第27章・潮目
文字数 3,824文字
数日経っても女は生き続けた。ロルフは族長室に戻る事はなかった。
ハラルドは乳母の手に預けられ、女は療法師の庇護の許にあった。出産前に療法師が語ったように、やはり女に次の子は望めないという事であった。
ならば、最早、女を生かしておく意味はなくなった。
集落は族長家の新しい生命の誕生に沸いていた。命名式には、他の集落からも人が訪れたほどに盛況であった。
そろそろ、潮時かもしれないとロルフが思ったのは、十日も経った頃だった。女は未だに枕から頭が上げられぬ状態であるらしかったが、それは却って好都合とも言えた。
ロルフは、療法師が女の側を離れる隙を窺って族長室に入った。
静かに扉を閉めたり足音を忍ばせるという配慮はしなかった。自分の部屋に入るのに、そのような気遣いは不要だと思ったからだ。
枕頭に立ち、女を見下ろした。
長い髪は緩い一本の三つ編みにされていた。その顔は蒼く、生気が感じられなかった。目も、閉じられている。健康であれば、美しいとさえ思ったかもしれない。
このように具合の悪い女を見るのは、納屋からヴァドルが連れ戻して来た時以来だった。
ロルフの腰の小物入れの中には、あの眠り薬が入っていた。そのような物を用いなくても、女は今にも消え去りそうだった。
もう何年、この女は自分の妻であり続けていたのだろうかとロルフは思った。エリシフが自分の妻であったよりも長く、その座にいることは確かだった。この女は、今は幾つになったのだろうか。そういった事にも、ロルフは興味を持った事がなかった。
ただ、生きる場所を与えたに過ぎない。子を産むことを許したという点以外では、奴隷とさほど変わらぬ存在だった。
微かに瞼が震え、目が開いた。痩せてしまったがために、その緑がかった茶色の目は大きく見える。
「わたしを殺しにいらっしゃったのですか」
女はロルフに眼を向けて言った。小さく、静かな声だった。
ロルフは何も答えなかった。
「抵抗したりは、しませんわ」
女はロルフの反応など気にする風もなく言葉を繋いだ。「お考えは、分かっておりますから」
ロルフは女の目を見た。そこには恐怖はなかった。ただ、自らの運命を受け入れようという決意が、そこにはあった。
その目は、色こそ違え、エリシフが最後に見せたものと同じであった。
死に行く運命を、静かに受け入れようとしていたあの目に。
あの時、エリシフは何と言っただろうか。
ああ、そうだ、ロルフに愛する事を忘れずにいるよう、そのような女性が現われた時には躊躇わずに再婚するようにと言った。それが、どれほど残酷なことであるか承知しながら。そして、疲れたから眠る、と言ったのだ。
子を愛する心なら残っていた。だが、女を愛する心は、エリシフと共に死んでしまった。
長い病の果てにすっかりと痩せてしまったエリシフは、青みがかった灰色の眼ばかりが大きく感じられた。
そして、今、中つ海の女が同じようにしてロルフを見つめていた。
「わたしは、スールの生命の代償を贖わなくてはなりません」
ロルフは思わず、腰の小物入れに手をやった。
そうだ、この女はスールの生命の代償を払わなくてはならないのだ。身体が動かないのは、一体どうした訳なのだろうか。
榛色の目は、ロルフをひたと見据えていた。
そこには、やはりエリシフがいた。
いたたまれなくなり、ロルフは目を背けた。鼓動が早まった。
無言で、女に背を向けた。
「ロルフさま」
女の声がしたが、振り向くことなく、ロルフは部屋を出た。
絶好の機会であった。
だが、ロルフには出来なかった。
エリシフと同じ目の光を持つ女を、どうして始末できるだろうか。
死を受け入れている者を手に掛けたところで、生命の代償とはならない、そう思った。生きようと抗い、意地汚く生命にしがみつくからこそ、代償となるのだ。
大広間に戻ると、ロルフは蜜酒を持って来させた。
臆病風に吹かれた訳ではない。そう、ロルフは自分に言い聞かせた。エリシフと同じ目に、怖気付いた訳ではない。
蜜酒を一口啜り、息を吐いた。
自分でも動揺しているのが分かった。
あの女にエリシフと同じものを見るとは思ってもいなかった。姿形は全く似てはいない。性格も違っている。なのに、なぜ、同じ目をして自分を見たのだろうか。そしてその目になぜ、自分は殺意を削がれたのか。
エリシフだからだ。
誰よりも何よりも愛した女の片鱗を見たからだ。
似ても似つかぬ中つ海の女に、その面影を見たのはロルフにとっては衝撃であった。
いつかにも、同じ事があったと思った。
