第57章・オルト

文字数 10,577文字

 一瞬、ロルフは言葉を失った。
 オルトの決断を受け入れるとは言った。だが、これは違反だ、と思わずにはいられなかった。
「なぜ、選んだ」ロルフは唸るように言った。「私が受け入れるはずがないと分かっているだろうに。嫌がらせや悪意ではない事は、知っている。だが、何故(なにゆえ)に、お前はそう決めたのだ」
「わたしは、感情抜きで誰がこの役目に相応しいのかを考えて選びました。今も、全ては正常に働いておりましょう」
 ロルフは全身の血が引いていくように感じた。今まで、エリスがウナと協力し、懸命に維持をしていたのだと思っていた。それが全て誤りであったというのか。
「ロルフさま、どうか、冷静で公平な目でご判断ください。わたしの人選が間違っているのかどうか、館の者にお訊ねになってください」
 オルトが間違いを犯したことがあっただろうか。ロルフの脳裏を様々な記憶が巡った。あるとすれば、それはヴァドルを独身のままにしておいた事くらいだ。一族の血を絶ってしまうのは、重大な失敗のように思えた。だが、その一点くらいで、後は何も思い付かなかった。この一件を別にすれば、であったが。
 ――あなたの奥方さまです。
 そう、オルトは言った。
 最初、ロルフは混乱した。エリシフはもう、いない。では、オルトの言う「奥方」とは、誰の事であるのか。
 あの女だ。
 そう、何かが囁いた。あの女が、お前の妻なのだ、今は。
「お前は――」
 震える声で反論しようとしたロルフを、オルトは片手を軽く上げて制した。
「ロルフさま、ロルフさま」オルトの声は訴えかけるようであった。「どうか、お認めください。今、この館を切り回していらしゃるのは、あなたの奥方さまなのです。あの方は、大きな館を――正確には何と申しますのか存じませんが、この館よりもはるかに規模が大きく、多くの家族を抱えるような館を維持する方法をご存じでいらっしゃいます。様々に異なる部分はございましょうが、人を使い、管理することの基本は変わりません。そういった方法には、どなたよりも長じておられるのです」
「あれは、中つ海の女だ。北海の女ではない」
「奥方さまは、北海の人間になる覚悟をなさっておいでです。あなたは、族長として、夫として、それを受け入れはしないのですか。あなたが、強引に奥方さまとなさったのです。認めて差し上げなくてはなりません。そして、正当な妻としての扱いをなさるべきです」
 オルトは、ロルフのあの女に対する姿勢を知っているはずであった。決して、北海の女と同列に扱う気がロルフにない事も。
 それを知りながら、何故に、と思わずにはいられなかった。
「あの女は、支払われた代償だ。我々の関係は夫と妻ではない」
「あなたは、婚姻の女神の前で誓われた奥方さまを否定なさるのですか。女神を愚弄なさるのですか」
「私の妻は、エリシフ一人だ」ロルフは声を荒げた。「誰もその代わりにはならない」
「では、なぜ、奥方さまを娶られたのですか。なぜ、愛人の一人として、お生まれになったお子だけを認知なさいませんでしたの。それが、法の守護者の結論であったのですか」
「お前は、あの時に異議を申し立てなかった。私の決断を支持していたのではないか」
 ゆっくりと、オルトは首を振った。
「あなたが何を考えていらっしゃるのかは、察しがつきました。けれども、いずれは、と思っておりました。悪い方ではありません。いいえ、むしろ、よくやって頂いていらっしゃると存じます。右も左も分からぬ中で、味方の一人とている訳でもなく、それでも、泣き言や愚痴を言うでもなく、あなたの妻として認められるように懸命にしていらっしゃいました。ご自分の立場――殺人の代償であることも、ご承知でありました」
 オルトの訴えかけるような言葉の数々にも、ロルフの心は動かなかった。
「わたしは、あなたの言葉を実直に守りすぎたのです。奥方さまを監視し、お子たちを取り上げ、あなたに対して奥方さまを擁護するようなことは何一つ、いたしませんでした。それは、わたしの過ちです」
 暫しの間、二人の間に沈黙が落ちた。
 オルトが何を為そうと自分は変わらなかっただろうと、ロルフは思った。エリシフの後には、北海一の美女であろうと誰であろうと、愛情を抱くのは唯論、認める事もできない。
