第14章・生命

文字数 7,360文字

 族長集会は無事に終わった。
 ロルフは船の舳先に立って海を見つめた。
 交易島で起こった事を包み隠さず、話した。その時のどよめきはまだ耳に残っていた。誰もが安全だと疑わなかった交易島で、あのような事件が起きるとは考えてはいなかったのだ。そして、今回はロルフの幼い子供達であったが、次には誰の子であってもおかしくはない。
 犯人の男を殺した事は伝えたが、女の事は言わなかった。ただ、再婚はしたのだと言うに留まった。皆は同じ島の女だと思った事だろう。それで良い。別に集会が自分の島である時でも、特に他の族長に女を紹介する必要は感じなかった。それはもう、三年後に迫っている。それ位になれば、女の方も北海に慣れて不自由しないであろうが。
 未だに、ロルフは女を妻だと考える事ができなかった。ロルフにとっての妻はエリシフのみであり、女は飽くまでも道具だった。子を産ませる為の道具。それ以上でも以下でもなかった。唯論、女と共にいる時にはその雰囲気の相似もあってか、エリシフの存在を強く感じた。だが、振り向いてもそこにエリシフの姿はない。腹の膨れた女がいるばかりだった。そうなると余計に虚しい気持ちに襲われる。それならば、顔かたちが似ている方がまだ良かったと思える。幻を追うような事がないからだ。
 幻を追う――そう、自分は何時でもエリシフの幻を追っている。子供達の中にそれを見、女にそれを感じた。しかし、実際のエリシフはとうにこの世の人ではなくなっている。その面影は決して胸を去らなかった。去ってくれとも思わない。
 今や、エリシフを子供達の顔に見る事は適わなくなった。二人は共に館の戸口に葬られた。永遠に失われた。だが、あの女は、エリシフを感じさせる。具体的にどのようなと訊ねられてもロルフには答える術がなかった。だが、確かにあの女はエリシフと同じ空気をまとっている。
 オルトにもそれは分かるようだった。かいがいしく女の世話をしていた。間もなく産まれる子の世話も任せられるだろう。
 間もなく産まれるとは言っても、ロルフがその子の事を考える事は殆どなかった。自ら望んでおきながら、興味が持てなかった。それでも、膨らんで行く腹に手を当てて微笑んでいる女には気付いていた。エリシフもよくそうしていたものだった。少なくとも、女に母性はあるのだろう。
 だが、ロルフは最初の考えから変わってはいなかった。女であった場合と亡くした二人の子に似ていない場合には、始末するつもりであった。産まれた子の生殺与奪権は父親に委ねられている。始末する事は別に罪ではなかった。現に、不作不漁の年の冬には多くの新生児が始末される。可哀想だとは思わなかった。それが当たり前の事だった。相続権のない女子もまた、始末される理由になる。
 唯論、女子でも大事にする父親もいる。だが、大抵は跡取りとなる男子よりは父親の興味は薄れるだろう。嬰児殺しの習慣で男女の比率が男の方が若干、多くはなるが、大きく均衡を欠くという事はない。それ故に黙認される。ヴァドルのようにいつまでも独身の男がいるのは残念な事だが、仕方がない。それに、男子は多く産まれても、六歳になるまでに病で儚くなる事も多かった。遠征で生命を落とす者も少なくはない。家を絶やさぬように養い子も広く行われていたが、ロルフは養い子を取るつもりはなかった。
 ロルフの機嫌を気にして、ヴァドルも話しかけては来ない。集会で子供達の身に起こった事件について言及しなくてはならなかったのは、身を切られるよりも辛い事だった。ヴァドルもそれは知っているだろう。まだ、その傷口からは血が流れ続けている。決して、それが塞がる事はないであろうとロルフは思った。エリシフの死から完全に立ち直ってはいないところへもっての悲劇である。生涯――何歳まで生きる事になろうとも、その傷口は新しいままだろう。
 あの女の子供がそれを癒してくれるとは思わなかった。自分は子供を愛しはするだろうが、先の二人ほどではないだろうと思った。どのような子であっても、二人の代わりにはなれない。なれるはずがなかった。これから産まれる子は、エリシフの子ではないのだから。
 北海は、ロルフの身に何が起ころうともその姿を変えない。自分の生が、この海に較べると何程のものでもない事は、初めて海に出た時に知った。だが、確かに自分は生きているのだ。この海がその中に生命を孕んでいるように、自分にも生命はある。父によって生きる事を認められ、今は一族を率いる身となった。そして、今度は自分が生命の選別をする側だ。
