第38章・婚約

文字数 10,934文字

 大広間には、三人の求婚者とその随伴人達ばかりではなく、ヴァドルを始めとする部族の主だった者達、オルトやエリスも臨席した。エリスの存在は当事者であれば当然の事であったが、ロルフの妻の姿はなかった。族長集会の際に不例であるという事が知れ渡っていたので、不審に思う者はいないようであった。
 誰もが、オルトでさえも緊張した面持ちで立っていた。ヴァドルは既に決定を知っていたが、それでも、多くの客人を前に硬い顔をしていた。
 皆の目が自分に注がれているのを、ロルフは感じた。エリスも、見ている。その顔は、やはり蒼ざめていたが、目の力は強かった。
 ロルフの眼前には三人の求婚者が、その後ろにはそれぞれの随伴人が控えていた。左には部族の者が、右はエリスとオルトで、直ぐにでも家族の棟へ行けるように立っていた。そのような心配はないだろうが、万が一、気分が悪くなった時に下がれるようにだ。
 一わたり見まわして、ロルフは皆に頷いた。
 くだくだしい事はしたくはなかった。要らぬ言葉を発するよりも、交渉の方が大事であった。それに、午前の早い内に終わらせれば、本日中に帰還の途につける。煩いハラルドも、午前中は学問所にいる。
「アスヴァルド殿、ケネヴ殿、サムル殿、何日もお待たせして申し訳ない」
 ロルフがそう言うと、客人達は一礼した。
「この度の娘への申し出は大変、有り難く思う。だが、娘は一人なれば、婚約出来る者も一人。残念ではあるが、お二方(かた)にはお断りを申し上げる他はない。その事はご容赦願いたい」ロルフは一息ついた。「お三方ともに、素晴らしい若者である事は、随伴の方々から充分に聞かせて頂いたと思う。いずれのお方も、我が娘には勿体なく立派であられた。その中から、お一人を選ばねばならなかったのは、苦痛ですらあったが、致し方ない事である。僅差であれば、猶の事、悩ましくあった。しかし、ここに、一人のお方を決めさせて頂いた」
 固唾を呑んで、皆がロルフを見ていた。エリスが手が白くなるほどに固く指を組み合わせている事さえ、ロルフには分かった。
「サムル殿、貴方だ」
 大広間に溜息と感嘆の声が満ちた。
 アスヴァルドが変わらぬ穏やかな顔でサムルに何事かを言い、その背を軽く叩いた。
 明らかにがっかりした顔のケネヴも、アスヴァルドに続いてサムルの肩を叩き、笑いかけた。
 三人の間に遺恨はなさそうであった。それも、サムルという男がどう評価されているかを知らしめるものであった。
 やがて、アスヴァルドとケネヴはロルフに向き直った。
「ご足労であった」ロルフは言った。「私に三人の娘がいれば良かったと、心から思う」
 二人とその随伴人達は、深々と一礼した。そして、辞去の旨を告げた。
「何のもてなしも出来ずに、誠に申し訳がない。船旅に必要な物があれば、何でも申されよ。出来る限りの便宜を図らせて頂く」
 ロルフの言葉に、客人達は再び一礼し、エリスに向かって会釈した。
 アスヴァルドは優し気な微笑みを浮かべ、ケネヴ晴れ晴れとした顔をしており、エリスと二言三言交わしていた。二人とも、ロルフの決断に異はないようであった。
 やがて、人々が去ると、今度はサムルとその随伴人達との話し合いであった。結納財の種類や量と交わす日取り、持参財について等を相談し、決定しなくてはならない。それには、数日かかると思われた。その間、サムルと随伴人達は、この館に留まる事を許される。今までは船で起居していたものが、族長の館にある客用の部屋なり大広間なりで眠る事を許されるのだ。扱いの差は大きい。
 エリスは明らかに安堵したようであった。オルトに促され、ようやく気付いたかのようにロルフを見て一礼をした。その目には、感謝があるように思われた。別段、娘に感謝などされる筋合いの事ではなかった。ヴァドルと二人で長い時間協議して決めたのだ。エリスの選択が、そこに影響を与えたとは思えない。
 鷹揚に、ロルフはエリスに向かって頷いて見せた。

    ※    ※    ※

 自分の望んだ展開になった事に、エリスは人心地ついた。
 オルトに目配せし、下がっても良い事を確認した。事前に言われていた通り、神妙な顔をしているサムルとウーリックら随伴人に対して女性としての最敬礼をした。ともすれば、震えそうになる脚をぐっと踏みしめる事で抑え、出来る限り自然に見えるようにと願いながら、家族の棟に下がった。
 扉を閉めると、その場にへたり込んでしまった。
