第60章・埋葬

文字数 12,079文字

 極寒の、だが珍しく陽の差した日に、オルトの葬儀は行われた。
 厚い毛皮に覆われていても、ティナは寒さに震えていた。北海の葬儀に正式に参加するのは、初めてであった。ロルフの子供達の際にはティナは連れて来られたばかりで、一人で放って置かれて何も知らなかった。スールの時には気付けば全てが終わっていた。ロルフやヴァドル、オルトでさえも集落での葬儀には参列するとティナは知っていたが、自分に声がかかったことはなかった。親しくする者がいなかったというのもあるだろう。本来ならば族長の妻としての務めとして参列しなければならないことがあったとしても、誰も求めてはこない役割を、自分から進んで果たそうという気持ちも長く失って来た。全てはオルトの言う通りにしていれば、間違いはなかったのだ。
 葬儀とは言っても、ヴァドルの願いでそれは親しい者ばかりのひっそりとした儀式であり、季節柄、死者に捧げる花もない質素なものであった。慣例では子のいる寡婦であるオルトの遺体は、ヴァドルの家の戸口に仮埋葬されてその家を守る存在となり、家長であるヴァドルの死に際して共に葬られるのを本埋葬と言うらしい。だが、これもヴァドルの意向で、オルトは先立った夫の傍らに埋葬されることになっていた。子のいない者は一人で葬られるか先に亡くした配偶者や親と共に埋葬されるものだと、お喋りなウナから聞いていた。再埋葬の習慣は、ティナにとり異教の儀式でしかない。遺体を掘り起こすのは、死者に対する侮辱と冒瀆にあたり、刑罰や敵に対して行われる行為であると教えられてきたからだ。
 館からヴァドルの家に運ばれて丁寧に清められ、晴れ着を着せられたオルトは、まるで眠っているかのようだった。如何にロルフの乳母であり館で息を引き取ったとは言え、ヴァドルの家から葬儀を出すのが

なのだとウナは語った。冷たくなったオルトの身体を、男達が白い麻布でくるみ、要所要所を紐で縛った。その間も、ひっきりなしに部屋に人々が出入りしていた。あの世への言付けを頼んででもいるのか、死人の耳辺りに口を寄せ、何事かを囁いていた。その中には、近頃ハラルドとよく一緒にいる少女とその父親の姿もあった。そういったことを、ティナは部屋の片隅に佇んで静かに見つめていた。
 ティナの知る限り、故郷では死人への伝言という慣習はなかった。尤も、ティナが知っているのは自分達の城砦で行われていることと、客や吟遊の詩人(バード)の語る遠方の珍しい話でしかない。そういった人々は、主人を喜ばせる為に様々な珍しい話を面白おかしく語った。その全てが真実ではなかったのだと、今ではティナにも分かる。北海人が、金色の髪と青い目の残虐な巨人ではなかったように。
 どれほど、奇妙に見えようとも、それは北海人の言う中つ海の人間が見ているからだ。北海の人々には当然のことも、信ずる神も慣わしも異なる自分からすれば異教的で時には冒瀆のように思われるのかもしれない。人々の顔に笑みはなく、誰もがオルトを悼んでいるのがティナにも分かった。人の死を哀しむ気持ちに中つ海も北海もない。死を恐れぬ獰猛な野蛮人であるとしても、それは少なくとも、今、目にしている人々のことではなかった。
 雪を払い、白い息を吐きながら男達は地面を掘っていたが、その中にはロルフの姿もあった。凍った大地を掘ってゆくのは非常に難しいようで、この寒さにもかかわらず交替で作業をしている男達の額にはすぐに汗が玉になった。子であるヴァドルは傍らでそれを見ているだけである。死者の血縁は、そういった作業を免除されるのだろう。どこか茫然とした表情で項垂れ、彫像のように動かないヴァドルに、それも北海人の思い遣りの一つなのだろうと思った。
 誰もが無言だった。固い地面を穿つ音と海鳴り、風の音が耳を聾せんばかりに響いていた。
 奴隷や使用人に混じってロルフ自らが働く姿に、オルトは愛されていたのだと改めてティナは感じた。死者の為に何かをしたい、という思いが、族長であるロルフを動かしているようにも見える。儀式を行う族長として、ヴァドルのように哀しみに浸ってばかりもいられない立場への苛立ちも、あるのかもしれない。
