第43章・露見

文字数 13,283文字

 朝早くに求婚者一行が去ってしまうと、館はそれまでの緊張から解き放たれて気が抜けたようになっていた。
 ぼんやりと、昼間は火の消えた暖炉を見やりながらティナは思いを巡られた。手にはハラルドの為のやりかけの刺繍を持っていたが、もう、久しい時間、忘れられていた。
 結局、ティナがサムルに会ったのは、中庭での一度きりであった。それは、あの偶然がなければ、ロルフにはティナをエリスの母親として婚約者に会わせる気が全くないのだ、という事を意味している。手をかけて育てた娘の母としても認めてはもらえないのだ。そのような自分が、なぜ、今もロルフの妻でいるのか、不思議でならなかった。
 あの時、ティナの生命はロルフが握っていた。手を下そうとすれば、簡単にできたはずだ。
 しかし、ロルフはティナを生かした。子供達と共に生きて行けるのだ、それを許されたのだ、と思ったのは束の間であった。床上げの宴では丁寧に接してくれた。何があったのか、縋るような真似までした。だが、結局は以前の、いや、以前が家畜であったのだとすれば、今度は家具並みの扱いになった。ロルフは、まるでティナが存在しないかのように振舞う。ティナも、邪魔にならないように、なるべく視界に入らぬようにと隅に退く。
 果たして、ロルフにはティナを生かし続ける意味があるのだろうか。館や子供に対する何にも関われず、関わらせてももらえない。ただ、生かされている事に、理由はあるのだろうか。如何に他島の者に病であると偽ったとしても、エリスやオルトは真実を知っている。突然に自分が生命を失うような事になれば、エリスはロルフを問い詰めるであろう。愛しい子に殺人を疑われる危険を冒してまで、ロルフはティナを手にかけたりはしない。ならば、ロルフの中で何かしらの理由があるに違いないが、それはティナの埒外にあった。
 北海人の考えている事は分からない。中つ海の規範では、北海人の論理は測れないのだ。異教徒であるばかりではなく、慣習も異なる。自分達とは全く違った人々を、どのようにすれば理解できるというのだろうか。
 北海人は金髪の巨人。
 北海人は残虐。
 北海人は野蛮。
 北海人は――
 そう言われて育ってきた。決して分かり合える存在ではなく、神の御名に於いて討伐しなくてはならなのだ、と。神の()言葉に耳を傾けず心を入れ替えず、神の恩寵もなく、この世の道から外れた異教徒であれば、魂もなく、殺しても罪悪を感じる必要もない。むしろ、異教徒の死は神の幸いを賜る事となろう。中つ海の城砦では、そのように聞かされてきた。
 実際に、この地で暮らしてみて、どうであったのか。
 確かに、文明化はされておらず、人々の心も荒々しい。犠牲(いけにえ)を必要とする血腥い神々がおり、人々の生活も中央集落とは思えない程に鄙びている。
 しかし、エリスを始めとする子供達は、そのような北海人として育ったとはいえ、ティナの血を引いている。魂がないとは思わなかったし、残虐であるとも思わなかった。
 オルトやヴァドル、ウーリックも、決してティナに対して酷薄であったとは言えない。
 他の人々は、ティナの存在を疎ましいと感じている事を目の前であってさえ、隠さない。だが、三人は、そう思っているのかもしれないが、決して素振りには見せなかった。気を遣ってもらっていると思う事さえもあった。
 殊に、ウーリック。
 ティナにはこの男が理解できなかった。
 エリスの婚約者と会った日、まるで二人をティナの目から隠すかのように傍近くに寄り、言葉をかけてきた。オルトから、エリスより目を離さぬように言われていたティナは二人の姿を追ったが、声は聞こえど言葉は聞き取れぬ絶妙な場所に下がったのが見えた。その二人を、ウーリックは背に隠した。
 ――ご不例であるとお聞きしておりましたが、お加減の宜しい御様子に安心いたしました。
 詩人(バルド)の言葉は落ち着いていた。この男はティナに対しても四年の間、社交辞令であろうと丁寧な態度を崩さなかった。大概の者は、詩人であれ旅の商人であれ、ロルフの寵がティナにはない事を見抜いてその内に関心を寄せなくなる。