 エリシフの子供達は無条件で生きる事を許された。それは男児であったからもあるが、何よりもエリシフの子であったからだ。あの女の子とは違う。
 だが、自分の帰る場所にいるのはエリシフではなく、あの女だった。

 島に帰ると、人々に混じってあの女がオルトと共にいた。その腹は、何時産まれてもおかしくないように見える。
「お帰りなさいませ」
 まるでエリシフのように女は凜とした声で言った。遠征から帰ってきてからというもの、この女は変わったとロルフは思った。それまでは何処か投げやりで自分を憐れむ事しかしていなかったのが、自信に満ちているように見える。子を孕む事によって変わったのだろうかとロルフは不思議だった。どうあれ、従順な姿勢を崩さない間は良い。
 ロルフは女とオルトに頷いた。女はそれ以上は何も言わない。これが北海の女ならば、集会はどうであったのか、など訊ねてくるところだが、ロルフもそれを許す気もなかった。女は飽くまでも中つ海の人間だ。北海の話に口を挟むものではないとロルフは考えていた。身の程をわきまえているのは悪い事ではない。オルトがロルフへの接し方をあれこれと教えているのかもしれない。それはそれで良い事だ。
 館に入ると、既に宴席の準備は出来ていた。ロルフに続いて、ヴァドルを始めとした族長船の乗組員が入って来た。皆、疲れた顔はしていない。あちらの島でも歓待を受けたのだから当然だろう。三日程度の船旅など、物の数にも入らない。
 高座に着き、広間を見渡すとほぼ全員が揃っていた。荷下ろしの指示をしているのであろうか、積荷船の者がまだだった。
 女がロルフに蜜酒で満たされた杯を運んで来た。それをロルフに手渡すと、一礼をして下がった。遅れていた積荷船の乗組員も入って来たので、ロルフは皆の手に杯が行き渡っている事を確かめると、乾杯を促した。
 宴が始まる。今日は集会からの帰還の祝いなのだから、それほど皆も深酔いはしない。帰る家のある者は集会での土産も携えていることだろうし、家族の顔も見たいだろう。
 昨年の宴には、ロルフの二人の息子も列席したものだった。頬を紅潮させ、憧憬の目でロルフを見ていたものだった。宴も、もっと笑いに満ちていた。
 いつか、また、皆が自分の機嫌を伺わぬようになる時が来るのだろうかとロルフは思った。だが、それには息子達が必要だった。この高座に侍らせる息子達が。
 詩人が音楽を奏で始めた。広間のざわめきに陽気な音が重なった。
 陽気な音楽など求めてはいなかったが、それでは折角の宴席に水を差すことになる。そういう時には自分の機嫌よりも一族の方を優先するものだと、父から教わった。席に居並ぶ者達には個人の気分など関係はないのだ。族長であるという事は、(はた)で見るよりもずっと禁欲的で孤独なものだった。
 ヴァドルが杯を手にやって来た。
「集会も終わって、やれやれですな」ヴァドルは言った。「後は御子が産まれるのを待つばかり、ですか」
 できるだけ軽い調子で言おうとしているのが分かった。
「夏至祭もある」
「ああ――夏至祭」
 余り乗り気ではなさそうな返事だった。夏至祭には結婚式も行われる。今年も相手のいないヴァドルはオルトに何事かを言われたのかもしれない。
「目星を付けた娘はいないのか」ロルフは笑いながら言った。「副官となった今では、親たちの方が必死かな」
「そんな者はいやしませんよ」
 むっとしたようにヴァドルは答えた。「ただ、結婚に興味が持てないだけです」
 ヴァドルには特定の女もいない事をロルフは知っていた。誘われれば否とは言わないだろうが、自分から声を掛ける方ではない事も。
「何なら、お膳立てをしてやっても良いぞ」
「結構です」
 ヴァドルは言った。
「だが、オルトは煩いだろう」
 それにはヴァドルも肩を竦めただけだった。
「観念して、さっさと結婚した方が楽だと思うが」
「そのような事よりも、奥方様は大丈夫でいらっしゃいますか。宴でもお姿を拝見する事が少のうございますが」
「大丈夫だ」
 一瞬、誰の事だと思い、ロルフは少し苛立ちを憶えた。「自分から出て来たがらないものを、無理矢理引っ張って来る訳にもいかんだろう、あの身体では」
「それはそうですが、お加減が悪いのではないかと」
「中つ海の身分のある女は、孕んでいる間は余り人前に姿を見せないものだとオルトに話したらしい」
 親子でありながら、別々に起居してるヴァドルには伝わっていなかったようだ。
