第42章・成立

文字数 11,311文字

 無事に話し合いが終わったのは、翌日であった。
 ロルフは、皆が大きく深い溜息をつき、清々したように伸びをするのを眺めた。
 どちらの側の者にとっても、初めての事が多かった。ロルフには兄姉(きょうだい)がなかったので、結婚事情には疎かった。数年前よりヴァドルや他の者に命じて昨今の族長家の持参財や結納財の事情を調べさせてあったが、大いに役に立った。サムルの側にしたところで、敵対しているとも言えるサムルの従兄の結婚に関わった者は随伴人にはいなかった。どちらもが、過去の他家の事情を参考にして進める他なかった。
 それにしては円滑に終わった、とロルフは思った。サムルは値切ったりするような事は一切なかったし、こちらの言い分も良く理解しているようであった。
 問題は一点のみだった。
 サムルの父親がどう出るかによって、こちらも幾つか考えなくてはならない。こちら側の誰もが、戦士長の家に奴隷がいる事を疑わなかったし、相手にとっては、その家に奴隷のいぬのは周知の事実であって、殊更言い立てるものではなかったというだけの話ではあったのだが、娘を送り出す側にしてみれば大事(おおごと)であった。エリスは、サムルの返事によれば、事を重大に捉えてはいないようであったが、下手をすれば名誉の問題に発展しかねない問題である。
 提案のように、農場から奴隷を連れて来て急ごしらえではあっても納屋に住まわせるのであれば、サムルの父親も一つ家にいる訳ではないので、納得もするだろう。たかだか奴隷ごとき問題で、これほどに揉めようとは思いもしなかった。ヴェステインは無口ではあったが、同族の者やサムルが危惧するほどに頑固な男であるとは知らなかった。
 他人を家に入れるのを嫌がる、とサムルは父親を評して言った。エリスはヴェステインに歓迎されないのか、と問えば、父はこの結婚に賛成である、との答えが即座に帰って来た。ヴェステインにとっては、息子の嫁は他人ではないという認識なのか。ならば、族長の娘を娶るという事の意味を、これを機にヴェステインも真剣に考えるべきであろう。結婚をしなかった男だからといって、見過ごして良い事柄ではなかった。
 ヴァドルが書き留めた一つひとつを検める作業が始まった。目録は長々しいものであったが、それだけの価値をロルフが娘に付け、サムルが認めたのだ。持参財は生前贈与であれば、エリスが何かを盛大にやらかさない限りは、サムルの手にはびた一文入らぬものだ。それを承知の上で同等の結納財を支払うというのだから、余程、サムルはロルフの後ろ盾が欲しいのだろう。
 この数日の間、ロルフはサムルを観察し続けていた。
 母親が奴隷であったとしても、生まれの卑しさを窺わせるものはなかった。堂々と交渉の席に着いており、自らの意見を口にするのを躊躇う様子もなかった。正式に認められてこの館に滞在しているが、その言動にも問題はないようだ。
 夕食時に同席するエリスの、サムルへの態度は素っ気ないものであったが、それを気に留める様子もなく、むしろ、サムルの方が気を遣っているのではないかと思う程であった。サムルの関心事は、ロルフの娘であるエリスを娶る事であれば、それも納得がいく。
 例の問題についても、サムルはエリスを上手くいなすか言いくるめるかしたようであった。その事については、ロルフも少し愕いた。自分の若い頃に似た気性であれば、あのような問題を今になって突き付けられれば、(いか)りもするだろうと思っていた。だが、話し合いに戻ったサムルにもウーリックにも動揺した様子は見られず、エリスの機嫌を損ねずに事を運んだらしいと知れた。現に、エリスからサムルに対する文句が出たという話は、オルトからも聞こえなかった。この点では、相当なやり手だと言えた。あの娘を飼い馴らす事のできる男は、そう多くはいまい。弁が立つのは警戒要因になるが、それだけの男ではない事は、他で証明した。
