第53章・雪の日

文字数 14,729文字

 雪が降り始めた。
 城砦にいた頃には、冬の間に一、二度舞う雪に興奮し、外に飛び出してはその中ではしゃいだものであった。妹達と幼い弟とで遊んだ、今は霞んでしまった思い出だ。
 ここの雪はただ、低く垂れこめた暗色の雲と灰色の荒れた海と同じく、本格的な冬の到来を示すものでしかなかった。べしゃべしゃと音を立てて降る霙が無音の雪へと変わると、全てが白に覆われるのも遠い事ではない。誰との楽しい思い出もなく、耐え忍ぶのみの雪であった。むしろ、スールを失った苦しく哀しい記憶のみが鮮明にあった。
 冬は嫌いだ。ティナは思った。スールの死を、嫌でも思い出させる冬と雪は嫌いだった。
 かと言って、夏が好きな訳ではない。夏は、城砦での恐ろしい出来事と北海への旅、ロルフとの結婚の記憶と強く結びついている。忘れたい、忘れようとしても、却って脳裏に甦ってくるのであった。
 憂鬱で厭わしい季節だ、とティナは思った。太陽は低く遅くに上り早くに沈む。その短い陽も、厚い雲に阻まれて殆ど姿を見せない。全てが色彩を失った白と灰色の世界であった。喜びもなく、楽しみさえもない季節を、自分は幾つ過ごして来たのだろうか。
 北海の男達は戦士から奴隷まで、雪と格闘する事になり、時には雪草鞋(ゆきわらじ)を履かせた馬で出掛ける事もあった。対して、女は殆ど家から出なくなる。この冬の間に、売る為の布を織ったり、刺繍を施した作品を作ったりするのだ。出来上がった品物は交易島だけではなく、族長集会での取り引きにも使われるのだとオルトは言った。女は自らの財産を持ち、それを利用して蓄財し、夫から金銭的にも独立する。そのおかげで、夫を亡くしても持参財と手業(てわざ)のある女は困窮する事が少ないというのだ。また、そういう女は再婚の機会にも恵まれるのだと。
 その生き方を、ティナは理解できなかった。城砦――中つ海での持参金は、花嫁の実家が婚家へ支払うものであり、妻個人の財産ではなかった。子もなく儚くなった際には実家に戻されるものではあるが、自由にできる訳ではない。夫が先立てば、持参金であろうが何であろうが、何一つ自分の物にはならない。夫との間にできた男子のものになるか、或いは男子がいなければ夫の兄弟や縁者がむしり取って行くのを黙って見ている他はなく、未亡人とは惨めなものであった。財産を失った女は、実家へ戻っても厄介者である。
 自分に自由にできる財産があったとしても、使う方法をティナは知らなかった。ロルフがティナに持参金を財産として渡していたとしても、それを活用する事はできなかっただろう。或いは、オルトが教えてくれたかもしれないが、ロルフを恐れれば、独立できるかもしれない道を選ぶ事はないと思った。
 あの時、ロルフはティナの持参金以上の金銀を城砦より持ち帰ったはずだ。幼い二人の子供の賠償としては大きいが、ロルフの心を考えれば巨万の富を以てしても代えられるものではない。また、その半分は、子供達と共に殺された若い娘の親に支払われたとも聞いた。どちらにしても、暴力的に突然に子を奪われたのだ。その哀しみや苦しみは、病でスールを失った自分以上であろうと思った。
 更にロルフは、スールが失われたのはティナの不注意と怠惰のせいであると思っている。そうではないとは、言えなかった。いかに疲れていようとも、眠り込んでしまったのは事実である。たった一人で、見守る者もなく、幼いスールは息を引き取った。その責は負わねばならない。この手から滑り落ちた生命は、二度とは戻っては来ないのだ。
 暖炉の側で刺繍をするティナの手が震えた。
 あの小さな子の為に、何かを新しくする事はないのだ。そう思いながらも、スールの成長を想像し、こっそりと服を仕立ててきた。ロルフが知れば激怒するだろう。全てを火にくべてしまうかもしれない。かっとなって剣を抜くかもしれない。それでも、遠征で留守の間にせめて一枚でもと思わずにはいられなかった。結局のところ、それはスールの弟であるハラルドの物になるのだが、止める事ができずにいた。
 夫であったとしても、ロルフとは哀しみや苦しみを共有できなかった。ロルフがスールの死に対して何らかの感情を見せたのは、怒り狂ったあの時だけであった。せめて、その感情を見せてくれるのであれば、少しは救われたかもしれない。かつて亡くした子供達と同じではないにしても、ロルフが未だにスールの事で心を痛めているのは分かっていた。常に無言で無表情であるロルフが、夜半に失われた者達の名を呼び、うなされるのを知っているのは、ティナだけだった。
