第25章・待機

文字数 4,901文字

 女が産気づいたという報せをロルフが受けたのは、集落の自由民の女と束の間の逢瀬を楽しんだ後だった。
「そのような事で、わざわざ私を呼ぶな」
 冷たく、ロルフは言い放った。奴隷女は怯えたように踵を返した。
 何度目の出産だと思っているのだろう。それに、あの女はいつでも安産だった。何時間も苦しんだ挙句に、結局は健康を取り戻さなかったエリシフとは違う。鷹の調教を終える頃には、産まれたとの報せが来るだろう。
 爽やかな海風が、ロルフの黄金色の髪をなびかせた。北海は短い夏だった。この日は、海も穏やかであったが、ロルフの心中は凪いでいる訳ではなかった。
 スールの死以来、ヴァドルと二人きりで会うことはなくなっていた。ロルフの放った言葉が、ヴァドルを遠ざけたのだという事は分かっている。勢いから出た言葉であったが、ロルフには謝罪をする気はなかった。族長としての矜持からだけではない。思わず口を突いて出たという事は、心の奥底ではそう思っているという事でもある。また、ヴァドルは言い訳もしなかった。エリシフを愛していたというのはヴァドルも認めた。しかし、あの女を思慕しているかどうかという事にはロルフは確信があった訳ではない。誤解であったとしても、それを解こうともしないヴァドルに対して、ロルフは少々、腹も立てていた。それでは、ロルフの言葉を認めたも同然だからだ。
 産まれて来る子が男であろうが女であろうが、ロルフにはどうでもよかった。これが、自分の持つ最後の子であろうと思っていた。
 もう、女という生き物には飽き飽きだった。エリシフ以外の女は、皆一緒だった。あの女を始末したところで、後添えを迎える気にはなれなかった。
 そうだ、自分にはまだ仕事が残されている。あの女に引導を渡すのは、やはり、自分の役目だ。族長集会の際に手に入れた眠り薬をたっぷりと入れた杯を、ロルフが授けるのだ。女は、二度とは目醒めない。スールを死に至らしめた代償としては楽な死だが、不審な所はないに越した事はない。
 ヴァドルは、見破るだろう。オルトも。
 それがどうしたというのだ。
 あの女の味方をした時点で、ヴァドルとは袂を分かったのだ。
 ロルフはひとつ息を吐いて鷹を小屋に戻した。普段よりも時間は短かったが、黄色い目をした猛禽は大人しく従った。鷹の調教はロルフの楽しみでもあり、それを邪魔されるのは腹の立つことであったが、平静を装ってロルフは館に足を向けた。

 なかなか子は産まれなかった。
 ロルフは高座に座し、ゆっくりと蜜酒の杯を傾けていた。暖炉の近くでは、子供達が遊んでいる。いつもの光景であった。エリスとロロが自分をちらちらと盗み見している事に、ロルフは気付いていたが素知らぬ振りをした。
 頻度は減ったが、二人の子は、まだ時々母親の事を聞いて来ていた。そして、今、出産の時を迎えている。いつもは数時間で産まれるものが、今回はその倍掛かっても産まれては来ない。それでも、丸一日苦しんだエリシフに較べるとどうという事はなかった。
 自分が落ち着いていれば子供達が浮き足立つ事もないと、ロルフは知っていた。上の二人は不安げにしているが、ロルフがどっしりと構えているので、何も言って来ない。
 大きくなったものだと、ロルフは子供達を見て思った。エリスは相変わらず男勝りであったが、冬の間は刺繍をしながら幼い弟達の世話をしていた。暖かくなると、ロロと同じように外を駆け回ったり木剣を振るいたがったりしたが、それもやがておさまるであろうとロルフは思っていた。
 今日のエリスはそわそわして落ち着かない。あの女が産気づいたので、気にしているのだろう。何しろ、ずっと体調が悪いのだと言って会いたいという子供達をいなして来たのだから。
 ずっと体調が悪かった――その偽りが、生きてくることになろうとは思いもしなかった。しかも、今回の出産には時間がかかっている。生命を失ったところで、子供達も納得するだろう。