「お子のためであろうとなかろうと、あなたは女神のみ前で、あの方を妻とすると誓われたのです。北海の人間ではないから、法はあの方を守らないのですか。そうではないはずです。あなたの妻になられたからには、法の保護下にあるのではないのですか」
 オルトの目はロルフに据えられていた。あの女を後任に、と告げた時から揺らぐ事のない視線に、ロルフは居心地の悪さを感じずにはいられなかった。
 それは、自分に非がある事を知っているからだ。
 全てはオルトの指摘した通りであった。女神の御前(みまえ)での誓いは神聖なものである。ロルフがあの女を妻とは認めぬと公言しても、それは通用しない。法で、北海人のみを正妻に認めるとは規定されていない以上、あの女は妻としての権利を有する。
 しかし、中つ海の血は北海では恥だ。小柄で力も劣る中つ海の人間は、交易島で出会う商人であれ島の奴隷であれ、北海人の見方は変わらない。例え正妻であったとしても、皆のあの女を見る目は変わるまい。それは、奴隷を親としながらも嫡子として認知された者も同じだ。サムルが支持者を有しながらも、未だに、地に這いつくばる者(奴隷)、と呼ばれるように。
 サムルは才覚あり、正戦士と認められて北海の男である事を証明してみせた。そうであっても、血の呪縛からは逃れられない。
 ロロも、そうかもしれないと、ふとロルフは思った。ロロの出自は、島の者には明かだ。そして、もう、それは北海全島に広がっているだろう。若き日のロルフに反発した者がいたように、ロロを快く思わぬ者がいればどうする。血筋を理由に族長として、ロロは他部族に認められぬのだろうか。法の守護者とは、その事はしっかりと話し合ったはずだ。ロロは、子供達は法によって守られていると。
「あなたは、そうして現実から目を逸らし続けるおつもりなのですか」オルトの声が厳しくなった。陰でヴァドルが息を呑むのが分かったが、オルトは気付いているのかいないのか、ロルフから目を放す事はなかった。「ご自分は、あくまでも被害者で、奥方さまは罰せられるべき人であると主張なさるおつもりですか」
 あの女を憐れと思った事は一度や二度ではない。殺人がなければ、決して交わり合う事のない人生だった。あの女は予定通りに結婚し、今では家族の愛情に囲まれ、守られていただろう。そして、ロルフの二人の幼子は立派に成長していただろう。
 しかし、その事をロルフはオルトには言わなかった。オルトが知って、どうなるのだろうか。既に起こってしまった事は、神々であってさえも変えるのは不可能だ。
 ヴェリフとエリタスの件であの女を非難するのは間違っている。それは充分に理解していた。だが、スールは。スールは、あの女の不注意のせいで死んだのではなかったか。それを否定するオルトではないだろう。ロルフの嘆きを無視する人間ではないはずだ。
 それとも、あの女は、自分達の知らぬ魔法を用いてオルトを味方につけたのであろうか。魔法が女の領域である事は、中つ海でも変わるまい。子供達を手懐けた事と言い、あの女は魔女なのだろうか。ならば、とっくにロルフを呪殺し、自由の身になっているのではなかろうか。
「スールさまのことを、お考えですか」ロルフの心を読み取ったかのようにオルトが言った。「あの件は、わたしたちにも責任がございます。全ての責を奥方さまに押しつけるのは、酷でありましょう」
 自分やオルトに、スールの死に対する責任がある。
 その言葉はロルフの胸を抉った。自分達が何らかの処置を施していれば、スールは助かったのだとオルトは言いたいのであろうか。あの女に任せていた自分達がスールを殺したのだと。
 ロルフは膝の上に置いた拳を握り締めた。身体の震えを抑える事ができなかった。
「我々が、スールを殺したと言うのか」
「そうでは、ありません」オルトの声は穏やかであった。「奥方さまに全てを押し付けたことが、間違っていたのです。あなたさまは集落の件で忙しく、わたしは館と他のお子たちのことで精一杯で、奥方さまにまで、気が回らなかったのです。たった一人で、何日も重篤な症状のお子さまを看るのは限界がございました。誰かの助けが、支えが必要だったのです。もし、これが、エリシフさまの身に起ったことであれば、ロルフさま、あなたさまは放っておかれましたか、責められましたか。気を張り詰めて不眠不休であれば、遠からず限界がくることくらいは、戦を知っておいでのあなたさまにはご理解いただけると存じます」