「成程、では安心致しました。あのご様子では、いつ何時(なんどき)、産気づかれても不思議はありませんからな」
 自分は何も心配してはいない。オルトもいれば療法師もいる。何を心配する事があるだろうか。
 そう考えて、自分はやはり、あの女に冷たいのだろうかとロルフは思った。ヴァドルでさえも心配しているものを、自分は何も思ってはいない。だが、それも当然かもしれない。望んだとは言え、愛情がある訳ではなかった。女の健康状態に無関心なのも仕方のない事だろう。
「お前がそれほど細やかな神経を持っているとは愕きだな」
 ロルフは大袈裟に言った。唯論、ヴァドルは心配りのできる男だ。それでなくては船長や副官は務まらない。
「放っておいて下さい」
 少し機嫌を損じたようにヴァドルは言った。本当はそうではない事くらいロルフは知っていた。
「そのような事を言いに、わざわざここまで来た訳ではなかろう」
 ヴァドルはロルフのあの女への気持ちを知っているはずだった。たかだか、そのような事を言う為に来たのではない事は明らかだった。
「ええ、少し、貴方のお耳に入れておきたい事があります」
 近くに寄るようにとロルフは身振りで示した。
「何だ」
 ヴァドルが隣に来るとロルフは訊ねた。
「貴方の奥方様に関してです。母は何も申しませんか」
「何も」
 それは本当の事だった。
「皆は、貴方の奥方様が中つ海の者である事を快く思ってはおりません。しかも、この度、お生まれになる御子が男子であった場合、次期族長となる訳ですが、その事に関しても」
 そのような事は考慮済みだった。
「誰かがお前にそう言ったのか」
「はい」
 あっさりとヴァドルは認めた。
「一々、そのような事にも対応せねばならぬとは、難儀な事だな」ロルフは笑った。「案ずる事はない。あの女が私の名代を務める事はない。それに子は、オルトの手で育てさせる」
 ほっとしたようにヴァドルが息を吐いた。ロルフの癇に触るかもしれない事を言うのには、この男とて緊張を強いられるものなのだろう。
「それでしたら、皆は納得せざるを得ないでしょう」ヴァドルは言った。「既に考えていらっしゃったのですね」
 子供を生かすかどうかを決めていないので、乳母の手配をしていなかっただけだった。その事はヴァドルにする話でもない。
「皆が心配しておりましたのは、奥方様が貴方の名代を務められる事がありましても、それが中つ海の遣り方ではないかと。御子の事にしてもそうです」
 ロルフは鼻で笑った。人々の考えそうな事は分かっている。だが、恋に目がくらんだ訳でもないのに、ロルフには女に北海の権利を主張させるつもりはなかった。また、中つ海の女に北海の一族を統率するだけの力があるとは思えなかった。そういう事はオルトに任せておけば間違いはなかった。
「オルトには世話を掛けるがな」
「母の事はお気になさらず」
 ヴァドルは頭を下げた。この親子は、常に損得勘定なしに族長家に仕えてくれている。そういう者は貴重だった。
「貴方様にお仕えする事が、母の喜びでございますから」
 ゆっくりとロルフは頷いた。族長家の跡取りと乳兄弟の関係にあるという事は、子供時代にヴァドルは相当に我慢を強いられたのではないだろうかと思う時もあった。だが、ヴァドルはそれを見せた事がなかった。数月年上なだけであったが、常に兄のように接してくれていた。それが母親であるオルトの教育の賜物であるとしてもだ。
 ロルフは、オルトとヴァドルには感謝しても感謝しきれぬものがあった。しかし、それを口に出して言うことはなく、また、だからと言ってヴァドルを副官に取り立てた訳でもなかった。それはヴァドルの実力によるものだ。それでも、ヴァドルはまだその地位に慣れないのか居心地は良くなさそうだった。
「案ずる事はない、何も」
 ロルフはそう言い、蜜酒を口に運んだ。

 夏至祭が近づくと、集落はいつものように落ち着かない空気に包まれた。ロルフも肌でそれを感じていた。贄の馬も選び終わり、準備はほぼ、終わっていた。女もロルフの晴れ着を縫い終えたようだった。雪深い冬至祭と違って、夏至祭には他の集落からも人がやって来る。そのもてなしも族長家の役目だ。そちらの方はオルトの仕事なので抜かりはあるまい。
 オルトが自分の仕事をこの館の女主人である女に委譲できない事を不満に思っていたにせよ、それを口に出す事はなかった。ロルフは全ての命令をオルトに下していたのだから、日常はいざ知らず、公にはオルトがこの館を取り仕切っている事になっていた。族長集会で留守の間の事も、全てオルトの責任で行われていた。
