第20章・随想

文字数 7,676文字

 交易島に船が向かってしまうと、ロルフは供も連れずに一人で島の集落を巡る事にしていた。それは、自ら交易島へ赴くことがなくなってからの行動であったが、ヴァドルを初めとする部族の中核が不在の無聊を慰める意味もあった。
 二人の息子を失ってからというもの、ロルフは自分の周囲に死の気配が充満しているのではないかと思う事があった。だが、新しくもうけた子供達は皆、元気であったし、女も馬並みに丈夫だった。族長の中には、跡取り息子に何かあった時の為に次男三男が必要なのだと公言して憚らぬ者もいるが、ロルフはそのような気持ちで子供達を見たことはなかった。誰もが、自分の血を分けた者だった。先の二人のように光り輝くような美しさではなかったとしても、だ。
 どれほど多くの子をもうけようとも、二人を失った心の穴を埋めるものではなかった。女がエリシフの後釜になれないように、新たな子供達もまた、先の二人の代わりにはならない。それは、中つ海の血を半分引いているからではない。あの二人が特別であったのだ。そして、エリシフも。決して他の者にその座を譲ることはないのだ。
 初めて持った女子のエリスにしてもそうだ。エリシフとはまた異なった美しさを持ち、ロルフを虜にした。長じれば多くの求婚者が現れるだろう。その時には、母親が中つ海の人間であっても、ロルフの正妻であることが意味を持つ。
 エリシフでなければ誰でも同じであったのならば、何もあの女でなくとも良かったはずだ。エリシフの死が北海に知れ渡るや話は幾らでも持ち込まれたが、心を動かされるものはなかった。血縁関係を結ばねば危険なほどに七部族の均衡が取れていない訳ではなかったし、何よりも、エリシフ以上の女などこの世に存在しなかった。二人の息子以上に必要な子もなかった。
 だが、結果としてロルフは北海の女ではなく、中つ海の女を選んだ。それは、あの瞬間に見せた女の凛とした目と姿勢が、エリシフを思わせたからだ。唯一人、ロルフを恐れることなく、また、媚を売ることもなかったエリシフに似ていたからだ。
 その頃の面影を今の女に探そうとは思わなかった。それは最早、望んではいなかった。女はエリシフとは異なって非常に丈夫だ。ロルフの望むがままに何人でも子を産むだろう。それが、あの女がこの北海にいる意味だ。亡くした二人の子によってできた心の穴を、新たな子で埋めること、それだけだった。だが、自分は幾ら子を得ても決して満たされることがないだろうというのもまた、真実だと思った。新たな子達を愛していない訳ではなかったが、エリシフの子とは最初から違っている。愛情の結果として授かった子達と、必要に迫られてもうけた子達を同列に語ることはできない。それは子供達にかける愛情とは別物だ。子供とは、すべからく両親からの愛情を受けるべき存在であるとロルフは考えていた。だから、憎い中つ海の人間の血を半分引いているとしても、自分の子である以上は愛情を注いでもロルフの中で矛盾はないのだった。
 あの女は違う。家畜のように扱われるのが相応なのだ。何も考えず、何も感じずにロルフの言うがままに生きていれば良い。自ら媚を売ってこないというのは少々、愕きであったが、そこは城主の娘の矜持というものなのかもしれない。それはそれで面倒がなくて良いとさえ思った。族長である自分に秋波を送る女は多かったが、そのような者は面倒を持ち込むだけだった。また、女がウーリックと情を通じていたなどとは思わなかったが、詩人(バルド)に心を動かされるようなことさえも、ロルフには許し難いことであった。中つ海の人間にそのような資格はない。本来ならば奴隷の身として最下等の仕事をさせてやるものを、子の為に正妻として迎え入れたのだ。心や感情を動かすことを許されると思ったならば、大間違いだ。女はロルフの所有物でしかない。ただの物なのだ。物に心はいらない。
 子供達と楽しげに過ごしている女は、本来ならばそこにいてはならない存在であった。男子は全てオルトが養育する事に決定したのはロルフだった。それは、北海の男として必要な基礎を身につけさせる為だった。オルトが年老いた身では大勢の子守は難儀であり、安心して任せれられるような者もないと言うので仕方なく許しているに過ぎなかった。老いたりとは言え、オルトはやはりロルフの乳母であった。女達のことはロルフには分からない。巧く行っているのならばそれに敢えて反対することもなかろうと思っていた。男には男の事情があるように、女には女の事情があるのだろう。それでも、子供達が中つ海の腑抜けのように育ってはならないので、ロルフは時間を見てはヴァドルに子供達に剣術の手ほどきを頼んでいた。幸いにも、男の子達は荒事が好きなようだった。