 それを武器にしようとは思わなかった。人の悲哀につけこむのは正しい行いでも、良い行いでもなかった。ティナは騎士ではなかったが、人の苦悩を利用しようという考えは卑劣なものであると考えていた。
 ロルフの支配より自由になりたい、と思うのならば、如何なる手段でも用いるべきではないか。
 その考えは、一度ならずティナの心に浮かんだ。
 スールをそのような事に持ち出すのは、小さな存在を穢すように思われた。ましてや、ロルフが何よりも愛した――愛し続ける人々を、傷付け逆襲する為に引き合いには出したくはなかった。
 自分の弱いところを衝かれてロルフは怒り、ティナを殴り殺すかもしれない。
 これまでならば、それは歓迎すべき事であった。だが、起ってはならないのだ。
 子供達の事を考えれば、自分は今までのように大人しく、陰の存在でいるのが一番正しい姿であった。ひっそりと、誰からも注目されずに生きて行く事ができれば、遠くから眺めるだけであっても子供達が成長し、ゆくゆくは家族を持って独立してゆく姿を見届ける事ができる。
 ロロ達男の子がティナの味方だと知れば、エリスも安心して嫁ぎ、向こうで幸せな家庭を築けるであろう。
 結納財を納めに来たサムルに会って以来、ティナの若者に対する警戒心は完全に解けていた。信用してエリスを任せられ、必ず正しい方に導いてくれると信じるようになっていた。過去の、もう遠くなった思い出がティナの胸に甦り、痛みを感じる時もあったが、それはもう、幻だ。新たな世代の時代が来るのだ。
 中つ海であろうと北海であろうと、若い男は同じなのだと、ティナは思った。サムルは何があってもエリスと子供達を守り、手放す事はないと確信できた。浮ついた男ではないし、ロルフとの縁を必要としていたとしても、それは既に言い訳にすぎなくなっているだろう。
 ティナは針を持ち直した。
 ロルフがそれに気付いているかどうかは分からない。だが、オルトは知っている。知っているからこそ、二人の間の取り引きをロルフに報告する事はなかったのだ。取り引きとは、飽くまでもエリスの注目を引き、乗り気ではないかもしれない結婚を承知させたいという強い想いの表れであったのだと、ティナは今ではそう理解していた。それほどまでに想われているのならば、未だ恋にも愛にも興味を示さぬエリスであっても、いずれは頑なな心も和らぎ、幸福を手にする事ができる。
 エリスに関しては、不安はほぼ払拭された。
 後は、時間が解決をしてくれるだろう。

    ※    ※    ※

 オラヴが大慌ての様子で大広間に入って来た時、ロルフはヴァドルと共に卓子につき、杯を交わしていた。
 二人で冬越しの間の懸案事項を精査しなくてはならなかったのだが、書き記したものを間に置いて、結局はだらだらとしていた。閑暇を楽しむ、とそのような時間を二人は呼び習わしていた。一つの項目が終わる度に、それにまつわる様々な物事を語り合い、酒杯を傾ける。まだまだ為すべき事は多く残っていたが、長い間放置されていた。
 息を切らせ、(まろ)()った次男に、ロルフは眉を寄せた。不躾な上に不調法だと思った。見習いとなった身では、ここは家ではなく族長の館である事を心得ていなければならない。
 父ならば――という考えを、ロルフは追いやった。今の族長は自分だ。父は関係がない。
 栗色の髪を乱したまま、オラヴはぎこちない足取りでロルフとヴァドルの方に来た。自分の身体の大きさにまだ慣れぬかのような奇妙な動きに、ロルフは苦笑しそうになった。だが、ここは族長としての姿を見せねばならないと、(いか)めしい顔つきを崩さぬようにした。
「どうか、しましたか」
 ヴァドルがまず、口を開いた。長年の慣らいからか、見習いへではなく、族長の子に対する丁寧な言葉遣いであった。
 胸に手を当て、一つ大きな息をつくと、オラヴは真顔になって二人に向き直った。頭にも肩にも、雪が薄く積もっていた。
「兄上が――鷹の子ロロが、代表に決定しました」
「おお」
 大きな音を立ててヴァドルが立ち上がった。そして、ロルフを満面の笑みで見た。
「祝杯を上げましょう、白鷹ロルフとロロ殿に」
 いそいそと、ヴァドルは厨房に向かった。さては上等の酒を、あわよくば葡萄酒なんぞをせしめる気だな、とロルフは思った。普段はしまり屋のオルトであっても、これは振舞わずにはいられぬかもしれない。それこそ僥倖というものだ。
「それで、誰かと競ったのか」