 ――この度の御縁に、お慶びを申し上げます。サムル殿は、エリス様に相応しいお方であると存じます。
 頷くばかりで、余りはかばかしい反応を示さなかったティナの気を引こうとするかのように、詩人は過去の事を持ち出した。
 ――このお館に滞在を許されておりました折には、大変、お世話になりました。改めて御礼申し上げます。
 それほど親しくしていた訳ではなかった。ウーリックは飽くまでもロルフの詩人であり、子供達の養育の一端を担っていた。北海の神々や英雄の物語を伝え、戦士の嗜みの一つとして、詩に親しむ為でもあった。北海では、戦士も即興で詩作をする事があったが、ティナにはその修辞や韻律は全く、理解できなかった。美しいとすら、思えなかった。
 ――スール様の事、耳に致しました。あの小さなお方の誕生の折には、祝福の詩を贈らせて頂きました事、昨日のように憶えております。奥方様にも白鷹殿にも非常に大きな嘆きであったとお察しいたします。
 小さな可愛いスールの事を思い出さぬ日はない。腕に感じた重さ、大きな目、愛らしい笑顔。あの子は、ティナの心の一部も共に連れて行ってしまった。目の奥が熱くなるのを感じ、ティナは慌てて意識を詩人に戻した。
 ――奥方様。
 ややあって言った詩人の声は低く沈められていた。聞く者を憚るようなその声音に、ティナは少しく違和感を抱いた。
 ――お辛くは、ありませんか。
 詩人の言葉に、ぎくりとした。男の顔を見ると、憂うような気遣うような表情がそこにはあった。
 ――(わたくし)の目は、何も見えていない訳ではありません。白鷹殿が、あなたに辛く当たっていらっしゃる事は、存じております。
 互いにまだ若かったあの頃に、既に、この男は知っていたと言うのか。人前では何事もないように過ごしてきたつもりであった。それでも、詩人の鋭い目からは逃れ得なかったのか。ティナの身体は震えた。あの全てを、この詩人は察していたのか。
 ――貴女様が中つ海の御方でありました事は、(わたくし)も存じ上げておりました。わざわざ、私めに進言するような者までおりました。奥方様、貴女は、尊敬に値する強い御方です。遠く離れた異郷で、たった一人で生きて来られた。子を産み、育てられました。私は、貴女の勇敢さ、愛情深さに敬服いたします。
 詩人は胸に手を当て、一礼した。
 ――私は、貴女の、味方です。
 この一言を理解するのには、時間がかかった。徐々に希望が生じてきたが、同時に、不安も呼び覚ました。
 この男は、自分を偽ろうと、罠に掛けようとしているのではないだろうか。親切を装って、実は、ロルフの機嫌を取る為に、婚約者に有利になるように、自分を陥れ、亡き者にしようとしているのではないだろうか。
 詩人の顔には、真摯な表情が浮かんでいた。それを、信じても良いものだろうか。
 ――不審に思われるのも、当然です。しかし、私を信じて頂きたいと存じます。私は、貴女に害を為す者ではございません。
 ティナは、自分が息を詰めていた事に気付き、ほっと溜息をついた。
 何を以て、この男を信じればよいのだろうか。四年の間、詩人はこの島に滞在していたとはいえ、特別に親しくしていた訳ではない。ロルフの、子供達の詩人であり、ティナの、ではなかった。深い事は何も話しはしなかった。二人きりで過ごした時間もなかった。ましてや、ティナはこの男の素性すら、知らなかった。
 ――貴女が、お望みであるならば、私は貴女をこの島より、白鷹殿より遠くへお連れする事ができます。中つ海へはお戻りにはなれませんが、貴女は、そこで、誰にも過去を知られる事なく、何に怯える事もなく、生きる事ができるのです。
 それ以上に魅力的な話があるだろうか。ロルフの(くびき)から解放され、誰も何も知らぬ土地で新たに生き直す。暴力に怯える事もなく、穏やかに暮らして行けるというのか。
 だが――と、走り出したティナの心を引き止めるものがあった。
