第45章・恐れ

文字数 10,938文字

 何という失態を曝してしまったのだろう。
 ティナは寝床で震えて丸まりながら思った。
 エリスは、ただ、ふざけてアズルを殴る真似をしただけなのに、思わず身体が反応してしまった。ロルフに殴られる事を恐れる余りに、振り上げられた拳に竦んでしまった。スールの時を最後にしてロルフからは暴力を振るわれていないというのに、身体はあの恐怖を忘れてはいなかったのだ。
 アズルは、エリスは何か気付いただろうか。
 族長室にはアズルが抱えるようにして連れて来てくれた。ティナの急変にも大して愕いた様子もなく、ずっと「大丈夫ですよ」と優しく囁いてくれていた。寝床に寝かしてくれたのも、毛皮を掛けてくれたのもアズルだ。
 きっと、アズルは気付いた。いや、ずっと、知っていたのかもしれない。
 姉弟(きょうだい)で、アズルは最も(さと)い子だ。普段の自分達の様子から、何かを感じ取っていたとしてもおかしくはなかった。
 ティナは両手で顔を覆った。
 決して、知られたくはない。
 子供達はロルフを慕っている。父親が手を上げた理由が何であれ、非は母親の方にあると思った事だろう。気性も穏やかで思いやり深い子であれば、どのような人間であろうと、母親は母親であると思っているのかもしれない。
 それに、エリス。
 エリスはアズルを質問攻めにするだろう。アズルは推論でしかない事を、軽々しく口にはしないが、姉には勝てまい。
 二人が知ったという事は、いずれはロロやオラヴにも知れる。
 母親として敬意を持って接してくれてはいるが、知れば軽蔑されるかもしれない。
 夫から暴力を振るわれる女は、城砦では、性根悪く至らない者だと言われていた。北海では、どのように捉えられているのかをティナは知らなかったが、同じようなものではないだろうか。世の人にしてみれば、悪いのはティナの方であり、ロルフは夫としてそれを正そうとしているように見えるのだろう。
 嫌だ、と思った。
 子供達にまで、嫌われたくはなかった。エリスの求婚者の一人が、ティナが中つ海の人間であるとエリスに明かしたという事を、子供達はもう、知っているのかもしれない。ただの悪妻、というだけではなく、中つ海の人間だという事になれば、ロルフがティナを打っても仕方がないと思うだろう。勇猛を誇る北海人にとり、自分達中つ海の者は軽蔑すべき臆病で卑怯な、意味もなく虐げられたとしても仕方のない人間なのだ。
 部屋を訪れたロロが何かを言いたげにしていたのも、陰のある表情をしたのも、その為かもしれないと思い、ティナはますます身体を丸めた。
 ロルフの正妻に迎えられたというものの、それは生まれる子供の嫡出を保証すだけで、ティナの身分を確かにするものではなかった。どこまで行っても、ティナは中つ海の人間であり、他の者は北海人であった。互いに相容れない関係を、ずっと続けて来た。子供達は北海人として育ち、中つ海の人間は奴隷としてしか見ない。子供達からすると、ティナから受けた半分の血は、唾棄すべきものであるのかもしれない。そう思うと、胸が締め付けられた。涙は出なかった。
 子供達がロルフの暴力を知ってしまったとなると、これから自分はどうなるのだろうか、という不安が、ティナの中に広がって行った。ロルフは認めまい。あるいは認め、ティナを皆で嘲笑うのだろうか。エリスは、ティナに憐れみの心を持ってくれているが、それとて、結婚で島を出れば何もできない。そもそも、子供に何かを期待する事自体が間違っている。未成人の子は、親の問題には口を挟まぬものだ。
 万が一、エリスがロルフを非難するような事になれば、自分は、もう、終わりであった。速やかな死を与えられるのならば、良い。じわじわと、暗い穴倉に閉じ込められて恐怖と寒さに震えながら死を迎えるのはぞっとした。