 ロルフはヴァドル同様に喝采したいのをぐっとこらえ、オラヴに訊ねた。
「いいえ。兄上の一人勝ちでした」
 興奮を隠しきれず、勢いよく頭を横に振ってオラヴは答えた。ただでさえも乱れていた髪が、更にぼさぼさになった。
 ゆっくりと、ロルフは頷いた。一息ついたのかオラヴは、はっとしたように頭に手をやり、髪を整えた。興奮でか寒さでか、顔が真っ赤になっていた。
 圧倒的多数でロロが勝利したのならば、それは何よりも喜ばしい事であった。競争者が少なければ少ない程に代表としての仕事はやりやすくなる上に、将来、ロロが族長として立った際の皆の態度にも関わる。
 ロルフ自身の事を言えば、競り合った相手がヴァドルで助かったのは真実である。ヴァドルは最初からロルフの支持を表明していたし、決選投票を辞退した際にもその支持者達は納得してロルフが代表となる事を受け入れた。後にヴァドルを副官に推挙した時の投票でも満場の一致を見た事を思えば、人望も期待も変わってはいないという事である。そういう人物を敵対者ではなく友として側に置き、何かと頼りにできる自分は幸運であると思った。
「直ぐに、母が酒の用意をして参ります」ヴァドルが戻って来て言った。そして声をひそめた。「とっておきの葡萄酒の小樽を開けるようですぞ」
 ロルフは笑みを我慢できなくなった。どこの家であっても、息子が代表に選ばれると大騒ぎで祝宴が開かれる。自分の時にも父が祝宴を張ったが、その顔は(きび)しく、笑みの一つ、褒め言葉の一つもなかった。当然の事を殊更に祝う必要はない、という態度を最後まで崩さなかった。得票をヴァドルと分け合ったのを、不満に思っていたのは明らかであった。
 自分は父とは違っていても良いのだ。ロルフは思った。あの時、自分は父からの喜びを、それまでの努力に対する(ねぎら)いの言葉の一つを欲しいと思わなかったか。何一つ口にしてはもらえず、心底がっかりしたのではなかったか。ロロも同じように感じるのではないか。オラヴは戦士の館に戻れば、父親の反応とヴァドルの歓喜ぶりをロロに伝えるであろう。ロロもそれを知りたがるに違いない。
 ロロに、自分と同じ思いをさせてはならない。
「良くやった、とロロに伝えよ」ロルフは言った。「ただ、それに驕らず精進するようにと」
 一言、父親としての忠告を加えた。ようやくの事で握った権力を、どう振るうかでも今後の評価は変わってゆく。暴君となるか賢君となるかは、ロロ次第である。
 オラヴは真顔で一礼した。事の意味は分かったようだ。
「オルトが酒の用意をしている。お前も我々共に祝杯を上げると良い」
 その言葉に、オラヴの顔が明るくなった。
「さあさ、おめでたいことですわ」
 うきうきしたようなオルトの声がした。銀の杯を盆に乗せた女奴隷を従えていた。その杯をロルフ、ヴァドル、そしてオラヴの順に手渡した。極上の葡萄酒の香りがした。子供は触らせてもらえぬ銀の杯に、オラヴは怯んだようであった。
「喜びの便りをもたらしてくれた使者は、最上のもてなしを受けるものですわよ」
 躊躇(ためら)うオラヴにオルトは笑いながら言った。知らぬオラヴではなかろうが、自分がその立場にある事を失念していたらしい。押し頂くように杯を手にすると、佇んで大人達の言葉を待った。
「オルト、お前の分もだ」ロルフは言った。「祝いは家族でするべきだ」
 その言葉に、オルトは畏まったように頭を下げた。ロルフは控えていた女奴隷にオルトの分を持ってくるように促した。ヴァドルは最上の酒に対してか、オルトが加わる事に対してかは定かではなかったが、にこやかにしていた。オラヴは緊張しているのか、にこりともせずに口を真一文字に引き結んでいる。
 オルトの許に杯が運ばれると、ヴァドルが晴れ晴れとした顔で手にした杯を掲げた。
「白鷹ロルフの子、ロロの代表選出を祝して、その未来の洋々たらんことを」
 ロルフが杯を上げると、オルトとオラヴもそれに倣った。
 甘い美酒であった。
 ヴァドルも、それまでに蜜酒を何杯かを重ねていたにも関わらず、五臓六腑に染み渡ったかのような悦楽の表情になっていた。オルトも初めて葡萄酒を味わう娘のような顔付きであった。誕生以来、育て、見守ってきた者がひとかどの者になる瞬間に居合わせるのは、そうそうある事ではない。
 恐る恐るといった様子で、オラヴは杯に口を付けていた。恐らく、このような場に初めて連なる十五歳の子供には、味も分かるまい。見習いになるまでに数度、味を憶えさせる為に高価な葡萄酒を舐めさせた事はあったが、その時とは立場も状況も異なる。