 だが、エリスは、このように自分に利があると思った取引に応じてしまったのではなかったか。それを、愚かな事と思ったのではなかったか。
 ――お疑いになるのも、尤もでございます。しかし、私は、今は、サムル殿の随伴人としてお話ししているのではございません。北の涯の島の詩人として、申し上げております。
 北の涯の島は、エリスの言葉によれば、この詩人の故郷であったはずだ。随伴人、推薦人の義務である結婚の見届け人としての役割を終えれば、そこへ帰るのではなかったか。
 ――私の母は、東方地域より交易島に売られた奴隷でありました。
 ウーリックの視線は揺らがなかった。大変な秘密を口にしていると言うのに、表情も変わらない。
 ――交易島より中つ海に売られてゆく海上で涯の島の船に襲われ、その族長に解放されたのです。そこで父と出会い、私が生まれました。あの島では、族長という絶対的な地位の御方はいらっしゃいますが、その他の者達は、前身が何であろうと平等に扱われます。誰もが善人であるとは申しませんが、それでも、必ず、貴女の味方はおります。族長が、貴女の庇護者になられます、どうか、御一考をお願いいたします。
 北の族長が自分の事を知っているのか、とティナは怯えた。族長同士の結束は固いとオルトから聞いていた。それでは、秘密は保てまい。族長が庇護者になってくれると言ったところで、北海に争い事をもたらすかもしれない人間を、いつまで守ってくれると言うのか。第一、島を離れる事はロルフが許すまい。
 ティナの顔色が変わった事に気付いたのか、ウーリックは慌てたように両手を振った。
 ――決して、決して、族長は貴女の事を口外されません。ただ、この島を出るに際しては、貴女の死を装う事になりますので、私の島で集会が開かれる期間は、身を隠して頂く必要がございます。少なくとも、白鷹殿が御存命の間はそうして頂かねばなりません。
 本当に、それでロルフを欺く事ができるのか。ロルフを騙してまでも、発覚した際には族長同士の対立も辞さないと、北の族長は言うのか。そこまでしてティナを護る意味など、あるのだろうか。子供達と別れてまでも、そうする価値があるのか。
 ――決行は、次にこの島で族長集会の開かれる七年後になります。その頃には、末のハラルド殿も正戦士となっていらっしゃいましょう。それまで、御辛抱を頂けますか。
 今更、七年がどうであろうか。成人した息子達は、恐らく、心配する事はないだろう。その時には、年長のロロやオラヴは結婚し、子もいるのかもしれない。完全に母親の手を離れた息子達に、何の憂いがあるだろうか。息子達は、北海の戦士なのだ。
 ――御返事は、結納財の日でも、七年後でも結構です。集会に私は、涯の島の族長と共にこの島に参ります。どうか、ゆっくりとお考え下さい。貴女は御自分の幸福を、お考えになっても宜しいかと存じます。
 今朝、詩人はエリスの婚約者と共に去った。
 甘言に乗ってはいけない、という思いと、詩人は嘘を言わない、という言葉とが、頭の中をぐるぐると巡った。
 この島から、ロルフから逃れる事が出来るのだ、と詩人は言った。この年齢であったとしても、新しく生き直す事ができるのだ、と。
 ハラルドが成人すれば、自分は本当に用済みになるだろうとティナは思った。ロルフには、もはや理由がなくなる。ロロは跡継ぎとしてロルフの近くにいるだろうが、常に館にいる訳ではないだろう。結婚をするまでは、戦士は独身者ばかりで共同生活をする事は、ヴァドルを見ていて知っていた。ロルフがティナを始末しようとするならば、次はその時であろう。
 死は、解放であった。スールを思えば、ロルフの手にかかって死ぬのも躊躇うものではなかった。だが、詩人はそこに、生きる、という選択肢を示した。
 失われたものが取り戻せる訳ではない。全てをなかった事にできるものではない。
 北海人として育ち、成人する男の子達を将来に渡って愛し続けるのかどうかを、問われているような気もした。
 考える時間は、たっぷりと、ある。

    ※    ※    ※

