第13章・冬至祭

文字数 6,095文字

 ティナは族長室の戸口から雪の積もった風景を見ながら、ここはやはり人の住むような場所ではないと思っていた。ティナの育った所では雪はひと冬に二、三度、それもこのように深くは積もらない。雪の後には必ず抜けるような青空が広がり、あっと言う間に積もった雪は消えてしまう。ここのように灰色の雲に覆われ、殆ど陽の光を見ないのとは大違いだった。風も強かった。それでも、空の雲を吹き散らすほどではない。
 冬至祭が近くなり、館は俄かにざわつき始めた。様々な準備の相談事が持ち込まれ。ロルフが館を空ける事も少なくなった。だが、明日には羊を見に行くらしい。羊というと、ティナには結婚式の際にロルフが羊の喉を切り裂いた事が思い出されるのだった。祭りだというので、今回もそのような野蛮な儀式が待っているのだろうか。自分もそれに参加しなくてはならないのだろうか。
 ロルフの言いつけで、ティナは館から一歩も外に出ぬ生活を続けてきた。そのような儀式があるのならば、できれば館に閉じ籠っていたいものであったが、族長の妻として、それは許されぬのではないかという予感もあった。お腹の子も危険な時期は去ったとオルトは言った。それならば余計に、参加せねばならないだろう。
 ぶるりと身を震わせてティナは扉を閉めた。
 寒さだけではなかった。犠牲(いけにえ)の儀式に、血の儀式に参加する事によって、自分がどんどんと中つ海の者ではなくなってゆくのではないか、という感覚がティナを襲った。子供には中つ海の者のように教養豊かで穏やかな人間に育って欲しいと思った。だが、男であるならば、ロルフの後継ぎとなる。そして、十八になれば中つ海の人々を襲撃しに海へと出るようになるのだ。
 何と残酷な事だろう。自分がどのようにこの子を育てたくとも、北海の者にしか育ちようがないのだ。それでなくては、ここでは生きてはいけまい。
 ティナはそっと腹部を撫でた。女の子なら、そのような心配をせずに済む。だが、ロルフは女子を望んではいまい。産まれた子が女子であった時の事をティナは考えたくはなかった。どれほどロルフは怒るだろうか。また打たれるのかもしれない。男子が産まれるまで暴力が続くのかもしれない。身重の間はどうやら大丈夫のようだ。ロルフも自分の子に何かあっては大変だという気持ちは持っているのだろう。それだけでも助かった。
 城砦での冬至の祝いを思わずにはいられなかった。子供達が夜更かしを許される数少ない機会であったし、人目を気にすることなく舞踏を楽しめた。そう、アーロンと。昨年の冬至祭には既に結婚が決まっていて、どれほどその幸せを噛み締めていた事だろう。二人で笑い、踊ったものだった。
 アーロンとの事は過ぎし日の夢だ。思い出してどうなるというものでもない。
 ティナは溜息をつき、寝台に座った。そしてロルフの晴れ着を手にした。もう少しで刺繍が仕上がる。冬至祭の時に着るものだが、次の年には普段着に下ろすので余り派手な刺繍はしない方が良いとオルトから言われていた。多少派手であっても、族長なのだから構いはしないのではないかとも思ったが、ここは北海だ、城砦ではない。城砦ならば、前の年の晴れ着は階下の者に下げ渡すものなのだが、ここでは下の者となると奴隷となる。さすがに奴隷に一度着たきりの晴れ着は渡せまい。
 この胴着も、ティナが織り、縫ったものだ。だが、そのような事はロルフには関係ないようだった。族長であるロルフにとり、そういったものは用意されてしかるべきものの一つでしかないのだろう。それを少し寂しく思う事もあった。これがアーロンならば喜んでくれるであろうにと思うと虚しさも生まれた。
 ロルフとアーロンとを較べても詮無いことであった。野蛮な北海の族長と洗練された騎士を比較するのは、いかにも不公平に思われた。ロルフは今ではティナの良人である。その人を妻である自分が 悪く思ってはならない。如何に意に沿わぬ結婚であったとしても、だ。ロルフも辛く苦しい思いを抱えてティナと一緒になったのだ。じっくりと時間を掛ければ心が通い合う事もあるだろう。その第一歩が、初子(ういご)に掛かっている。そのような重荷を産まれた時から背負わせるのは気が引けたが、ティナの希望の子でもあった。
 本当に理解しあえるかどうかは分からない。産まれも育ちも違う二人だ。奉じる神も異なる。共通点といえば、互いに愛する人を失ったという事だけ。だが、ロルフが子供達を失ったのはティナの父が治める城砦の騎士のせいだ。そしてティナがアーロンを失ったのはロルフのせいだった。
 全てを互いのせいにするのは間違っているのかもしれない。どちらも好んでそうなった訳ではないのだ。そこに、解決点があるのかもしれない。それはまだ、見えないだけで。
 互いに分かり合えるとは到底思えなかったが、それでも、努力はしなくてはならないとティナは思っていた。こちらが真摯な態度で接すれば、その内それはロルフにも通じるかもしれない。ロルフの心を開かせる事になるのかもしれない。