 決まったのだ。
 自分は、婚約したのだ。
 エリスは信じられない思いで一杯になった。これで人生の一大事が決定した。父が自分の言葉を聞き入れてくれたのかどうかは分からない。それでも、選ばれたのは、サムルだった。最も結婚の利点が多いと思われる男であった。
 この場にいなかった母に、結果を知らせなければならない。オルトにしても父にしても、先を越されるのは嫌だった。殊に、母に臨席させなかった父から告げられたくはなかった。
 族長室に自分から赴くのは久しくなかった事に気付いた。すぐそこだというのに、スールが亡くなって以来、族長室は許しがないと(おとな)ってはならない場所になっていた。そして、父は、決して良いとは言わなかった。
 しかし、今日は別だ。特別だ。婚約が調った事を知らせる必要があった。いつまでも、母を埒外に置いておくのは酷だ。自分は物思いに耽ってばかりで、碌に話をしなかった。非難の言葉を浴びせてから、詫びの一言も口にしてはいない。それに、サムルとの婚約は、母にとっても悪い話ではないはずだ。
 数年が経ったら、何か理由をつけてサムルと離婚し、この島に帰れば良い。弟達からは鬱陶しがられようと、父から忘れられた存在である母の傍で暮らし、女であれば財産は自由にならなくとも、その内に厄介払いされるように家なり農場なりを買ってもらい、そこで二人でずっと住めば良い。たかだか女二人、糊口をしのぐのに、それほど大きな財産はいらないだろう。再婚の自由は自分にあるのだから、弟の代になれば、誰にも文句は言わせない。
 エリスは少し浮き立った気分で族長室に向かった。
 精緻な彫刻を施した大きな扉の前に立つと、急に不安になった。
 母は、エリスが来る事を予想していないだろう。そして、全てを父の意思で動く人だ。この訪問が父の許しを得ていないと知ったら、愕き、心配させるかもしれない。黙っていれば分からないだろうが、口止めは出来るだろうか。
 幸いにも、今日はエリスの婚約を祝うために宴が設けられる事になっていた。奴隷達もそれに駆り出され、母の事はほったらかしであろう。奴隷にさえも強く出られない大人しい人なので、放置されるがままにいて、誰かを呼ぶ事もしないと思った。それならば、奴隷の口からも漏れはしないだろう。母が父の機嫌を窺うのならば、そう言って安心させるのが良いと思われた。
「お母さま」エリスは問うた。「いらっしゃいますか」
 少しばかりの沈黙の後で、ゆっくりと静かに扉が開かれた。少し顔色の悪い母が姿を現わした。
 小さな人だ、とエリスは改めて思った。このくらい背の低い女性は、余り北海人にはいない。やはり、中つ海の人なのだ。時たま、父の後ろについて大広間に姿を見せる事があったが、その際にはまるで、大人が子供を従えているようですらあった。
 自分達姉弟は、この小さな人から生まれたが、少なくとも一般的な北海人の背丈と体格である。小柄な母を、エリスは見下ろす形になった。この人も、自分の部族を捨てて、何も誰も知らない北海へと来たのだ。これからそうなる自分に、何らかの指針と勇気を与えてくれるのではないかと思った。
「お母さま、大事なお話があります」
 少し愕いたように、母は身体をずらせ、中に入るように身振りで示した。無口なところは、アズルしか受け継がなかった、とエリスは思った。父とて多弁な訳ではないが、母もアズルもそれに輪をかけて静かであった。
 自分の背後で静かに扉が閉じられると、エリスは久しぶりに訪れた族長室を見渡した。
 殺風景だった。壁に華やかな綴織りが掛けられている訳でも、美しく色付けされた陶器や、細やかな彫りを施された家具がある訳でもない。人の生活の気配を感じさせないような寒々とした空気が、そこには漂っていた。
 良人が寛げるように、心地の良い思いが出来るように部屋を調えておくものですよ、とオルトは言った。だが、この部屋には居心地の良さはなかった。よそよそしく、人を拒絶すような感じがした。
 これが母の好みとは思えなかった。
 普段は黙って針仕事をしているが、その色使いとこの部屋とは全く、異なっていた。父は、母にこの部屋を人間らしい場所にはさせなかったのか。それとも、母が、母の心が、この殺伐とした部屋を作ったのだろうか。
 エリスは慌ててその考えを振り捨てた。
 母は、決して冷たい人ではない。物静かではあっても、愛情に溢れた優しい人であった。エリスにも、弟達にも等しく愛を注いでいてくれた。この部屋は、そのような母には似つかわしくなかった。
