第17章・閑暇

文字数 7,562文字

 五人目の子供は男子だった。スールと名付けられ、やはり、ティナからすぐに取り上げられた。
 オルトは幼い子の世話で大変そうであったが、奴隷の力も借りながらも何とか面倒を見ているようであった。自分の子でありながら手許に常に置いておけないのは寂しかったが、ロルフの決めた事に異を唱える気にはなれなかった。子が産まれた以上は再びロルフの暴力が恐ろしかったし、家長には逆らうべきではないというオルトからの助言もあった。また、完全に取り上げられるのではなく、授乳の際には腕に抱く事もできるし、遊ぶ子供達の側にいる事は許されている。それ以上を望むのは、ロルフの機嫌を損じるだけだろう。
 その代わり、ティナはエリスに、刺繍や織物と訛りのない中つ海の言葉を教え始めた。男子は学問所で学ぶが、女子は家庭で母親が教えるのだとオルトは言った。訛りのない中つ海の言葉を話すのは久し振りだった。ティナは刺繍を教えながら中つ海の言葉も教授することにした。刺繍がやがては嫁入り道具となるところは城砦と変わらなかったが、仕立てまで自分でしなくてはならない。六年の北海での経験だけでは心許なかったので、これもオルトの手を借りることになるだろうとティナは思った。男の子達を側で遊ばせながらエリスに刺繍を教えれば、ティナ自身も子供達の成長を見守る事ができるので両得のように思えた。
 ロロとオラヴは木剣を振り回して遊ぶようになっていた。オルトはそれを微笑みながら見守っていたが、ティナは、二人が怪我をしないか心配だった。男の子の遊びにちょっとした怪我はつきものですよとオルトは言ったが、どうしても最後にはオラヴが木剣で殴られて泣かされる事になる。たしなめてもロロは気にする風もなかった。そんな時、ティナはロロの中にロルフを見てしまうのだった。
 ロロ達の遊びを見ながら、オルトは時にロルフの子供の頃の話をする事があった。そこには必ずと言っても良いくらいにヴァドルの存在があった。兄弟のいないロルフにとり、ヴァドルは乳兄弟以上の意味を持つようだった。
「ヴァドルはまだ結婚していないのね」
 中庭での作業中、ふと気付いてティナはオルトに言った。オルトは首を振り、「もう諦めています」と答えた。確かに、ロルフの陰で目立たぬところはあったが、ヴァドルは良い人なのにとティナは思った。この島にやって来た船で声を掛けてくれたのもヴァドルだった。あの時の優しい口調を忘れる事はなかった。若い娘の好む華やかさに欠ける部分はあるにしても、不誠実な人間ではないだろうと思われた。そんな男を何時までも独り身で置いておくのは親の怠慢だと言われるところだろうが、本人にその気がないのでは仕方がなかった。勿体ないとは思っても、そればかりは族長も強制はできないとみえた。
「息子は結婚しておりませんが、このように可愛らしいお子の面倒を見ることができまして、わたくしは果報者でございます」
 オルトは言った。今、この女性は幾つくらいなのだろうかとティナは不思議に思った。五十を少し過ぎた辺りなのだろうか。幼い子供を乳児も含めて何人も世話をするには、歳を取り過ぎていると言っても良いだろう。ロロやオラヴが走り出すと、スールを抱いたオルトではもう、追い付くことはできまいと思われた。その辺りの事を、ロルフは分かっているのだろうか。自分達が歳を取るよりも早く、オルトは老いてゆくのだ。本来ならば、炉辺で日がな一日糸紡ぎをしながら赤子の世話をするくらいが丁度良いくらいのように思われた。
 相変わらず、ロルフの考えている事はティナには分からなかった。それはロルフが男であり、北海人であるというばかりではないような気もするのだった。決定的に、自分達には分かり合えない部分があると思った。
「ヴァドルが結婚して子ができれば、あなたはそちらに行くのでしょう」
 ティナはオルトに訊ねた。
「いいえ、恐らくそれはロルフさまがお許しにならないと思いますわ。わたくしは長年、あのお方に仕えて参りましたが、他の者はそうはゆきませんから」
 ロルフが気難しい、と言っているようだった。
「それにねえ、ヴァドルは一生、独り身のような気がしますわ。あの子は家族を持つということに興味がないようですから」
 それは、オルトがずっとロルフの世話をしていたからではないだろうかとティナは思った。家庭というものを知らぬからではないだろうか、と。
「ヴァドルは幾つになったの」
「三十一になりますわ」
「では、まだ、結婚を諦めるには早いのではなくて」