 この男は、案外と拾い物であったのかもしれない。ロルフは顎髭を撫でながら思った。
 愛情に目を眩ませられた訳ではなく、冷静にエリスを選んだのであろう。ロルフの娘であるという利点を、この男は欲し、手に入れようとしている。その為ならば、感じの良い人物でいようとするのは当然であろうが、急ごしらえの人格には綻びが必ずどこかに現れるものだ。それが、この男にはなかった。人を騙すに長けた

でなければ、サムルは誰にとっても――ロルフにとってさえも、願っていもない娘の結婚相手であった。最良の相手と言っても良い。
 ロルフの力を必要としている故に、サムルはエリスを大事にするだろう。
 激しい気性のエリスに辟易しようとも、ロルフとの姻戚関係ばかりではなく、多額の結納財と持参財を思えば、離婚も難しい。それに、万が一の事を考えれば、サムルはエリスに誠実でいるしかない。
 ヴァドルも重視したように、サムルがエリスを守りきれるのか、というのが最も大きな問題であった。今は誰も、エリスの母親が中つ海の者である事は知らない。だが、遠からず、それは北海中に知れるだろう。本来ならば、奴隷身分にある子であった。サムルとの違いは、エリスの母親が正妻であるという一点に過ぎない。
 エリスの出自が明らかになった時、緑目やヴェステインの反応が如何なるものに変じるのかは、ロルフには想像が及ばなかった。だが、正式な手続きを踏んで、女は北海の者となった。それに反論できる者はいない。法の守護者にも確認を取ってあるので、間違いはなかった。
 それでも、反発は起るだろう、とロルフは思った。
 この島でソルハルにエリスの母親の事を喋った娘がいるように、エリスを快く思わぬ者は、必ず現れる。人目を引く美貌と族長の娘という地位は、女達にとっては鬱陶しくもあろう。エリスは陰口を気にするまいが、問題は、そういった女達の讒言(ざんげん)で男が動かぬか、という事にあった。
 ソルハルが女からエリスの事を聞き出しさえしなければ、何の心配もなかったであろう。起ってしまった事を云々しても始まらぬが、悔しい思いがあった。女がエリスに抱いた感情が軽蔑であれ嫉妬であれ、自分の力が及ばなかった事を白状せねばならなかった。
 エリスは女である。女同士の諍いや悪口などは、簡単に処する事が出来るだろう。だが、男が動けば厄介であった。辱めようとも動じぬエリスに腹を立て、侮辱されたと女が保護者たる男に訴え出れば、嫌でも男は動かざるを得ない。その前に、サムルがどう出るかが肝心である。
 保護する女の名誉は男の名誉である。下手をすれば、男同士の争いに発展しよう。
 さすがに、相手がアスヴァルドであったならば相手も引くだろうが、その分、エリスへの風当たりも強くなると思われた。そうなってさえ、アスヴァルドは無言を貫くであろうし、エリスを守る事にはならない。
 ケネヴであるならば、大事(おおごと)になるまで気付かぬであろうし、それでは、遅い。
 しかし、サムルならば、水面下で様々な交渉をする事が可能であろう。戦士長の息子、族長の甥という立場を、上手く利用するに違いない。エリスを手懐(てなず)ける事のできる男であれば、そのくらいの抜け目のなさは持っているだろう。
 それが、ロルフとヴァドルの一致した意見であった。結局のところ、決断に間違いはなかった。生まれ以上のものを、サムルは見せた。
 これで一段落だと思うと、ロルフの心に安堵と共に、一抹の寂しさが生じた。
 娘なので、いつかは手放さなくてはならない子であった。生きている子の中で、最も慈しんだ子であった。誰の血が入っていようと関係がない。エリスはロルフの子だった。
 死に別れる事は、経験した。だが、生き別れるのは初めてであった。死者には誰も手出しは出来ないが、生きて他所の島に渡るエリスは違う。どのような状況にあるのか、幸福であるのか、冬になれば全く情報は入って来なくなる。あちらの島での集会の時以外は、会う事も叶わない。