「あなたの方から、こちらに来るとは思いませんでした。今日は、忙しいのではないのですか」
 静かな、そして小さな声だった。婚約者を決める日である事は、母も知っているのだ。
「もう、終わったわ」エリスはなるべく軽く聞こえるようと言った。「呆気ないものよ」
 母は少し、笑った。エリスの緊張が解けている事が分かったのだろう。
「お父さまが宣言なさって、それで終わりだったわ」
 微かに首を傾げ、母はエリスを見た。結果を知りたがっているようだった。余り感情を表に露わにしない人でもあった。
「婚約者が、決まったの」
 エリスは言った。「サムル、という人よ」
「どういう方なのですか」
 母の言葉は静かで、好奇心に溢れている、という訳ではなさそうだった。
「見た目は普通の人よ。くすんだ金色の髪で、緑の目をしているわ。背もお父さまほどに高い訳でもないし、ヴァドルほど、どっしりとしている訳でもない人だわ」
 ヴァドルはがっしりとはしているが太っている訳ではなかった。どうも落ち着いた態度から、見た目よりも重量があるように思えるのだった。
「おいくつの方なの」
「二十五歳、ですって。顎に短くした髭を生やしているけれど、似合っているのかどうかは分からないわ」母の緊張を解こうとして、エリスは軽い調子で言った。「ウーリックが推薦人になっている人よ。規定の六人が集められなくて、四人で来た人」
 母の顔が硬くなった。
「でもね」エリスは慌てて安心できるような素材を探した。「緑目殿の甥で、戦士長のヴェステイン殿の独り子だわ。お相手としては、申し分ないでしょう」
 それでも、母の顔は曇るばかりであった。族長の近い縁者であるのに、推薦人の員数を集められなかった、という事で、余計に心配をかけてしまったようであった。自分は、どうしてこうも不注意なのかと、エリスは思わずにはいられなかった。
「そのような方でも、既定の員数が集められなかったのでしょう」
 他の二人は、きちんと集められたのに、なぜ、という響きがそこにはあった。父が決めた事であれば、全てを素直に受け入れる訳ではない様子に、エリスは少し安心した。
「でも、島の族長の許可を得て来ているわ。それに、詩人(バルド)の言葉は三人分と言うのだから、条件は満たしているのよ。それでなくては、お父さまが追い返していらっしゃると思うの」
 疑わしそうな表情に、エリスは慌てて言った。「どのみち、お父さまが決められたのですもの、もう、覆しようがないわ」
 どうしてそのような男を父は選んだのか、母が不審に思っているのは分かっていた。サムルが相続に関して問題を抱えている事を話しても良いのだろうか、と思った。そうすれば、サムルの母親の事にも触れなくてはならないし、求婚の目的も取り引きについても白状しなくてはならない。
 この婚約が、自分の望んだものである事は話すつもりであった。辛く当たってしまった事を詫びるつもりでもあった。
 先程まで、全てを語る必要はないと思っていた。それは、大きな間違いであった。何もかもを曝け出さなくては、母は納得しないだろう。安心しないだろう。いつまでも心労をかけたくはなかった。
「ね、お母さま、少し座りましょう。落ち着いて、話しましょう。最初から、説明するわ」
 エリスは母の手を取り、暖炉の傍にある長櫃に導いた。先に母を座らせ、その横に腰を下ろした。手を取ると、その目を見つめた。
「サムル殿が随伴人を集められなかったのには、理由が、あるの」ゆっくりと、エリスは言った。「サムル殿の母君は、正式に結婚されていなかったの」
 母が息を呑むのが分かった。衝撃を与えてしまったようであった。もう少し言い方がなかったのかと後悔した。
「正妻のいる人の愛人、という訳ではないわ」
 これも悪い。だが、嘘は言えない。真実は、いつか露見する。それならば、最初から正直でいる方が良いのかもしれないと、エリスは思った。
「サムル殿の母君は、父君の奴隷だったの」
 母の顔から血の気が引いた。気絶をするのではないかとエリスは思ったが、何とか持ちこたえたようであった。中つ海の人間は北海人にとっては奴隷である事を思えば、正妻である自分とサムルの母親との間に、扱いの差はないように感じているのだろう。
「でも、サムル殿は嫡男として認知されていて、父君の兄上でもある族長にも相続権のある事は、お互いに確認済みなの。だから、お父さまはサムル殿を求婚者の一人として認められたのよ」
