第16章・五年後

文字数 6,399文字

 集落と海を見渡す事のできる丘で、ティナは北海を見やっていた。春はもうすぐそこまで来ていたが、まだ風は冷たい。低く垂れ込めた灰色の雲は海までも同じ色に染めている。
 北海には夏と冬の二つの季節しかないように思われた。春と秋は余りにも駈け足で過ぎ去ってしまう。少しでも長く春を堪能したいと思えば、風が僅かでも南寄りに吹けば、その前兆を探しに野に出てみるのが良かった。運が良ければ、雪の下から小さな黄色い花が咲いている姿を見ることがあった。
 自分がこの地にやって来て五度目の冬が過ぎ去ろうとしている。だが、もう、何十年も北海にいるような気分だと、ティナは思った。冬には灰色に、夏には青色になる北海は、本当に何もない世界だと思わずにはいられなかった。このような荒涼とした地に住まう事を選んだ人々の心には、結局は貧しいものしか生じては来ないのだろうかと思った。自分の子供達は、そのような中で育って欲しくはなかったのだが、願えども叶うものではなかった。
 エリスは手許で育てる事を許された。だが、その後に産まれた男の子達は、全てティナの手から取り上げられた。代わってオルトが育て、ティナが我が子を抱く事ができるのは授乳の時に限られていた。エリスと遊ばせる時にも、抱き上げる事すらできなかった。
 長男――ロルフにとっては三男であったが――ロロ(ロルフ、というのが正式な名であったが、同名である為にそう呼ばれる事になった)、次男オラヴ、三男アズル。皆、元気に育ってくれていた。そして、今、五人目の子供がティナの胎内にはいた。北海に来てからの殆どの日々をティナは身重で過ごしていた。三人の男子をもうけても、ロルフは満足しなかった。どの子も北海の子だ。エリスほどではなかったが皆美しく生まれた。子供達の中に中つ海の人間である自分や家族の面影を探しても無理だった。
 ロルフは子供達を愛しているようだった。男の子達には木剣や動物を象った玩具を自ら作って与えていた。エリスも走り寄って行けば笑顔で抱き上げる。無視するのはティナの事だけだ。それでも、ティナはロルフの笑顔を見るとほっとした。子供達が男女の別なく愛されている姿を目にするのは、喜びでもあった。
 二人の子を亡くした傷が完全に癒えた訳ではないだろう。それでも、ロルフの顔がほころぶのを見ると、少しは期待をしてしまうのだった。
 次には、その笑顔が自分に向けられるのではないか、と。
 だが、いつもそれは虚しい願いで終わる。
 ロルフは自分の血を引く者達を愛している。だが、ティナはそうではない。ロルフにとっては、ティナは飽くまでも子供を産ませる為の道具にしか過ぎないのだ。それを思い知らされるだけだった。
「お母さま、帰りましょうよ」
 エリスが丘を登って来て言った。「まだ丘は寒いわ」
「そうね」
 ティナは娘に微笑んだ。そして、エリスの後ろから来る男に目を止めた。詩人(バルド)のウーリックだ。三年前にこの島で行われた族長集会の際に他島の族長が伴って来て、この島に残った詩人だった。その声はとても美しく、まだ良く北海の詩の修辞を知らぬティナでさえ、聞きほれるほどであった。
 詩人はティナに頭を下げた。ティナの出自を知っているのかいないのか、この男は常に礼儀正しかった。ティナは頷いてみせた。
「ウーリックが、今日、新しい詩を披露してくれるのですって」
「子供の為の戯れ詩です」
 照れたような顔で詩人はエリスの言葉に答えた。この男の年齢は幾つぐらいなのだろうかと、ティナはいつも不思議に思うのだった。北海の男達は成人に達すると髭を生やし始める為、誰もが老けて見えた。詩人の場合、そこに漂泊という厳しい生活もあってか、更に年齢を読み難くしていた。
「子供たちが喜びますわ」
 ティナの言葉に、詩人は軽く礼をした。何人かいるロルフの詩人達の中で、最もティナの子供達に人気があるのがウーリックだった。幼い子供の好む無意味な戯れ詩から遠征の詩まで何でもこなすが、ウーリック自身は子供が好きなようだった。