 それでも、少なくとも、ロルフはエリスがこの島にいる間は手出しをすまい。
 詩人(バルド)によって、新たに生き直せる、という道を示された今、スールやエリスに髪を引かれながらも、ティナの心は揺れていた。だが、詩人が言った七年を、流れの変じたかもしれない今となっては、エリスの存在なしに無事に過ごせるとは思えなかった。
 生きたい、逃げたいと思っても、既に自分の道は閉ざされている。
 この島で、どのような最期を迎えるにしても、受け入れるつもりでいたはずであった。
 自分の為に泣くのは、エリスだけかもしれない。それでも、一人は哀しんでくれるのだ。充分ではないか。恐らく、もはや城砦では自分の存在はなかったものとされている事だろう。十七歳で可哀想にも死んでしまった娘だと、皆は嘆き、そして忘れてしまったに相違ない。
 生命をこの世に送り出し、少しはロルフの心の慰めにはなったのかもしれないが、ロルフが必要であったのは子供達だけであった。それならば、あの時、自分が弱り、死を受け入れる準備も整っていたあの時に、なぜ、ロルフは踵を返したのか。生きる、という事が、ティナに与えられた罰であったのか。
 残酷な人だ。
 ティナは思った。ロルフは敵には容赦しないと、皆が話しているのを耳に挟んだ事があったが、それは、冷静に確実に相手を仕留めるという意味だと思っていた。違う。ロルフが容赦をしない、というのは、相手にとり、最も苦しい方法を選ぶ、という事であったのだろう。酔いどれ騎士は、楽な死を与えられたのだ。ロルフが平静でいなかったが為に、小太刀のひと引きであっという間に死ねたのだ。
 宴に臨席した際に男達が語り、詩人が歌うロルフの姿は、まさに猛禽であった。高いところから狙いを定め、確実に獲物を仕留める、大きな翼の白い鷹そのものであった。
 その鉤爪が、今、自分を引き裂こうとしている。
 ひと思いに息の根を止めてくれるのならば、受け入れよう。亡骸は荒野に捨てるなり、海に投げ込むなどしても構わない。魂の抜けた肉体には、未練はない。
 しかし、これからは子供達にまで嫌われ、嘲笑されるような人生を送れ、と言うのならば、ロルフは残酷だ。鼠や小鳥を捕えてなぶり殺しにして楽しむ、猫のような残酷さだ。
 さっさとティナを始末して新しい妻を迎え入れた方が皆の為にもなろうが、ロルフは、まだ、先の奥方を愛してる。早急に新たな妻を娶るつもりはないだろう。確実なのは、それだけだ。
 何年経とうと、ロルフの考えは分からなかった。夫婦であり続けながらも、それほど深い関りを持った訳ではない。お互いに、殆ど相手の事を知らないのではないかとティナは思った。知るような機会も持たなかったし、ティナの気持ちはどうあれ、ロルフにその気はないようであった。子を得る為にだけ娶った女に、払う関心も言葉も持たぬようだった。
 自分から積極的に歩み寄り、無視されて傷付く事を恐れたのはティナだ。自分の矜持を捨てる事ができず、北海人たるロルフに額ずくのを良しとしなかったのも、ティナだ。子供を奪われても殴られるの怖さに抵抗できなかったのの、そうだ。
 成人した男女や他の島から嫁いできた女性が新たにこの部族に加わる際には、誓いの儀式が行われる。部族の重鎮を立会人に、ロルフの前に額ずき、その剣に唇付けるのだ。エリスも他の娘達と共に、この儀式を行っていた。だが、ティナはこれをするように言われなかった。それは、自分がこの部族の者ではないと言われているのと同じなのだ。奴隷が誓いをなさないように、ティナもまた、部族の外に置かれているのだ。
 その生死に、誰も関心を持たぬであろうし、何の感情も持たれないのであろう。ティナ自身も、流行り病の際には自分の子供の事を心配しても、集落や部族には関心を払っては来なかった。これも、お互い様の事なのかもしれない。