 子供達には、自分が為そうとしている事を知られる訳にはいかなかった。オルトやヴァドルは気付いたとしても、一言も漏らさないだろう。だが、エリスやロロに不審を抱かれてはならない。
 蜜酒の杯を口許に運び、ロルフは算段を練った。どのように行動すれば、誰にも不審がられずに事が運ぶであろうかと考えた。
 視線を感じ、ロルフは暖炉の方に目をやった。はっとしたようにエリスが刺繍に目を落とす。その姿は、あの女を思わせた。常に今、エリスの座している席におり、ロルフが子供達を見やるとそうして目を伏せるのだった。
 エリスは、気まずさからだろう。
 あの女は、ロルフに対する恐怖からだろう。
 美しい自分の娘にあの女を見てしまった事に、ロルフは苛立った。
 確かに、眼と髪の色はあの女と同じだったが、顔立ちは北海のものだ。それに、エリスにはロルフに怯える理由はない。何度も同じ事を訊ねるのを後ろめたいと感じているにせよ、その事でロルフがエリスやロロをたしなめた事はなかった。聞き分けのない時に、多少は苛立ちを見せたであろうが、それしきの事で怯えるような子供達ではなかった。
 なのに何故、エリスがあの女と重なって見えたのか。ロルフは眉根を寄せた。そして増してきた苛立ちを抑えようと蜜酒の杯を傾けた。
 エリスは誰から見ても美しい娘であった。あのような地味な顔立ちではない。それに、年齢の割にしっかりとしている。いずれは族長集会で女主人の役目を負う事だろう。その時、エリスは十七歳だ。嫁入りの話も出る事だろう。
 族長集会でも、あの女には自由はなかった。必要な時にロルフの傍らにいるだけの存在だった。自由を与える理由がなかった。それでも、唯々諾々とあの女は従った。
 エリスは我が強い。裳着の儀式を迎える十二歳になるまでには多少は大人しくなるだろうが、大きく変わることは期待していない。あれは、ロルフ譲りの気性だ。男に生まれれば頼もしかったものを、女であるが故に抑え付けねばならないのは、可哀想だと思う事もあった。だが、娘はいずれは自分の手許から離れて行くものだ。婚家では従順である事が求められるだろう。自らが女主人となるまで大人しくできるのならば、今のままでもよかろうとは思ったが、何しろ、ロルフの娘だ、あの気性でも良いという求婚者の許へやるのが幸せというものだろう。
 まだまだ先の話だ。
 ついこの間までは赤ん坊だと思っていたエリスもロロも、大きくなった。
 次の族長集会など、あっと言う間にやって来るだろう。その時に、自分に妻がいなくとも、最早誰も嫁取りを勧めたりはしまい。男子ならば充分にいる。館を仕切るには幼いだろうが、エリスがいる。出産で生命を落としたのだという事で、あの女の死は簡単に流されるだろう。
 誰も悼まない死。
 それがどういうものなのかをロルフは想像出来なかった。子供達も哀しむのは最初だけだ。その内、忘れるだろう。
 女は死んでも入口脇の塚に葬る気はなかった。あれは、家族の為のものだ。家の護り神のものだ。女は、飽くまで借り腹であって家族ではない。中つ海の者を葬る場所は、ここにはなかった。
 何の痕跡も残さずにあの女は去る。誰も幸せにはせず、ロルフに不幸をもたらす存在。弔いもなく、花を手向ける者もいない。
 それは、どのような人生なのだろうか。
 そう思って、ロルフははっとした。
 自分は何を考えているのだ。あの女の事など、すぐに心から追い出してしまうが良いのに。
 だが、子供達の母親はあの女だった。認めたくない事ではあったが、どの子にもあの女の面影を見る事ができる。あの女が死んだとしても、思い出させる存在がそこにはある事になる。それは無視できる事ではない。
 子供達の顔を見る度に、母親であったあの女の事を思い出さずにはいられぬのであろうか。
 先に亡くした子にエリシフを見ずにはいられなかったように。
 あの女とエリシフとは違う。誰よりも愛した女、それが、エリシフだ。失われた生命の代償として娶ったあの女とは違って当然であった。