 オルトは厳しい人であったが、心根は優しかった。この見知らぬ土地で、ティナは随分と助けてもらった。ロルフの乳母であり、孤児であった前の奥方のことも幼い頃より世話をしていたのだと伝え聞いていた。孫にも相当するような幼い子達を殺されて平静でいられるはずもなく、ティナを恨みもしただろう。族長の奥方となったからには、敵であろうと本来は奴隷身分であるべき人間であろうと、オルトは黙って頭を下げなくてはならない。なぜ、ロルフがティナを連れ帰り妻としたのか理解できなくとも、族長の決断には従わねばならないのだ。そして、オルトの疑問の全てにロルフが納得できる答えを与えたとは思えなかった。それは、どれほどの屈辱であっただろうか。
 最初の内は確かに、冷たく取りつき難く思ったが、戸惑ってばかりいたティナに北海の流儀を手取り足取り教えてくれたのも、オルトであった。
 手塩にかけて育てたであろう前の奥方と自分とを較べなかったはずがない。館の、部族の奥方の地位が穢されたように感じはしなかったか。
 それでも、オルトは冷酷ではなかった。
 ヴァドルも、この島に渡る際には同情を寄せてくれた。ヴァドルとロルフの関係を知った今では、言葉をかけて貰ったのが奇跡のように思える。スールを喪った時に瀕死のティナを助けてくれたのも、ヴァドルだ。ティナ自身のみならず、ハラルドの生命もヴァドルに負っているのだ。
 母子(おやこ)は共に、誰も知る者なく、敵意しか向けられぬこの島でのティナの生活を支えてくれていた。
 その優しさに、少しでも報いたかった。
 北海では何の権限も持たぬティナであったが、せめてオルトが回復し、次の者を指名するまでの間だけでも負担を軽くしたかったのだ。
 唯論(もちろん)、ロルフの知るところとなった際の恐怖はあった。だが、ウナは頼りなく、如何にオルトの薫陶を受けたとは言っても結婚を控えて多忙なエリスには荷が勝ちすぎた。自分ならば、生まれ育ったのと同規模の城砦を管理するだけの教育は受けていた。部分部分は違っていようとも、使用人や奴隷を動かし、家政を管理するやり方はそうは異なるまい。
 ティナの話を聞いてオルトが言ったのは、あなたがそうおっしゃるのを待っておりました、という余りにも意外な言葉であった。
 もう少し、ご辛抱下さい。いつかは、ロルフさまもあなたを奥方として認めざるを得なくなるでしょう。
 そう言われても、ティナは信じられなかった。ロルフはロルフだ。いつまでも白鷹のように孤高であり続けるに違いない。夫婦であるとは、互いに支え合うことも意味するのだとティナは思っていた。ロルフは、ヴァドルとオルトの支えだけで充分だろう。自分を必要とするとは思えない。いずれはロロが、老いたロルフの身をいたわろう。ロルフの描く未来に、恐らく、自分は含まれまい。
 ロルフが冷酷であるとは思わなかった。亡くした奥方と子供達のことを愛するあまりのことなのだ。それを誰が責められようか。
 ロルフだけではない。自分を受け入れてはくれぬ島の人々の感情も同じなのだ。
 何も特別なことではなかった。
 城砦でも、人々は様々な顔を持っていた。一人の人間に、相反する心が存在することも珍しくはない。男同士でいると気の良い人に見えても女子供には居丈高に振舞ったりと、人には複数の顔がある。それは、中つ海に限ったことではない。
 単純で、複雑な感情や思考など持ち合わせてはいない野蛮人だと、ティナは北海人について教わった。だが、北海人も同じ「人」であった。
 泣き、笑い、怒り、哀しむ――そういった感情を、北海人も中つ海の者も等しく有しているのだ。恐らく、話でしか知らない南溟人、東方人、北方人もそうだろう。身分も男女、年齢の別も関係ない。何ら、変わるところのない人間なのだ。
 オルトとは、個人的なあれこれを互いに話したことはなかった。オルトは、ティナの故郷での生活がどのようなものであったのか、また、北海やロルフ、子供達に対してティナがどのような感情を抱いているのかを、推測するしかなかっただろう。それは、ティナとて同じであった。オルトは過去を語らなかったし、自分の気持ちも口にしなかった。