 それが母を得心(とくしん)させるものではないと思いながらも、話し続けるしかなかった。
「けれども、それを認めない人がいるから、規定の人数を集められなかったの」
 エリスの手が、ぎゅっと握られた。訴えるような目に、いたたまれない思いがこみ上げて来た。
「サムル殿は、わたしに、家庭内では自由に振舞い、発言する権利を保証すると約束してくれたの。そのことはお父さまには話してはいないわ。だから、お母さまにも、この話はお父さまには秘密にしていただきたいの。これからお話しすることもよ」
 この言葉も、母に衝撃を与えたようであった。父に隠し事をしろ、と言っているのだ。無理もないだろう。母は、恐らく、父が追求すれば秘密にはしておけないだろう。ほんの少しの時間稼ぎにしか過ぎないかもしれない。それでも、父が気付くまではまだ間があるように思えた。
「わたしたちは、取り引きをすることにしたの」エリスは続けた。「向こうから、言い出したのよ、わたしからではないわ」この点は誤解をしてほしくはなかった。「文書にして、誰かに見つかると大変なことになるから口頭でだけだけど、言質(げんち)は取ったわ」
 エリスは、母を安心させようと、小さな手を包み込んだ。
「お母さま、聞いて。わたしたちの結婚は、取り引きであり、契約なの。サムル殿は、わたしの行動も言動も、縛ることができないわ。それは、確かに、家庭内だけのことかもしれない。でも、わたしには、恋愛の自由もあるのよ」
 母の身体がびくりと震えた。愕いているのだ。
「それにね、サムル殿は、離婚の自由も認めてくれたわ」
 これが、大事だった。「わたしは、数年たったら、離婚を申し立てるつもりでいるの。サムル殿は、それを受け入れなくてはならないわ。そうしたら、わたしは、この島に戻って来て、またここで暮らすわ。お母さまの傍に、ずっといられるのよ。再婚の決定は、わたしにあるのですもの、その内に、お父さまやロロは、わたしの存在が鬱陶しくなるでしょうから、そうなったら、小さな農場を買ってもらって、二人でそこで暮らしましょう。静かで、自由で、とても良いと思うの」
 エリスは明るく言った。しかし、母の顔は暗く沈んで行くばかりであった。何か、自分は間違った事を言っただろうかと、エリスは不思議に思った。全て、母にとっても自分にとっても、利点しかないように思えた。
「あなたが――」母がゆっくりと、小さな声で言った。「あなたが支払う代償は、なに」
 その問いに、エリスは一瞬、何を言われているのか理解できなかった。
「自由を得る代わりに、あなたは何を、失うの」
「わたしは、何も失わないわ」エリスは笑った。「サムル殿はお父さまの後ろ盾を、今は必要としているわ。でも、何か、手立てがあるのでしょうね、男子一人をもうければ、離婚は自由だ、と言ったわ。好きな人ができても、離婚に応じてくれるのよ」
 突然、母がエリスの手を振りほどき、腕を摑んだ。
「何と、言ったの」
「サムル殿はお父さまの――」
「その次よ」
 エリスは母の変化に愕いた。どこか必死な様子が見えた。
「男子一人を、もうければ、離婚は自由だ、と」
 母の顔が蒼白になった。そして、エリスの腕を放し、両手で顔を覆った。
「ああ、ああ」
 溜息とも叫びともとれない声が、母から漏れた。
「どうなさったの、お母さま、急に。そんなに、愕かれたの」
 母は両手に顔を埋めたままであった。泣いているようにも見えた。自分の言葉の何が、この人に激しい感情を起こさせたのかと、不思議に思った。エリスの言葉を聞いて、喜んでいるようには、とても見えなかった。安心させ、喜ばせる為に決めたのに、なぜ、母は嬉しくないのだろうか。
「あなたは、何という取り引きをに応じてしまったの」
 絞り出すような母の言葉に、エリスは戸惑った。「あなたは、決して、離婚はできないわ」
 なぜ、そのように断言されるのか、エリスには分からなかった。離婚は北海の女に与えられた数少ない権利だ。
「喜んではくださらないの」
 少々の不満もあって、エリスは非難するような口調になった。「わたしは、お母さまが喜んでくださると思って――」
「喜ぶだなんて」母はエリスの言葉を遮った。「喜ぶだなんて、できはしないわ」
 母が喜ばぬ理由が思いつかなかった。自分に不利な条件はないはずであった。
「どうして、どうして、喜んでくださらないの。離婚は権利よ。それにサムル殿は反対しない、と言ったのに」