 その日も、エリスは口の中で手仕事に対する文句を呟きながら、刺繍を刺していた。
 館に伝言を持ってきたアズルをとっ捕まえて、このところ新月の日に帰らず、サムル一行が寄宿していた際にも母に顔も見せなかった事をなじった。姉弟でただ一人、ロルフの青い目を受け継いだアズルは、しかし、最も物静かで年齢の割には大人びたところのある少年であった。姉の機嫌の悪いのを察したか、言われるがままに小言を受け、抵抗もせずに中庭まで引っ張って行かれた。
 中庭では、母が一人で毛糸の(かせ)を手に、エリスを待っていた。綛を糸玉に巻く手伝いをする約束をしていた事を、エリスは思い出した。
「アズル、あなたが手伝いなさい。わたしはまだ、残りを仕上げなくてはならないの」
 やりかけの刺繍を手に、エリスは弟に言った。アズルは苦笑を浮かべた。母親に挨拶をすると、帰宅しなかった事と顔を見せなかった事の詫びを述べた。十四歳とは思えない程に、しっかりとした子だった。
 長椅子に、アズルは母より少し離れて座し、差し出した腕に母が糸綛をくぐらせるに任せた。エリスの耳に、母がアズルの時間を気にしている言葉が入ったが、背中を向けている弟の返事は聞こえなかった。
 オルトは近頃、大広間で父とヴァドルと共に持参財や支度品の話し合いをしていて、中庭に姿を見せなかった。
 ここでも、母は除け者だ。
 エリスは苦々しく思った。支度品として交易島で何を買うにせよ、それは決して母の意見を聞いてでの事ではなかった。父が族長室に下がっても、その話を母にしているとは思えなかった。事後承諾もないのかもしれない。母も、オルトや父が話さぬ限り、わざわざそれを訊こうともしないのであろう。
 皆がそれで納得をしているのならば、エリスが意見したところで何の甲斐もない事は分かっていた。だが、エリスは納得をしていなかった。これが普通の結婚であれば、生涯の別れとなるものを、母は何一つ関わる事を許されない。その状態が正常なものであるとは、到底、考えられなかった。オルトや母はともかくとして、父やヴァドルは自分とサムルの取り引きについて、何も知らないはずだ。母と娘の今生の別れとなる儀式に、母親が一切、関わらないなど、あって良いはずがなかった。
 なぜ、母は自ら進んで関わろうとしないのか。
 いずれ、エリスが帰って来る事を知っているからだろうか。その事に安心をして関わらないでいるのならば、それも仕方がないのかもしれない。
 しかし、そうではない事は、暗く沈んだ母の表情が如実に物語っていた。
 母は、サムルとの取り引きには反対であった。信じてはいなかった。エリスは二度と帰っては来る事はないのだと思っている。
 それならば、普通は積極的に関わろうとするのではないだろうか。
 エリスを、娘を愛しているのならば。
 そう考えて、エリスはどきりとした。自分が愛されていないなど、思った事もなかった。誰かがそう言ったとしても、信じなかったであろう。だが、表情は別として、母の態度は、愛情の欠如を示しているのではないだろうか。
 アズルと母は、黙って向き合っている。口数の多い二人ではなかった。母が糸を巻く速度に合わせて、アズルは腕を動かしている。母を見るその目は、決して厳しいものではなかった。そう言えば、この弟はロロやオラヴ程には母に反発をしなかったと、エリスは思い出した。男の子は、成長過程で母親に反抗をしたくなるものだろうが、アズルは、常に優しかった。自分達と同じ血が流れているとは思えぬほどに穏やかであった。
 最も母に似た性分をしているのではないか、と思った事もあったが、今では、母の穏やかさは性格からというよりも、諦めからのものであると分かる。全てに於いて、諦めて来た人なのだ。それを頼りない、弱いと思えど、非難してはいけない。北海人の中でただ一人、奴隷ではない中つ海の人間なのだ。うち萎れて黙って命令に従う奴隷達を見ていると、かの地の人々の心が、如何に弱いかが分かる。それは、母の責ではない。生まれた土地やそこに住まう人々の問題だ。
