第7章・北海の島

文字数 4,970文字

 船長から引き渡された女奴隷について行くと、あの男が歩んだのと同じ方向だった。他の乗組員達もそこへ向かっているところを見ると、町があるのだろうか。
 しかし、そこは町というよりは村、あるいは集落と言う方が相応しかった。生垣に囲まれた石積みの建物が幾つもでたらめに並んでいるばかりであった。全て平屋であり、道も整備されてはいない。子供達が走り、男も女も、全てあの男について歩いていた。
 族長とは、それ程の力のある人物なのだろうか。
 だが、誰もが一言も喋らずについて行く。
 それは、どこか奇妙であった。
 ティナを案内する女は何も話さない。当然かもしれない、奴隷なのだから。城砦でも奴隷は、話しかけられない限り、主人に対して口を利くことは殆どない。姿を見せることすら不敬であった。女の様子から、それ程酷い状態におかれているのではないようであったが、それでも奴隷は奴隷だった。ティナも話しかけることはしなかった。
 女は、ある大きな平屋の裏にティナを案内した。そこは庭にもなっており、様々な薬草や香草が植えられていた。季節もよい事から、小さくも美しい花が咲いており、それを目当てに蝶や蜂が集ってきていた。
 その平屋の裏口らしき扉を開け、女は少し下がった。入れという事なのだとティナは理解した。
 中は大きな部屋だった。ティナが城砦で使っていたものよりも広い。大きな寝台と様々な調度品が目に入った。
 ティナが中に入ると、女は扉を閉めた。
 一人部屋に残され、ティナはどうしたものかと思った。この部屋で待て、という事なのだろう。この部屋には女の気配は何もなかったが、使われてる様子はあった。だが、生活感はない。誰の部屋なのだろうかと訝った。外へ出る扉の他に、もう一つの扉がある。暖炉には新しい木が置かれ、壁には綴織が掛かっていた。
 暫くすると、ティナの長櫃が男の奴隷によって運び込まれた。それと共に、三人の女奴隷が入って来た。
「湯浴みのご用意をいたしました」
 一人の女が言った。他の二人は、ティナの衣装箱から新しい衣服を取り出した。
「こちらにどうぞ」
 女は再び外にティナを案内した。湯殿は外にあるのだ。城砦の部屋に湯桶を運んでいたのとは大違いだ。
 湯殿はそれ程大きな建物ではなかった。中には湯桶と着替えを置く棚があった。ティナが城砦で使っていたような薔薇の香料入りのものではなかったが、石鹸も、ある。そこで少し熱い湯で湯浴みをすると、硬い甲板の上で凝り固まった身体がやわらいでいくようだった。
 女の手を借りて新しい下着と服に身を包むと、自らの運命に対峙する強さも生まれてくるように感じた。
 再び部屋に戻ると二人の奴隷の姿は既になく、嫁入り道具の一部が出されていた。寝台の上には、最も上等な服が広げられていた。アーロンとの結婚衣装だ。
 この部屋で暮らせ、というのだろうか。
 ティナは不思議に思った。だとするならば、ここはあの男の部屋なのだろうか。
 そう思うと、ティナは身震いした。寒々しい、生活感の全くない部屋。それは、ある意味北海人に相応しいものであった。
 女奴隷は壁際に待機した。寝台は衣装が広げられている為、座る事も出来ない。手持ち無沙汰のまま、ティナは次には何が自分を待ち受けているのだろうかと思いながら立ち尽くしていた。
 どのくらいの時間が過ぎたであろうか、いい加減に待ちくたびれたところに一人の年配の女が部屋に入って来た。背が男のように高いと思った。その赤っぽい茶色の髪には白いものが混じり、目とその周りは、泣いてでもいたのか真っ赤だった。服装は、城砦の下働きの者と差はない。ただ、身体の正面に、船の男達と同じように短剣よりは長く長剣よりは短い鍔のない刃物を帯びているのが不気味だった。
「お嬢さま」
 女はティナに向かって言った。「お世話させていただきます、オルトと申します」
「セレスティアナ――ティナと呼んで結構よ」
 ティナは言った。
「これより、ご結婚式を始められるそうです。衣装のお召し替えをいたします」


