第8章・始まり

文字数 6,197文字

 ロルフは高座から人々を見やっていた。皆は、これが葬式なのか結婚式なのか分からぬようであった。それはそうだ。自分が帰って来てから、全てが連続して行われた。
 子供達の死の報告から始まって、その葬儀。息つく暇もなく結婚式とその宴会だ。人々が戸惑うのも分からないではない。誰もが、ロルフが二人の子供を何よりも愛していた事を知っているのだから。その葬儀に続いて結婚という祝いが行われるなど、誰が予想しただろう。
 子供達の死は立派であった事を皆に告げた。二人は剣を佩き、猟犬や玩具の馬を供に神々の国に旅立った。小さな塚は入り口の脇、エリシフの塚の前だ。数年の内に三人までも失ってしまった。白鷹という呼称はもう、自分には相応しくないかもしれない。凶事(まがごと)ロルフでも良いくらいだ。
 神々の国で、今頃は三人は共にロルフを見下ろしている事だろう。一人残されて、どうせよと言うのだと叫びたかった。
 だが、ロルフは族長だ。部族を率いて行かねばならない。例え後継ぎがいなくとも、務めを果たさねばならない。それが、神々の望みなのだろう。
 大神は時に残酷だ。それが身に染みて分かった。戦いの神、死の神、そして全てを司るお方。その意志により、生きるべき者と死すべき者が決まる。大神の愛された者は、名誉を得るか早くに生命を召し上げられるかのどちらかだ。エリシフも子供達も後者だった。大神に愛された者を愛し、また愛されたロルフは、ある意味幸運だったと言えるだろう。だが、どのように自分を慰めても、心に開いた大きな穴は埋まらない。
 唯一無二の子供達だった。何処にも同じ女はいない妻だった。
 中つ海から引っ張ってきた娘やその子供が、代わりになるはずもなかった。
 ロルフは杯を干した。すかさず、女奴隷がそれを満たす。
 ヴァドルが心配げに自分を見ている事に気付いた。ヴァドルとは乳兄弟だ。その母のオルトは、今でも族長の館に仕え続けていてくれている。心配ない、と伝える為に、ロルフはヴァドルを追い払う仕種をした。それで心配性の男が納得する訳でもないだろうが、面倒だった。
 そう、何もかもが面倒だった。
 隣にいる女の方を見るのも、食事をするのも、全てが面倒で仕方がなかった。碌に眠っていないせいもあるのかもしれない。だが、平安な眠りは自分から永遠に失われたのだと思った。目を閉じると、三人の笑顔がちらつく。自分にはもう、手の届かなくなった笑顔だった。
 ちらりと隣の娘に視線を向けた。大人しく座ってはいるが、機嫌良くはしていない。それも分からないではない。突然に北海まで連れて来られたのだから。ただ、ぼんやりと人々と眺めている。時々、食べ物を口に運ぶが、いかにも義務的だ。
 ヴァドルから心配されるような事は、何もないはずだった。
 葬式の後の性急な結婚も、全て自分の冷静な判断だ。
 それとも、ヴァドルは娘が北海の者ではない事を心配しているのか。だが、大丈夫だ。中つ海の者はすぐに、北海の流儀に慣れる。オルトがその役目を担う。自分ではない。だから、自分に心配する事など何もない。ヴァドルもそう構えていれば良いのだ。
 宴が進むにつれ、皆の顔も緩んできた。陰気な事は陰気な宴であったが、一応、詩人(バルド)が結婚の歌を吟じた。女や子供は、さっさと引き揚げた。子を亡くしたばかりの自分が、子供の姿を見るのは辛かろうという気遣いなのだろう。男ばかりになると、戦士も自由民も関係なく酒ばかりを呑み始める。
 暫くすると、オルトが娘のところにやって来た。支度をしろと言うのだ。
 支度。
 ロルフは思わず笑いそうになった。
 花嫁は、中つ海の女だ。ロルフの前に差し出された生贄だ。羊のように静かに引いて来られるのか、豚のように最後まで鳴きわめいて抵抗するのかは分からない。いずれにしてもする事は同じだ。