 エリスは、自分と弟達が、この人を守らねばならないのだと感じた。だが、一歩引いたようなロロやオラヴにそれが期待できるだろうか。アズルは、優しい。ハラルドは、まだ、反抗的な年頃を迎えてはいない子供だ。
 母と弟が毛糸を手繰っている姿は、初めて見るような気がした。エリス自身は、良く弟達に手伝わせて面倒くさそうな態度を叱ったりしたものであった。アズルはいつでも大人しく言う事をきいた。今も、恐らく、嫌な顔ひとつせず、母と対峙しているのであろう。
 エリスは、アズルならば任せておいても安心だと思い、やりかけの、色合わせにどうしても失敗したとしか見えない刺繍を取り上げた。どうせ、サムルの胴着なのだ、構うものか。
「姉上は、何を作っておいでなのですか」
 アズルの声に顔を上げると、弟が見ていた。腕は規則正しく動き、母は全く、気にはしていないようであった。
「その丈では、男物ですか――サムル殿の服でしょうか」
 弟の口から、その名を聞きたくはなかった。唯論、アズルに揶揄う気がないのは分かっている。小突かれるのが分かっているのか、ロロやオラヴ、ハラルドとは異なり、そういう事をしない子であった。
 エリスはアズルの言葉を無視した。面倒で嫌な事はさっさと終わらせたかった。嫁に行く側の支度品としてでなければ、誰があの男の衣服を調えてやるものか、という気持ちを抑える事ができなかった。嫌っているのではなくとも、苦手な作業を要求されると恨みたくもなる。
「母上は、これから、大忙しですね」エリスから返事が返ってこないのにも気を悪くした風もなく、アズルは言った。「姉上の衣装づくりは大変でしょう」
 まだ、それがあった、とエリスは舌打ちをしたい気分になった。花嫁衣装は、どこの娘であっても、時間をかけて布を選び、普段着よりも丈長く、刺繍もふんだんに施される。求婚の日まで会った事もない男の許に嫁ぐのであっても、娘達は嬉々としてその準備をする。その気持ちが理解できなかった。
「できる限りの事をして、送り出して差し上げますよ、姉上」
 アズルが、珍しく軽口を言った。
「あなたにできることなんて、別にないでしょうに」
 憮然としてエリスは応えた。男が関わるのは、事務的な事柄だけである。実際に手を動かして支度品を作るのは、女だ。そこには得意も不得意もない、やらねばならないのだ。それが、どれほど苦痛な事なのかは、男には分かるまい。
 サムルは長子であるので、家を新しくする必要はない。改装や修繕などはあるかもしれない。それと、機織り道具。これは夫から妻への絶対に必要な贈り物だ。自作が基本だが、男の中には、部品は作るものの、組み立ては大工に頼む者もいる。その逆も有りだ。
 機織り道具を別にすれば、サムルは自ら手を動かす事がないように思われた。そうなると、不公平感が襲って来て、エリスはむっとせずにはいられなかった。財を使うのは男の方だろうが、この面倒な支度品を、自分は、好きでもない男に嫁ぐ為に幼い頃から作り続けてきたのか。
 知らず、糸を引く手が強くなった。慌てて力を抜き、針先で引きつれかけた布目を正した。こういう細かな事を、どうしてサムルの為にしなくてはならないのだろうか。好きな男の為ならば、我慢できるものなのだろうか。
 溜息をつき、エリスは再び、今度はゆっくりと針を運んだ。目の隅には母と弟を捉えるのを忘れなかった。
 母の顔からは、特に表情は読み取れなかった。だが、内心では戸惑いながらも少しは喜んでいるのではないだろうかと、エリスは思った。弟達の誰とも、母は向き合う時間を持たなかった。男子と女子とでは学ぶべきものが異なるという理由で、弟達は母より遠ざけられていた。エリスは母の近くで手仕事を学んだが、弟達はその時間を学問や戦ごっこで時間を過ごした。自分が読み書き計算を学んだのは、弟ばかりが学ぶ事を不満に思って母に告げたのがきっかけであった。父がその事を知らなかったとは思わなかった。常に父に従っている母としては、思い切った行動であったのだろう。エリスの他の女子――オルトを含めた女達がそういう事ができるのを、療法師以外では見た事も聞いた事もなかった。それもまた、母が北海人ではない証左に思えたのだ。