 人間の緊張が長続きしない事くらいは、ロルフも当然承知していた。だが、自らの生死のかかった案件と看病とでは、自ずと異なろう。一息つく暇も、食事をする時間もあったはずだ。
 それに、なぜ、エリシフを引き合いに出さねばならないのか。あの女の失態と、エリシフとの間には何の関係もない。例え話としても不適切だ。
「わたしは、あなたがエリシフさまのことをご存じではないとは思いません」ヴァドルが息を呑むのがわかった。だが、オルトはやはり気付かぬようであった。「エリシフさまと、今の奥方さまとの違いは何であるのでしょうか。エリシフさまは北海の戦士の子として生まれ、あなたの父上によって正式に認められたから、でしょうか。違います。あなたさまが、愛されたからこそ、エリシフさまは特別なのではありませんか」
 エリシフの過去には触れられたくはなかった。誰であれ、その事に触れる者に呪いあれと思っていた。だが、オルトだ。オルトを呪う訳にはいかない。
 ヴェリフとエリタスの遠くなってしまった笑顔が甦った。それは、エリスやロロ達とも重なり、やがて判然としなくなった。
 飽くまでも、知らなかったふりをしていたかった。目も耳も閉じていたかった。強力な族長であった父の決断に対して、不満を持つ者がいた事も知っている。機会を失った娘達やその両親のやっかみがあった事もだ。
「事実や真実から目を逸らさないでください」オルトの声が、やけに大きく聞こえるようであった。「今の奥方さまとエリシフさまと、何がどう異なるのか、どうぞよくお考えに」
 二人の間に沈黙が落ちた。
 ややあってオルトが再び口を開いた時、その声は弱々しかった。
「ロルフさま、わたしの心臓は、そう長くは持ちませんわ」
 その言葉に、ロルフはぎくりとした。自分達が黙っていようと、療法師はオルトに訊ねられれば答えるだろうとは思っていた。だが、こんなに早く知られるとは。
「こうしていてさえ、鼓動が速くなったり遅くなったりするのが分かるのです。ですから、わたしは、あなたに、やはり全てを話そうと思います。そして、あなたのご判断に任せましょう」
 陰にいるヴァドルが緊張しているのが分かった。二人きりにした方が良いのかと躊躇っている事も感じられた。だが、ロルフは首を横に振った。自分が知る事はヴァドルにも知って欲しいと思った。母親の話は、如何なるものであろうとも聞いておくべきであろう。共に過ごす事の少なかった母子(おやこ)であるのも唯論(もちろん)だが、ロルフはヴァドルに対して秘密は持ちたくはなかった。それは同時に、ヴァドルも自分に対して何も隠すな、という意味でもある。同意するならば留まり、そうでなければこの場を去れば良い。昔からの二人の取り決めのようなものでもあった。
「私に何の判断を任せようというのだ」意識はヴァドルに向けながら、ロルフは訊ねた。ヴァドルのまとっている空気が和らいだ。留まる事を選んだのだ。それを確認したと報せる為に、ロルフは微かに頷いた。「そして、何を話そうと言うのだ」
 ヴァドルの存在を伏せて、ロルフは言った。二人が常に行動を共にする事は、オルトも承知しているはずである。今更、言うを躊躇われた。
「まずは、エリシフさまのことを。あなたがどこまで何をご存じであるのかは、わたしにはわかりませんが、わたしの知ることをお伝えいたします。そして、お考えになって下さい。あなたが愛されたお方と今の奥方さまのことを、愛の有無を」
 ゆっくりと静かに、オルトは語り始め、ロルフは姿勢を正した。

    ※

 オルトが語ったのは、ロルフの両親とエリシフの両親の話ばかりではなかった。ロルフの祖父やオルト夫妻にも関わり、広く言えば集落と島を巻き込んだ醜聞であった。見習いになった時に知らされたものよりもずっと複雑な事情を含み、話が終わった時には、ロルフは身動きする事もできなかった。
 祖父がエリシフの母親を見初めて、賭けと酒に溺れた自由民の男から娘を買った事くらいは知っていた。だが、その頃の両親が、死産と早産で既に男児を二人失っていたのは初耳であった。