 自分がもう少し心を開いていれば、とティナは思った。そうすれば、オルトは心強い相談相手になっていたであろうに。オルトは自分から心を開くような人ではなかったのだから、年下で新参者の自分から、歩み寄るべきであった。
 しかし、ロルフに筒抜けであるかもしれぬとの疑心から、頑なになりすぎていた。所詮、北海人には理解できぬと切り捨てもした。オルトはロルフを愛していたかもしれないが、決してその感情の全てを肯定している訳ではなかったのに。スールの死にあたって、ティナを理解してロルフに逆らってくれたのは、オルトとヴァドルの二人きりであったというのに、ティナはオルトの真心を信じなかったのだ。
 今更、後悔しても詮ないことだった。
 自分の人生は、こうして悔やむばかりで過ぎてしまうのだろうか。
 もっと妹弟に優しくするべきであった。もっと正直にアーロンに対して愛情を示しておくべきだった。ロルフの命はどうあれ、もっと子供達に接し、スールをずっと抱いてやれば良かった――
 ぐっと腕を摑まれ、ティナは物思いから引き戻された。
 隣にいたエリスがティナの腕を両手で摑んでいた。娘の顔は蒼ざめ、今にも倒れてしまいそうだった。身近な者の死に動揺する気持ちは理解できる。だが、今は泣く場ではない。北海の人々にとり、葬送は次の生へと送り出す儀式でもあるのだ。そう言ったとしても、哀しみが和らぐものではないのもまた、真実である。ティナは娘の手に自らの手を添えた。年上の者から死にゆくのは順序として正しいことだ。若い者を見送るのは、たとえ神々に愛されたからだと諭されても、辛い。
 いつの間にいなくなったのか、ヴァドルが布に包まれたオルトの身体を抱き、墓穴の前に立っていた。遺体を他の男達の手を借りてゆっくりと底の地面に横たえる。そして、懐から何かを出してその上に置いた。黄泉路へ携える別れの品なのだろう。次にロルフが何事かを呟きながら同じ事をした。男達が一人ひとり、それを繰り返して行く。成人の次はロルフの男子達だ。ハラルドが終われば、女の番になる。あらかじめウナに作法を教わっていて良かったと、ティナは思った。
 死者に贈り物をする習慣も城砦にはなかった。そして、これが、ティナの北海での初めての葬儀への参列だった。城砦での埋葬に立ち会った時にはいつもそうだったが、今回も体の内側から冷えるような畏れを感じた。死は、生まれた以上は避けられぬもの。誰にでも絶対に訪れるものだ。遺体に対して、畏敬の念と共に、自分もいずれはこのように葬られるのだという漠然とした不安と恐怖を覚えずにはいられなかった。
 北海の人々は、(いさおし)を立てた者や神々に愛された者は天上の神の国に迎えられるのだと信じている。その他の大抵の者は黄泉路の果てにある眠りの館で再び生を受けるまで眠り続けるという。悪しき者は死の神の手先として死を撒き、深い哀しみや恨みを持って死んだ者は地を彷徨う悪霊となるとも聞いた。
 どれもぴんと来ない話であり、ティナ自身、それを信じている訳でもなかったのだが、こうして葬送の儀式に参加をしていると、人々の信仰の深さがよく分かった。ティナの中では、未だに神は唯一無二の存在であったが、ここでの信仰を見る限り、神々の力は絶対ではないようである。北海人が神々の限界を認めているのは、ティナにとり大きな愕きだった。それは、頑迷で傲慢な野蛮人だと教わった北海人の姿とはまた違った、柔軟な部分であった。
 ハラルドが進み出て、ロルフの鷹から抜け落ちたのを集めたのであろう白い羽根を一束、贈った。白い鷹は、ティナの故郷では、聖獣として上位神殿しか所有することを許されてはいない生き物だった。そこでさえも、長く生かしておくことが難しいのだと聞いていた。女は目にすることさえ許されない、最も神に近い生き物であった。ロルフがどのようにしてそのような難しい猛禽を手なずけているのかをティナは知らなかったが、大切にしているのは、冬季に鷹小屋ではなく館で面倒を見ていることからも明らかであった。子供達でさえも触れることのできない気性の激しい鳥は、ティナにいつでもロルフを思い出させる。
 エリスの手をそっと離し、ティナは墓穴へと足を進めた。一人でこの儀式を行わないのは子供だけなのだとオルトが言ったことを思い出していた。エリスが一人前であることを示す為にも、一人でやらせることが必要なのだ。そして、ティナ自身が館の女主人であるのだと、オルトと北海の神々、部族の人々に知ろしめさなくてはならない。それが、オルトの望みでもあった。