 中つ海がどのような場所であるのか、エリスは知らなかった。母が、どのような暮らしをしていたのかも、分からない。交易島から来た女奴隷達が文字を知らない事を思えば、母は恵まれた育ちであったのだろう。族長の妻となるからには、それなりの地位であったに違いない。
 北海で、女が文字を使う機会はなかった。女は滞りなく家を回し、男達が不在の折にその代わりを務めるだけである。母に教わった読み書きも計算も、活かせる場所がなかった。オルトがこの館にはいるので母は家政を受け持つ事もなく、日がな一日、手仕事に精を出すのみである。
 どのような気持ちで母は、父や弟達の物を作って来たのだろうか。
 そう思うと、ずきりと胸が痛んだ。
 愛してもいない男の許に嫁ぎ、子を産み育てた母は、未来の自分を見ているように思えた。
 ――いいえ、わたしは、そうはならない。
 エリスはその思いを振り払った。自分は、サムルから離婚の権利を貰った。男の子さえ産んでしまえば、後は自由だ。出産が大変なのは、母を見て知っている。だが、母は中つ海の人間なので小柄だ。自分は北海の他の娘と変わらない。その違いは大きいかもしれない。生命をかけてでも愛してもいない男の子を産むのが自分の自由と引き換えでるならば、躊躇う事はないように思えた。
 アズルの手に巻かれた毛糸は、もう、残り少なくなっている。それほど時間が過ぎたとも思えなかったのに、考え事をしているとあっという間であった。
「お手伝いする事は、これだけでしょうか」
 糸が腕から全て巻き取られると、アズルは言った。「他にあれば、何なりとお申し付けください」
 十四歳のくせに、と思った。エリスが同じ年頃に、そのような言葉が出たとは思わなかった。それが戦士の館で教えられたものなのか、アズルの元来の性格からのものであるのかは、エリスには判別がつかなかった。アズルとは、そのような子であった。目立たず、前に出たがるハラルドよりも後ろに常にいる子だった。
 ロロは跡取りたるべく、それに相応しいように育てられた。オラヴは学問を嫌ったが、将来、兄を支えるべき存在である事を理解してからは、文句を言わなくなった。アズルは学問を好み、三男の地位を心得て一歩控えてるいるようであった。ハラルドはまだ子供なので、父の注目を欲しがっている。
 それでも、父はアズルにも目を配る事を忘れなかった。姉弟が等しく愛されていると思うのは、そんな時であった。愛のある間は、父も母に対して優しくあったのだろうか。気遣いを見せたのだろうか。エリスの中では、スールの死とハラルドの誕生で、全てが変わってしまったように思えた。何が原因で、母が寵を失ったのかは謎であった。
「姉上、手が止まっておられますが」
 アズルの声にはっとした。二人が、自分を不審そうに見ている事に気付いた。
「なんでもないわ、少し、休んでいただけよ」
 エリスは言った。何を考えていたにせよ、アズルには関係のない事だ。
「サムル殿は、良いのお方のようですので、母上もひと安心ですね」エリスの答えを気にした風もなくアズルは母に向き直った。「姉上のような方を貰って下さるとは、奇特なお方だと、ロロ兄上も申しておりました」
 一言多いのが、ロロであった。容姿は父の若い頃を思わせると誰もが言ったが、性格は、より明るく軽いようにエリスには思えた。ただ、エリスの知る父は、既に奥方と二人の子を失った父親、族長としての姿であったので、十六歳のロロとは較べるべくもないであろうが、弟が同じ年齢になったとしても、あの重々しさと力強さを備えているとは思えなかった。
 刺繍途中の布を椅子に置き、エリスは立ち上がった。まだ母と共に長椅子に腰かけているアズルに近づき、腰に手を当てた。
「で、あなたも、そう思っていると取ってもいいのね」
 目を細めてそう言うと、アズルがぎょっとしたような顔になった。ロロやハラルドには、しょっちゅう、このように問い詰めていたが、アズルに対しては滅多になかった。今日は、少し口が軽くなっているようなので、注意をしておくのも良いだろう。
