)びの刺繍を妹達と刺していた。二人は始めるなり退屈してしまったが、これがお嫁入りの道具になるのよ、と言うと急に真剣になった。
「お姉さまは、ご結婚なさってもこの城砦にいらっしゃるのよね」
 下の妹が訊いてきた。
「そうよ」
「なら、お嫁入り道具は必要ないのでしょう」
「そういうわけにもいかないわ」ティナは言った。「部屋も移るのだし、新しいものに囲まれた方が、やっぱりいいでしょう」
「そうよね」すぐ下の妹は言った。「褪せた綴織とか、色の剥げかけた宝箱よりも、新品の方がいいに決まっているわ」
 十五歳と十二歳では、こんなにも違うものかといつも愕かされる。八歳の弟ともなると、まだ赤ん坊のような気がする。
 弟とは九歳離れていた。弟が生まれるまではティナがこの城砦の相続人だった――とはいえ、正式にはその良人のものになるのだが。女相続人ではなくなったことをどう思うのかと訊かれても、幼いティナには分からなかっただろう。それで両親の自分に対する扱いが変わった訳ではなかったのだから。今でも、別にどうとも思わなかった。むしろ、女相続人でなくて良かったという思いがあった。もし、そうなっていれば、アーロンとの結婚は許されず、何処かの領主の次男か三男と結婚する事になっていただろう。それは、考える事ができなかった。
「でも、刺繍なんて退屈よ」
 下の妹は言った。「外に出て遊びたいわ」
「もう十二歳なんだから、それは許してはもらえないわよ」上の妹が言う。「泥だらけになって帰って来たりしたら、どんなお小言がまっていることやら」
 下の妹は活発だった。まるで男の子のような遊びっぷりは母を嘆かせたものだった。だが、十二歳になったからには、本腰を入れて嫁入り準備をしなくてはならない。
 十五歳の妹もそれなりに活発に遊んでいたものだったが、十二歳になると急に大人びたような振る舞いをするようになった。血の道が開けたのだから、それも分かる。十二歳の妹も、そうなれば変わるだろう。
「朝からにぎやかですこと」
 ティナの乳母が新しい布を持って来て言った。お喋りしていないで手を動かしなさい、とは言わない。姉妹のこの時間が残り少ない事も確かだからだ。
「お嬢様がた、こちらに置いておきますからね。しっかりと、はげんでくださいよ」
「お姉さまは何を作っていらっしゃるの」
 下の妹が言った。とにかく、じっとしてはいない。ティナは黙って身体をずらせ、刺繍を見せた。
「アーロンどのの頭文字ね」
 予備の枕袋だった。そういう物は幾らあっても良いと皆が言ったからだ。
「あああ、もうふた月でお姉さまはお嫁に行ってしまわれるのね」
「遠くへ行くわけではないでしょう。この城砦なのだから」
「でも、住む場所が違うわ。騎士の奥方たちとは、夕食時以外は殆ど、顔を合わすことがないのですもの」
 城砦が広いのか狭いのか、ティナには分からなかった。父について他の城砦にも出掛けたことのあるアーロンに言わせるとこの城砦は大きい方であったが、確かに、騎士達の家族と顔を合せる事は余りなかった。
「大丈夫よ、あなたが呼んでくれたら、わたしはすぐに行くわ」
「旦那さまを差し置いても――」
「それは無理ね」上の妹が言った。「だって、妻は良人の側にいなくてはならないのでしょう」
「ほら」
 妹は頬を膨らませた。
 父方の祖母がそうであったという栗色の髪に(はしばみ)色の目。長く細い指に形の良い爪。背は、ティナでごく普通だろう。二人はまだ成長途中なので良く分からないが、恐らく、大人になれば三人は区別が付かなくなるのではないかとも言われていた。違いは、妹達の顔にはある黒子(ほくろ)が、ティナにはない事だろう。それを二人は羨ましがる。だが、ティナは二人の顔にある黒子はどちらも魅力的だと思っていた。互いに無い物ねだりをしているだけだった。
 下の大広間の方が賑やかになったのに気付いたのは、やはり下の妹だった。
「なんだか、騒がしいわね。何かあったのかしら」
 そう言って覗きに行こうとする妹を、ティナは止めた。呼ばれもしないのに出て行っては、はしたないと叱られるのは目に見えていた。
 ややあって、ティナの乳母が姿を見せた。その顔は蒼かった。
「お嬢さまがた、決してここから出てはなりませんよ」
 乳母の言葉に、下の妹が立ち上がった。
「何があったの。とても騒がしいけれども」
「どうぞ、お座りになってください。何が起こっても、どうか、このお部屋からは出ないでくださいましね」
「何があったの」
 妹は地団駄を踏みかねない勢いで言った。「気になるじゃない」
「北海の海賊ですよ」
 え、と三人は顔を見合わせた。
「北海の海賊が、来たのです」
「わたし、見てくる」
 下の妹が、乳母の脇から飛び出して行った。
「いけません、お嬢さま」
 乳母が慌てて追い掛ける。
「どういうことなの」