 娘というのは、持つものではない、とロルフは独りごちた。
 男子は、いつまでも手許に置いて成長を見守る事が出来るのに、娘は十七で他の男に保護を託さなくてはならない。エリスの嫁入りは来年の族長集会の後と決まったが、そのように期限を切られるのは心の準備の為もあるのだろうが、いなくなれば心に穴が開くのは目に見えていた。あちらの島で元気で幸せに暮らしている事を、祈るしかできない。
 そうして開いた心の部分を、何が埋めてくれるであろうか。
 それが、ロロやオラヴ達がいずれ得るであろう子供なのだろうか。
 娘と孫とは違う。
 どれほど多くの孫を得ようとも、それはエリスの代わりにはならない、唯一無二の娘の部分を埋める存在はないのだ。
 ヴァドルが奴隷に命じて酒と杯の用意をさせた。
 いよいよ、婚約の成立だ。
 ロルフは、サムルと固めの握手をせねばならない。
 この若者が気に入らない訳ではない。むしろ、エリスのような娘には相応しいと思う。だが、それは客観的に見ての場合だ。父親として見れば、いけ好かない部分もある。特に、母親が奴隷であったという一件だ。加えて、このような場にあってさえ、年齢の割には落ち着き、物怖じをしない様子も癪に障った。
 だが、それは、些細な個人的な感情に過ぎない。
 明日からは、族長の娘として恥かしくない支度を進めさせねばならなかった。

    ※    ※    ※

「話し合いがついたのね」宴で辺りを窺い、エリスはサムルに言った。「みんな、晴れ晴れとした顔をしているわ」
「もっと、揉めて欲しかったですか」
 杯を口に運びながら、サムルが言った。苦笑がその顔に浮かんでいた。
「あっさりと、売られたのね」
 嫌味を込めて言ったが、サムルには通じなかった。
「貴女の父君の言い値ですよ。それとも、値切って欲しかったですか」
 澄ました顔で言う男の向う脛を蹴りたくなったが、思い直した。そのような事をしても、何も変わらなかった。当事者である自分の意思とは関わりなく、全ては慣例通りに進んでいるのだ。
 どのように足掻こうとも、結局は、慣例通りに流される他はない。それに、ここはまだ、大人しくしている方が良い。交渉人達もいるのだ、余計な事は言わない、しない方が安全だ。
「今日は、大人しいですね」
 エリスの内心を読み取ったかのように、サムルが言った。「何か、ありましたか」
 ない訳ではない。
 婚約を許された男の一行が明朝には島を発つというのに、相変わらず、母の姿はここにはなかった。父は高座に一人座し、エリスとサムルはそのすぐ下の席だった。普通は男と女の席は(わか)たれているが、婚約した二人は特別に隣り合った席に座っていた。この宴にも弟達は参加していたが、皆、正戦士であるサムルに夢中のようであった。
 確かに、サムルは大人だ。
 エリスは思った。
 父との交渉をやり遂げ、穏やかな言動を崩さず、エリスが何をしようと言おうと嫌がる様子はない。母に対しても、礼儀正しかった。ただ、気に入らないとすれば、自分に見せる顔と他の人々に見せる顔が違う事であろうか。真面目で良い人だ、と弟達を含めて皆は言ったが、エリスにはにやついた嫌な顔を見せ、意地悪な事も言う。自分の妻にと望む女の前では飾らない、と言えば、それは美点にもなろうが、少し不愉快でもあった。
 しかし、たかだか十七歳の女だろう、と軽く扱われていると思った訳ではなかった。父や部族の年長の男達は、エリスが自分の考えを口にすると、そう言いたげな顔をする。少し年上の者達は、生意気な女だと言いたげでもあった。ヴァドルは割合に良く話を聞いてくれる方であるが、いつも忙しくしていて、常にエリスの相手をしてくれる訳ではない。
 サムルならば、対等に見てくれるのではないか、という期待もあった。
 十七の自分に、取り引きを持ちかけて来たのだ。交渉相手として認めたからこそ、そのような挙に出たのではないだろうか。