「喜びに空ける杯は、何にも勝りますな」
 ヴァドルの言葉に、ロルフは頷いた。
「このことは、すぐにも広まりましょう。わたくしは、今宵の準備をいたさねばなりません」
 冷静な声でオルトが言ったが、それはロルフの酔い心地を損ねるものではなかった。
「一年後にはオラヴ殿の番ですな。兄弟で選出、しかも連続とあっては、非常に珍しい。その次にはアズル殿だ。三兄弟が揃ってとなれば、それはもう、古来稀な事でございます」
「先走るな」
 浮かれたようなヴァドルの言葉を、ロルフは制した。「ロロがたまたま選ばれたからと言って、調子に乗ってはならない。それぞれの能力には差もあろう」とオラヴを見やった。「お前はその自信と覚悟はあるのか」
 オラヴは顔を上げた。葡萄酒を飲みながらも話は聞こえていたのだろう、その表情は美酒に酔いしれているのではなく、真剣であった。
「まあまあ、オラヴ殿はまだ十五でいらっしゃる。アズル殿に至っては十四です。まだ先の事ではございませんか。(ただ)の話ですよ」
 のんびりとヴァドルは言ったが、ロルフは無視して次男に向けた目を逸らせなかった。
 オラヴの、銀の杯を包み込んでいる手が震えていた。
 肝が、小さいのか。
 ロルフは苦々しく思った。自分の父に似ているというのならば、ヴァドルとも良く似ているという事なのだ。母に似たらしいロルフとは異なり、骨太でどっしりとした体格に育つだろう。まだ成長途中である為か、どことなく平衡を欠いた感じを受ける。幼い頃はロロに良く泣かされていた。子供にとり、一年の差というのは非常に大きい。仕方のない事だと思い、泣くよりも何度負けても良いから挑め、と叱咤してきた。
 愛しい子の一人であった。
 しかし、気の小ささを思わせる仕種に、ロルフはあの女を思い出さずにはいられなかった。
 自分ではなく、中つ海の気性を受け継いだのかと疑えば、苛立ちで祝い気分に水を差された。
 オラヴは目と髪の色も女と同じである。例え、女が自分の目の前から消えたとしても、オラヴは残る。いつまでも、女の記憶と姿が去らぬ事になるのだ。
 忌々しいと思えど、自分の望むようにはならない。初遠征をオルヴがしくじるような事にでもなれば、ロロへの評価は唯論(もちろん)の事、弟達の名にも響いてしまう。
 少なくとも、見習いになるまではこのような性質をオラヴは見せなかったはずだと、ロルフは思った。人懐こく、ロルフにも良くまとわりついていたものだ。それが今では、どこかよそよそしく、おどおどとしており、かつての面影は片鱗も見られなかった。
 思い当たるのは、唯一つ、先任の見習いや正戦士による新人いじめだ。ロルフにも憶えはあるが、族長の一人息子――後継者であると見做されていた事から、手心を加えられていた。ロロもそうだろう。自分が仕えねばならぬ次の族長に悪印象を持たれるのは、誰しも避けたいであろうからだ。だが、オラヴは次男である。ロロの身に何事かが起こらぬ限り上に頂く事はない。族長家の一人ではあったとしても、それは却ってやる方のない不満の恰好の吐け口にもなろう。如何にロルフの大切な子であろうとも、オラヴはロロの代替だという意識の方が皆の中では強いのではないか。次男とは、そういう位置付けであり、ロルフの父が再婚を勧められたのも、息子が一人では心許ないからであった。父は先に三人の男子を生後数日で失っていた事も大きかっただろうが、家長には二人以上の男子が必要だと説く者がいたのも事実であった。
 そうではない。
 ロルフは、杯を持つ手につい力が入っている事に気付いた。
 ヴェリフをエリタスの代替だという者があれば、ロルフはその者を殺す事を躊躇わなかっただろう。エリシフの遺してくれた、何にも代え難い宝であった。それを知らぬ者はいないはずだ。
 では、オラヴはどうなのか。
 その考えに行き当たり、ロルフの心臓はひとつ、大きく打った。
 ロロに対して、自分が厳しい態度でいようと思ったのは、先の二人に較べて、やはり、愛情において劣っていたからではないだろうか。エリシフの子ではないという時点で、ロロは先の二人に遠く及ばぬと、どこかで思っていたのではないだろうか。そういった態度は、人々は敏感に感じ取る。
 オラヴに対してもだ。ロルフが次男を更に軽く見ていると思えば、人々の姿勢も変わる。
 アズルやハラルドに関しては、どうなのか。