 事情を知れば、祖父が猟色家であったのでも、若い女に血迷ったのでもないと分かる。男ならば、殊に人を統べる立場にある者ならば、同じ焦燥と危機感を抱かずにはいられぬであろう。
 エリシフの両親の件と祖父の死に関連があるのかどうかは、ロルフにも判らない。人が卒中を起こすのに、理由はない事も多いものだ。年齢を考慮すれば、いつ起こっても不思議はなかっただろう。一方、祖父の死と母の早産とは関連あるだろうが、だからと言って、責任がエリシフの親にあるのだとするのは早計に過ぎる。
 その事件に関わった誰かを責める事ではできない。誰も責める資格はない。
 不運のラグンヴァルドル――父が部族で密やかにそう呼ばれているのを耳にした事はあった。
 最初の男児は数日しか生きられなかった。
 次の男児は死産だった。
 そしてこの時、三人目の男児を早すぎる出産で失った。
 親と子を同じ日に亡くすのは、流行り病や災害を別にすれば例がない。まるで、何かの呪いのように、父には死がついてまわっていたのだ。
 名のみを知る母は、次に女児を授かったが二年経たぬ内に亡くし、ロルフを産んだ後は僅かしか生きられなかった。
 薄幸な人々だと思わずにはいられなかった。その呪いは、ロルフにも受け継がれたのだろうか。妻を早くに亡くし、幼い子二人を同時に失い、新たに儲けた子も不注意から死なせた。これからもまだ、失っていくのだろうか。
 エリシフがいかに両親から充分に愛されていたのかは分かった。二人でその話をした事も、ロルフから訊ねる事もなかったが、確信できた。エリシフのあの強さの源は、愛されていたという自信から来ていたものだとようやく知った。愛情を受けていたからこそ、知らぬ土地、知らぬ人々とその心無い噂話や冷たい態度にも、幼いながらにも昂然と顔を上げていられたのだ。
 両親からは、自分達が誰とも関りを持たずに生きて行く事になった顛末を、ずっと言い聞かせられていたのかもしれない。父が訪れた時に、それで落ち着いて、信頼して手を取る事ができたのだろう。
 ――運命には逆らってはいけない。逆らえば大きな罰を受ける事になる。それは、お前から大切なものを奪って行くだろう。
 そう、人は言う。父やエリシフの両親、オルト夫妻は逆らったからこそ、不幸に見舞われる結果になったのか。それとも、その全ても、生れ出た時に運命の女神が用意した糸に既に現れていたのだろうか。
 神々の考えは人間には分からない。けれども、エリシフとの出会いがその中に含まれていたのだとすれば、全ての悲劇は起こるべきして起こったという事なのか。
「ロルフさま、あなたの父君のラグンヴァルドルさまは、あなたには非常に厳しいお方でした。でも、あなたのことを思っていらっしゃらなかったわけではありません」
 そのオルトの言葉に、ロルフの心臓がひとつ、大きく跳ねた。思ってもみなかった言葉であった。
 父は、常にロルフを叱咤し、褒める事の少ない人だった。ロルフの事に興味を示さず、養育も教育も全て他人任せで、直接何かを教わったという記憶もない。族長としての義務や振る舞いは、五歳でロルフに付いた元戦士のスヴェリから教わり、その後、父の側で見聞きして身に着けたものであった。先程のオルトの話を聞く限りでは、父は友情にも愛情にも篤い人であり、それは少なからずロルフを愕かせていた。度重なる不運と不幸に、そういった感情を失くしてしまったのかと思い始めていたところであった。
「わたしはラグンヴァルドルさまが、生れてふた月目、ようやく首の座ったあなたを抱かれて仰言った言葉を、今でもはっきりと思い出すことができます。あの方は、あなたをしみじみと眺められておりました。その目には愛情と同時に、強い決意がありました。それを、貫かれたにすぎないのです。全ては、あなたのお為でした」
「父は、何と言ったのだ」
 そう訊ねるロルフの声は少し掠れていた。自分の為であろうとなかろうと、愛情を見せなかった理由を知りたかった。何が、父からその感情を奪ったのか。母の生命を犠牲に生まれた自分を呪ったのか。
「――神々は、私の愛する者を全て奪って来られた。母は若くして亡くなった。父も、妻も、子供達や友までも失われた。私の愛が呪いであるのならば、私は愛する事を止めよう。この子を抱くのも、今日が最後だ。私が愛さなければ、この子は無事に育つだろう。だが、その代わり、オルト、お前がこの子を愛してやってくれ。ヴァドルと同様に、愛してやってくれ。私の愛せぬ分を、お前の愛で補ってやってくれ。一人で双子を育てると同じくらいに大変な事であろうが、出来る限りの便宜は図ろう。だが、決して、私が愛しているのだとこの子に知られるな。そう仰言られたのです」