 青ざめた顔で、娘はオルトと共に退出した。
 宴は退屈だった。これが、後六日も続く。他の集落からの客も、もてなさねばならない。その度に、また、この大広間は陰気な空気に包まれるのだろう。そして、ロルフの心には再び風が吹く事になる。
 族長の結婚式には七日間の宴、など、誰が決めたのだろうか。ロルフはうんざりとして思った。エリシフと結婚した時は、族長の後継者であったので五日間だった。一生続いても構わないと思ったものなのに、今では義務と重荷でしかない。
 エリシフとの結婚式は素晴らしかった。エリシフは愛らしい花嫁で、それまでで最も美しかった。誰もが笑い、浮かれていた。あの堅物のヴァドルでさえも、女を口説いていた程だ。生涯で最も輝きに満ち、喜びに溢れた日だった。あのような日は、もう二度とは訪れない。
 オルトが、花嫁の準備が整った事を知らせに来た。
 ロルフは急がなかった。
 女奴隷に蜜酒を注がせると、ゆっくりと口に運んだ。
 急いだからといってどうなるものでもない。娘は逃げられぬのだ。
 暫くして杯を空にすると、ロルフは(おもむ)ろに立ち上がった。宴席の誰もがそれに気付かぬようだった。それでも構わない。エリシフの時には、皆に大騒ぎをされて送り出されたものだが、さすがに二回目だ。騒ぐ程の事でもない。
 族長室では、娘が一人、待っていた。不安そうな顔に、夜着を胸に抱き寄せるようにして立っていた。
 ロルフは、自分が湯浴みを済ませてはいない事を思い出した。今日は、それどころではなかった。もう何日も身体を洗ってはいないが、気にする事もなかろう。相手は中つ海の女だ。エリシフではない。
 娘の腕を摑み、寝台に放り投げた。小さな悲鳴を、娘は上げた。
 エリシフでないのならば、どの女も変わりはない。娼婦であろうと妻であろうと。中つ海の女であろうと北海の女であろうと。
 のしかかって行くと、娘は抵抗した。いやだと言った。
 ロルフは娘を平手打ちにした。一瞬、娘は黙る。だが、今度は泣き始めた。
 煩い。
 怒りを感じたロルフはもう一度、娘を叩いた。どうしてこの娘をエリシフと似ていると思ったのだろう。エリシフは、自分を両手を広げて歓迎してくれたというのに。この小娘は、煩く泣くばかりだ。
 さすがに今度は懲りたのか、静かになった。()の紐を寛げ、娘の夜着の裾をたくし上げた。娘の目が大きく見開かれる。
 無理矢理押し入ると、娘は悲鳴を上げた。これも平手打ちで黙らせた。
 後は静かなものだった。娘は涙ながらも唇を噛みしめ、ただじっとしていた。その上でロルフは身体を打ち付け、果てた。
 すぐに身体を離すと、ロルフは娘に構わず、背を向けて横になった。
 これで、済ませるべき事は済ませた。娘が孕むまで、それが続くだけの事だ。
 娘は声を押し殺して泣いていたが、ロルフの心は動かなかった。やがて夜着を直す衣擦れの音が聞こえた。ロルフは目を閉じて寝たふりをしていた。そっと自分を窺う気配があったが、目は開けなかった。
 やがて、嗚咽を漏らしながら娘が横になるのが分かった。
 そうだ。これが、結婚というものだ。ロルフは思った。エリシフとは、愛し合って一緒になった。だから、最初から最後まで慈しんだ。だが、この女は違う。この女は、子を産む為だけに自分の妻となったのだ。泣こうがわめこうが、知った事ではない。憐れみなどしない。
 やがて、嗚咽は寝息へと変わった。
 ロルフは息をついた。
 今夜は、少しは眠れそうだった。

 七日間の結婚の宴は、ロルフの思った通りの展開であった。ロルフの子供達の死が知らされたかと思うと、次に結婚の報せだ。誰しもが戸惑うだろう。そして、その七日の間、ロルフはやはり、身体を開かせる度に悲鳴を上げて泣く女を叩き続けた。