 著しく不公平な事を自分は子供達に対して為しているのではないかと、ロルフは思った。エリシフの子であるかどうかで、自分の中の子供達への評価が変わっているのではないだろうかと。
 違う。違う。
 ロルフはその思いを霧散させようとした。
 あの子達は、幼くして生命を落とした。今のハラルドの年齢まで生きられなかった。如何に望もうとも、成長した姿を、ロロの兄達の姿を見る事は叶わない。いや、そもそも、あの子達が生きていれば、ロロはいなかった。エリスもいなかった。他に子を持つ事はなかったのだ。
 その考えに、ロルフは茫然とした。どれほど、自分が今の子供達に対して愛着を感じているのか、思い知らされるようであった。
「いかがなされましたか」
 心配そうなオルトの声に、ロルフは我に返った。
「いや、別に」
 ロルフは杯を(あお)った。先程までは最高の美酒だと思っていたにも関わらず、味も香りも感じられなかった。エリスの、ロロや他の子のいない人生は、最早、考えられなかった。
 ヴァドルが機嫌よさげにロロの幼い頃の話をするのに何とか笑みを見せていると、家族の棟から女達の悲鳴が聞こえてきた。
「何やら、騒がしいな」
 ややすると、奥から、エリスに襟首を摑まれたハラルドが出てきた。どちらも機嫌が悪そうであった。大方、またハラルドが余計な事をしたのであろう。ロルフは溜息をついた。この末っ子は、本当に夏には見習いになるのだろうか、やっていけるのだろうかと、不思議に思わずにはいられなかった。
「何かございましたか」
 オルトが訊ねた。二人は同時に答えようとするかのように口を開いたが、ロルフはそれを片手を上げて封じた。
「まずは、エリスからだ」
「ハラルドが、(いたち)の死骸を持ち込みました」立腹を抑えきれぬ口調でエリスは言った。「干物になってはいましたが、臭くて臭くて――香草の束で扇いで空気を入れ替えさせてはいますけれど、せっかくの布支度が一つ、駄目になりました」
 一瞬の()を開けて、ヴァドルが天井を仰いで大笑いした。ロルフは額に手を当てて大きな溜息をつき、オルトは慌てて様子を見に行こうとした。
「オルト、大丈夫だ、ウナもいるだろう」
「ウナは昏倒しそうになってましたけど」エリスが言った。「戸口から放り投げられた干物が丁度、頭に落ちて」

」ロルフはその様子を思い浮かべて笑いそうになるのを抑え、できるだけ厳しい顔で言った。「納屋や倉庫で見つけた物ではないだろう」
 言葉を発している間に答えに行き当たり、ロルフは顔をしかめた。
「森へ、入ったな」
 この時期は狼が人里近くに出る事もある為、女子供は森へ入るのを禁じられていた。それを破ったとなれば、相応の罰を与えねばならない。
 果たして、ハラルドは首を縮込めて落ち着きなく視線を彷徨わせた。
「正直に、答えよ。どこで死骸を見付けた」
「――森を、少し入ったところで」
 おどおどとしてハラルドが答えた。「何かが微かに臭っていたので、つい」
 傷付いて悪臭のする鼬の死骸には、犬や狼は近寄らない。臭腺さえ傷つけずに上手に取り除ければ毛皮として使えるが、ありふれた生き物で価値は大した事がなかった。死骸が見つかれば埋めるだけだ。悪臭がするとなれば、とっくに誰かがそうしていたはずだ。木乃伊状態であった事を思えば、随分と長く放置されていたのか。
 ハラルドの嗅覚は優れているな、とロルフは感心した。だが、ここは褒める場面ではなかった。
「たぶん、犬か何かがかみ殺したのだと思うのですが、姉上を脅かそうと思って――」
 ロルフは杯を叩き付けるようにして卓子に置いた。
 びくりとハラルドの肩が震えた。
「森へ入ってはならないと、知っている筈であろう」
 語気荒く言うと、ハラルドだけではなく、オラヴも縮み上がった。取りなすようにヴァドルが口を開こうとしたが、それもひと睨みで黙らせた。これは、甘やかしても良い案件ではない。
「街道であっても危険であると、幼い頃より言いきかせていた筈だ。何故(なにゆえ)に、禁を犯した。好奇心でか。それが、許されるとでも思ったのか。隠れてこそこそとやるならばともかくも、戦利品のように証拠を持ち帰りおって。悪い事をしたという意識はないのか」
 ロルフが声を荒げて叱る、怒る時には、耳に聞こえる程には感情を露わにしているのではない事をエリスは承知しているのか、動揺する様子はなかった。だが、二人の息子はロルフの剣幕に、目を上げる事も(かな)わなくなっていた。エリスが男であったならば、どれほど頼りになっただろうかと、嫁負は嘆息をつきたくなった。