 ロルフは拳を握り締めた。いつでも大きく遠く厳格であった父が、自分を愛していたのか。
「あなたをお抱きになっていたラグンヴァルドルさまの顔が、一瞬だけ、哀しみに歪みました。そして、わたしにあなたを託されたのです。わたしに再婚の話が持ち上がった際にはヴァドルを養い子として引き取り、二人を共に育てる道を見付けようとまで仰言ってくださいました」
「最期まで、父は私を愛していたと言うのか」
「あなたのことも、奥方さまのことも、愛しておいででした」オルトは深い息をついた。「エリシフさまのことも、そうです。大切なご友人の忘れ形見でありましたもの」
 父はエリシフに対しても厳めしい態度を崩さなかった。友情を壊し、一人の優秀な戦士の身を(あやま)たせた女の娘を、苦々しく思っていたのではなかったのか。
「エリシフの父親との約束ではなかったのか」ロルフは呟いた。「互いの子が男児と女児であった際には一緒にさせようという約束であったと、私は聞いた」
「事情を知らない人はそう申しますでしょう。当時から、元から二人を逃がすつもりであったのだとか、エリシフさまがいらっしゃってからは、母親が本当はラグンヴァルドルさまの想い人であり、二人の血を一つにしたかったからだとか、様々な無責任な噂がございました。ラグンヴァルドルさまはそのことをご存じでしたが、全て黙殺していらっしゃいました。実際には、お話しいたしましたように、そのような時間はありませんでしたし、奥方さま以外の女を愛せるような器用な方ではございませんでした。もし、わたしの子が女児であれば、ラグンヴァルドルさまは生まれる前に父親を亡くしたその子を、あなたの婚約者に決めていらしたのかもしれないのです。それほど、情の深い方であられました」
 ロルフは頭を振った。
「私は――私は、一時期、お前が父の愛人であったのではないかと疑った事がある」
 それも、見習いになった際に言われた事であった。若くで館の管理者となったオルトに対するやっかみではないかと、その時にも思ったものだが、疑いを捨てる事ができずにいた。
 オルトはその言葉を一笑に付した。久し振りにその笑い声を聞くと、ロルフは思った。
「まさか、そのようなことがありましょうか。ラグンヴァルドルさまは、親の決めた相手ではありましても、あなたの母君を愛していらしゃいました。島外ではいざ知らず、島内では奥方さまの亡くなった後も、浮いた話は何一つございませんでしたよ」
 今では廃れてきているが、島によっては、族長集会の際に女を供するところもある。それを断るのは、男ではないと公言するようなものであった。
「たまたま、前の管理者が歳で引退を申し出た時期と、あなたがわたしの手を離れて男の養育者に任される年齢になられたのとが一致したにすぎません。わたしが戦士の娘、妻であり、最もよく館を知る者であったからです。再婚の話もありませんでしたし、何よりも、あなたの母君との約束がありましたから。死にゆく人との約束は、神聖なものでありましょう」
 ロルフは沈黙した。
 自分がエリシフとの約束を、守る事ができないと分かっていて交わしたのを思い起こさずにはいられなかった。ただ安心させる為だけに、不誠実な事をした。だが、それは神々も許して下さるだろう。
「ロルフさま、わたしは、あなたの情けにおすがりします」
 再び口を開いたオルトの言葉は、ロルフの意表を突くものであった。
「――いきなり、何だ」
「どうか、どうか、ヴァドルのことをお願い致します。あの子は、わたしがいなくなれば一人で残されます。いつまでもお側にいられますよう、お願い申し上げます」
 部屋の暗がりで、ヴァドルが緊張するのが分かった。母親が自分の身を案じて懇願する姿を目の当たりにしたのだから、それも致し方がない事だとロルフは思った。オルトは、相変わらずヴァドルの存在には気付かぬようであった。
「では、なぜ、ヴァドルに結婚を勧めなかった。一人で老いて行く息子を案ずるのならば、ヴァドルに家族を持たせるべきであっただろう」