 エリスは、やはり食欲はなかったが、匙を口に運んだ。厨房では、オルトが忙しく指示を出しているのだろう。それは、本来ならば、この館の女主人である母の仕事であった。父は、母が病気であるとの偽りを客人達に述べていたので、この場に姿を現すことも、厨房で指揮を執る事もない。
 両親の関係は、政略結婚、という以上の冷たさがあるようにエリスには思えた。父は必要でない限り、母に同席させることはない。決めるのは常に父で、母はそれに従うだけだ。エリスは母が自らの意見を口にしたところを、一度も見た事がなかった。それが普通の夫婦ではない事くらいは気付いていた。戦士にせよ、自由民にせよ、殆どの男女は親の意思で結婚する。それでも、喧嘩をしたり楽し気に談笑したりする姿は日常の風景の一部であった。だが、この館ではそれがない。
 母は、常に自分の殻に閉じこもったような生活を続けている。
 父の目には、母は入っていないかのようだ。
 いつからそうであったのか、エリスには分からなかった。物心ついた時から、既に、この状況であった。普通ではないかもしれないとは思ってはいても、それがこの館の日常であったので、特に違和感は感じずにきた。
 自分の母が中つ海の人間であった、という事で、全てが納得がいくと思った。父はそのような出身の母を厭い、遠ざけるようになっていったのではないだろうか。エリスにとっては母であっても、父にとっては他人である、肉親の情とは違うだろう。
 母が、可哀想であった。
 エリスは母親の事が嫌いではなかった。むしろ、好きでさえあった。自分にはない穏やかさと落ち着き、意識していないと気付かないような優しさが、母にはあった。海の向こうから、一人でこの島に嫁いでくる勇気もある人だ。弟達の中には、見習い戦士になって、少し母に辛くあたるようになった者もいたが、それは男子の成長上、必要な段階であったのだろう。今では、皆、母の事を気遣うようになっていた。
 中つ海の人間は奴隷。
 その思いに、エリスはぞっとした。自分達が何気なしに使っている者達は、母と同じ東の大陸からやって来た者が殆どだ。父が母を正妻の座に据えなければ、自分達姉弟(きょうだい)はサムルと同じ立場であったのかもしれない。
 どちらも、母親が奴隷身分である。
 この一事がエリスの中で大きくなっていった。自分達は合わせ鏡のような存在だ。共に奴隷身分の母親を持ちながら、エリス達姉弟は族長の正妻の子として様々な特権を享受してきた。ロロ達が戦士になる事も、誰も不審に思いはしなかったと思う。
 だが、サムルは、戦士長の愛人の子として生まれ育ち、言葉の端々からは皆から下に見られていたと窺わせるものがあった。
 正妻であるか、ないか。たったそれだけの事が、二人の人生を分けている。
 サムルは、父親によって奴隷身分から引き上げられた。
 母は、父によって奴隷身分に落ちずに済んだ。
 どちらも同じだ。北海人にとり、その差は大きいが、結局、この身に流れる血の半分は奴隷のものだ。サムルと変わらない。
 そういう意味では、人々の目には、ソルハルの捨て言葉ではないが、「お似合い」なのかもしれない。
 エリスは横目で父を窺った。
 ロルフはヴァドルと何事かを話し込んでおり、エリスが少々、無遠慮に眺めたところで気が付きそうにもなかった。
「今日も、余り召し上がってはいらっしゃらないようですが」
 サムルの声に思いを破られた。どうもこの男は、自分の考え事を中断させる事が多い。
 無言で、エリスは皿の上の肉を睨んだ。多い。
「わたしのために、取ってくださったの」
「当然、大事なお方ですからね」
 サムルはにっと笑った。「貴女の食欲のないのは、一旦、これでお別れだからと仰言るのであれば、至上の喜びですが」
 口が達者な男であった。だが、嫌な気はしない。本人に悪気はなさそうだった。友人としてなら、楽しく過ごせる相手かもしれない。