 ようやく日常に戻ると、今度は留守にしていた間の様々な問題がロルフの許に寄せられた。だが、それも大した事ではなかった。その呼称の元となった白鷹を相手にする時が、唯一の息をつける時間だった。
 女は、十日も経つと唇を噛みしめて嗚咽を漏らすだけになっていた。声を上げると頬を打たれるという事がようやく、分かったらしかった。ロルフを前にしても一言も喋らなかったが、気にはならなかった。大人しくさえしていれば、自分の邪魔にさえならなければそれで良かった。所詮は中つ海の女だった。力でねじ伏せれば訳もなかった。
 三つの塚の前を通る時には、何時でも胸が痛んだ。この痛みは、決してなくならないだろうとロルフは思った。

    ※    ※    ※

 あんなに酷い事をされるとは思ってもみなかった。ティナは涙ながらに思った。乳母や侍女達が言っていたのとは全く違っていた。それどころか、頬を叩かれた、何度も。一言もなく身体に押し入ってくる異物の痛みに泣いても叫んでも、頬を打たれる。要は、それが気に入らないのだと気付くのに十日もかかった。だが、誰にも訊ねる事の出来ない話だった。あの男は、正真正銘の野蛮人だった。乳母達の言っていた良人の優しさなど、欠片もなかった。
 夫婦の事が、これ程までに苦痛なのだとは思わなかった。褥を同じうすると言う事の意味は分かったが、余りにも酷かった。そして、目醒めると、男の姿は既になかった。
 オルトが気付いているのかどうかは分からなかった。だが、頬をぶたれた事は知っているだろう。赤く腫れていたのだから。それを冷たい水で冷やしてくれたのもオルトだ。だが、結局は何も言わない。
 七日も続いた宴の後で、ようやく日常というものが訪れた。オルトは族長の奥方としてティナの為すべき事を語った。その第一が北海の流儀を覚える事だった。オルトを教師として、それは午前中一杯を使って行われた。
 朝食は麦の粥であったが、食感が違った。何の粥なのかを訊ねると、燕麦だと言われた。燕麦。それは、城砦では馬の飼料だった。そのような物を食べさせられるとは思わなかった。しかも蜂蜜がかかっていて甘かった。発酵乳も味が変だった。だが、それを言ったところでどうなろう。このような野蛮な地では、自分の好きな物を食べる事も出来ない。北海の食事は貧しかったし、美味でもなかった。単純な調理が多く、味もさして変わり映えがしなかった。見た目も、食欲を誘うものではかった。
 そんな毎日の中で、ティナはようやく自分の良人となった男の名を知る事が出来た。
 ロルフ。
 それが、男の名だった。またの名を白鷹ロルフと言うらしい。館に飼われている鷹狩り用の白鷹から来ているという話だった。余程、その白鷹を大事にしているのだろう。城砦での鷹狩りにはティナも参加させてもらった事はあったが、女は鷹を扱わない。唯、見ているばかりであったので、すぐに飽きてしまった。白い鷹は見た事がなかったので多少の興味はあったが、今はそれどころではなかった。また、その事で良人の機嫌を損じるのも嫌だった。
 しかし、妻となったからには良人を理解しなくてはならないだろう。どれほど酷い事をされても、良人は良人だった。妻としては、良人に尽くし、その務めの一部を肩代わりしなくてはならない事もある。特に、この北海ではそのようであった。オルトの話では、族長不在の折には、その妻が全ての権限を委譲されるという事であった。
 自分にそれが出来るであろうか。まだ北海の事も習いたてで、あの男――ロルフに話しかける事さえ出来ない。いや、話しかけるべき話題もなかった。
 午後には糸紡ぎや機織りのような手仕事が中心に行われた。家族の衣服を調えるのは一家の主婦の仕事である事は城砦とは変わりがなかった。今までは、それはオルトや奴隷達の仕事であったようだ。刺繍の文様も、随分と違った。それも一から覚えねばならない。何かしらの意味のある物らしかった。