 ただ、子供達だけが、ティナの世界の全てであった。その子供達に、ロロにオラヴにアズル、ハラルドに本当には理解されず、邪険にされながら残りの生涯を送らねばならないとすれば、これ以上の罰はないだろう。中つ海を襲う異教の野蛮人に育つ男の子達は、いずれは離れて行く存在であったとしてもだ。
 野蛮。冷酷。残虐。傲慢。恥知らず。掠奪者。強欲――
 そういったもの全てに、男の子たちは育ってしまう。あの心優しいアズルでさえも、数年でそういう男になる。ロルフの前に拝跪し、忠誠を誓うのだ。母親のいる世界から、父親の、男達の世界に巣立って行く。見習いである今は、その準備期間に過ぎない。一人前となれば館に戻る事はまずないだろうと、かねてよりオルトから言われていた。ロロは、跡取りと認められ、ロルフの傍で様々に学ぶ必要があるだろうが、普通は余程の事がない限り、独身の間はヴァドルのように戦士の館で起居するのだという事であった。
 子供達は、自分と顔を合わす事がなくなると、安堵するであろうか。
 また、一人になってしまうのだ。
 エリスとは離れねばならず、他の子は近寄っては来ない。オルトはいるが、自分の味方という訳ではない。それに、齢を取っている。
 胸が苦しくなった。
 ――あなたは、残酷です。
 ティナは心の中で叫んだ。ロルフに、なのか、中つ海の神になのか、北海の神々に対してなのか、誰に向けての言葉なのかも分からなかった。
 いっその事、このまま死んでしまえれば良いのに、と思わずにはいられなかった。

    ※    ※    ※

 平静を装っていたが、エリスの言葉はロルフの胸を抉った。
 どこからどう漏れたのか、娘は知ってしまった。
 如何にこの十一年、手を上げてはいないと言っても、エリスは信用するまいと思った。一度失った信頼を回復するのは難しい。エリスのように若く激しい性格の者は、自分の思い込みや頑なさから、ロルフが説明しても理解しようとしないだろう。
 よい時にヴァドルが割って入り、ロルフは密かに安堵していた。
 エリスは、あの女から聞いたのではない、と即答した。庇っているにしても、その言葉に偽りはないように感じられた。とっさについた嘘であるならば、どこかに動揺や躊躇いがあったはずだ。
 ロルフは苛立った。誰がエリスにそのような事を告げたのか。ソルハルの言葉といい、今回の事といい、自分に逆風が吹いているように思えた。今までは、知ってはいても口にする者はなかった。これは、部族での自分の求心力の衰えを示しているのか。ロロの成人が近付いてきている事もあり、部族の中にその相続に対して不満があるのか。
 男子の相続の為に法に(のっと)って、ロルフはあの女を正妻として瑕瑾のないように整えたのではなかったか。
 法の保護者に(はか)っても、問題はない、という答えが返って来るはずだ。意見を求め、瑕疵のない事は確認済みだった。あれから法の保護者は交替したが、それで解釈が異なってはならない。それが、法だ。北海のどの島でもいつの世代でも、同じく適用されなくてはならないのだ。それでなければ、法の意味がない。
 自分はヴェステインのような

はしていない、とロルフは思った。サムルの父親であるヴェステインは、女奴隷に手を出し子を産ませる、という愚行を犯した。結婚をせぬ身では自由人との子は三人まで庶子として認められるが、奴隷の子は認められない。だが、ヴェステインはサムルを庶子ではなく嫡子として認知し、族長にもそれを認めさせた。それが、結局はサムルの相続問題になっている。嫡子にするのならば、正式な手続きをすれば済む事だ。愛情があろうがなかろうが、その事だけで全て片付く。サムルを嫡子として認知した事からすると、ヴェステインは恐らく、生涯、結婚する気はなかったのだろう。