 すぐに、サムルは声をかけて来たロロと話す為に反対側を向いた。自分の事は忘れたように談笑する男に、エリスは混乱した。食事の量など、誰も気にしないと思っていたのに、この男は気付いた。それなのに、もう、知らぬ顔だ。気を遣われているのかどうか、分からない。目的を達したのならば、もはや、エリスの機嫌などどうでも良いはずだ――いや、そもそもの最初から、この男が気遣いを見せた事があっただろうか。そのようなものがあるのならば、取り引きなどという言葉は使わないだろう。
 ロロ達は、この数日ですっかりサムルに懐いたようであった。サムルは、煩くしつこいハラルドにも辛抱強く接していた。大人扱いされた事に満足したのか、ハラルドは兄達の会話には口を挟まず、神妙にしている。
 この男、人たらしかもしれない。
 エリスは再び疑いの目をサムルに向けた。
 第一、父がこの男を認めた、というところからして不思議であった。自分の知っている父ならば、決してサムルのような生まれの男は認めまい。ヴァドルもオルトも、この男の術中に嵌っているのではないだろうか。
 それとも、女である自分は、結局のところ、母と変わらぬ駒でしかないのか。何か、父には企むものがあるのだろうか。
 今回、現れた三人の内、最も選ばれる確率が低かったのが、サムルだ。いかにウーリックの修辞を以てしても、生まれをごまかす事はできない。しかも、サムル自身、隠そうともしなかった。人は、自分の不利になるような事は伏せたがるものではないのかと、エリスは思った。
 幾ら考えても、父がサムルの後見をして得るものはないように思われた。
 サムルにしても、いずれは露見するものならば、いっそ、自ら告白した方が、まだ有利に働くと考えたのかもしれない。率直であるならば、そうするだろう。
 それとも――エリスは考えた――ソルハルとの会話を聞き、自分の行動を見たのだから、この女には美麗字句を連ねても無駄だと思ったのか。
 それならそれで充分。変な期待や思い込みをされなくて済む。当然、エリスも人間であるからには、褒められたり美しい言葉を並べられるのが嫌いな訳ではない。だが、サムルにそれを求めるのは無駄だという思いもまた、(いだ)いていた。男に刃を突き付けるような女に、それが必要であろうか。
 母は、この取り引きによる結婚が気に入らないようであった。
 これ以上ない条件で、母も喜んでくれると思っていただけに、落胆も大きかった。誰とも親しまず孤独な母と、いずれは二人で暮らそう、という思いは、ずっと持っていた。男にも結婚にも興味がなかったし、家を継ぐのはロロであった。ロロは、反抗期ででもあったのか、見習い戦士になってから、少しく母に辛く当たった時期があった。オラヴもそうだった。ただ、アズルのみが変わらずにいたが、この弟は少々、変わり者であったので、余り

に出来そうになかった。
 少年時代であってさえ、母に対してつれなくなれるものならば、妻を娶り、子が出来た時に、邪魔者扱いせぬと断言はできなかった。弟達を悪く思うものではない。どこの家でも、役に立たぬ年寄りは、家長でなければ邪険にされる。女は家に関して知識をもっているので重宝されるが、母の場合はどうだろうか。全てはオルト任せで、館の事に関りを持ってはこなかった。それでは、ただ、養われているだけだ。
 誇りを持って生きようとするならば、北海では強くあらねばならないと、オルトも父も自分に教えてくれた。その強さが、母にはない。中つ海の人だと知って、ああ、という思いではあった。中つ海の人間は、弱い。虜になり、身分を落とされる事で、誇りまで失ってしまう。誰か守る者がいなければ、母は生きてはいけないだろう。
 その、守る者にエリスはなるつもりでいた。男は頼りにならない。女がどれほど陰湿なものなのか、男は知らない。今回の件で、母が中つ海の人間である事は北海に知れ渡るだろう。ロロ達の妻が、それで母を見下さないとも――最悪、弟達をも見下さぬとも限らない。