 ティナは愕いた。島に着いてすぐではないか。僅かな時間しか与えられてはいない。
「はい、族長のご命令です」
 それが全てであるかのような物の言い方であった。そこには苦々しい響きもある事にティナは気付いた。
 先程の女奴隷が指示に従ってティナに衣装を着付けた。金糸で縁取りをした濃い緑の服だった。これを着てアーロンの元に嫁ぐ事を、どれ程夢見たことだろう。それが、北海の族長との結婚に使われようとは、思いもしなかった。
 部屋を出るのは裏口からではなかった。扉をくぐると、そこには廊下があり、いくつかの部屋が連なっていた。その奥はまた扉だ。
 オルトという女は、ティナの先に立って歩き始めた。その後を、ついて行くことしか出来ない。逃げ出したい気持ちが強かったが、そのような事ができようはずがなかった。
 奥の扉の向こうは大広間だった。城砦のものよりも狭く、殺風景であった。ここでは何人かの奴隷が、長椅子(ベンチ)や卓子を並べていた。
 そこを通り抜けると、もう外だった。明るい陽光に一瞬、目が眩んだ。
「お足下にお気をつけください」
 オルトが言った。敷居をまたぐと、そこには見た事のない光景が広がっていた。
 大切な正面玄関に当たるであろう大広間の扉の脇に、小山のようなものがあった。二つは今日できたかのように新しく小さかった。その奥にはもう少し大きなものがあった。普通は、こういう場所は空けておくものではないだろうか。見通しが悪い。
 そう考えて、ティナは気付いた。北海に攻め入る者などいはしない。見通しなど関係ないのかもしれない。気にはなったが、それ程重大な事でもないだろう。
 集落を抜けると、そこは小高い丘になっていた。集落中の人間が集っているかのようだった。だが、どの顔も結婚式に同席するという顔ではなかった。むしろ、葬式に列席していると言った方が良いような陰気な顔つきであった。
 人々はティナが現れたのを見ると道を空けた。触れる事さえも怖がるようであった。人垣の向こうには、あの男がいた。石碑の前に立っていた。
 オルトに導かれるままに、ティナは男の前に進んだ。
「では、これより、結婚の儀式を始める」
 男の声が響き渡った。
 男はいきなりティナの腕を摑んだ。
 呪文のような言葉を男は唱え、ティナの手首に銀の腕輪を滑り込ませた。
 羊が引き出されてきた。その首を男は掻き切り、血を杯に受けた。ティナは目を逸らせた。人々の間から溜息のようなものが漏れた。男は杯を高く掲げ、中味を石碑に振りかけた。
「宴だ」
 男はティナを睥睨して言った。「機嫌よくしていろ」
 そしてティナの肘を摑むと引っ張った。なされるがままだった。この腕輪が、この北海では指輪の代わりになるものなのだろう。そして、あの呪文のような文句は、結婚の誓いだったのだろう。大股で歩く男に引かれている為、小走りになりながらティナは思った。
 大広間の宴の準備は整っていた。男はティナを乱暴に高座に座らせると、自分もどっかりと座した。自ら望んだ結婚式だというのに、機嫌は良くないようだった。
 ぞろぞろと人々が入って来た。厨房からは杯と酒が運ばれてきた。まずはあの男になみなみと酒の注がれた杯が手渡された。次にティナだ。他の人々はその後だった。自分達の高座のすぐ下に、船長がいる事にティナは気付いた。高座に近いところは重要な人物と、城砦では決まっていた。ここでもそれは同じなのかもしれない。だが、男と女とでは席が違う。子供達は母親と一緒に一塊になっていた。
 全ての人々に杯が行き渡ると、男は立ち上がった。
 再び、何か言葉を発し、一息に杯を干した。
 乾杯の合図だったのだろう。皆もそれに習う。ティナは杯に口をつけた。甘い香りがした。飲み込むと、鼻に蜂蜜の香りが抜けた。蜂蜜で作った酒のようだった。
 ざわめきが宴の席に広がった。食事が運ばれる。子供達は遠慮なしに食べ始めた。だが、大人達はどこか男の顔色を窺うようなところがあった。
 北海の族長は恐ろしい存在。
 その言葉が、ティナの脳裏に浮かんだ。この男は、父のように敬愛されるのではなく、恐れられているのだ。北海の野蛮人でさえも恐れる男が隣に座っている事に、ティナは改めて戦慄した。