 面倒だ、とヴェステインが思ったのかどうかは分からない。だが、後々の事を考えるならば、それなりに覚悟は必要だ。跡継ぎが欲しいのならば、その為だけに結婚すればよい。女を奴隷のままに囲っていたいのであれば、子は始末するべきった。或いは、解放して自由民身分に引き上げて庶子でいさせるか。庶子であるからといって相続権を失う訳ではないので、僅かなものであろうと財産を残したいと思うのならば、それで手を打つのが妥当というものだ。
 嫡子としたくなるほどに、サムルは利発で(さか)しい子であったのかもしれない。それならばそれで、法の守護者の意見を聞いて様々な方法を探るべきであった。そうした上での認知であれば、誰も口出しはしないであろうし、サムルが反感を買う事もなかったはずだ。
 しかし、万全を期したロルフであっても、今のような状況になる事もあるのだ。
 ロルフは歯噛みした。
 あの時に女を始末できていれば、このような事態にはならなかったであろう。それは、ロルフの失敗であった。生きる事を諦め、死を受け入れる目に、エリシフの最期を見てしまったからだ。
 あの目は、決して忘れる事がない。ロルフの見た、最後のエリシフの目だった。常に力強く、生気に溢れていた灰色の目は、病みついてから弱々しくなり、遂には死を受け入れた。その事に、失われてから気付いた。
 見たくはなかった。それが誰のものであろうと、死を受け入れた目は、見たくはなかった。死に(あらが)い、生きようとする者の生命を取る事には躊躇いはない。法外追放者や遠征での虜囚を処刑するのは部下の仕事であったが、勇猛に戦った者の始末をつけるのは、敵に対する敬意を示して族長であるロルフの義務である。そういう者に限って唯々(いい)として死に赴く。自らの敗北と死を受け入れ、諦念と誇りとを湛えた目で、命じられるがままに(こうべ)を垂れて震える事もなく死んで行く。それは、北海の戦士としての矜持であるのは当然であったが、臆病者で弱虫の中つ海戦士にも存在するという事実に、ロルフの心は乱されるのであった。
 あの女の首など、片手でへし折れると、ロルフは思った。だが、もし、またあのような目をされたら、自分はやり遂げられるだろうか。魂の底からの不安と恐れとが、ロルフの中にあった。たかが一人の中つ海の女ではないかと思えど、エリシフが自分を見ているような気にさせられる。
 しかし、手を下すにしても、エリスのいる間は駄目だ。あの娘は何があったのかを見抜くであろう。
 見抜かれた後に何が起こるかと思うと、行動にはうつせなかった。ロルフは自分が娘から嫌われ、憎まれる事をも恐れた。エリスは、最も愛情を注いだ子であった。自分に似て激情家で感情が暴走しやすい娘だったが、情に厚く快活で、どこに出しても恥ずかしくはないと思っていた。むしろ、自慢ですらあった。背筋を伸ばして騎乗する姿は、(いにしえ)の女戦士はかくあろうと思わせるほどに凛々しいものだった。
 男子は父親を乗り越えて行かねばならないが、女子にはそれは求められない。ただ、夫に先立たれても平然と子を育て上げ、生活を続けられる強さが必要であった。気の強いエリスは、充分にやっていけるだろうとロルフは信じていた。だからこそ、安心して島外に嫁に出せるのだとも言える。
 本心を言えば、どのような男であろうとも、エリスには相応しくないように思っていた。それが父親のひいき目であるとしても、今、生きている男の中には釣り合う者はいない。最初に自分が選ぼうとしたアスヴァルドにしても、物足りなかった。サムルには、勿体なかった。折角の宝を、唯人(ただびと)にくれてやるようなものだった。
 それほどに、ロルフはエリスを大事にしていた。他の男子にしても、そうだ。既に子を亡くしていた事も関係しているのかもしれなかったが、どの子も、大切な宝玉であった。
 ロロはあらゆる面において他の子に優れ、長じれば良い族長になるだろう。