 ヴァドルが腕を組み、難しい顔で困ったように大仰に一つ、息を()いた。この男もオルトも、ロルフの気性は心得ている。ここは自分に合わせてくれているのだ。
「ご、ごめんなさい」
 思わぬ剣幕に愕いたのか、小さな震える声でハラルドは言った。
「ごめんなさい、ではない」ロルフは更に声を大きくした。「物の言い方も教えた筈だ」
「もうしわけ、ございません」
 かつて見た事のないロルフの怒りに、ハラルドは今にも泣きだしそうであった。その様子に、ヴァドルは顔を下に向けた。笑いをこらえているな、とロルフは苦々しく思った。ハラルドが半泣きで謝る姿は滅多に見られるものではないが、事態は笑い事ではないと、ヴァドルにも分かっているであろうに。
 ロルフは大袈裟に溜息をついた。
「罰を受けねばならないのは理解しているな」
「――はい」
 消え入るような声であったが、エリスは容赦しないと言いたげな顔でハラルドを見ていた。臭い鼬を放り込まれた腹立ちもあろうが、好奇心から禁を破り、危険を忘れた弟の不注意さ、考えのなさにも怒っているのだろうと、ロルフは思った。
「集落の決まりは、法ではない。だが、それは皆が守らねばならないものだ。一人の好奇心で破っても良いものではない。しかも、お前は末席にいるとは言え、族長家の者だ。仲間や年下の者の手本とならねばならぬ身だという事を忘れるな。子供であるからと、全てが笑って済まされるものではないという事を理解せよ」
 小言を並べながら、ハラルドの悪戯も、これが最後になるだろうとロルフは考えた。この一件で、夏には見習いとは言え戦士の一員となる身であるとの自覚を持つようになるのではないか。
「さて、では、どのような罰が必要かな」
 ロルフはヴァドルに目を移した。男は俯き、口許に手をやって笑いを隠していたが、その言葉に顔を上げた。
「そうですな、雪も降って参りましたし、蟄居は罰には当たりませんでしょう」しかつめらしくヴァドルは答えた。「尻を叩きますか。しかし、間もなく十二歳になられますからな、それでは父親のお仕置きにしかなりません」ロルフは頷いた。ハラルドの顔から血の気が引いて行く。「大人の男であれば、公衆の面前で上の服を引ん剝いて背中を鞭打ちでしょうが、まだそれには早いかと」
 ヴァドルはハラルドの反応を面白がっているようであった。「そろそろ大人の世界に入ろうというのですから、ここは族長、この場で鞭なり小枝なりで剥いた尻を打つのが妥当では。初犯なので回数は三回ほどで。未だ見習いにならぬ身であれば、皆の前で見せしめにしなくとも良いでしょう」
 鞭の痛さを知らぬハラルドではない。これまでも様々な人に迷惑をかけたかどで掌に鞭を喰らっている。だが、今回は逸脱しすぎた。集落の決まりを犯した者は、子供であっても族長の裁定を受けねばならない。大抵がその場で親の仕置きを受ける事になるのだが、ハラルドの年齢を考えればそれでは軽すぎる。
「ヴァドル、お前がやれるか」
「へ」
 ヴァドルは素っ頓狂な声を出した。「いやいや、私は酒も結構入っておりますれば、手許が狂う事もあるかと。やはり、族長直々(じきじき)の方が罰としての効果もあるかと存じます」
 あれしきの酒量でどうにかなるヴァドルではなかった。要は、損な役回りから逃げる言い訳だ。手心を加えますよ、との表明でもある。
「では、ハラルド、卓子に(うつぶ)せろ」
 ロルフは冷静に命じた。
 唇を引き結んだ蒼い顔で、ハラルドは両手を伸ばして言われた通りにした。エリスとオラヴの顔も硬かったが、無言であった。オルトはただ、静かに立っていた。ヴァドルは自ら罰を口にした手前、何も言わなかったが、眉間に深く皺を寄せている。後悔しているのかもしれない。だが、決定に口を挟む気はないようだ。これが集落の子供であっても、同じ科料を下したであろう。共同体の和を乱す者は、それなりの罰を受けねばならない。族長の子であろうと例外ではない。
 それが嫌であるならば、無法者として一人で生きて行くかだ。
 暖炉の脇の柴から、適当なものをロルフは選んだ。

 ハラルドは声も上げず、泣く事もなかった。
 普通の子なら、ひと打ち目で叫び声を上げ、ふた打ち目で涙をこぼしたであろう。
 頑固なのか、我慢強いのか、ロルフには分からなかった。
 鞭を使う前に、ロルフはどこから森に入ったのかを問うた。
 墓地から、とハラルドは言いかけて止めた。
 思った通り、仲間がいる。