 母の手が、再びエリスの腕を摑んだ。思ったよりも、強い力であった。
「あなたは、離婚して、子供を置いて、この島に帰って来られるというの」
 離婚した女は、子供を置いて来るものだ。養育権は父親にあると法も定めている。そこに何の不思議もなかった。だが、必死の形相の母に、エリスは、何かが違う、と思わざるを得なかった。自分は何か、間違った事を言っただろうか。
「わたしは、何も間違ってはいないはずよ。サムル殿も、率直に話してくれたのだし」
 ただただ、母は首を横に振るばかりであった。
「エリス様」
 オルトの声に、エリスは我に返った。いつの間にか、オルトが部屋に入って来ていた。
「エリス様、ここは、わたくしにお任せください。あなたは、どうぞ、お部屋にお戻りください」
 取り乱した母に、なす術もなくエリスはその言葉に従った。

    ※    ※    ※

 ティナは湧き出る涙を必死で(こら)えた。
 エリスを部屋から退出させてくれたオルトに感謝しながらも、ティナはオルトにも一人にして欲しい、と頼んだ。何も言わずにオルトが去ると、ティナはエリスの言葉を胸の中で繰り返した。
 信じられない思いで一杯になった。
 あの子は、何という事をしでかしてしまったのだろう。
 自分がどのような取り引きに応じたのか、本当に分かっているのだろうか。
 自由。それを求める心が強いのは分かる。自由をあの子から奪う事は、死ね、と言うようなものだ。ティナと共に静かに、ロルフから離れて暮らしてくれるという気持ちも、嬉しい。
 しかし、エリスは、「男子を一人儲けて」と言った。その前に何人の娘がいようと、エリスは離婚をすれば全ての子を手放さねばならない。簡単に「手放す」とエリスは言う。情が薄い自分であっても、子を手許に置いておけないのは、身を切られるように辛かった。ロルフの気性を受け継いでいるのであれば、エリスには、それは耐えられない程の苦痛であるはずだ。それを、あっさりと手放すのだと言った。
 そのようなところだけ、自分に似てしまったのか。いや、自分以上に薄情で、心の動かぬ人間であったのか。
 それはあり得ない。ティナは直ぐにその考えを振り払った。
 弟達を可愛がってきたエリスである。
 ティナを気遣って、共に暮らすと言う娘である。
 あの子は、まだ、何も知らない子供なのだ。
 そう、思った。
 異性を好きになる事も知らず、ましてや、愛してもいない男との結婚が如何なるものなのかも、知らない。
 婚約者に選ばれた男が、ロルフの後ろ盾を必要としているのならば、決してエリスを離婚する事はなかろうと思った。オルトの話では、娘は持参財を持って輿入れをするが、夫はそれを管理下に置こうとも、その財に手を付ける事は禁じられているそうだ。離婚の際には、その持参財と共に親元、或いは庇護者の元に返される。男が送った結納財は、娘の実家の資産となり、それは返される事はない。つまり、離婚は、夫にとっては損失でしかない。下手をすれば、財産の半分以上も失いかねないものだ。そう簡単に離婚に応じるとは思えなかった。唯論、夫に重大な過失があれば法に訴える事も出来ると言うが、現実的ではなかった。エリスが如何に、北海の女の権利であると言っても、理由が必要になろう。
 好きな男が出来たという理由であっても離婚できるのだ、とエリスは言った。だが、それこそ、有り得なかった。夫にとっては屈辱であろうし、また、倫理的に許される事ではない。城砦では、姦婦は有無を言わせず衆人の前で男のように髪を短く切られ、厳しい戒律の修養院送りとなった。北海での処遇は知らなかったが、それよりも軽いとは思えない。
 何事も、エリスは軽く考えていた。
 男子を一人もうける、という言葉の意味も良くは考えていないだろう。
 子を置いて家を出るという事も、まだ分かってはいない。
 見知らぬ土地で、親しくなる者もなく過ごす事の寂しさ、厳しさも知らない。
 婚約者となった男が、他所(よそ)の島の族長であるロルフの後見を必要としているのは、自分の島に有力な支持者を持たぬ為だ。戦士長の嫡男であっても、娘を嫁がせても良いと考える者がいない為だ。エリスの味方になってくれるような女はいないのかもしれない。そのような状況で子を産み、育てるというのがどういう事なのかを、エリスは考えてもみないのだ。
 自分も十七歳の頃はそうであった。エリスを責める事はできない。