 跪いて覗き込んだ穴には、白い布で包まれたオルトが横たわっていた。その上に、様々な贈り物が散らばっている。ハラルドの羽根の他に、装飾品もあれば銀貨、美しい彫りが施された櫛や曇天でさえも七色に輝く貝殻など様々な物があった。足元にはいつの間に運びこまれたのであろうか、犠牲の羊に重ねて紡ぎ棒と羊毛、色とりどりの糸にやりかけのまま放置されていた枠付きの幾何学模様の刺繍など、オルトが日頃愛用していた品々が置かれていた。個人的な品物を入れていた長櫃も、中をヴァドルとロルフ、ウナが確認したはずだ。そういったことにも、ティナは関わらせては貰えない。自分が部外者なのだと、思い知らされた。
 ぼんやりとしていて、供物の羊が屠畜されることにも気付かなかった。もう、随分と慣れたは言え、目の前で生き物が殺されるのは良い気持ちではない。ましてや、引いて来られる羊は、抵抗もせず静かに自らの死を受け入れる。その静謐な姿を見るのは辛かったので、知らぬ内に済んでいたことに少しだけ感謝した。
 眠りの館で生まれ変わる日を待つと言うのならば、生きていた頃に使っていた物は必要ではないだろうに。
 そのような思いがふと心をよぎったが、葬送とは死者よりも生者の為の儀式であるのだという、故郷での神官の言葉を思い出した。遠い昔に、自分と同じ名の大叔母が亡くなった際、余り華美になり過ぎぬようにと皆に戒めたのだ。葬儀の規模に悲哀は関係なく、死者の生前に愛用していた品物を目にしなければいけないのは苦しいものなのだと、ティナは大叔母が愛用していた針道具を形見として渡された時のことを思い出さずにはいられなかった。故人の愛した文物はそのようにして代々伝わってゆくものであったが、北海では生前に約束されたもの以外は余り故人の私的な品は受け継がぬようだ。
 夏の間に摘み取った香りのよい花や草を乾燥させて作った匂い袋を、手から滑らせた。これを作った時にはまだオルトは健在で、こんな風に別れることになろうとは思いもしなかった。春の花々を刺繍したが、オルトは気に入ってくれるだろうか。
 ――あなたの思惑通りに(こと)が運ぶとは思えないのですが、わたしはわたしで、最善を尽くすつもりではあります。どうか、心配しないで下さい。
 そう呟き、一呼吸おいて立ち上がった。

    ※    ※    ※
 オルトの死は、エリスにとっても重かった。
 反発もしたし、乱暴な言葉を使ったり自棄的な態度を取ったりして心配させもした。結婚の話が持ち上がってからというもの、殊に反抗してきた。八つ当たりだとエリス自身も分かっていたし、オルトはそれ以上に理解してくれていたであろう。それが、却って切なかった。
 ずっとずっと、側にいてくれると思っていた。
 祖母と孫ほどに年齢が離れているのだから、世の(ことわり)として、オルトが先に逝くのは仕方のないことである。
 同じように、ヴァドル、父、母――とこれから失って行くのか。その時には自分はこの島にはいるのだろうか。それとも、自分が送るのはサムルの父、そして年上のサムルなのか。
 厭だ。
 そう思った。
 誰であっても、死に別れるのは厭だった。
 しかし、否応なく、別れはやって来る。突然であれ緩やかであれ、人はいつか死ぬものだ。生きている間は、再び相見(あいまみ)えることを願うことで誤魔化しつつ逃げ切れたとしても、死による別れは決定的なものだ。神々の園で再会するのを誓おうと、現世での別れを癒すものではなかった。自分がいつ送られるのか、或いは正式に葬られずどこかで野晒しになるのか海の底に沈むのか、そういった全ては神々の胸一つだ。人間の関知できるものではない。一つ言えるのは、それ以上の別れを経験しなくてもよい、ということだけである。
 自分の行く先がどうあろうと、オルトも母も自分を懸命に育ててくれていた。それに素直に従っていたかどうかはエリス自身の責任であり、誰も責めることはできない。サムルとの顛末も知っていたのに、オルトは父にもヴァドルにも秘密を守ってくれた。母と同じく、信用できる人であった。相談に乗ってもらうことも時間的には可能であったのに、何もできないままにオルトは逝ってしまった。