 ロルフの時代もそうであったが、子供達はただ群れて遊んでいるのではない。礼に小さな麺麭の一つでも貰おうと、大人達の、集落の用事を手伝うのだ。ハラルドのように充分に食べさせてもらえる子ばかりではなかったし、一人ではできない事も複数人寄れば何とかなる。殊に貧しく、兄弟の多い子供はいつも腹を空かせている。群れの構成員は流動的であり、常に同じ者がいるとは限らない。ハラルドの仲間の年齢は様々ではあったが、構成員は大体一定していた。幼い弟妹を連れている者さえいた。それは、ハラルドが常に集団の子の腹を満たしている事を意味している。
 集落から離れた墓地に大人が用事を頼むはずもなかった。狼の事を考えれば、子供に集落外の仕事を頼みはしない。近親者を最近、亡くした子がいるのかもしれない。集団で行けば大丈夫だと思ったのかもしれないが、それは心得違いである。同行した者も、年齢に応じて処罰されねばならない。
 誰と共に行ったのか、白状すれば回数を減じてやろう。
 ロルフはそう言った。だが、帰って来たのは沈黙であった。
 一度、痛みを知れば考えも変わるだろうと、ロルフは小枝を振り上げて打った。
 ハラルドは一言も漏らさずに耐えた。二度目も、三度目も打つ前に同じ事を問うた。だが、結局、ハラルドの口からは誰の名も出なかった。
 強情者め、とロルフは半ば呆れた。子供ながら、痛みを逃れる為に仲間を売らぬのは評価できる。大人になってもこの性質を保っていれば、人々の信頼も厚くなろう。
 ハラルドの白く柔らかな臀部には赤い蚯蚓腫れができ、折れた先端を引っ掛けたのか血も流れている。目には涙を滲ませてはいたが、こぼすことなく上体を起こそうとしていた。
 手加減はしなかった。
 ここにいるのは家族ばかりであったが、族長とは如何なるものであるのかを知らしめる意味もあった。父親ではなく、族長としてのロルフをハラルドに見せる必要があった。
 オルトがやんわりとハラルドにそのままでいるように言い、事の成り行きを息を詰めて見ていたであろう女奴隷に厨房より湯と布を持ってくるよう命じた。
 仕置きに使った小枝を、ロルフは暖炉に投げ入れた。
 体罰や暴力を好むものではなかったが、必要な時には振るわねばならない。
 ヴァドルは溜息をつき、エリスとオラヴは動かなかった。動けずにいるのかもしれぬとロルフは思った。まさか、まだ幼いとも言える弟を、父親が容赦なく打てるとは思わなかったに違いない。
 女奴隷が持ってきた湯に布を浸し、オルトはハラルドの傷の手当てをした。
 ハラルドは相変わらず無言であった。暫くは座る度に痛みに耐えねばならないが、それは致し方がない。理不尽な体罰を受けた訳ではない事はハラルド自身も理解しているだろうし、父親と族長とは別物であるという事も得心したであろう。
「支度品の方は、新しい物は間に合いそうか」
 ロルフはエリスに訊ねた。我に返ったようにエリスはロルフを見た。
「小物であったので、大丈夫だと思います」
 少々、上ずった声であったが、エリスは答えた。目の前で人が打たれるのを見るのは、これが初めてではないはずであった。
 ロルフは頷き、女奴隷に酒を命じた。
 娘が自分を冷酷だと思ったのかどうかは分からない。だが、必要な処置であったと理解できれば良いと思った。オラヴにしても、そうだ。じっとしてはいるが、その考えはロルフにも読めなかった。


 勢いよく大広間の扉が開いて、一人の男が駆け込んできた。ボズという名の自由民であった。
男は、両腕を伸ばして卓子に上体を乗せているハラルドを見るや、蓬髪を掻き回した。
「なんてこった、遅かった」
 皺だらけの衣服と手入れを怠っているであろう髭に、ロルフはこの男が暫く前に妻を亡くしていた事を思い出した。その埋葬の指示をしたのはロルフであった。
 ボズはその場に膝をつき、懇願するように言った。
「ハラルド様は悪くはないです。俺の――私の娘が、母親恋しさに泣いているのを見かねて、お仲間と墓に連れて行き、諭して下さったのです」
 ヴァドルの唸り声が、ロルフの耳に入った。「お前の娘は、幾つだ」
「五歳でございます」
「その様子では、碌に娘の事を見てはいないな」ロルフは言った。「世話を奴隷に任せきりにしていたな。父親に(かえり)みられない幼い子が母親に会いたいと思うのは、道理だ」
 うなだれた男に、ヴァドルは注意を向けさせるよう一つ、咳払いをした。
「事の次第を知っているのか」
 ヴァドルの言葉に、ボズは顔を上げた。
「はい。娘が申しました」
「族長に申し上げよ」
 男はロルフを見た。そして、娘から聞いた終始を語った。