そうだ、あれは、初めて会った時だった。
時間が止まったように思えたあの瞬間。弟の為に刃の下に身を投げ出した娘に、エリシフを見た。誰もが恐れるロルフの怒りを、真っ正面から受けて立ったあの娘。遠征の時に再び見せたあの目の光。エリシフが、ロルフの意に沿わぬ事をしようという時に見せた目と同じ光。
しかし、それを奪ったのもロルフだった。
力で支配を続け、思い通りにした。いつしか娘の目からはエリシフと同じ光は失われてしまった。
それを望んだのは、自分ではなかったか。
中つ海の娘が、エリシフと同じ光を宿していることを良しとしなかったのは、自分ではなかったか。
それを今更、女の目にエリシフを見たというので動揺してしまうとは。
※ ※ ※
ロルフが黙って出て行ってしまうと、ティナは目を閉じて溜息をついた。
何が、あの冷徹な男を止めたのかは分からない。この部屋に入ってきた時には、自分の息の根を止める気でいたはずだった。それでなくして、どうしてわざわざ病室にまで足を運ぶだろうか。
ティナはロルフという男を知っているつもりだった。スールの生命の代償を支払わせるために、今日はここを訪れたのだ。唯論、許よりここは族長室なのだから、ロルフが遠慮する事は何もない。唯、病人のいる部屋というものは嫌われる。不吉だからだ。
身体がだるく、痛かった。
ハラルドと名付けられた子は、ティナが顔を見ることも抱くことも許されずに取り上げられた。比較的楽だった以前の出産のような状態であったのなら、ティナは泣き叫んででも顔を見せてくれと言っただろう。だが、その力は今も戻ってはいない。
女療法師の言葉では、婉曲ではあったが、ティナにはもう、子供は望めないだろうということだった。
そんな役立たずな自分を、いつまでも妻に据えておくほどロルフは寛容ではない。ティナがこの北海にいるのは、ロルフに息子を与える為であった。それが出来なくなった今では、ティナにその価値はない。それに、出産で弱ってしまっているので、これ程の好機もあるまいと思われた。今ならば、ロルフは誰にも疑われる事なく自分を始末出来るのだ。
それなのに、ロルフはティナを見下ろし、無言で出て行った。
ロルフの心の動きが分からなかった。
ティナの死を望んでいたのではなかったのか。
不思議と死ぬのは恐ろしくなかった。それは、今ではティナにとり解放でもあった。
本来ならば、スールの死んだあの日に、自分の生命は終わっていたはずだった。子供達ともあの日以来会ってはいないし、オルトが来るのも数日おきだった。
ロルフの考えは決まっているようだった。
子が産まれる日までティナを虜囚として扱うつもりのようだった。そして、子が産まれればスールの生命の代償を支払うことになる。
その事に、最早、否やはなかった。
スールが死んだのは、自分が眠り込んでしまったせいだ。それをロルフが責めるのは当然だった。自分でも許せないのだから、いかにロルフが怒ろうとも、恐ろしくはなかった。まるで、スールと共に心の一部も死んでしまったかのようだった。他に子供達がいようとも、スールは一人だった。代わりになる者など、いない。
今では、子供達を亡くした時のロルフの気持ちも分かる。代わりはいないのだ。それでも、ロルフは心の穴を少しでも埋めるために他の子供達を必要とした。それを責める事はできない。
しかも、亡くしたのは、誰よりも愛していたに違いない前の奥方の忘れ形見だった。
ティナはその子達の事を何も知らなかった。誰もティナに語らなかった。だが、二人の幼子は亡き奥方に似ていたのだろう。とても美しい兄弟だったとは聞いた。
自分の産んだ子供達よりも。
それでも、ロルフは可愛がってくれている。自分の子だから。そこには、ティナの血など一滴も入っていないかのように振る舞うが、子供達の髪の色は、そこに流れる血を如実に表していた。
じんわりと、涙が湧いてきた。
もう、涙は涸れ果ててしまったと思っていた。
何の為の涙なのだろうか。スールへの。死んだ兄弟への。それとも自分への。
身体的にも精神的にも弱っている今、ロルフにとっては誰にも感づかれずにティナに死を与える絶好の機会であったはずだ。それなのに、ロルフは去った。ティナにとっても貴重な時間は去ってしまった。
女療法師は、徐々にではあるが、ティナの調子は良くなってきていると言った。この時を逃せば、自分がスールの生命の代償を支払う機会は永遠に失われるであろうに。ティナの知るロルフは、そのような機会を逃すような男ではなかった。
何が、ロルフの中で起こったのか、ティナには見当も付かなかった。だが、自分が生き残ってしまうのは確かなようだった。