 食事は碌に喉を通らなかった。だが、食べなくては男の機嫌を損じる事になるのではないかと思うと、少しずつでも口に運ぶしかなかった。機嫌よくしていろと言われたが、どうすれば良いのか分からなかった。
 誰も、自分の方は見ようとはしない。花嫁だというのに、完全に無視されていた。
 一人が楽器を携えて進み出た。男に向かって頭を下げると、何事かを言った。
 訛りがきつい、とティナは思った。ここは、中つ海ではないのだ。
 そう改めて思い知らされた。もともとなかった食欲も霧散した。却って、吐き気が襲って来た。
 この者達は、本当に人間なのだろうか。その姿かたちの下にあるのは、人間の魂ではないのではなかろうか。だからこそ、北海人は呪われ、神の園から最も遠い存在なのではないだろうか。
 呪われた男の妻になるというは、神の園も自分には閉ざされる事を意味するのではないか。
 ティナは恐ろしかった。
 神官に相談しようにも、その神官がここにはいない。いや、いたにしても、違う神を奉じている事だろう。それでは、何の役にも立たない。
 これは、自分が選びたかった道ではない。
 そう叫びたかった。
 だが、他に道があるだろうか。弟を助ける時に、この道は決まってしまったのだ。その時間へ後戻りする事は出来ない。そしてまた、再び同じ事が起こったとしても、自分はやはり、同じ道を選ぶのだろうと思った。
 ティナは自分の横に座っている男を窺った。
 その横顔は、まさに彫像であった。何の感情もそこからは読み取る事が出来ず、ただ冷たい美貌があるばかりであった。
 こんなにも美しい人なのに、中身が野蛮人だなんて。ティナは思った。その心は残酷で、冷たい。気遣いも優しさも、この男の中にはないのだろう。花嫁であるティナにも、一瞥もくれない。それでも、この結婚を望んだのは男の方だ。もう少し、にこやかにしても良いはずだ。
 それとも、これは意に沿わぬ結婚なのか。
 何らかの問題が飲んだくれ騎士とこの男の間で生じ、その解決策として自分がここにいるのだとすれば、自分は領地とこの地とを結ぶ和平なのかもしれない。例え望んだのではなくとも、問題の解決の為にやむを得ず、この男は自分を妻に迎えたのであろうか。取引きは成立した。そう、この男は言いはしなかったか。
 だとしたら、これは契約だ。互いの地の和平を乱さぬ為の契約だ。そして、初めての子が、その証となる。
 ティナは杯の陰でそっと溜息をついた。野蛮な男だが、若く美しい男だというだけ、ましなのかもしれない。これが醜い年寄りであった可能性もあるのだ。
 何があったにせよ、ティナは自分がここに来るきっかけとなった問題を知りたいと思った。人一人の生命がそれで失われたのだ。そして、もう一人も失われようとしていた。どのような重大な問題を、あのろくでなしの騎士は起こしたのか。それとも他の誰かが。自分の父の騎士がそこまで愚かだとは考えたくはなかった。北海人のごり押しだと思いたかった。
 いずれにせよ、ティナの役目はこの男の子を産む事なのだ。それも、何人もと男は言ってはいなかっただろうか。
 ぞっとする考えだった。野蛮人の子を何人も産まねばならないとは。自分の子は、全てアーロンの子であるはずだった。それが、隣にいるこの男の子になってしまった。そんなのは、一人で充分だ。そして、また、愛せるはずもない。
 政略結婚とは、こういうものを言うのだろうかとティナは思った。ならば、自分の両親は敬愛し合っている分だけ、幸運で幸福だったのだ。自分は、やはり、この男を愛せそうにない。そんな男の子を愛せるだろうか。野蛮人として育てられる子を、愛する事が出来るだろうか。
 オルトがそっと近づいてきて、ティナの耳に囁いた。
「お支度の時間です」
 ティナは立ち上がった。いよいよだ。いよいよ、アーロンとも許されなかったその先に行かねばならないのだ。
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