 家の外で母親に会いたくなり泣いていたところを、たまたま通りかったハラルドが声をかけて話を聞き、年長の子三人を伴い墓地まで連れて行ってくれた事。母親の魂は死の神の眠りの館にあり、もう戻っては来ないという話をしてもらった事。子供ばかりで墓地に出かけたと知られたら叱られるだけでは済まないと一人が言ったところ、ハラルドが暫く考えて森に入り、酷い臭いのする何かを持って来て皆には黙っているように告げたなどを、事細かに話した。
 全てを聞き終えると、ヴァドルは溜息をついた。
「確かに、集落より離れた墓地に子供だけで行くのも懲罰の対象になりましょう。元はと言えば父親の怠慢にある訳ですが、それだけでこの男を罰する事はできませんな。子の生命を危険に曝したと言えばそうなりますが、飢えさせたり暴力を振るった訳でもありませんし」
「ハラルド様が罰をお受けなさったのなら、私はそれ以上の罰を受ける覚悟はございます。命を召して頂いても――娘の事をお願いできましたら、死罪でも構いはしません」
 妻を亡くして全てに対し興味を失うのは、ロルフにも身に覚えがあった。あの時、オルトやヴァドルがいなければ、エリタスとヴェリフはその娘であったのかもしれない。
「ハラルドは決まりを知っていながら破った。その罪は罰せられなくてはならない」
 ロルフはきっぱりと言った。「お前自身の罪は、これからの生活を改め、娘をきちんと育て上げる事で贖われよう」
 ヴァドルは目を閉じ、同意するように何度も頷いた。
「直ぐに家に戻り、身なりを整えよ。今宵は祝宴だ。末席で良ければ、娘と共に来るが良い。互いに気晴らしになるだろう」
 ボズは平伏し、礼と謝罪を何度も述べて去った。
「寛大な措置ですわね」オルトが言った。「父君ならば、断罪されたでしょうに」
 滅多にない事であったが、オルトはロルフと父とを比較した。反論しようとしたヴァドルを、オルトは目で制して言った。「でも、妥当でしょう。幼い娘から父親までも奪うことになりますもの」
「ま、ハラルド殿はどのみち処罰されるのですから、打たれ損とはなりませんし」
 ヴァドルが軽い調子で言った。「今回のような時には、ハラルド殿、父君か(わたくし)に知らせて下されれば、苦言なり何なり、父親を正すように致しますから。大人を頼る事も、時には必要でありますぞ」
 ハラルドは無言ではあったが頷いた。
「さあさ、何かを召し上がりますか」オルトが気分を変えようとするかのようにハラルドに言った。「お(なか)もお空きでしょう。オラヴさまも、エリスさまも、葡萄酒と共に、軽く召し上がってはいかがですか」
 不思議そうに小首を傾げるエリスに、オラヴが小声で何事かを耳打ちした。エリスの目が見開かれ、頬も紅潮した。ロロの代表選出は、家族の誰にとっても喜ばしい出来事だ。
 ハラルドは、恥じ入ったような顔で()の紐を結んでいた。傷付き、剥き出しになった尻を人に見られるのも嬉しい事ではない。
 これが夏であったのならば、森へ入るのは禁止されていなかった。笑い、少し叱るだけで事は済んだであろう。その代わり、(くだん)の娘の状態は表に出なかったのかもしれない。
 子供だけで解決できる問題ばかりではない。
 それも、ハラルドが憶えておかねばならない事であった。
「何も、あなたが憎くてなさったことではございませんよ」
 オルトが小さな声で穏やかに、ハラルドを厨房に誘いながら言うのが耳に入った。「族長として、父上は示しを付けられたのですからね。恨んだり、哀しんではいけません」
 常にそのように補足をしてくれるのもオルトであった。背中に手を添えられたハラルドが無言で頷いた。どのように父親から叱られようと失望されようと、そうして()を説かれると納得せざるを得なかったのは、ロルフも同じである。
「ウナに知らせましょうか」エリスが慌ててオルトを追った。「もう、気分も落ち着いたでしょうから、ハラルドのことは任せましょう。あなたはここにいて、お父さまやヴァドルと祝杯をあげるといいわ、オルト」
 にっこりと笑ってオルトが振り向いた。日常が戻りつつあった。これで心穏やかに祝宴を楽しむ事ができるだろう。いつでも、オルトに任せておけば、間違いはない。
 ロルフはほっと息をついた。
 向き直ろうとしたオルトの顔に、苦痛の表情が浮かんだ――と思う間もなく、その身体が床に崩れ折れ、ヴァドルが言葉にならぬ叫び声を上げて席を蹴った。
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