ハラルドは乳母の手に預けられ、女は療法師の庇護の許にあった。出産前に療法師が語ったように、やはり女に次の子は望めないという事であった。
ならば、最早、女を生かしておく意味はなくなった。
集落は族長家の新しい生命の誕生に沸いていた。命名式には、他の集落からも人が訪れたほどに盛況であった。
そろそろ、潮時かもしれないとロルフが思ったのは、十日も経った頃だった。女は未だに枕から頭が上げられぬ状態であるらしかったが、それは却って好都合とも言えた。
ロルフは、療法師が女の側を離れる隙を窺って族長室に入った。
静かに扉を閉めたり足音を忍ばせるという配慮はしなかった。自分の部屋に入るのに、そのような気遣いは不要だと思ったからだ。
枕頭に立ち、女を見下ろした。
長い髪は緩い一本の三つ編みにされていた。その顔は蒼く、生気が感じられなかった。目も、閉じられている。健康であれば、美しいとさえ思ったかもしれない。
このように具合の悪い女を見るのは、納屋からヴァドルが連れ戻して来た時以来だった。
ロルフの腰の小物入れの中には、あの眠り薬が入っていた。そのような物を用いなくても、女は今にも消え去りそうだった。
もう何年、この女は自分の妻であり続けていたのだろうかとロルフは思った。エリシフが自分の妻であったよりも長く、その座にいることは確かだった。この女は、今は幾つになったのだろうか。そういった事にも、ロルフは興味を持った事がなかった。
ただ、生きる場所を与えたに過ぎない。子を産むことを許したという点以外では、奴隷とさほど変わらぬ存在だった。
微かに瞼が震え、目が開いた。痩せてしまったがために、その緑がかった茶色の目は大きく見える。
「わたしを殺しにいらっしゃったのですか」
女はロルフに眼を向けて言った。小さく、静かな声だった。
ロルフは何も答えなかった。
「抵抗したりは、しませんわ」
女はロルフの反応など気にする風もなく言葉を繋いだ。「お考えは、分かっておりますから」
ロルフは女の目を見た。そこには恐怖はなかった。ただ、自らの運命を受け入れようという決意が、そこにはあった。
その目は、色こそ違え、エリシフが最後に見せたものと同じであった。
死に行く運命を、静かに受け入れようとしていたあの目に。
あの時、エリシフは何と言っただろうか。
ああ、そうだ、ロルフに愛する事を忘れずにいるよう、そのような女性が現われた時には躊躇わずに再婚するようにと言った。それが、どれほど残酷なことであるか承知しながら。そして、疲れたから眠る、と言ったのだ。
子を愛する心なら残っていた。だが、女を愛する心は、エリシフと共に死んでしまった。
長い病の果てにすっかりと痩せてしまったエリシフは、青みがかった灰色の眼ばかりが大きく感じられた。
そして、今、中つ海の女が同じようにしてロルフを見つめていた。
「わたしは、スールの生命の代償を贖わなくてはなりません」
ロルフは思わず、腰の小物入れに手をやった。
そうだ、この女はスールの生命の代償を払わなくてはならないのだ。身体が動かないのは、一体どうした訳なのだろうか。
榛色の目は、ロルフをひたと見据えていた。
そこには、やはりエリシフがいた。
いたたまれなくなり、ロルフは目を背けた。鼓動が早まった。
無言で、女に背を向けた。
「ロルフさま」
女の声がしたが、振り向くことなく、ロルフは部屋を出た。
絶好の機会であった。
だが、ロルフには出来なかった。
エリシフと同じ目の光を持つ女を、どうして始末できるだろうか。
死を受け入れている者を手に掛けたところで、生命の代償とはならない、そう思った。生きようと抗い、意地汚く生命にしがみつくからこそ、代償となるのだ。
大広間に戻ると、ロルフは蜜酒を持って来させた。
臆病風に吹かれた訳ではない。そう、ロルフは自分に言い聞かせた。エリシフと同じ目に、怖気付いた訳ではない。
蜜酒を一口啜り、息を吐いた。
自分でも動揺しているのが分かった。
あの女にエリシフと同じものを見るとは思ってもいなかった。姿形は全く似てはいない。性格も違っている。なのに、なぜ、同じ目をして自分を見たのだろうか。そしてその目になぜ、自分は殺意を削がれたのか。
エリシフだからだ。
誰よりも何よりも愛した女の片鱗を見たからだ。
似ても似つかぬ中つ海の女に、その面影を見たのはロルフにとっては衝撃であった。
いつかにも、同じ事があったと思った。
そうだ、あれは、初めて会った時だった。