 共にこの島を出られたら、と考える事もあった。だが、それは不可能だ。女は船に乗せてもらえない。それが出来るのは、商人の家族と、他島へ嫁入りする娘だけである。父が健在であるのに、母を婚家に連れて行く訳にはいかない。それに、まだ成人せぬ弟達のためにも、どれだけ周りが勧めようとも、父は離婚はしないだろう。
 ならば、自分が愛想を尽かされた事にして出戻り、その際に戻される持参金を、全てでなければ小さな農場を買う分だけでも返してもらえば良い。自分の都合で別れるのだから、全てを返せと言う気はなかった。
 離婚を前提とした結婚である事を、サムルは全く窺わせない。父とも正面から交渉したのだ。弟達とも、生涯の義兄弟であるかのように接している。壊れるまでもなく、最初から割り切った関係であれば、親しくする必要もないであろうに、とエリスは皮肉に思った。適当にあしらわれれば、相手は大人であるのだから仕方がないと、まだ見習いの弟達は思うだろう。それで良かった。下手に親しくなれば、自分が帰って来た時に、衝撃も大きかろう。それは、起こるべくして起こる事なので、弟達には残酷だ。
 サムルは、そこまで考えているのだろうか。
 全ては、なるようにしかならぬと考えているのか。
 提案しておきながら、自分から離婚する気はないという事なのか。
 理由は何であろうと、弟達を嘆かせたくはなかった。
 そういう意味では、自分も残酷な事をしているのではないかと、エリスは思った。サムルは決して、嫌な人間ではない。多少、気に食わぬ部分があるにしても、それは弟達には関係のない事だ。母に対する態度から見ても、弟達には戦士の見本のような態度で接しているのだろう。
 サムルが、母の事をどのように見たのかは分からない。その事について話す暇もなかった。二年前に奴隷であった母親を亡くしているのならば、その哀しみがまだこの男の中にあるのならば、エリスの、母を心配する心も理解してくれるであろう。だから、と言って何かが変わる訳ではないにしても、弟達とも話せぬこの問題を、サムルとなら話せるのかもしれない。
 話してどうするの、と囁く声があるのも、確かであった。話しても、問題の解決にはならない。むしろ、この男に弱みを曝け出す事になりはしまいか、という恐れを引き起こした。
「難しいお顔をなさっていますね」
 横琴を手にしたウーリックが傍に来て言った。族長の娘に気軽に声を掛けられる男は、詩人(バルド)のみであった。
「せっかくの宴です、何か、陽気な詩でも奏でましょうか」
 明るい曲を聴く気分ではなかった。それに、何を演奏し、吟じようと、男達の耳に入るか怪しいとエリスは思った。
「ならば、この詩人に、心に重くのしかかっている事を、仰言って下さっても宜しいのですよ」
 詩人は信用できる。エリスはそれを知っていた。だが、これは家族の問題だ。誰にも話す事はできない。
「個人的な――貴女ご自身の問題であるならば、サムル殿に相談されても、宜しいのですよ」詩人は穏やかに言った。「あの方は決して貴女を(ないがし)ろにはされませんし、秘密は喜んで守るでしょう」
 自分がサムルから蔑ろにされるとは思わなかった。サムルにとっては、まだ自分は白鷹の娘である事には変わりはない。妻になればどうなるかは分からないが、今は、大丈夫だ。
 その思いが顔に出たのだろうか、詩人は微笑み、言った。
「サムル殿を信用なさいませ。貴女と人生を共にされる方なのですから」
 聞き分けのない子供のように自分は振舞っているのだろうかと、エリスは少し落ち込んだ。だが、別れる前提の結婚である事を、この詩人は知らないのだと思い直した。
「大丈夫だわ。そんなに深刻なことではないの。でも、心配してくれて、嬉しいわ」
「貴女も奥方様に似て、肝心な事は御自分の心の中に仕舞ってしまわれる」ウーリックは首を振った。「時には、そういう思いを解放する事も必要です」
「わたしは、考えなしに物を言ってしまうわ。少しは考えることも必要よ」