 何よりもティナを愕かせ赤面させたのは、用足しには湯殿と同じく外へ出なくてはならない事であった。それも、共同である。夜中には寝室壺が使えるが、それ以外は屋外の御不浄に行かなくてはならない。それは非常に恥ずかしいことであった。
 また、持参した衣装は全て使えないとオルトに言われた。冬にはそれでは耐えられないと言うのだ。ここに住む人が言う事なのだから間違いはないだろう。泣く泣く、ティナは持参した服を諦めた。身に着けるのは、城砦の下働きと同じ形だった。屈辱だった。何よりも、自分の中の中つ海の部分がどんどんと消されて行くような気がした。
 髪型も、複雑な編み込みをしてくれるような奴隷はいなかった。ここには侍女ではなく奴隷がいるのみで、自分にだけ付いて世話をしてくれる者はいなかった。自分で髪を編むなら単純な三つ編みで、それは奴隷などの他の女達と変わりがなかった。それは文明の後退のように思われた。
 そして夜には陰気な食事をあの男と仲間達と摂り、湯浴みを済ませるとようやく一人きりの時間が持てるはずなのだが、実際には恐怖を募らせるだけの時間であった。いつ、あの男がやって来るか分からないという恐怖。また、あの嫌な行為をしなくてはならないのだという恐怖。一人でいると、それがいや増した。
 ティナが黙って為されるがままになっている以上は、男は叩いたりはしなかった。それだけが救いだった。
 だが、まだ、二人での生活は始まったばかりなのだ。良人としてあの男を愛する事も尊敬する事も出来ずにただ、その言いなりになるだけの生活であった。それでも、平安が保たれている以上はましなのかもしれない。
 ティナは毎日アーロンを思わずにはいられなかった。アーロンとの結婚生活は、こんな風ではなかったはずだ。同じ行為をするにしても、もっとお互いに愛情深く、慈しみ合うような関係でいられたはずだった。その事を思うと、ティナの目には涙が滲んだ。
 何故、あの男は弟を殺そうとしたのだろうか。あのような事件がなければ、このような思いはしなくても済んだはずだ。父や騎士達があのようにうろたえる事もなく、無事に解決したはずだった。なのに、あの男が殺そうとしたのは幼い弟だった。
 ティナは良人を「あの男」としか考える事が出来なかった。名前を知ろうと、それは変わらない。それ以外の呼び方があるだろうか。会話もなく、ただ、自分の身体に押し入ってくるだけの男を、名前で呼ぶ事など可能であろうか。
 家畜のように飼われているだけであった。その役目は子を産む事だけだ。そのような虚しい関係に、名前が必要だろうか。ティナはそう思った。互いに名を呼び合うこともないのだ、その内、お互いに名前があった事さえも忘れてしまうに相違ない。
 そう思うと、やはりアーロンが恋しくなった。もう顔向けの出来る身体ではない。二度と会う事のかなわぬ人だった。だが、あの優しさは、愛情は本物だったと思いたかった。いかに弟の生命が掛かっていたとは言え、ティナの行動は、もしかすると軽はずみなものだったのかもしれない。アーロンの父親には、良い手があったのかもしれない。
 考えても詮ない事でもあった。
 もう、起こってしまった事なのだ。全てを変えるには遅すぎた。自分は野蛮人の中で生活し、文明とは切り離されてしまった。愛情からも遠くなってしまったのだ。美しい顔の下に(けだもの)の魂を持った男と共に暮らして行かなくてはならない。子を成し、育てねばならない。十七歳だというのに、自分の人生は閉ざされてしまった。
 そうして、全てはまだ、始まったばかりなのだった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み