 残された二人は顔を見合わせた。戸惑いしかなかった。
 北海の海賊が、何の用でこの城砦を訪れたというのだろう。護りの堅い城砦を訪れる――いや、そもそも、港で阻止できなかったのか。城門を何故、開けたのだろうか。
 北海の海賊と言えば、沿岸の村々を襲うならず者達だ。黄金色の蓬髪と髭、青い眼の大男だと聞いていた。その姿を見た者は恐怖で震え上がるという怪物だ。そんな者達が、一体、城砦に何の用があるというのだろう。わざわざ捕まりに来た訳でもあるまい。
 ティナは立ち上がって乳母の後を追った。
 大広間へ通じる扉の前で二人を見付けた。妹は中を覗き込んでいたが、乳母はそれを止めようとしている。他にも、城砦で働く人々が集まって来ていた。
 妹がティナが来たのに気付いて横に来た。
「ねえ、お姉さま、本当に金色の髪なのね。それにおひげも長くて。わたし、びっくりしちゃったわ」
 ティナは恐る恐る、中を覗いた。
 騎士達が一所(ひとところ)に集まっていた。アーロンとその父親の姿もあった。高座には両親と弟。そして、それに対峙しているのが北海の男達、六人いる。その全てが金色の髪をしている訳ではなかった。だが、誰もが大きく、その側ではアーロンも小さく見えた。服装は自分達と変わらなかったが、長剣の他に身体の正面にも鍔のない刃物を帯びていた。背中には色とりどりの楯を背負っている。
 両親に何事かを話している男が、いきなり、身体の正面に帯びた刃物を抜いた。そして、跪かせて髪を摑んでいた騎士の一人の喉に当てた。飲んだくれで有名な中年の騎士だ。父の命によって交易島に送られたはずだった。
 見てはいられなかった。ティナは顔を逸らせた。
「妹を連れて行って」
 早口で乳母にそう言った。乳母は妹の腕を引いた。男のいきなりの暴力的な仕種に、妹も愕いたのか大人しく言われるがままにその場を退いた。
 母の、侍女達の悲鳴が聞こえた。
 身体が震えた。
 それでも勇気を振り絞って中を見ると、男の足許で騎士が血を流して倒れていた。
 殺したのだ。
 脚が震えた。立っていられなくなり、ティナは壁にしがみ付いた。あんなに大量の血を見たのは初めてだった。吐き気がした。
 再び、母の悲鳴が聞こえた。
 意を決して中を覗くと、弟が男に高座から引き摺り下ろされるところだった。騎士達は動けずにいる。なぜ、とティナは思った。弟が、次期領主が酷い目に合っているというに、なぜ、騎士達は動かないのか。咄嗟の場合の為の訓練ではなかったのか。アーロンの顔は真っ青だった。初めて殺される人を見た訳でもないだろうに。夜盗を殺した話も聞いた事があった。なのに、今は動けずにいる。
 北海の海賊は弟に刃を押し付けていた。
 弟はまだ八歳だ。どれほど恐ろしい思いをしている事だろう。誰か、助けてはくれないのだろうか。
 母はぐったりとしている。気絶した方が、ましなのかもしれない。このような状況を見続けるよりも。首領らしきその金色の髪と髭の男は、父と話し合っていた。だが、父も為す術がないようだった。弟の生命は、完全に北海の海賊に握られていた。
 幼い弟。きっと、北海の海賊が来たと言うので、本物を見たくて両親と同席していたのだろう。それが、どれほど危険な事かも分からずに、両親もそれを許した。いや、ティナであってさえも、大人数の中にたったの六人で乗り込んでくるような者には脅威を感じないだろう。
 男がにやりと笑うのが見えた。
 その目は父から騎士達へ移り、再び父へと据えられた。
 何の話をしているのか、ここからでははっきりとは分からなかった。だが、言葉が聞き取れるほどに近い扉へ行く勇気もなかった。
 騎士達は剣の柄から手を放さない。それは、相手の五人も同様だった。睨み合いが続いていた。
 ぐっと、男の刃が弟の首に押し付けられた。可哀想に、弟が失禁している事にティナは気付いた。先程の殺人で、刃は血に濡れている。その血が、弟の首に伝っていた。まるで、もう切られたかのように。
 どうれば、弟を助けられるのだろうか。
 騎士達は当てには出来そうになかった。
 父は、高座に座り込んで頭を抱えている。
 どのような難題を男は持って来たのだろうか。一人を殺し、幼い子供に刃を押し付けるような、そんな難題を。
 その答えを、父は知らないのだろう。当然、母も知らない。ならば、どこにも逃げ道はなさそうだった。だが、このままみすみす弟の生命を差し出す訳には行くまい。だからこそ、父は苦悩しているのだ。
 何時までもそうしている時間はなさそうだった。男はそれ程気が長い方ではないのかも知れない。少し、刃の位置を変えた。
 切る気だ。
 そう思った。
 その瞬間、脚が動いた。 
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