 オラヴは、幼い頃は兄に泣かされていたが、ロルフの父のように体格の良い強い戦士となりそうだ。
 アズルは他の子とは違っていたが聡明で、軍略に通ずるようになるかもしれない。
 末のハラルドは、手の施しようのない悪戯者だが、場を明るくさせる力がある。人死(ひとじに)の稀ではない北海にあって、それは特別な力となろう。
 亡くした子達が、どのような大人に成長していたのかと思わぬ時はなかった。弟の面倒見が良かったエリタスは、ロロのように族長の素質があったであろう。ヴェリフは活発で、皆から愛される存在になっていたのかもしれない。そして、スールは。余りにも幼くして亡くしたスールは、どのように育っていたのだろうか。自分の手を握った小さな手を、その力を忘れる事はなかった。
 どの子も、囲い込んでしまいたかった。ロロ以外はいずれは独立し、自らの家を構える事になるが、それは遅くても構わない。ハラルドが見習いになってしまえば、この館は火が消えたようになるだろう。ロロには早めに嫁を迎え、孫を得て賑やかさを取り戻させるのが良かろうとロルフは考えていた。
 慈しんだ子に、背を向けられたくはなかった。青少年期の反抗は成長の証であり、いつかは治まるものだ。ロルフ自身にも覚えがあったし、ロロとオラヴもそうだった。だが、今回のエリスの行動は反抗ではない。ロルフに嫌悪を抱き、非難をしていた。物理的にだけではなく、心理的にも自分の許を去ろうとしているのだ。そのような娘に、どう対処して良いのかと、ロルフは考えを巡らせた。
 答えは、出なかった。
 いつの間に、あの女はエリスを味方につけていたのだろう。娘だからと、手許で育てさせたのが悪かったのか、或いは、所詮は中つ海の女と甘く見ていたのか。
 自分を見つめていたエリスの目を思い出し、ロルフの胸は締め付けられた。
 常に力強く、生気に溢れていた(はしばみ)色の目は、ロルフを射るようであった。傷付き、憎悪と嫌悪の中にも、愛情と思慕があり、二つの相反する感情がエリスを引き裂こうとしているように見えた。無邪気にひたすら父親を慕う光は、永遠に失われた。最近は曇りがちであったとはいえ、それは婚姻を迫られていたからであり、ロルフに対する負の感情があった訳ではない。
 物思いに耽るような翳りを見せるようになり、色は違えど元気であった頃のエリシフのような光を帯びていた目が、自分に対する憎しみに変じるのは見たくはなかった。まるで、エリシフに憎まれているかのようだ。
 エリシフ。亡くした妻の目にも、あの翳りはあった。何かの拍子に、それは突然現れ、ロルフを不安にさせた。早くに失くした両親の事を想っているのであろうか。ロルフには手の届かぬ場所に思いを馳せるエリシフは、いつもに増して儚げで、美しかった。
 不運のロルフ、という言葉が、甦った。かつて、自分をそのように自嘲した事があった。
 そう、自分は白鷹などではない、本当は不運のロルフなのだ。ここに来て、それが身につまされた。一年も経たぬ内に、エリスはこの島を出て行く。それなのに、離反しようとしている。穏やかな、今まで通りの関係ではいられない。
 男の子達にしても、どうだろうか。姉の影響を受けはしないであろうか。如何に成長したとはいえ、まだ、見習いである。実際に遠征を経験すれば考えも変わろうが、万が一、中つ海の者に容赦するようではいけない。腰抜けと呼ばれ、ロロは部族の信任を得る事はできまい。それどころか、遠征で勇気のあるところを見せられなかった臆病者の末路は悲惨だ。ロルフは息子が臆病者と(そし)られれば、族長としてその死を、不名誉な吊るされての死を皆に命じねばならないのだ。自分の息子の誰かが首に縄をかけられるのを、冷静に見ていられるだろうか。命乞いをする子を、切り捨てる事が可能であろうか。