「いえ、私は、ただ、あのように知見深く、心広いお方が義兄上になっていただけて嬉しい、と思っただけです」
「わたしは、心が狭いと言いたいの」
 子供と本気で喧嘩をする気はなかった。ただ、口を慎めと言いたかった。
「姉上は、姉上ですよ」アズルの笑みはどこか、へつらうようなところがあった。「サムル殿は大人なのです」
「どうせ、わたしは子供だわ」
 エリスは、自分がサムルから子供扱いされているのではないかという気持ちを思い出した。大人げないとは分かってはいたが、拗ねてしまう。
「ご自覚があるのでしたら、もう少し――」
 アズルに最後まで言わせなかった。エリスはさっと手を上げ、拳でアズルを打つ真似をした。笑いながら、アズルは両手で頭を守ろうとする仕種を見せた。いつもの、お遊びであった。
 がたん、と音がして、二人は動きを止めた。
 母が、真っ蒼な顔をして、身を竦めていた。
 何がどうなっているのか分からず、エリスは、力なく振り上げた手を下ろした。アズルも、異変を感じて母を振り向いた。血の気のない顔をして、身体が小刻みに震えていた。
「母上」
 アズルが立ち上がり、母の肩に手を置いた。「大丈夫です。何でもありませんから」
 それでも母の顔色は変わらず、目は落ち着きなく辺りを彷徨っていた。エリスとアズルの存在wを認識してないかのようであった。
「中に、入って、お休みになりましょう」
 優しくアズルが言い、そっと手を添えて母を立たせた。エリスは何か言わなければ、と思った。だが、母の急変に、頭が追い付かなかった。一体、母の身に、何が起こったのだろうか。
 アズルの青い目が、エリスを見ていた。視線が合うと、アズルはゆっくりと首を振った。
 今は、何も言わない方が良い。
 表情は、そう言っているように思えた。
 母はアズルに逆らわず、その手に縋るようにのろのろと歩を進めた。
 二人の姿が見えなくなって、ようやく、エリスは地面に母が巻き取った濃い灰色の糸玉が落ちている事に気付いた。震える手で、それを取り上げた。
 何もなかったはずだ。
 日常の続きであった。
 この糸玉で、母はハラルドの靴下を作るのだと言っていた。戦士の館に入る為のではなく、この冬の準備だった。アズルが巻き取る手伝いを終えれば、母は作業に入っていたはずだ。いつものように、黙って針を動かしていたはずだ。
 あったのは、ただ、エリスとアズルの間で交わされた、サムルについての会話とそれに続くおふざけだけであった。
 会話は、問題なかったと思う。サムルの事を少し話しただけだ。母がサムルのことを信用していないのは分かっていた。アズルが慕っている様子なのが原因なのだろうか。弟達が、揃ってサムルに傾倒しているのが原因なのだろうか。
 いや、違う。
 エリスの身体は震えた。
 あの時、母の目は自分にあった。
 エリスの、アズルに対しての行動が、母を脅かしたのだ。
 振り上げた拳に、母は反応したのだ。
 鼓動が速くなった。今まで、母の前でふざけて弟を殴る真似などした事がなかった。木剣での遊びや稽古も好まない母であったので、その前では暴力的な言葉や行動を慎むようにと弟達に言い続けて来たのは、当のエリスではなかったか。それなのに、サムルが帰った事で気が緩んだのか、母のいないところでの行いが、つい、出てしまった。失態であった。
 しかし、それ以上のものを、エリスは感じ取った。
 あれは、尋常の反応ではなかった。ロロとオラヴが取っ組み合いの喧嘩をしていた時分でさえ、困ったような顔をしているだけであった。だが、母は、まるで、殴られるのが自分であるかのように怯えていた。
 怯えていたのである。
 いかに皆から黙殺された存在であるとは言え、族長の妻を怯えさせるような事を為す者がいるとは思えなかった。
 だた、一人を除いては。
 その真実に行き当たった時、エリスの心臓は締めあげられるように痛み、吐き気まで催した。