 困るのはエリスだった。女子の身で剣を使いたがり、ロルフに短剣をねだってきた。裳着の儀式の時に鍔のない片刃の小太刀(スクラマサクス)を贈るまでの我慢だと言い聞かせたが、同じ年頃の集落の男の子達が既に短剣を所持しているのを見て納得がいかぬようであった。エリスが男子であれば、ロルフは喜んで自分の短剣を授けただろう。だが、エリスは女子だった。家事の仕切り方を憶え、裁縫や糸紡ぎ、織物に精を出すのが女の仕事だった。習うのならばそちらだと何度も言ったが、聞く耳を持たない。それでも、ロルフには可愛い娘だった。そろそろ女らしいことを憶えなくてはならない年齢に差し掛かっているので、いつまでも甘い顔を見せる訳にもいくまい。オルトに注意すべきであろう。
 女子あるからと言って、あの女に任せきりであったのは失敗であったのかもしれない――ロルフは思った――性格的にエリスは自分に似てはいるのだろうが、それを矯正できなかったのは女の責任だ。多少のはみ出しは許されるが、飽くまでも女は女だ。奇矯な考えを持たぬ内にその芽を摘まねばならない。
 ロルフは己が男に生まれたことを神々に感謝した。女に較べると男は自由だ。家庭というくびきがあったとしても、それに繋がれることもない。全てを置いて海を渡る時の爽快さは、女には一生、縁のないものだ。
 いずれは、息子達も自分に続いて海に、戦いに出ることになる。そして、自分がこの世を去った後にはロロが族長の座に着く。そうして綿々と血脈が受け継がれて行くのだ。ロロの身体には半分しか北海の血が流れていなくとも、気にする者は誰もいないだろう。北海でロルフの息子として育った子だ。母親が中つ海の者であろうと、正妻である以上は文句のつけようがないに違いない。族長家に仇する者がいようとは思わなかったが、少しでも不安があるならば早くに対処するに越したことはないだろう。
 それには、ヴァドルの協力も必要だ。一人では見えぬことでも、二人ならばまた違った視点で考えることができる。それには冷静な目を持つヴァドルはうってつけの相手であった。ここ数年の交易島での働きを見ても、ヴァドルが副官として有能であり、信頼に足る人物であることは皆にも知れ渡った。相変わらず目立つことを嫌う男であったが、際立った才覚を隠すことはできない。例え、ヴァドルが乳兄弟でなくとも、ロルフはこの男を重用したであろう。それだけの男であった。自分は、ヴァドルのような男を側近くに持てて幸いだと思った。
 子供の頃の思い出の中では、いつでもエリシフとヴァドルが共にいた。それ程に、三人は近くにいた。だが、エリシフは若くで生命を落とした。その時、子供達だけでなくヴァドルが共にいてくれたのが、どれほど大きな慰めと力になっただろうか。どれ程ヴァドルに大きなものを負っているのか、本人は知るまい。ロルフは決して、忘れない。涙さえも忘れたあの日々の暗闇から日常に連れ戻してくれたのは、ヴァドルだった。
 いつでも一歩も二歩も下がっているこの乳兄弟を、ロルフはどれほど信頼していることだろうか。自分に何かあった時に後を任せられるのは、長老達ではなく、ヴァドルであった。それほどの信頼を一人の人物に置いていることを、年寄り達が余り快く思ってはいないことも、ロルフは承知していた。それでも、どのように悪口(あっこう)を吹き込まれようとも、ロルフの心は揺らがなかった。ヴァドルがそれだけの男であったからだ。
 ただ一つヴァドルについて解せぬところがあるのだとすれば、それはいつまでも独り身でいることだった。不調法者だと本人は言うが、ロルフはそうは思わなかったし、集落の女ならば、ヴァドルがどのような気性か知っているであろうにと思わずにはいられなかった。女好きのする顔つきではないにしても、その性分は穏やかで、良い夫や父親になるだろうと思われた。どのような良縁であっても、ヴァドルは興味を示さない。オルトは既に一人息子に意見することを諦めているようでもあった。女の親から婚姻の話を持ち掛けるのは恥であったが、別集落や別部族からも、ヴァドルの場合は話が持ち込まれることがあった。それさえも断ってしまう。だからと言って、ヴァドルが女に関心がない訳ではないことも、ロルフは知っていた。ただ、何がヴァドルの琴線に触れるのかは謎であったのだ。それさえ解ければ、あの男を自他共に認める一人前にすることができるのだがと、残念であった。