 つい、責めるような口調になった事をロルフは悔い、恥じた。ヴァドルがエリシフを死後もなお愛し続けている事を、ロルフは知っていた。オルトも当然、承知していただろう。その上で結婚を強いるのは残酷だと思い、控えていたとしても、それは母の想いだ。責める事ではない。
「重々、承知しております。皆が、わたしが親としての務めを果たさぬ薄情者と考えておりますことも」
「ならば、なぜ」
 重ねて問うたのは、純粋に好奇心からであった。オルトのヴァドルへの愛情は疑いようもなかった。一時はその事を疑問に思ったものであったが、情けに縋ってでもしようという頼みが我が子の身上であるのは、愛情の深い証拠だ。
「あの子は――ヴァドルは、血を残しては、いけないのです」
 すっと、部屋の温度が下がったようにロルフには思えた。ヴァドルも暗がりで息を詰めている、と思った。理由はなんであるにしろ、子の血を残したくはない、残すな、というのは重大な事であった。
「ヴァドルには、何か、お前や父親を通じての悪い――致命的な何かを受け継いでいると言う のか。それを、次に伝えぬ為に、絶やしたいと思うのか」
 ロルフは言葉を切った。躊躇いはあったが、結局は口を開いた。「それとも、お前は、実は夫を恨み、憎んでいたのか、その血を残したくない程に」
 いいえ、と言うようにオルトは首を振った。
「あの人は、とても良い人でした。わたしは殴られたことはおろか、声を荒げられたことさえもございません。お話ししたように、友情にも篤く、穏やかで心の広い人でありました」
 オルトの目に、見る見るうちに涙が浮かんだ。
 母を責めないで欲しい、そういうヴァドルの言葉が、空気を通して聞こえてくるようであった。
「全ての顛末をお話ししなくてはなりません。この秘密を、来世までも持って参るつもりでありましたが、あなたにヴァドルの身をお願い致します以上は、あなたにあってはご存じでいらした方が宜しいのかもしれません。決して決して、ヴァドルには知られぬようにしてください。そして、あの子のことをお願い申し上げます」
 ロルフは目だけで、ヴァドルに部屋を出るよう促した。だが、ヴァドルは動く様子もなく、ただただ首を横に振る気配のみが伝わって来た。知りたい、知らなくてはならないと本人の覚悟ができているのならば、良い歳をした大人を子供のように追い払う事などできない。
「ロルフさまには、ヴァドルの父親――赤毛のビョルニが如何にして亡くなったのかを、ご存じでいらっしゃいましょうか」
 ヴァドルの父親の話は殆ど、聞かされてはいなかった。生まれる前に亡くなったという事と、自分の父と大変よく似た人で親しい友人、遠縁であったという事くらいであろうか。ヴァドルもそれ以上に知っているとは思えぬ程に、人口に膾炙する事の少ない人物であった。容貌が悪くなく実力もある割には目立たず穏やかな性質であるのは父親譲りだと、老人がたまに口にするくらいのものであった。死に様を語る者など、一人もなかった。
「夫は――ビョルニは、不名誉な死を迎えました」
 ヴァドルの纏っている空気が、再び凍り付いた。知っているのだな、とロルフは思った。
「館での宴でひどく酔い、帰り道で眠り込んで凍死をしたのです」オルトの言葉は淡々としていた。「ヴァドルがわたしに宿ったと、報せた日の夜のことでした」
 確かに、戦士としては不名誉な死に相当するであろう。だが、それは血を繋げぬ理由には相当しないとロルフは思った。そのような死を迎える者は、何もヴァドルの父親ばかりではない。非常に残念な死ではあるが、少なくとも本人は、祝いの酒に気分よく眠りにつき、そのまま目覚めなかったのではないだろうか。死者の館で愕き、嘆く事はあっても、やがて死と眠りの神の翼に抱かれて癒しと再生の為の眠りに変わったであろう。
「それほどに思い詰めることはないとお考えなのでしょう」
 オルトの言葉に、ロルフはその顔を見つめずにはいられなかった。オルト自身がそう思うのならば、なぜ、ヴァドルは血を残してはいけないのか、混乱するばかりであった。
 ゆっくりと、オルトが口を開いた。
「あの子は――ヴァドルは、夫の胤ではないのです」
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