 その言葉にも、オルトは首を振って笑うばかりであった。オルトにとり、大事なのはヴァドルよりもロルフだという事に、ティナはとうに気付いていた。その理由は分からなかったが、オルトは何時でもヴァドルよりもロルフだった。そして、ヴァドルもその事を知っている。知っていて猶、誠意を持って仕えている。それが乳兄弟の絆というものなのだろうかと不思議に思う事もあった。
 正直、ヴァドルが結婚しようとしまいと、ティナには関係のない事であった。ただ、オルトがいなくなったとしたら、非常に困るであろう事は確かであった。ロルフの事なので、オルトの代わりに誰かを配するであろうが、その人物と自分が上手く行くかどうか、ティナには自信が持てなかった。オルトはティナが男の子達と過ごす事を見逃してくれているが、次の人物はそれを許してくれるかどうかも定かではない以上、いかに歳を取っていようと、オルトに頼る他はなかった。せめて、最初から違う人物であればまた、事情は異なっていたであろうに。
 ヴァドルが三十一という事は、ロルフもそうなのだ。二人とも年齢よりも老けて見えるのは顔の半分を覆っている髭のせいである事は間違いなかった。では、自分達が出会った時、ロルフはまだ二十五であったのだ。それで既に妻子を失う哀しみを味わっていたというのか。その事を思うと、ティナの胸は痛んだ。ティナの心から城砦を去らねばならなかった時の恐れが決して離れないように、ロルフの心から喪失の哀しみを消すことはできない。それは、自分がロルフの子を何人産もうとも変わる事はないのだろう。
「こんなにも可愛らしいお子達に恵まれて、ロルフさまも幸せですわ」
「本当に、そうかしら」
 オルトの言葉にふとそう呟き、ティナは慌てて笑みを浮かべて誤魔化した。
 ロルフも自分も、どちらも幸せではない。そうティナは感じていた。唯論、子供達は可愛い。だが、心の全てがそれで満たされている訳ではなかった。ロルフもそうだろう。失った者が占めていた心の部分は、誰にも埋める事はできない。そして、ロルフには特定の女の影もないのだから、愛情で癒す事も不可能と思われた。先の奥方が亡くなって十年近く経とうというのに、ロルフの愛は少しも減じてはいないようだった。
 自分が愛されるとは思ってはいなかった。自分は、ロルフの復讐の為にここに連れて来られたのだ。そのような者を、愛せるはずがなかった。また、ティナの方もそうだった。自分達は、恐らく、そのままに一生を過ごすのだろう。愛情を受けて育ったティナにはそのような生活を続けるのは苦しい事ではあったが、幸いにも子供達は自分にも懐いてくれていた。子供達に愛されていると思うだけでも、少しは癒された。同時に、子供達はロルフの事も慕っていたので、ロルフもそれで満たされる部分はあるのだろうと思った。
 自分の両親はどのようであっただろうか、とティナは思う事があった。政略結婚であっても互いに尊重し合っているように見えたが、その内実はどのようであったのか、と。両親も、自分のように子供達からの愛情だけで満足していたのであろうか。それで幸せであったのだろうか。今はもう、遠くなってしまった家族だった。妹達も結婚しているであろうし、弟は立派な騎士見習いとなっているであろう。その事を考えるのは正直言って殆どなくなっていた。思っても詮ない事でもあった。
 自分が生きて行くのはこの北海だった。ロルフが自分をどこかに捨てでもしない限り、逃げ出す事などできはしない。そのようにして自由になる日が来るとしても、子供達と引き離されて生きて行けるとは思わなかった。愛してはいない男との子供だからと言って、簡単に切り捨ててしまえるほど浅い愛情ではなかった。
「あ、ウーリックだわ」
 エリスが言い、ティナが止める間もなく立ち上がって詩人の方へ向かった。家族以外の者が中庭に来る事は殆どなかったので、ティナは愕いた。
 詩人はティナの前に来ると跪いた。
「本日は、奥方様、お暇乞いに参りました」
 暇乞い――詩人はこの島を去るのだ。「交易島への船にて、(わたくし)はこの島を去ります」
「それは残念だわ」
 ティナは言った。「あなたには、子供達も良く懐いておりましたもの」
「その御言葉、望外の喜びに存じます」
 ウーリックは頭を下げた。「出立までのひと月余り、誠意を持ってお仕え致します」
「ウーリックはもどってくるの」
 エリスが訊ねた。
「いいえ、エリス様、私は恐らく、この島には戻りますまい」
 詩人の言葉に、エリスはがっかりしたようだった。
「今までご苦労さまでした」ティナは言った。「ロルフさまも残念に思っておいでのことでしょう」
 詩人は黙って頭を下げた。
「ウーリックはどこへ行くの」