 さようなら。あなたの次の人生が、今生よりもずっと幸運で幸福であることを祈るわ。
 エリスは呟いた。
 オルトが、今は傍らに眠る夫に早くに先立たれながらも、族長の信頼を得てヴァドルと父を立派に育て上げたのは、神々もご存じであろう。祖母に相当する年齢にあっても弟達を育てた苦労、自分の結婚に際しての心労を、オルトは一切見せなかった。だが、老いた身に負担でなかったとは思えない。幸福な来世を約されても当然の、善き人であった。
 エリスは、自分はこの人に何かを返すことができていただろうかと、疑問に思った。いつもオルトを困らせてばかりいて、安心して全てを任せてもらえたことが、本当にあっただろうか。
 せめて、と今まで作った物の中で最も出来が良いと思われる作品をオルトに贈り、次の世でも(えにし)を結ぶことができますようにと祈念した。その時には、わたしがあなたの世話ができるといいわね、うんと我儘を言うあなたに、わたしが苦労するのよ。
 エリスはそう小声で語りかけると、ウナに場所を譲った。
 様々なことでオルトの世話になった女達がそれに続き、最後は父親に手を引かれたミアであった。この少女にはハラルドが余程頼りに思えるらしく、館に連れて来られた際にはずっとハラルドの傍を離れない。オルトもウナも、母親を早くに亡くしたこの少女を気にかけていた。オルトは病床からであったが、その采配によって父娘が館に出入りしやすくなったのは事実だ。
 ミアと父親が参列者の中に戻ると、父が進み出て死者への祈りの言葉を唱えた。黄泉路の旅が恙なく終わるように、願わくば神々の園に迎えられるように、眠りの館へ行くものならば来世は苦しみのない人生を送れるように、再びの縁を結べるように――それは、死者への祈りだけではなく、生者の願望でもあった。
 祈りが終わるとヴァドルが上等な毛皮で遺体を覆った。人々を取り巻くように位置した戦士が喇叭(ルーア)を吹き鳴らした。入船の際に奏されるものよりも低音で、胸に物悲しく響いた。
 父を含めた男たちが、円匙(えんし)で墓に土を入れ始めた。
 これで、本当の別れなのだ。
 エリスは隣にいる母の手を握った。まるで力づけるようにその手が握り返して来たので、エリスは愕いた。弱いはずの母が、自分を守ろうとしているようだった。だが、それもあり得ないことではない。ウナではなく、母が今では館の全てを取り仕切っているのだ。オルトが後任に選んだのだから、弱いはずがなかった。心弱ければ、館の自由人の働き手を意のままに動かすのは難しいだろう。全てが滞りなく進んでいるということは、母は実際には家政に()けていたことになる。父が、またはオルトが権利の譲渡を望まなかっただけなのだ。
 いつの間に、この人はそんなに強くなったのだろうか。
 エリスは不思議に思った。
 しかし、半ば攫われるようしにてこの島に連れて来られ、父の暴力や人々の無関心に曝されながらも、母は生き延びてきたのだ。そのこと自体が、強い人間である証明ではないか。
 それに較べると、自分は弱い。
 今までオルトから守られてきた分だけ、誰かに頼りたくなっている。結婚の為に船出すれば、一人で生きて行かなくてはならないというのに。
 自分で情けなくなったが、そういった弱い部分も、これからは自分で受け止め、(ぎょ)していかなくてはならない。それはとても孤独で恐ろしいことであったが、多かれ少なかれ、独り立ちするには必要だというのは分かっていた。島を出れば、誰一人として頼る者はいないのだ。
 ――サムルどのには、心を許してもかまわないのですよ。
 オルトの最後の言葉が、ふと心に甦った。早い内にそうしておかなければ、きっかけを失ったままになってしまいますよ、とオルトはまるで経験したことでもあるかのように言った。
 オルトは、エリスがどれほど結婚を嫌い、サムルと取引きを行ったのかも知っていた。それでいて猶、エリスが帰っては来ないものと思っていた節があった。オルトの目に適った人であるならば、サムルはそう悪い人ではないのかもしれない。いや、むしろ、オルトはサムルの誠実さを信じているようだった。母でさえも懐疑的であったものを、サムルがとんでもない人誑(ひとたら)しでもない限り、オルトが騙されたということはないだろう。