時間が止まったように思えたあの瞬間。弟の為に刃の下に身を投げ出した娘に、エリシフを見た。誰もが恐れるロルフの怒りを、真っ正面から受けて立ったあの娘。遠征の時に再び見せたあの目の光。エリシフが、ロルフの意に沿わぬ事をしようという時に見せた目と同じ光。
しかし、それを奪ったのもロルフだった。
力で支配を続け、思い通りにした。いつしか娘の目からはエリシフと同じ光は失われてしまった。
それを望んだのは、自分ではなかったか。
中つ海の娘が、エリシフと同じ光を宿していることを良しとしなかったのは、自分ではなかったか。
それを今更、女の目にエリシフを見たというので動揺してしまうとは。
※ ※ ※
ロルフが黙って出て行ってしまうと、ティナは目を閉じて溜息をついた。
何が、あの冷徹な男を止めたのかは分からない。この部屋に入ってきた時には、自分の息の根を止める気でいたはずだった。それでなくして、どうしてわざわざ病室にまで足を運ぶだろうか。
ティナはロルフという男を知っているつもりだった。スールの生命の代償を支払わせるために、今日はここを訪れたのだ。唯論、許よりここは族長室なのだから、ロルフが遠慮する事は何もない。唯、病人のいる部屋というものは嫌われる。不吉だからだ。
身体がだるく、痛かった。
ハラルドと名付けられた子は、ティナが顔を見ることも抱くことも許されずに取り上げられた。比較的楽だった以前の出産のような状態であったのなら、ティナは泣き叫んででも顔を見せてくれと言っただろう。だが、その力は今も戻ってはいない。
女療法師の言葉では、婉曲ではあったが、ティナにはもう、子供は望めないだろうということだった。
そんな役立たずな自分を、いつまでも妻に据えておくほどロルフは寛容ではない。ティナがこの北海にいるのは、ロルフに息子を与える為であった。それが出来なくなった今では、ティナにその価値はない。それに、出産で弱ってしまっているので、これ程の好機もあるまいと思われた。今ならば、ロルフは誰にも疑われる事なく自分を始末出来るのだ。
それなのに、ロルフはティナを見下ろし、無言で出て行った。
ロルフの心の動きが分からなかった。
ティナの死を望んでいたのではなかったのか。
不思議と死ぬのは恐ろしくなかった。それは、今ではティナにとり解放でもあった。
本来ならば、スールの死んだあの日に、自分の生命は終わっていたはずだった。子供達ともあの日以来会ってはいないし、オルトが来るのも数日おきだった。
ロルフの考えは決まっているようだった。
子が産まれる日までティナを虜囚として扱うつもりのようだった。そして、子が産まれればスールの生命の代償を支払うことになる。
その事に、最早、否やはなかった。
スールが死んだのは、自分が眠り込んでしまったせいだ。それをロルフが責めるのは当然だった。自分でも許せないのだから、いかにロルフが怒ろうとも、恐ろしくはなかった。まるで、スールと共に心の一部も死んでしまったかのようだった。他に子供達がいようとも、スールは一人だった。代わりになる者など、いない。
今では、子供達を亡くした時のロルフの気持ちも分かる。代わりはいないのだ。それでも、ロルフは心の穴を少しでも埋めるために他の子供達を必要とした。それを責める事はできない。
しかも、亡くしたのは、誰よりも愛していたに違いない前の奥方の忘れ形見だった。
ティナはその子達の事を何も知らなかった。誰もティナに語らなかった。だが、二人の幼子は亡き奥方に似ていたのだろう。とても美しい兄弟だったとは聞いた。
自分の産んだ子供達よりも。
それでも、ロルフは可愛がってくれている。自分の子だから。そこには、ティナの血など一滴も入っていないかのように振る舞うが、子供達の髪の色は、そこに流れる血を如実に表していた。
じんわりと、涙が湧いてきた。
もう、涙は涸れ果ててしまったと思っていた。
何の為の涙なのだろうか。スールへの。死んだ兄弟への。それとも自分への。
身体的にも精神的にも弱っている今、ロルフにとっては誰にも感づかれずにティナに死を与える絶好の機会であったはずだ。それなのに、ロルフは去った。ティナにとっても貴重な時間は去ってしまった。
女療法師は、徐々にではあるが、ティナの調子は良くなってきていると言った。この時を逃せば、自分がスールの生命の代償を支払う機会は永遠に失われるであろうに。ティナの知るロルフは、そのような機会を逃すような男ではなかった。
何が、ロルフの中で起こったのか、ティナには見当も付かなかった。だが、自分が生き残ってしまうのは確かなようだった。