「寒うございますから、お戻りになりますか」
「そうね」
 ティナはエリスの手を取った。
「お足許にお気をつけ下さい」
 ウーリックの言葉に、ティナは微笑んだ。五人目となると、誰ももう、心配はしなくなっていた。ロルフは少し機嫌を損ねて眉をひそめるかもしれない。だが、それほど遠くまで来た訳でもなかった。暖かくとも息の詰まるような館から少し、離れたかっただけだ。
「それにしても、ロルフ殿は果報者でいらっしゃる」少し後ろを歩む詩人は言った。「麗しい奥方と四人の美しい御子に恵まれて、皆も羨んでいる事でしょう」
 詩人のお世辞を本気に取るほど、ティナは世慣れていない訳ではなかった。城砦を訪れる歌人(バード)の甘い言葉に酔うのは子供のする事だった。だが、北海の詩人がそのような事を口にするのは実に珍しい。歌人のように甘い歌を吟じる事など殆どないからだ。
 楽器は持ってはいなかったが、ウーリックは何かの詩を口ずさみ始めた。聞きなれない曲調に、ティナは興味を引かれた。
「それは、何の詩なのですか」
 はっとしたように詩人はティナを見た。まるで、自分が詩を口ずさんでいたとは気付かなかったような顔だった。さっとウーリックの顔に朱が差した。案外と若いのかもしれない、とティナは思った。
「古謡です」
 短くそう言うと、ティナから目を逸らした。「何、つまらない詩です」
 それ以上はティナも追求しなかった。古謡、というほど古い詩が北海に伝わっている事に軽い愕きを覚えはしたが、深く知るつもりもなかった。
 三人は丘を下り、共に館まで歩んだ。
「ねえ、お母さま、ウーリックの詩を聞きたいわ」
 館に着くとエリスが言った。大広間にはロロ達もいるはずであった。
「ええ、かまわないわ」
 ティナは裏に回るのを止めて大広間へ通じる戸口に向かった。
 三つの塚の前を通り扉を開けると、中からむっとした暖気が流れ出てきた。
 暖炉の前では子供達が遊んでいた。ティナはエリスの外套と手袋を脱がせると女奴隷に手渡した。そして、自分も防寒着を脱いだ。
 エリスがウーリックの手を引いて暖炉の前へ行く。
 ティナはほっと溜息をついた。ロルフはいない。ヴァドルと出掛けているのかもしれない。そういった事も、ティナは埒外に置かれていた。オルトの方がロルフの行動については知っていると言っても良かった。
 詩人が小さな声で歌い始めた。オルトが厨房から姿を現し、ティナを見た。
「この寒いのに、お出かけになったのですか」非難するような響きがそこにはあった。「お身体に障ります。今、温めた蜜酒をお持ちいたしますので、どうぞ暖炉の前でお温まりください」
 ティナは無言で頷いた。だが、オルトは既に厨房に向かっており、それを見てはいなかった。
 子供達の方へ近付くと、ロロとオラヴがティナを見上げて笑った。だが、アズルは手にした木の馬に夢中だ。まだ、ティナを母親だと認識するのには早いのかもしれない。今のところこの子だけが、ロルフの青い目を受け継いでいる。だからと言って、ロルフがアズルを特別扱いする事はなかった。エリスを女の子だからといって可愛がらない訳でもなかったので、その点では、ロルフは良い父親だと言っても良いだろう。
 二十一歳で四人の子の母親になるとは思わなかった。この夏には五人目が産まれる。だが、どれほど多くの子を為したとしても、ロルフが満足する事はなさそうだった。
 ウーリックが()れ詩を子供達に聞かせていた。エリスは目を輝かせ、ロロとオラヴも詩に夢中のようだった。ティナは子供達の近くの席に着き、オルトから杯を受け取った。
「本当に、ウーリック殿のお声は素晴らしいこと」
 オルトが感慨深げに言った。「ずっとこの島にいてくださると嬉しいのですが、詩人は束縛を嫌いますからねえ」