 しかし、孤独な中で唯一の慰めが、子供であった。愛してもいない男により、暴力によって孕まされた子を、最初は厭わしくも思ったものだった。それが、次第に自分の胎内で育ってゆく内に、心の拠り所となっていった。語りかけ、内心を吐露する相手となっていた。慈しみ、愛する存在になっていた。
 最初の子は女子であったので、手許で育てるのを許された。次からは男子であった為に、直ぐに取り上げられ、授乳の時間の他は触れる事さえも禁じられたのだ。それが、どれほど哀しく、寂しいものであったのかを、エリスは知らない。
 泣こうが喚こうが、子は全て父親の所有物である。離婚の際には、置いて去らねばならない。男子が生まれれば、男にとってはエリスは用済みという事なのだ。エリスが帰されようと、ロルフにとりその男子は孫になる。ロロにとっては甥になり、その男の後見ではなくなっても、子の後見ではあり続ける。子の事を考えれば、ロルフもロロも、子が成人するまでは、その男を守らざるを得ない。
 その事を、エリスは本当に理解しているとは思えなかった。エリスが望まなくても、男の方から離婚をされるのだ。族長の甥であり、戦士長の子であるならば、財産の心配をしなくとも良いのかもしれない。男子を産むだけの存在になり下がり、簡単に捨てられるのだ。そして再び、男達の都合で嫁がされ、同じ事が繰り返されるのかもしれない。出産で生命を落とす可能性も、エリスは考えてはいないだろう。
 僅かばかりの好意も持たぬ男に身を任せるという事さえも、考えの内には入ってはいないと思われた。ティナがロルフを愛してはいないという事実を、エリスは数日前にようやく気付いたのだとしたら、互いに愛情を持たぬ夫婦というものが、どのようなものであるのかも、想像していないに違いない。
 ティナが感じて来た恥辱と苦痛を、娘が味わわねばならないという事実は、恐ろしいものであった。婚礼の翌日にオルトが気遣いも何もなく、一人残された寝床で涙に暮れていたティナを追い立てて血の染みた敷布をはぐった。それを、部族の者の目に晒すのだと言った。中つ海の城主や王の結婚は契約であれば、契り交わした証拠としてそのような事が行われているのは知っていた。だが、同じ事が自分の身に起るとは思わなかった。アーロンは城主ではなかったし、北海は未開だ。奪って行くだけの存在で、契約の概念があるとは思わなかった。
 結婚に対する知識も、男女の事についての知識もなかった。それを、エリスに教えなくてはならないのは、ティナの仕事であった。自らの惨めな結婚に何らかの教訓が含まれているのならば、それなりの価値は持とう。だが、娘に対して口にするには憚られるような事ばかりだ。
 なぜ、ロルフはそのような男をエリスの婚約者として選んだのであろうか。不幸になる将来しか見えなかった。取り引きの内容を知らずとも、娘が幸福になれる人と婚約をさせるのが、父親ではないだろうか。それとも、その男に嫁げせる、何らかの政治的理由を優先したのか。
 ロルフがエリスの好悪を聞いてくれるのだと知った時には、娘への愛を感じた。そして、感謝した。今は、それも、恨みに変わった。エリスの選択を優先したのであれば、親として相手の男の事を何も見てはいないとなろうし、男の事情によるものであれば、最初からエリスの好悪など聞く必要などなかった。
 しかし、その事をティナの口から問いただす事はできなかった。そのような力は残っていなかったし、例え、エリスと男との間に交わされた取り引きを知っても、一旦、決定された事を覆すロルフではないと思われた。
 エリスが嫁いだ島で不幸なのを見れば、ロルフが離婚をさせるであろうか。集落で、そのような事が起こったのを、ティナはオルトの問わず語りで耳にした事があった。大切な娘であれば、ロルフはエリスの不幸を放ってはおかないであろう。それが、夫との間にできた子と別れる選択になっても、父親にはそのくらい強い権限があった。娘はそれに異を唱える事はできない。
 どのように考えを巡らせても、エリスはその男と結婚する道しか残されてはいないようであった。
 自ら罠に飛び込んでしまった事に気付いた時、エリスはどうするのだろうか。
 後悔と苦難に責め苛まれるエリスを見たくはなかった。
 自分のような人生は、歩んでもらいたくはなかった。
 だが、もう遅い。
 エリスは、選択してしまったのだ。
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