 この場にサムルにいて欲しい。頼れるものであるなら頼ってしまいたい。少なくとも人前ではサムルはエリスを邪険に扱いはしないだろう。黙って優しく肩を抱いてくれるに違いない。例えそれが欺瞞であったとしても、今の自分には支えてくれる人が必要なのだ。それが、サムルであっていけない理由があるだろうか。
 そう思う自分がいた。その方が、楽だからだ。何も考えず自分の哀しみに浸り、誰かを頼ってしまえれば、楽になれるだろう。だが、楽な方へと逃げてしまってばかりでは、放り出された際に自分を守る(すべ)も身に付けぬままに戻ることになろうし、母や館の迷惑、枷にもなりかねない。それだけは、避けたい。
 思いのたけを語りたい気持ちはあったが、母やロロはその相手ではなかった。このような時には、サムルだけでなくカトラがいてくれたならば、と思わずにはいられなかった。あの娘は、割り切った考えをするが、決して心が冷たい訳ではなかった。性的には奔放な部類に入るのかもしれないが、誠実で秘密を守る娘だ。頼りにしている、というのとは少し違うが、何でも忌憚なく話せる相手として信頼していた。それが一時の慰めにしかならなくとも、話を聞いてもらい、手を取ってもらうだけで、今のエリスにはどれほどの力になってくれることか。
 そういうことを考えていたせいか、人々の中にカトラの姿が見えるような気がした。
 とても心配そうな顔をしてエリスの方を見つめている。
 でも、違うわ。あれはよく似た人よ。カトラの村に連絡は行ったかもしれないけれど、娘が遠出をしてよい季節ではないわ。
 エリスは自分が如何に心弱くなっているかを恥じて、目を伏せた。
 埋葬の全ての儀式が終わり、人々は集落に戻り始めた。この後は身に染みついた死の気配を払う儀式が、息子のヴァドルの家と館で行われる。肝心のヴァドルと父とは、並んでゆっくりと歩を進めていた。二人の間に会話はないようであった。
「エリス様」
 背後からかけられた男の声に、エリスは飛び上がらんばかりに愕いた。慌てて振り向くと、そこにいたのはカトラの兄のラウリとヴィンドルスであった。
「オルト殿には、妹が大変お世話になりました。カトラも葬送に赴きたいと申したのですが、何しろこの雪と寒さ、慣れぬ道を行くのは危険であると父が判断いたしまして、(わたくし)が父と妹、双方の名代として参りました」
 年齢は上だったが、ラウリはカトラと良く似た風貌の持ち主であった。そこから僅かに下がって立つヴィンドルスは、厳めしい顔で胸に手をあてて軽く頭を下げた。この男がカトラ以外の者に笑顔を向けるのを見たことがないのを、唐突にエリスは思い出した。そして、二人の男達も戦士であるが故に、自分達姉弟(きょうだい)の出自も知っていることにも。飽くまでも礼儀を尽くしているのは、白鷹ロルフの嫡子であるからにすぎないのかもしれない。
「カトラが息災であることを聞けて、嬉しく思いますわ」エリスは静かに答えた。この季節、頑健な戦士であっても一人での遠出は避けるものだ。「他の皆さまもお元気でいらっしゃいますか」
「はい、有り難いことに」
「お二人でいらっしゃったのですか」
 エリスの言葉に、二人はちらりと視線を交わし合った。
「私共に報せをもたらしたのがヴィンドルスです」ラウリが言った。「私は集落を代表しての父の名代でありますが、ヴィンはカトラに、オルト殿への贈り物と伝言を託されました」
 その言葉にヴィンドルスが頷いた。
「オルト殿への用は済ませました」ようやく、ヴィンドルスが口を開いた。「貴女には、こちらをお渡しするよう申し遣っております」
 ヴィンドルスが腰に下げた革の小物入れから取り出したのは、きちんと折りたたんだ生成りの布だった。歩を進め、エリスの前まで来てヴィンドルスは布を差し出した。
「女性は、こうして新しい刺繍のやり取りを行うそうですね」
 分厚い手袋を通してでも震えが伝わらないように、と祈りながらエリスはヴィンドルスから布を受け取った。言葉の通り、刺繍が施してあるのが分かった。