「まだはっきりとは決めてはおりません。夏の間、ゆっくりと決めようと思っております」
 エリスの問いかけにも生真面目に詩人は答えた。
「交易島への船が出るまでは、いるのでしょう。毎日、広間で歌ってほしいわ」
「エリス様のご要望とあれば」
 詩人は微笑んだ。それを見て、エリスも微笑み返した。
「では、後程」
 詩人が去ると、エリスはもう、刺繍に興味をなくしたようだった。
「ねえ、お母さま、どうしてウーリックは行ってしまうの」
「詩人とはそういうものでございますよ、エリスさま」オルトが代わって答えた。「ひと所には居着かない者たちです。四年もこの島にいたのならば、長い方ですわ」
 歌人(バード)もそうだった。その魂は自由で、誰もそれを留めることはできない。
「つまらないわ」
「他にも詩人はいるではありませんか」
「おじいちゃんだわ。ウーリックほど楽しくはないわ」
 拗ねたように言うエリスに、ティナとオルトは笑った。ウーリックのような詩人がいなくなるのは残念であったが、仕方がなかった。子供達は退屈するかもしれないが、幼いので新しい詩人が来ればすぐに忘れるだろう。
 交易島へ行くのは毎年、ヴァドルの役目だった。ロルフは決して行こうとはしない。それは、あの事件を思い出さずにはいられないからであろうとティナは理解していた。自分の運命を変えた事件に関して、ティナが知っている事は多くはなかった。だが、交易島で先の奥方の忘れ形見を二人とも失ったという事実だけで充分だった。愛してもしないティナの子供でさえも可愛がるロルフの事だ、どれほどその子達を愛していた事だろう。
「交易島って、どんなところなの」
 エリスの問いに、ティナは答えられなかった。話には聞いてはいたが、実際には行った事がなかった。
「女子供の行く所ではございません」オルトは首を振って言った。「昔ほど安全ではありませんし。それに、女はお嫁に行く時以外は船には乗らないものですよ」
「つまらないのね」エリスは言った。「どうして男の人ばかりなの。わたしだって、船に乗りたいわ。お父さまと一緒に、集会に行きたいわ」
「わがままはいけません」オルトがたしなめた。「お父上がお許しになる事はありませんよ」
 助けを求めるようにエリスはティナを見た。だが、ティナもオルトと同じ答えしかできなかった。ティナ自身は、幼い頃から城砦と街を出る事がないのを疑問に思ったりはしなかった。
「ずるいわ。ロロだってオラヴだって、大きくなればお父さまと一緒に船に乗るのでしょう。どうして女の子はだめなの」
 ティナは困った。幼い娘の疑問に答える術を知らなかった。
「お父さまに聞くわ」
 エリスは不意にそう言った。「船に乗りたいって、お父さまに言うわ」
「お止めなさい」
 ティナは慌てて言った。ロルフがそのような不躾な物言いを許すとは思えなかった。いや、エリスの事は許しても、父親に対する物言いを教えなかったとティナが叱責されるかもしれない。機嫌の悪いロルフを見るのは、やはり恐ろしかった。
「男の子と女の子とでは違うのですよ」自分が海を渡った時の事を思い出しながらティナは言った。「船の上では女の子にとって不自由な事も多いのです。そのような事でお父さまにお時間を取らせてはいけません」
 エリスは納得した様子はなかったが、取り敢えずは大人しくなった。この幼いながらも美しい娘の性格は、自分の一番下の妹に似ていると思う事がティナにはあった。自分は城砦の中から出ない生活にも平気であったし、言いつけを守る事にも抵抗がなかった。だが、一番下の妹は良く文句を言っていたものだった。そして、乳母に叱られていた。
「大きくなれば分かりますよ」
 オルトが言った。「裳着の儀式を終える頃には、そのような事を考えることもなくなりますわ」
 裳着の儀式については、ティナはまだ何も知らなかった。だが、訳知り顔で頷く他はなかった。恐らくは、初潮を迎えた娘の儀式だろう。
「それよりも、エリスさま、刺繍の方が放りっぱなしですわ。きちんと仕上げませんと、お嫁に行けなくなりますわよ」
「お嫁になんかいかなくってもいいわ」
 エリスは言った。
「またそのような事をおっしゃるのですか」オルトが嘆くように言った。「女の子はお嫁に行ってこそ、幸せになれるのですよ」
 その言葉に、ティナの胸は抉られるようだった。もう面影も定かではなくなったアーロンと結婚していれば、確かに幸せになれたかもしれない。ロルフとは正式に結婚はしたものの、本当に幸せだとは言えなかった。エリスは族長の娘である。自らの望まぬ結婚を強いられるのかもしれない。ロルフがどれほどエリスを可愛がっていようとも、それと政治的な事とは関係がない。