 女奴隷が慌てたように走ってきた時、ロルフは翌日の鷹狩に使う白鷹の調子を見ていた。
 何事かと思ったロルフに、女奴隷は言った。
「奥方さまが、産気づかれました」
 そのような事で。
「産まれてから来い」
 それだけを言い、ロルフは白鷹に注意を戻した。
 女奴隷が去るのも見ずに、ロルフは鷹を放った。紐を付けた疑似餌を放り投げると、鷹は急降下して疑似餌を摑んだ。調子は良いようだ。
 館に戻れば、面倒な事が待っているのは分かっていた。エリシフの出産の際には、ロルフ自身も落ち着かなかったものだが、今回は違った。心の何処も動かなかった。自分の子が産まれるというのに、冷静でいる。それは、これから起こるかもしれない事を考えると歓迎すべき事であった。
 自分は新たな生命の生殺与奪権を持っている。エリシフの時にはそのような事は考えもしなかった。エリシフの子は、例え女であろうとも生きる事を最初から許されていた。殺す事など、考えもしなかった。
 どちらも自分の子である事には違いはないのだが、母親が違うと、こんなにも感じる事が異なるのかと、ロルフは少しばかり愕いた。
 だが、鷹を操っている内に、女の事はすぐに頭から離れた。翼に黒の斑点のある白鷹の仕上がりは上々だった。自分の異名にもなっている白鷹を、ロルフは子供の頃から愛していた。他の鷹にはない気高さをこの鷹が持っていたからだ。それは、エリシフにも通じるものがあった。
 鷹の調教を終えると、ロルフは馬の様子も見に行った。馬にもロルフの気に入りは一応あったが、どれも能力に差はなかった。夏至祭に行われる闘馬にも出せる。一頭ずつを見て回り、明日に使う馬を決めた。
 館に戻ると、女奴隷達がせわしなく立ち働いていた。オルトの姿は見えない。恐らく、女療法師と共に族長室にいるのだろう。
 ロルフは重い溜息をついた。誰もが、女の出産に注意を向けている。族長の子が産まれるのだから、それも当然かもしれなかったが、ロルフにとっては面白くなかった。高座に座すると、いつもはすぐに出てくる蜜酒が、この日は少し遅かった。
 憮然として、ロルフは杯に口を付けた。

 産屋となっている族長室に戻る訳にもゆかず、ロルフは大広間で眠った。そして、朝まだきに起き出すと鷹狩りへ出た。起こされなかったのは、まだ産まれてはいないという事だ。エリシフの時にも言われたが、初産は時間が掛かるものだ。今日はヴァドルも伴ってはいない、一人きりの狩りだった。たまにはそういう日もなくては、息が詰まりそうになる事もあった。
 狩り場の湿地に着いた頃には丁度、鴨が活動を始める時分だった。ロルフは鷹を放った。
 その成果は良かったので、予定していた刻限よりも早く館に戻る事になった。
 馬を奴隷に任せ、鷹を小屋に戻した。獲物を手に大広間に入ると、オルトがいた。
「このような時に狩りになど――」
「上々の狩りだった」
 ロルフは獲物の鴨を卓子に置いた。
「ただ待つだけでは能がなかろう」
 エリシフの時に、なかなか産屋の前を離れられなかったロルフに向かってオルトが言った言葉だった。
「先ほど、お産まれになりました」
 ロルフは眉を上げた。男か女かは問わなかった。オルトの言葉から大体察せられた。そして、族長室に向かった。
 荒々しく扉を開けると、女療法師が愕いたように顔を向けた。女は寝台に目を閉じて横になっていた。ゆっくりと、その目が開く。

…」
 その口から自分の名が出た。顔は不安そうだ。
 オルトが入って来たのが分かった。
 女療法師がロルフに布でくるんだ赤子を手渡した。
「とてもお美しい女の子でございます」
 やはり、とロルフは思った。二人の男子の時には、オルトは「おめでとうございます」と言ったものだ。ならば、この赤子には用はない。
 投げ捨てようと赤子に目をやった。
 そして、愕いた。産まれたばかりの赤子の顔立ちというものは、エリタスにしてもヴェリフにしても、どこかぼやけていた。だが、この赤子はいやにはっきりとした顔立ちをしていた。目は閉じているが、髪の色は女と同じだ。エリシフには似ていないが、違った意味で非常に美しいというのは確かだった。女子で、これ程に美しい子供はいまいと思った。
「水盤を持て」
 気が付けば、そう言っていた。オルトが急いで、水盤をロルフの前に差し出した。その水に指を浸し、赤子に振りかけた。
「エリスと名付ける」
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