 白鷹ロルフ――その異名の元となった白鷹を、ティナはロルフの遠征中に見ていた。
 純白の身に、ところどころ黒い斑模様の入った美しい鳥だった。その黄金の目は鋭く、嘴は鋭利で鉤爪は大きかった。ロルフもこの鳥のようだから、そのような異名を持つようになったのだろうかとティナは思った。ティナは城砦の隼を見るのは好きだった。どことはなしに愛嬌のある顔だったからだ。だが、色が白く多少大きくなっただけで、これほど印象が変わるものだとは思ってもみなかった。可愛らしいと言うよりは威厳に満ちた美しさだった。
 黄金色の髪に青い目。彫りの深い顔立ち。背は高く、北海の男としてはどちらかといえば細身であったが、その身体も逞しい。
 そんなロルフに恋しなかった女性がいないとは思えなかった。だが、それにも関わらず、ロルフは自分を妻にした。亡くなった先の奥方と自分が似ているとは到底思えなかった。現に、オルトから何とか聞き出した外見は、全く異なっていた。では、やはり、ロルフは自分を奥方の代わりにしようという気はなく、ただ、亡くした子供の生命を償わせる為だけに妻としたのだ。
 少なくとも、男子を二人産まねばならない。それが、ティナに課せられた使命なのだ。女子を何人産もうともロルフは承知はするまい。ロルフがどうかは分からなかったが、ティナは女系の家系だった。女子が多く産まれる可能性が高い。それをロルフは知らない。知ればどうなるであろうか。それは、考えるだに恐ろしかった。

 冬至祭には、ティナも外へ出る事が許された。
 オルトから防寒着を何枚も着せられ、脚には男と同じ()をはかされた。お陰で上半身は毛皮で着膨れ、下半身は気持ち悪くて歩き難い為によたよたとしか歩けなかった。
 結婚式が行われた広場へとオルトはティナを案内した。そこは雪に覆われていたが、前とは異なった石碑のある片隅には祭壇が設えられていた。人々も集まり始めており、オルトとティナはその最前列に立った。
 祭壇の脇に、ヴァドルが三頭の見事な雄羊を引いて来た。
 やはり――とティナは思った。やはり、犠牲を捧げるのだ。
 ロルフが登場すると人々は静まり返った。ティナの用意した濃い緑色の胴着を着ているはずであったが、外套と毛皮でそれは見えなかった。
 人々に背を向け、朗々とした声でロルフが大神への祈りを口にし始めた。ティナの奉じる神ではないが、神妙な顔つきで頭を垂れた。今では、この神がティナの神なのだ。
 豊穣と繁栄を祈念する言葉は延々と続いた。それが退屈である事は中つ海も北海も変わらない。不敬だとは思ったが、長々とした祈りの言葉は呪文のように聞こえた。昔の言葉だった。
 やがて祈りが終わったのか、ロルフは人々の方を向いた。ヴァドルが羊を引いてゆく。
 ロルフが祭壇より短刀を取り、羊の喉に当てた。
 ティナは目を閉じた。見てはいられなかった。勇気のない事だと笑われようと叱られようと構わないと思った。
 羊の鳴き声が聞こえなくなると、ティナは目を開けた。ロルフは大きな水盤を手にしており、その足下にはあの立派だった羊が倒れていた。水盤の中は赤い。血だ。辺りに金気(かなけ)のある生臭い臭いがした。
 ロルフは再び人々に背を向け、水盤を高々と差し上げた。そして、その血を祭壇の向こうの石碑に振りかけた。再び古語を口にし、ロルフは石碑が血で真っ赤に染まるまでそれを続けた。
 吐き気を催しそうになる光景だった。ティナの脚はがくがくと震えた。完全に異教の儀式だった。白い雪は血で汚れ、折り重なるように地面に倒れている羊からはまだ、血が流れている。
「大丈夫でございますか」
 オルトが小声で囁いた。ティナは頷く事しかできなかった。もし、途中で倒れたり退席したりしたらロルフは怒るだろう、という事しか頭になかった。自分は相当酷い顔をしているのだろうが、ロルフの怒りに触れるよりはましだ。
 水盤の全ての血を振りかけ終わると、ロルフの手は袖口まで血で真っ赤だった。それを皆の頭上に差し上げ、大神の加護を唱えた。オルトが跪くのを見て、ティナも真似た。
「さ、終わりですよ」
 オルトの言葉に、ティナはほっとして立ち上がった。ロルフは祭壇から少し離れた所で手に雪をまぶしていた。その足下に、赤く染まった雪が落ちてゆく。
「後は皆に任せまして、奥方さまはどうぞ、館のほうに」
 オルトの言葉は有り難かった。
 館に戻る時も、ティナはオルトの腕に摑まりながら歩いた。こんな思いをするくらいならば、ずっと館の中に閉じ込められていた方がましだったかもしれない。
 城砦では羊や鶏を処分するところを見た事もなかった。そういう手を汚す仕事は、全て奴隷か下働きの者がやっていた。血の腸詰だと言っても、それは既に調理済みで、血を思わせるものはなかった。
 それが、ここでは違う。冬も間近に迫った日に羊が集められ、選別されたかと思うと、すぐに屠殺が始まった。厨房では毎日のように鳥の羽がむしられ、調理される。