 エリスはむっとしたようにオルトを見た。
「でも、古謡の女戦士は結婚していないわ」
「あれはお話だと申し上げているではありませんか。それに、皆、哀しい最期を迎えておりましょう」
 ウーリックはエリスにねだられて良く、女戦士の古謡を詩っていた事をティナは思い出した。何かの折に、それはお話にすぎないのでしょうとティナはウーリックに訊ねた事があった。ウーリックは真面目な顔で、これは昔にあった本当の事だと答えた。
「女戦士になりたい、などと思ってはいけませんわ」
 オルトは猶も言った。「女が男の真似をしても碌な事がありませんからね」
 納得がいかないという顔でエリスはオルトを見た。
 自分が女戦士であったとしたら、ロルフの自由にならずに済んだのだろうかとティナは思った。弟を守って死んだとしても、その方が良かったのではないだろうか。だが、自分にはそれだけの勇気がない。あの時、足が動いたのは本当に奇跡だった。
「さあさ、お喋りばかりしていないで、刺繍をしなさい」ティナは言った。「お嫁に行っても行かなくても、覚えて損はありませんからね」
 エリスは渋々、再び刺繍に向かった。遊びたい盛りなのはティナにも分かっていた。下が男の子ばかりなので、同じように遊びたいのも。だが、男と女では生き方が違う。それは城砦であろうと北海であろうと変わらないであろう。
「つまらないわ」エリスは猶も言った。「女は詩人になれないってウーリックも言ったし、じゃあ、女は何にだったらなれるの」
「お嫁さんにですよ」
 オルトはエリスに言い聞かせるように言った。「そして、お母さまになるのですよ。それは、男の人にはなれないものですからね」
 エリスに納得した様子はなかったが、それでも黙って針を手にした。オルトに何を言っても同じだという事に気付いたようだった。
 男にしたところで、それほど生き方を選べる訳ではないだろうとティナは思った。ロロは族長になるだろうし、他の男の子にしても、ロルフが戦士以外の生き方を許すとは思えなかった。確かに行動の自由は女よりもあるだろうが、家長の言葉は絶対だった。それは城砦も変わらない。
 ウーリックのような男がどのような家に生まれ、如何様に育ったのか、ティナは知らなかった。そして今まで興味もなかった。だが、自分の子供達が結局はロルフの望む人生しか歩めないのであれば、例えばスールに詩人の才能があった時にどうなるのだろうかと疑問に思った。北海では戦士であり詩人であるのは難しい事ではないようだった。だが、漂泊の詩人である事を望むのであれば、ロルフはどうするのだろうか。子供を愛しているとは言え、それはまた別の話だろう。武器を携え、戦いにも参加するとは言っても、詩人は戦士より下に置かれる。そのような事を、誇り高いロルフが自分の子に許すだろうか。
 唯論、ティナとて、子供達の誰かが浮薄の身になるのを喜ぶものではなかったが、望む人生を送れなかった自分には子の人生を左右するような決定は出来ないだろうとも思った。まだまだ、それは先の事であろうが、あっと言う間に訪れるような気もした。
 その頃には、自分はどのようになっているのだろうか。ティナは想像せずにはいられなかった。オルトも歳を取り、引退しているのかもしれない。そうなれば、自分がこの館の全てに対して責任を負う事になっているのだろうか。相変わらず、ロルフは自分を無視して誰か別の人物をその任に置くのだろうか。それは、ロルフの新しい愛の相手なのだろうか。
 寂しい話だ、と思った。お飾りの妻でも良いと一時は思った。だが、それではいつまで経っても自分はロルフから信頼されていない、北海の人間ではないのだと思い知らされるような気がした。よい妻になるべく努力してきたのに、評価されなかったのだと。どれほど子を産もうとも、ロルフが認めぬ限り、自分は北海には受け入れられないのだという事をティナは感じていた。男の子達が全て自分の手から離されてしまうのが、その証拠のように思われた。
 どうすればロルフに認められるのか、ティナには見当も付かなかった。いや、そもそも、ロルフにその気があるのかどうかも分からなかった。所詮は、ロルフにとっては子を産ませる為に連れて来た女に過ぎないのだ。子が産めなくなれば、捨て置かれるだけだろう。
 それでも、ロルフに愛人がいないのは幸いと言っても良いのかもしれない。そうなれば、ティナの存在など邪魔なだけだろう。
 自分のこの島における立場の危うさに、ティナは戦慄した。
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