 ティナがこの島にやって来た時の詩人の内、若い者は既に皆、他の島に渡っていた。残っているのは、先代から仕えているという二人の老詩人だ。ウーリックも三年になる。そろそろ、他所に移る算段をしていてもおかしくはなかった。
 子供達はウーリックの詩が面白いのか、笑っている。少なくとも、子供達は幸福だとティナは思った。それが一番だった。ティナ自身がどうあろうとも。
 自分が不幸なのかどうなのか、ティナには分からなかった。ロルフには無視され続けているが、暴力は振るわれなくなった。取り敢えず、身重でいる間はロルフは暴力的ではなかったし、安心する事ができた。子供達の事は唯論、愛している。掠奪婚の結果としてはそれほど悪いものではないかもしれないと、この五年の間に思うようになっていた。もっと悲惨な目に合っていたとしてもおかしくはなかったのだ。ロルフはティナを一応は妻として遇し、子供達にも愛情を注いでいる。政略婚でももっと悲惨な出来事を聞いたことがあった。歌人の話は半分でよいにしても、耳を塞ぎたくなるような話を幾つも聞いた。それに較べれば、自分の境遇はずっとましだろう。
 互いに愛情のない事を除けば。
 ティナはロルフに対して愛情も尊敬の念も持ってはいなかった。齢三十を越えているであろうロルフは相変わらず美しい男であったが、尊敬に値するとは思えなかった。族長としての役目はきちんと果たしている。部族民からも慕われているようだ。だが、それはティナには関係のない事だった。良人として頼った事もなければ頼れとも言われなかった。大事にされている訳でもない。それでも、夫婦としてやっていけるのだ。
 ロルフが自分に族長の権利を委譲する事はないだろうと、この五年の間にティナは気付いた。第一、部族の者が受け入れないであろうという事にも。永遠に、自分はこの地では余所者なのだ。どれほど男子を産もうとも、部族民に自分が認められる事はない。それは、ロロが長じてロルフの後を継いだとしても変わらないだろう。
 だが、子供達は違う。この地で生まれ、外見も北海の者と変わらない。部族民からも受け入れられているようだ。男の子達はその内、戦士としての修行が始まり、遠征と言う名の掠奪行に中つ海まで出掛ける事になる。
 炉辺で詩人と遊んでいる子供達が、やがて北海の海賊となる姿をティナは想像する事ができなかった。北海の者とは言え、半分は中つ海の血が入っている。それをないものとして、あるいは知らずに、掠奪に出掛けるのであろうか。
 その問いに答えられる者はいなかった。

    ※    ※    ※

 ロルフがヴァドルと供に外から戻った時、子供達は暖炉の前で笑い転げていた。
「お父さま」
 エリスが声を上げ、走り寄って来た。それを抱き上げ、ロルフは炉辺に近付いた。詩人のウーリックが何か子供達の好む詩を吟じたのだろう。この詩人はロルフの気に入りでもあった。
「父上、おかえりなさい」
 ロロが言った。エリスを下ろし、今度はロロとオラヴを抱き上げた。愛おしい子供達だった。
 外套を脱ぐと、奴隷がそれを受け取った。
 詩人が立ち上がり、頭を下げる。それに頷いて見せ、ロルフは席に着いた。早速、温めた蜜酒が運ばれて来る。運んできたのはあの女だ。杯を受け取るとロルフは女に一瞥をくれ、子供達に注意を移した。詩人が何やら簡単な謎を出しているようだった。
 それは平和な光景だった。心の中の穴や傷は簡単に埋められるものではなかったが、新しい子供達は痛みを充分に和らげてはくれた。エリタスやヴェリフの事を思い出す時間も少なくなった。ロロとオラヴが喧嘩をしているのを見ても、死んだ二人はそのような事をしていた記憶はなかったが、子犬のようなその姿を厭だと思う事はなかった。
 最早、産まれた子が女であろうと誰に似ていようと問題ではなくなっていた。ロルフは自分がこれほど子供が好きだったとは思わなかった。一目見てしまうと、この腕に抱いてしまうともう、手放せなくなった。自分の血を引いているという事もあるのかもしれない。何度も、生かすも殺すも自分次第だと言い聞かせた。だが、小さく軽い身体に生命を感じると、愛おしさが(まさ)った。