 それなのになぜ、今更、あの女の事を気に掛けるのだろうか。出産を終えれば、もう、あの女の事も考える事はないだろう。
 それとも、毒という卑怯な手を用いて死に至らしめることで、いつまでも心に小さなしこりとして残るのだろうか。
 ロルフは、腰から下げた小物入れに忍ばせてある眠り薬を意識せずにはいられなかった。
 およそ武器以外で人を殺めようというのは、初めての事だった。そのやり方には、後ろ暗いものがあった。男らしくない、と思わせる何かがあった。
 それでも、為さなくてはならない。
 スールの生命の代償を、あの女は支払わなくてはならないのだ。
 それにしても、時間が掛かるものだとロルフは思った。
 いままでは数刻で済んでいたものが、今回に限って半日経ってもまだ産まれない。自分の手を汚すことなく女が儚くなってしまえば、それに越した事はなかったが、そう上手く物事が動くとは思えなかった。なにしろ、丈夫な女だった。多少時間はかかっても、無事に子を産むだろう。

 夕餉の時間になっても、子は産まれなかった。
 エリスは不安そうな表情をしており、ロルフの傍にいたいようであったが、子供の時間ではなかった。酒宴にやって来た者達は既に、女が産気づいたことを知っているらしく、男か女かの賭けが始まった。ヴァドルの姿もあったが、黙って酒杯を傾けており、賭けには参加していないようであった。その顔からは何の感情も読み取れなかった。
 ロルフは、いい加減、ヴァドルとの茶番を止めたくなってた。ロルフが全てを水に流す気になっても、ヴァドルの方が歩み寄っては来ない。自分から手を差し伸べるのが本来なのだろうが、それはロルフの矜持が許さなかった。
 そのようなものに囚われて大切な友を失うことがあってはならない、とも思う。だが、ロルフは族長であった。誤りを認めるには、長くその座にあり続けている。父に後継者であると認められた際に、長老や他の族長からも軽く見られない為に身に着けたものであったが、その皮を外す事ができたのもまた、エリシフのみであった。
 現在の妻が産みの苦しみの最中にあるのに、死んだ妻の事を考えるのは不吉なことだった。だが、どうしてもロルフの思いはエリシフに戻ってしまう。二度も苦しみ抜いて二人の息子を産んでくれた。男であるロルフには、それがどれほどの苦痛を伴うものかは想像だにできない。あの細い腰で子を産むのは無理だろうと婚礼の前に言われたこともあった。二人とも気にも留めなかった。若かったからかもしれない。まだ、二人とも十八だった。
 遠くに来てしまったとロルフは思い、杯を傾けた。大広間に集まっている面々も、あの頃とは顔ぶれが変わっている。父も健在だった。見知った顔に変化があろうとも、何かと理由を付けては酒宴の種にして騒ぎたがる北海の男の気性は同じだった。
 思いも掛けず早くに父が逝き、族長となった。エリシフは既に亡かったが、エリタスとヴェリフが傍らにいた。その時の誇らしさを今でも憶えている。若い族長に、皆は忠誠を誓った。ロルフの剣の刃に次々と唇付けて行く男達。それを見つめる美しい子供達。
 エリシフとの結婚の宴は父の館で五日間続いた。
 それ以上の幸せはないと思った。そして、確かに、それがロルフの幸福の絶頂期であったのだ。
 やがて、エリシフはエリタスを身籠もり、出産で苦しんだ。ヴェリフを産むにも苦しみ、挙句に健康を取り戻さないままに儚くなった。どれほど嘆こうとも、エリシフは戻ってはこない。そんな時にも、ヴァドルは共にいてくれた。その目の中には深い悲しみがあり、ヴァドルもまた、エリシフを深く愛していた事を思い知らされた。
 だが、エリシフが選んだのは、いつでもロルフだった。ヴァドルもそれを知っていたし、受け入れてもいた。さっさとヴァドルが嫁を貰っていたならば、全ては昔の話として忘れられた事だ。
 今でもまだ、ヴァドルはエリシフの死を悼んでいるのだろうか。ふと、ロルフは思った。
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