 エリスはなるべく軽く聞こえるように言った。詩人がその言葉を信じていないのは明らかであった。
「それよりも、何か歌って。いいえ、演奏して。あなた自身の曲をお願い」
 詩人は一礼をして引き下がった。手近に椅子を引き寄せて座り、膝に横琴を据えると静かに曲を奏で始めた。淀みのない穏やかで優しい旋律には、詩人の人柄が出ているようであった。
「ウーリック殿の音楽は、このような喧騒には似合いませんね」サムルがエリスに向かって言った。「静かな、落ち着いた場所にこそ、相応しい。宴よりも、家族の団欒向きだと思いませんか」
「そうね」
 子供の頃に炉辺で聴いていたウーリックの曲を思い出しながら、エリスは言った。あの頃は、様々に悩む事もなかった。全てがひっくり返ったのは、詩人が去った後、冬にスールが亡くなってからだ。
 スールの死は、両親にとり非常に大きなものであるというのは、子供心にも見えた。ハラルドを身籠っていた母は体調を崩し、難産で生死の狭間を彷徨った。父は不機嫌で、酒量が増えた。この館全体に、どこか荒んだ感じがしたものであった。
 大広間の入口の塚は、常に亡くなった弟を思い出させる。父にとり、それは、前の奥方とその子供達をも思い起こさせるのであろう。それが、どのような思いであるのかは、エリスには窺い知る事ができなかった。どのようにして二人の義母兄が亡くなったのかも、知らなかった。それは、訊いてはいけない事だった。
 しかし、いずれはこの島を去るのであれば、その事は知っておきたい、とエリスは思った。自分の生まれる前に亡くなった母親違いであれ、兄は兄であった。その死によって、父が母と再婚したのならば、猶更である。
 誰がそれを語ってくれようか。
「貴女の心を悩ませているのが何であれ、私に話して下さって構わないのですよ」
 はっとしてサムルを見ると、相手は微笑みを浮かべていた。
「秘密は墓まで守りますし、話すだけでも、少しは心が軽くなるものです」
 蜜酒を満たした杯を口許に運んでいるのではなければ、感動さえしたかもしれない。だが、サムルの態度には、どこか真剣さが欠けているような気がした。
 柄に似合わぬ、格好の良い事を言いすぎだ。
 何を慌てたのか、酒をこぼして短い顎髭から滴らせ、慌てて袖で拭っている姿など、正直、間が抜けている。
 詩人は偽りを述べない。どのように見えようと、その言葉や態度が軽かろうが、サムルは信用でき、信頼に足る男だという事だ。ウーリックの言葉を最初から知っていれば、あのような提案をされても悩む事なくサムルを選んでいただろう。だが、それでは自分で考えた事にはならないと、詩人は無言を貫いたのかもしれない。
 いずれにせよ、最早、後戻りはできない。明日、サムル一行は出航する。次は、結納財を携えてやって来る。それで、お終いだ。合間時間にこっそりとオルトが教えてくれた事によると、結納財を受け取るのは遠征前になるであろうという話であった。嫁ぐのは、次の夏、族長集会から父が帰ってすぐに出発する事になるだろう、と。
 時間が足りない、とエリスは焦った。
 母に自分の気持ちや考え、将来の見通しを納得して貰うのに、それで充分であろうか。
 このような話は、二人きりでなければできるものではない。オルトですら、聞いて欲しくはなかった。
「次にお会いする時には――」
 サムルが言い、エリスはその整ってはいるが華やかさのない顔を見た。手には、なみなみと酒の注がれた杯を持っている。先程とは異なり、また、あのどこかにやけたような笑みがその顔には浮かんでいた。
「次にお会いする時には、もう少し、打ち解けて下さると嬉しいのですが」
 この男に心を許すものか、とエリスは思った。心を許せば情も生じるだろう。いずれは別れる人である。サムルがどう考えようと、飽くまでも、他人のままでいるのが、互いにとっても良い事なのだ。
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