 北海の男は結婚をしてようやく一人前と認められる。十八で正戦士となろうとも、まだひよっ子だ。結婚し、家庭を持って初めて、一人前の男として認められるのだ。故に、ヴァドルは未だに年寄り連中からは一人前扱いされない。中途半端な地位にいる。だが、既婚であろうがなかろうが、ヴァドルの才覚を無視することはできない。それは長老達も分かっているだろうとロルフも思っていたのだが、中には頭の固い者もいる。それを理由にヴァドルを認めようとしないのだ。慣習というものの根深さと弊害に、その時ロルフは気付いた。慣習に反するからと言って優秀な人材を用いないのは、部族にとって損になるとまでは考えないのかと呆れたものだった。だが、同時に、何に拘泥しているのか、よい年齢になっても独り身を通すヴァドルに苛立ちを覚えたのも確かだった。
 愛情に固執しているのか、と思う事もあった。だが、誰もが愛情のある結婚をする訳ではない。現に、今のロルフがそうだ。だが、それを不幸と言い切ることはできないであろう。エリシフの時のような幸福感はないにしろ、子供達と過ごす時間は楽しいものであったし、何物にも代えがたかった。妻に対しては何の感情も持てなくとも、子供に対しては異なる。それで充分ではないか。ロルフは、自分は充分に満足な生活を営んでいると思っていた。
 ヴァドルは自分の血を引く子を欲しいとは思わないのだろうか。ロルフの子達を可愛がる姿を見ていると、そう疑問に思うこともあった。他人の子が可愛いのならば、自分の子ならば猶更であろう。子供の中に自分に似た部分を見るのは歯がゆくもあるが、それでも、愛おしい存在だ。今度、ヴァドルに話が持ちかけられたならば、その線から進めてみるのもよいだろう。オルトに任せきりでは、恐らく、ヴァドルは一生独り身のままだ。
 どういう訳か、オルトはヴァドルの結婚に対してそれ程前向きには考えてはいないようだ。本人が乗り気でないならば、それ以上は進める気がオルトにはないようにロルフには思えた。普通の親であるならば、それは余りにも義務を疎かにしていると言われるところであろうが、オルトは特別な人間だった。いままでの人生の大半をロルフの為に費やして来た。ヴァドルは幼い頃からそのことに対する不満や寂しさをロルフに訴えるような真似はしなかった。だが、その心はどうであったろうか。父親は生まれる前に亡くなり、頼るべき母親は常にロルフの側にいた。そのことについて、思うところもあったのではなかろうか。
 それでも、ヴァドルはいつでもロルフの傍らにいた。数月しか違わぬというのに、兄のように感じることもあった。それがヴァドルの本質なのであろうか、何も語らなくとも自分の置かれている立場に不満はないようであった。
 ヴァドルのような男を側に置くことができるのは幸運だと、他部族の族長も褒め称える。ロルフもそれに関しては神々の采配に感謝をする他なかった。族長の娘を貰う話も一度や二度ではなかったのだが、万事に控え目なヴァドルは、族長家の者を迎え入れられるような身ではないと固辞していた。だが、そろそろ、それは止めにした方がよいのではないかとロルフは思っていた。自分の時と同様に、別に他の族長家との縁組を必要としている訳ではなかった。だが、ヴァドルにその働きに見合うものをとなると、やはり、そのくらいのことは必要であろうと思われた。それは、決して大袈裟な謂いではない。
 ロロの成人前にロルフに何かがあった時には、ヴァドルがその後見となるように整えてあった。本人はそこまで考えてはいないかもしれないが、副官になるというのは、そういうことだ。只の側近とは違う。だからこそ、長老達の反対も根強かった。独り身の男に後見が務まるはずがないと言うのだ。こればかりは、ロルフは結果を知ることができない。だが、ロルフは何を言われようと考えを変える気にはならなかった。絶対的な信頼をヴァドルには置いていた。それに足る男だという確信もあった。
 面と向かってそのようなことを言ったことはなかった。言う必要も感じなかった。ヴァドルは聡い。どこかのんびりとした風貌の下には、鋭利な頭脳を宿していた。そんな男に何を言う必要があるだろうか。女と異なり、男は言葉を欲しないものだ。形のない言葉よりも、もっと確かなものを欲する。そちらの方がロルフとしても楽だった。女というものは、非常に厄介だ。何かといえば約束の言葉を欲する。去ろうとするロルフの邪魔をしてまでも言葉を引き出そうとする。唯論、エリシフは違った。エリシフは特別な女だった。いつでも、何時までもそうだ。
 新たに女を娶り、子を為しても、エリシフと二人の子供達の面影は薄くなるどころか、鮮明さを増した。それは、中つ海の女との対比のようだった。決して年を取る事もない三人に比して、女や子供達はその年齢を重ねてゆく。今やヴェリフと同い年のロロは、やがてエリタスの年齢を越すだろう。そして、エリタスが年齢に達すれば入るはずであった戦士の館で修行を積み、正戦士となるだろう。それは、決して二人が成り得ないものだった。ロルフの後を継いで族長になる、というのも唯論の事だ。