 それが必要である事は分かっていた。そういう一連の作業がないと、皿に料理が並ばぬのだということも分かっていた。だが、城砦ではそれを実際に目にする事はなかった。ティナ達はただ、料理が卓に並ぶのを待つだけだった。誰がどのようにして畜殺を行っているのかまでは興味がなかった。
 それが、ここでは、ロルフ自らが羊の選別をし、屠殺にも目を配るという。実際に手を下すのは奴隷だが、余り下手なやり方の時には自ら刃を持つ事もあるとオルトは言った。鷹狩りの際にも面倒がらずにきちんと血抜きをして戻るので、新鮮なまま調理に回せるとも。
 だが――犠牲の儀式は別だ。余りにも野蛮だと思った。既に処分した枝肉を捧げるのではいけないのか。神官はいないのか、儀式も全てを族長が行っているようだった。
 大広間は祭りのもてなしの準備で大忙しのようだったので、その指示はオルトに任せてティナは族長室に引っ込んだ。勝手の分からぬティナがいても邪魔な事は分かっていた。
 自分は何処にも属していないような気持ちにティナはなった。族長の奥方とはいっても、お飾りにしかすぎない。積極的に北海の家政を学ぼうとしたのが遅かったので、オルトに頼るしかなかった。身重の今では、ロルフの言葉もあって自由に動く事もできなかった。
 大切に思われているのは、自分ではなく腹の子だという事も分かっていた。だが、そこにロルフの優しさを見る事はできないだろうか。本当は恐ろしいだけではなく、心遣いもできる優しい人ではないだろうかとティナは思う事があった。そういう人であるならば、女子ならばともかく、子供の事は可愛がってくれるのではないだろうかと思わずにはいられなかった。
 大広間の方から、賑やかな声が聞こえてきた。皆が戻ってきたらしい。
 祭りだからと言って、ティナが列席する必要はないとオルトからは聞かされていた。無理をしないのが身重の時には一番大切なのだから、気にする必要はないのだと。そうは言われても、ティナは落ち着かなかった。ロルフに蹴りつけられた時の事が気になったのではない。悪阻もおさまったのに族長の妻としての務めを果たしてはいない事への焦燥感だった。先の奥方もそうだったのだと言われても、土台が違う。元々、北海の、この島の出身であった先の奥方は、姿を見せなくとも誰もが知る存在であったっだろう。だが、ティナは違う。中つ海からやってきて日も浅い。まだこの島に慣れているとは言い難く、この島に来た日と今日を別にすれば、集落にも全く足を踏み入れてはいない。人々から認知されているかどうかも分からない。子供が産まれれば、そちらに時間を取られる事になるだろう。北海の者が、母親がいるのに乳母を使うとは思えなかった。そうなれば、ますます集落は遠くなる。
 それでも良い、とロルフは考えているのだろうか。お飾りの妻は、飽くまでも飾っておくだけで良い、と。中つ海から来た女に、島を引っ掻き回して欲しくはないと思っているのだろうか。
 だとしたら、何とも哀しい事だった。ティナはようやく、自分の運命を受け入れてロルフの良き妻になろうと決心したのに、ロルフはティナを余所者としてしか扱おうとしていない事になる。本当の妻として認める気はないのだろうか。集落の人々の前で結婚したというのに、それは有り得ないだろうと思いながらも、ティナは不安を拭い去る事ができずにいた。
 自分はロルフの妻であり、その子の母親である。ロルフが認めようが認めまいが、それは変えようのない事実だ。今の状況では、ティナとロルフの子が次の族長になるのだろう。
 次の族長――その事を考えるとティナの心は沈むのだった。自分の子供は結局は野蛮な北海人に育ってしまうのだ。どれほど遠征という名の掠奪行為を止めて欲しいと思っても、それを口に出す事はできない。ロルフもヴァドル、オルトもそれを当たり前の事として生活している。そして、自分も今はそのおこぼれに預かっているのだ。情けないとは思ったが、受け入れる他はなかった。
 とん、と腹子が動いた。
 ティナは知らず微笑みを浮かべて、腹部をさすった。
 どのような経緯(いきさつ)があろうとも、この子には関係のない事だ。自分はこの子を愛するだろう。もう既に愛している。ロルフに似ていようがいまいが、それもどうでも良かった。北海に攫われるようにして連れて来られ乱暴されたとはいえ、この子には父親がいる。ロルフの身に起こった事を知ってからは、もはや憎んではいない。同情や憐れみはあるのかもしれないが、ロルフはそれを良しとはしないであろう事は分かっていた。自分とてもロルフを愛している訳ではない。政略結婚の相手だと思えば我慢出来るという程度のものだ。それでも、努力をして周囲からロルフの妻として認めて貰いたいという気持ちはある。
 出口が見えない、とティナは思った。この子がその出口になってくれる事を祈る他はなかった。
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