 むかむかする胸に右手を、思わず叫びそうになる口に左手を当てた。そうしていないと、悲鳴を上げてしまいそうだった。
「姉上、母上は大丈夫です」
 アズルが戻って来た。だが、その足は止まり、蒼い顔のエリスを硬い表情でじっと見つめた。
 エリスはアズルの様子から、弟は全てを知っている事を悟った。
「あなたは、知っていたの、アズル」
 絞り出した言葉は震えていた。アズルは肯定も否定もしないままに立ち尽くしていた。
「アズル」
 語気を強めて、エリスは弟の答えを促した。
「――姉上は、ご存知なかったのですね」
 その言葉が、全てを語っていた。まだ声変わりの最中の中途半端な声であったが、青い目は大人のものだった。父のように力強くはあるが冷徹な目ではなく、凪の海のような穏やかさと諦念とがそこにはあった。
「あなたは、何を知っているの」
 すい、と目が逸らされた。何もかも。そう言っているように思えて、エリスはもう一度、弟の名を呼んだ。
「知らなければ良いことも、あるのですよ、姉上」アズルは言った。「知らなければ、誰も今以上に傷付くことはありません」
 それで納得いくものではなかった。はらはらと、涙がこぼれた。自分の生きて来た世界が壊れて行くのを、じっと見ているしかないのか。
「姉上」
 アズルが、エリスの震え続ける身体をそっと抱いた。弟は既にエリスと同じくらいの背に成長していた。エリスはただ為すがままになっているしかなかった。
「姉上、我々、兄弟は、戦士の館に見習いとして入った時に全てを知らされました。いわゆる、新人いじめの一環です。酷い話をする者もおりましたよ」
「ヴァドルは――ヴァドルは、それを止めなかったの」
「ヴァドル殿は、ご存知ないでしょう。そうであれば、ヴァドル殿のことです、新人いじめのような悪しき慣習はすぐに止めさせられると思います」
「あなたは、十二の時に、知ったのね」
「はい」
 穏やかな声であった。
「ロロも、オラヴも、そうなの」
「恐らく」
 だから、二人とも両親に冷たくなったのか。母の出身を知り、館の密室で何が行われていたのかを知って、不信を募らせたのか。
「どうして、そんな――」
「それは、訊ねてはなりません」アズルが強くエリスを抱いた。「姉上が、傷付くだけです」
 その言葉に、エリスは顔を上げた。
 自分が傷付くくらいが、何であるのか。母は、もう、壊れかけているのではないだろうか。
 暴力は、離婚の大きな原因である。だが、故郷を遠く離れた母が帰る場所を持つのかどうか、エリスには分からなかった。法の守護者が離婚を正当なものであると認めたとして、この島に有り続ける事は、中つ海の人間である母には難しいように思えた。父も、自分から離婚を切り出した母を許すまい。また、それが奴隷であれ、目撃者なり証言者が必要だ。族長室の二人きりの中では、誰も直接の目撃者たりえない。果たして、父を恐れずに証言する者がいるのかどうかも疑問であった。
 裁くのが父である以上、どこにも逃げ場はない。
 オルトやヴァドルが、父に逆らった母に手を貸すとも思えなかった。エリスを含め、子供の誰もが母を助けるだけの力を持たない。
 母の人生は、虐げられても無言を貫き通す他はないのだ。
 それで、良いはずがない。
 ぐいと弟の身体を押しやり、エリスは涙を拭った。
 傷付くのは恐ろしくはない。この婚約騒ぎで、自分がいかに傷付いたのかをアズルは知らない。それに較べれば、自ら求める真実での傷など、たかが知れている。
 唇を硬く引き結び、エリスは弟に背を向けた。アズルが自分を呼んでいる声を、無視した。
 アズルが袖を引いたが、振りほどき、更に追い縋る弟を突き飛ばした。アズルが尻もちをついたのにも気付かぬほどに、エリスの心は怒りと哀しみで占められていた。
 どのように醜い事実が隠れていようとも、構わない。それを知るのは、自分の責務であると思った。母をこれから守って行こうとするのならば、知っておかなくてはならない真実であった。
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