 自分はまだまだ甘い、とは思う。今までに、何人かの父親が同じ立ち場にあった。父子(おやこ)の絶望と恐怖を目の当たりにしてきた。深手を負って助からぬ子に止めを刺す父親は、哀しみにあっても誇らしげだった。大神に招かれたと、胸を張る事ができる。だが、腰抜けと非難され、吊るされる子を見る父は、あるいは怒り、あるいは胸が張り裂けんばかりの嘆きに引き裂かれんばかりであった。
 ここまで来て、このような問題を抱えるとは思わなかった。
 女は、ロルフからも子供からも存在を忘れられ、消えるように世を去らねばならない。それが、中つ海の人間には相応しい。女の死を以て、血讐も終わる。そう、考えていた。
 だが――と、ロルフは思った――だが、この虚しさは、どうした事なのだろうか。
 二人の愛おしい子供達は、決して戻っては来ない。あの領主の家族全てを殺したとて、あの城砦の全ての人間を殺し、町を焼き払ったとしても、決して生き返る事はないのだ。何を為そうとも、あの二人はこの手に戻らない。
 スールもだ。
 あの女が死んでも、スールが戻る事はない。あの小さな生命は永遠に、失われた。
 心の隙間は、何人の子がいようと完全に埋められない。誰に、何人、産ませようとも、起こってしまった事は、変えられない。
 虚しい。
 そう、ロルフは感じた。
 血讐を果たしたとしても、何も変わらないのだ。エリタスもヴェリフもスールも、誰も成長した姿を見せてくれる事はないし、三人の妻や子供達に会う事も叶わない。何も取り戻せはしないし、慰めにもならない。
 唯論(もちろん)、新しく生まれた子供達の存在を喜ばぬものではなかった。健康に成長した子供達は、充分にロルフの心を慰めてはくれている。それでも、喪失の全てを埋めるのは不可能だった。
 それを言うならば、ロルフの中でエリシフの占めていた部分は空虚なままであった。関係を持った女達は、全くその空間を埋める存在ではなかった。あの女など、猶更だ。エリシフの前では塵にも等しい。その産んだ子達が皆、賢明であり、戦士に相応しい素質を有している事の方が愕きなのかもしれない。あのような女を妻に持ったこと自体が、エリシフに対する冒瀆のようにも思えた。
 自分が為した事は、意味があったのだろうか。
 そう思うのは、恐ろしかった。
 新しい子を得て再び過去の幸福を取り戻す。それが不可能な事は、初めから分かっていた事ではなかったか。神々は、一度手にした生命は放しては下さらない。残酷だが、それが摂理だ。
自分が奪って来た生命も、自分から奪われた生命も、等しく一度(ひとたび)失われれば、それまでなのだ。死の眠りの館へ行こうとも、生まれ変わるのは遥か先の事である。同じ生命に(まみ)える事は、ない。
 ない、のだ、何も。
 復讐を果たして、達成感はあるだろうか。暴力的に、意図的に自分より奪われた生命の仇を討ったという満足感はあるかもしれない。しかし、それが終わってしまえば、後は孤独な余生が待っているだけだ。
 血讐が権利である事は、法も認めている。だが、家族の義務である、というのは、慣習によるもの、誇りによるものだ。生命を懸けた復讐を為さぬのは怖気付いたと認める事、故人の非を認める事にもなる――それは、出来ない。幼い子供達が、どのような非があって、死なねばならなかったのか。それを考えると、中つ海の人間を全て殺し、大地や海を血で染めようと治まるものではなかった。
 いつの間にか握りしめていた手の力を、ロルフは溜息とともに緩めた。
 断罪を、せねばならない。
 これは、遺された者に与えられた正当な権利だ。
 本来ならば、あの酔いどれは速やかな死を与えるのではなく、じわじわと気の狂うような、ひと思いに殺せと懇願するような死に方が相応しかった。一気に喉を切り裂いたのは、ロルフが怒りのあまりに正気を半ば失っていたからだ。冷静な判断を下せなかったからだ。