 自分はもっと非情だったはずだ。子供の生命でさえ、簡単に取れる人間だったはずだ。中つ海の女の産んだ子など、ものの数にも入らぬはずだった。
 なのに、エリスの顔を見た瞬間にそれは揺らぎ、結局は要らぬ筈であった女子を生かすことになった。その後に続いた男子に亡くした子の面影があるのかと問われれば、否と答えるしかなかった。二人は金色の髪に青い目の、美しい子供だった。唯論、産まれた子達も違った意味で美しい。あの女と同じ栗色の髪と榛色の目をしていてさえ、そうだ。自分の子は全てその色で産まれて来るのかと思ったところで、アズルが青い目で産まれた。それは却って愕きだった。
 それでも、ロルフの一番の気に入りはエリスだった。エリシフとは全く異なった美しさの持ち主であったが、長じれば求婚者がすぐに表れるであろうと思われた。今も弟達の面倒を良く見ている。もう少しすれば、手習いを始めるだろう年齢だった。
 中つ海の城砦に乗り込んで六年が経とうとしている事に、ロルフは気付いた。城砦から連れてきた女との暮らしが、エリシフとのものよりも長くなった。白っぽい金色の髪と灰色の目で自分を見つめていた儚げなエリシフの姿が胸を去る事はなかったが、歳月は残酷だった。自分も三十だ。いつまでも年を取らぬエリシフを遠く置き去りにしてしまった。
 子供達の側では女が何かを編んでいた。これが、自分の家庭の姿なのだ。もし、エリシフが生きていたとしら、もし、エリシフが健康でありさえすれば、そうであったのかもしれない姿だった。
「ウーリックはすっかりこちらに馴染んでおりますな」
 ヴァドルの言葉がロルフの思いを破った。
「このままこの島に居着いててくれれば良いのだがな」
「誰かの娘を与えられてはどうです。それと農場を」
 ロルフは(かぶり)を振った。
「お前は誰かの娘を与えられたいと思うか」ヴァドルはまだ独り身だった。「それなら、順序としてはお前が先だろう」
「私は――」
 答えは分かっていた。ヴァドルにはその気がない。ロルフは空いた手を振った。
「お前の言いたい事は分かっている。ウーリックにした所で、同じ事だろう。あの男はまだ若いし、無理強いした所で、詩人は漂泊を止めんものだ」
 ヴァドルは唸った。この男もあの詩人を気に入っている。いや、あの詩人を気に入らない人間を探す方が難しいだろうとロルフは思った。そのくらい、気持ちの良い男だ。
「惜しい事です、全く」
 そう言って、ヴァドルは杯に口を付けた。
 それから二人は細々とした事について話し合った。それが終わると、ヴァドルは起居する戦士の館へ帰って行ったが、子供達はまだ詩人に夢中だった。
 戯れ詩と子供達の笑い声を聞きながら杯を傾けていると、幸せだった日々が帰ってきたような錯覚に陥った。あの日々はもう戻っては来ないと分かってはいても、つい、そこにいるのはエリタスとヴェリフではないかと思ってしまう。生きていれば、十二歳と十歳だ。エリタスは戦士の館で見習いとしての生活を始めるはずの年齢だった。
 共に船に乗り組み、遠征に出る事をどれほど夢見ただろう。息子を持つ醍醐味というのは、そこにあるのではないだろうか。ロロが正戦士になる時には、ロルフは四十四だ。族長には戦士のような引退年齢はないが、それは、族長が部族の中で最も強い存在であらねばならないからだ。子はなるべく多く欲しかったが、全てが成人するのを見届けたくもあった。全ての子が無事に成長し、成人を迎える。それほど幸せな人生があるだろうか。ロルフは健康であったし、女も幸いにも丈夫そうだ。その望みを叶えるのはそれ程難しい事のようには思えなかった。
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