 早く開いてじっくりと見たいと思ったが、人の多い場所では躊躇われた。言葉ではなく女にしか分からぬ刺繍文を送ってきたということは、何か重大な秘密が縫い取られているのかもしれない。
 エリスがこの(たぐい)のものを受け取るのは初めてだった。この方法だと、男には図案のやり取りをしているようにしか見えないので便利だから、とオルトに教わった。これを知ってからというもの、人々の身に着けている物に施された刺繍を見る楽しみも増えた。女達は怒りや哀しみなどの感情を表す縁飾りを施した布を頭に巻いていた。妻の作る男の服には、着ている本人には分からないので、浮気者、怠け者、根性なしと縫い取りたい放題ですらあった。息子や兄弟を売り込むものや惚気(のろけ)など、愛情を示すものも見られたが、どちらかと言えば妻がうっぷん晴らしをしているようなものが多い。因みに、カトラが以前にラウリの胴着の裾に刺していたのは、誰か結婚してあげて、というものであった。
「ありがとうございます。遠路を、この季節にカトラの願いを聞いてくださって、本当に感謝いたしますわ」
 エリスは寒さで強張る顔に、精一杯の笑みを浮かべた。この刺繍(ふみ)は男が目にしたところで意味は分からない。男が文字を使うように、女は刺繍を用いて伝え合う。言葉では伝えきれない想いや、男には知られたくはない物事をそこに乗せて。余程のことがなければこの刺繍文は送られない。そして、相手からの反応も期待しないものだ。
「春には、カトラと結婚なさるのでしょう」
 そう訊ねると、ヴィンドルスは頷いた。本当に、必要最低限のことしか言葉にしない男であった。この男がお喋りの好きなカトラの夫になるのだとは、俄かには信じがたかった。だが、カトラ自身が選んだ相手ではないのだから、釣り合い云々を言うのは間違っているだろう。
「どうぞ、カトラを大切になさって」
 二人にしか聞こえないような声で言ったエリスの言葉に、ヴィンドルスは怯んだような顔になった。小娘が何を(さか)しらぶって、と一蹴されるかもしれないと考えていたエリスは、それを見て胸を撫でおろした。少なくとも、こういった話に無関心ではないと分かっただけでも、収穫であった。
「――(わたくし)は、カトラの良き夫、その子供達の良き父となるべく、努力は惜しみません」
 ヴィンドルスの顔に微かな笑みが浮かんだ。その言葉は真摯なものであると、エリスにも分かった。
 しかし、それだけでは、駄目なのだ、とエリスは思った。良き夫、良き父親であればカトラが幸せになるというものではないだろう。かつてカトラの言った、いつか夫としてヴィンドルスを愛するようになる、という諦めにも取れる言葉を思い出さずにはいられなかった。カトラに必要なのは、もっと確固としたものなのだ。
 けれども、自分にそれ以上のことが言えるだろうか。この男にしてみれば、自分は族長の娘ではあっても随分と年下だ。しかも、母が中つ海の人間だということで、どのように思われているのかも分からない。
 エリスは下唇を噛んだ。
 ヴィンドルスがカトラを想っているのは確実だ。それを口にすることがなくとも。この男の心の内を、いつかカトラは知ることになるのだろうか。それとも、生涯、自分が愛されているだと気付かずに終わるのか。
「今宵は館にお泊りになるのでしょう」
 努めて平静を装って、今度はラウリにも聞こえるような声で言った。中央集落に係累のいない者は自由に館に寝泊まりするものだ。「カトラへの言伝を、お発ちになる前にお願いしてもよろしいでしょうか」
 早く一人になり、カトラからの刺繍文を開きたかった。何を伝えようとしたのか、知りたい。返答になっていてもいなくても、刺すのに一晩中かかろうとも、自分からも文を送るつもりだった。
「どうぞ、何なりとお申し付け下さい」
 再び普段の愛想のない顔になり、ヴィンドルスが頭を下げると、ラウリもそれに倣った。
「先にいらして下さいな。わたしは最後に参りますので」
 エリスは言った。暫く一人になり、カトラからの便りを見たいと思った。それに相応しい場所が、オルトの墓の傍の他にあるだろうか。
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