 今度は、違う。
 死を願うあの女を殺しはしない。
 十一年、生かした。
 充分に復讐できたとは、思わない。スールの死を償わせるのならば、まだまだだ。あの子が生きたであろう時間を苦しめばよい。だが、あの女がエリスを味方にしたのならば、生きたい、と言うも同然であった。そうであるならば、容赦はしない。
 二人の子を失った代償を、あの女に支払わせるのを憐れに思った事もあった。
 自らの抱える虚無に飲み込まれるのを恐れるあまりに、醜態を曝した事もあった。
 これまで、どのように性悪で邪悪な女であろうと、手に掛けた事はなかった。だが、もはや、あの女の存在自体を容認する気にはなれなかった。
 中つ海の人間は、怠惰で狡猾、臆病、卑怯で見掛け倒し。
 遠征で、どれほどこの事を痛感してきただろうか。勇敢な戦士もいたが、それは一握りに過ぎない。城砦での「騎士」どもの度胸のなさはどうであったか。あの女も、いざとなればロルフの足下(あしもと)に身を投げ出して生命乞いするのだろう。
 吐き気がした。
 自分の子供達が、そのような血を引いている事を嫌悪せずにはいられなかった。半身は犬にでも食わせ、完全な北海人であって欲しいと思った。今のところは、子供達は順調に育っている。それでも、今後、中つ海の男のように腑抜けたところを見せようものならば、ロロであろう切り捨てねばならない。
 そのような状況に追いやった女を、ロルフは憎まずにはいられなかった。
 慈しんだ子を、見せしめとして吊るさねばならないかもしれない、廃嫡せねばならないかと思うと、ロルフの胸は、ぎりぎりと締め付けられるように痛んだ。再び子を失わねばならないのかと、苦しかった。未だ起こらざる出来事に心を煩わせるのは、厭わしかった。
 そのような思いをせねばならないのも、あの女のせいだ。全ては、あの女のもたらした呪いなのか。
 ロルフは気持ちを落ち着ける為に、一つ大きく息を吐いた。
 先に失くした三人に関しては、あの女に責任がある訳ではない。あの女とて、ろくでなしと臆病者の犠牲になったと言っても良かろう。憐れんでやっても良い。
 しかし、スールの死、エリスの反抗は違う。これから起こり得る出来事にも、女は関与している。
 あの女との子など、愛さねば良かったのか。そう、思った。だが、そのような事が出来る筈もない。半分は、ロルフの血である。北海の神々のものである。子殺しも厭わなかった身だが、やはり、子供とは愛されるべきだという考えに変わりはなかった。
 いっその事、石女(うまずめ)であれば良かったものを。
 ロルフは天を仰いだ。
 神々は、願いを聞き届けて下さったのだ。二人を失った代わりに、五人を授けて下さった。その思いは、瀆神(とくしん)に当たるだろう。
 どれほど先の二人の子を恋おうとも、帰ってはこない。神々が余りにも愛で賜うたのだ。幼いながらも、戦士として立派に死んだ。その事を誇りに思わねばならない。神々の園で、若いエリシフと、幼いままでいる子供らに会う事を祈らねばならないところである。。
 理屈では、分かっていた。
 自分は理不尽な事をしている。
 全ては神々の決められた事で、そこに人間の介在する余地はない。エリシフを、二人の子を失うのも、女を娶り、子を為し、また一人を失うのも、全て神々によって定められていた事なのだ。あの女が何を為そうとも、それも全て神々のご意志なのかもしれない。
 不運のロルフ。
 そう、産まれた時より定められていたのかもしれない。数日で母を失った時から、自分の周りには不幸や不運がまつわっているのだろう。それは、自分の子達にまで害を及ぼすのだろうか。
 ただただ、ロルフは立ち尽くすばかりであった。
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