 どのような人生を、ロロは送る事になるのであろうか。今はまだ幼子であったとしても、無事に育てばその日は、何時か必ず訪れるものだ。エリスは。他の子供達は。
 ロルフは最早、自らの人生に関心を持つことはできなかった。それは、エリシフの死と共に終わったのだ。残りは幽鬼のようなものに過ぎない。
 自分はどれほど、あの美しいエリシフを愛した事だろう。全てを投げ出してでもその手を欲しいと思った。生命を賭して、生涯愛し、守り抜きたいと思った。だが、そのエリシフはもういない。ただ、ロルフの胸に思い出が残るだけであった。若いままのエリシフを遠く置き去りにして、自分は随分と年月を重ねてしまった。他の女と子を為したことも、族長としての義務を考えればエリシフも許してはくれるだろう。しかし、二人の子を失った事に関しては、決して赦しを得られることはないと思った。如何に交易島が中立だとは言え、幼い子供達から目を離すべきではなかったのだ。若い娘一人に任せきりにしてはいけなかったのだ。せめて、誰かを付けるべきであった。
 あの事があってから、ロルフは交易島へは行かなくなった。行けば、どうしても思い出すだろう。常は記憶の中に閉じ込めている二人の無残な姿を。
 アスラクとその妻は、その年、冬の始まりに島に戻った。集落から離れたところに農場を買い、先年、ひっそりと二人とも世を去った。娘の死を悼むばかりの日々だったと、ロルフは報せをもたらした奴隷に聞いた。
 真に憎い男は葬った。だが、心の中は虚しいままであった。女を叩いたところで、それは埋まらない。だから、そうすることも止めた。それに、女の側には常にエリスがいた。娘の前でその母親をどうこうすることはできない。
 我ながら歳を食ったのかもしれない、と思う事もある。もっと若ければ、娘の前であろうと女を責め苛んだだろう。亡くした子供達の事だけでなく、ウーリックの件もだ。あの女は軽率すぎる。中つ海の女なのだから、それは仕方のない事なのかもしれない。族長の正妻なのだから、その辺りはわきまえなくてはならないのだが、まだ、あの女の中には中つ海が残っているのだ。生涯、抜けぬものなのかもしれない。せめて、子供達がそのような資質を受け継がぬようにと祈るばかりだ。特にエリス。女である以上は、母親と最も長い時間を過ごす。あの女の有り様を見て、それを当然の事と思わなければ良いがと、案じた。
 ロルフは眉をしかめた。
 族長として為さねばならぬ事は多い。そこに加えて家族の問題など抱えたくはなかった。全ては自分が中つ海の女を娶った事から始まったとは言え、集落に馴染もうとはしない女にも責任はある。オルトの言葉によると、外に出ても集落の女達とも言葉を交わす事はないという。それでは族長の妻としての務めを果たしているとは言い難いが、元より、ロルフは女にそのような事は望んではいなかった。あの女の務めは、子を産む事だ。他にはない。宴の際に横に並ぶのは、それが慣習であるからだ、情があるからではない。そのような事を、集落の者達も感じ取っているのだろう。最低限の礼を、あの女には尽くすのみだった。面と向かってロルフに何かを言う者はなかった。それが出来るのはヴァルドとオルトだけである。その二人が何も言わないことを、他の者がわざわざ口にするだろうか。
 オルトとヴァドル、この二人を側に置くことによって、ロルフが得たものは多いと言えるだろう。若い頃は家族に恵まれなかったロルフだが、オルトのしっかりした手と豊富な知識によって、子供達は健康に育っている。そして、ヴァドルの補佐があってこそ、族長の責務も無事に果たせていた。もし、ヴァドルがいなければ、今でもロルフ自身が交易島へ行かねばならなかっただろう。その事に耐えられたとは思えなかった。今でも、二人の子供を思うと胸が痛む。生涯、あの島へは足を踏み入れることはないだろう。それ程までに、ロルフは介入を拒否した交易島が憎かった。殺人者を速やかに引き渡して貰えたなら、ロルフは何も中つ海くんだりまで遠征でもないのに行く必要はなかった。中つ海の女を正妻とする事もなかった。いや、そもそも和平の紐を無視するような者を上陸させた役人がいなければ、あのような事件は起こらなかった。
 全ての運命を狂わせたのが、交易島だった。
 自分の運命も、あの女の運命も。
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